真の分かち合いの経済:ハート時代の幕開け

真の分かち合いの経済は、利益や競争的な自己権益の追求によって特徴付けられる古いやり方の終焉を象徴しますが、その一方で、大変豊富な金融資本と利用可能な資源を持つ世界での飢餓根絶を通してのみ、唯一政府間の分かち合いと協力の新時代が始まるのです。それが、現在殆どの人の想像範囲を超える遠大な意味合いを伴い、分かち合いの霊的および変革的ビジョンが見いだされるところであるとモハメッド・メスバヒは記す。

パートl: 「分かち合い」は何を意味するか
パートll: 内部から外部の分かち合い経済へ
パートlll: 在ることの術のための霊的教育
注釈


パートl: 「分かち合い」は何を意味するか

「絶対的貧困がもたらす広く行き渡った苦しみの根絶に貢献しようと試みるどのような行為も、もしその行為が特に、世界資源を分かち合うことに最善の努力をつくすよう政治的代表者を即す試みに集中するなら、それ自体がハート、成熟さ、そして良識を通しての分かち合い経済の最も純粋な表現なのです」。

分かち合い経済とは何か。そして今日、私たちが住む世界にとってその意味と重要性とは何か。もしあなたがこの疑問をインターネットで調査しようとするなら、討論や誤解を招く定義の数多くにまもなく遭遇するでしょう。分かち合い経済は、ピアツーピア・プラットフォームを通して情報技術を活用する今世紀の浮上する驚異として一般的に理解され、物々交換、賃貸借や個人資産の交換によって物資やサービスを分かち合う力を個人に与えます。それが、共通の目標や目的のもと結束する非公式グループを通してであろうと、あるいは技術、時間、知識および生産空間への共同アクセスを提供する協力的試みを通してであろうと、コミュニティが日常生活でもっと分かち合うことができるようにするこの幅広い傘下での非貨幣化イニシアチブもまた同様に復活しています。近年、最も人気を博したイニシアチブに執拗につきまとった論争にもかかわらず主要な提唱者の多くは、分かち合い経済がどのようにより公平で参加型、そして環境的に持続可能な世界への社会的移行の誘発を促進できるかという理想的ビジョンを持ち続けます。

しかしこれらの技術主導型の革新や主に市場を介しての交換の形態は、現代社会において本当に「分かち合う」ことを意味するものの総体的結果なのでしょうか。そして迅速に拡大する分かち合い経済の動向について大変しばしば解説者が述べているように、今日それがまだその初期段階にあるというのは本当でしょうか。真実は、分かち合いは疑いなく人間の特徴として常に私たちと共にあったのです。そしてそれは秘教哲学の中で多くの仮説を立てられているさらに高度な霊的領域だけでなく、人間以下の自然王国においてでさえ適用されます。スマートフォンや先端技術を必要とすることなくいつでも私たちは自分たちの家と家族内で分かち合ってきました。それは、居住空間、お祝い事、そして私たちの健康と繁栄の基礎である共生の喜びと相互支援はもとより、食糧、暖房及びその他の生活必需品などです。私たちは共有地を近所の人及びコミュニティとで分かち合います;私たちは道路、公共交通機関、自分たちを囲む空気及び自然を分かち合います。行動科学者や人類学者が、私たちの本質的な性質に本来備わるとして長く認識してきた進化的形質である分かち合いを対人関係及び共同体ベースで私たちが営んでいなかったなら、人類は最も初期のヒト族の到来以来決して生き残っていなかったでしょう。
 

それはまたどのように初期的または不十分であろうとも、政府の介入を通して国内及び国際レベル双方で何らかの形態で必然的に表現された特質でもあります。例えば、現代の福祉国家が、1880年代の間ビズマークによって統治されたドイツ帝国にその根源を持つ一方で、ローマ帝国は経済的分かち合いの多くの形態を組織化したことで知られています。西ヨーロッパや他の先進国全体を通してその様々な形態で再現されたように、1940年に英国によってもたらされた国民健康保険は、生活の不安定さから全市民を守るために存在する国内における分かち合い経済の恐らく現代の歴史における一番最初の実例でしょう。国内での分かち合いの多様なレベルとモデルのうち再分配政策を通しての社会的サービス提供及び社会保護の普遍性の理想は、議論の余地があるにしても人類がまだ実現していない経済的分かち合いの最も実際的表現なのです。

勿論、平等な機会、富の公平な分配及び万人の基本的人権確保の集団的責任に関して、そのような公的資金によるシステムの創設原則が現在社会の拡大する市場志向によって脅かされていることを考慮すると、皆がこの単純な見解に同意するわけではないでしょう。実に、私たちがこれから概括的に明らかにする理由のため、政府間の協力によるこれらの原則の世界的実現は、国際貿易、移住者群、対外投資及びグローバリゼーションのその他の領域での過去何十年かの国際融合の迅速なプロセスにもかかわらず、21世紀初頭において実現には程遠いのです。

それでもなお、分かち合い経済が何らかの形で常に今まで私たちと共にあったという事実は依然として残るのであり、従って分かち合いの社会的実践が今日まだその初期段階にあると信じることは深刻な間違いです。グローバル経済システムの根拠をなす原理としての決定的に重要な出現を、私たちがどんなに長いあいだ回避することに成功してきたとしても、分かち合いが私たちの日常生活の中でその役割を果たし続けてきたということは明らかなはずです。たとえそれに対する理解の大部分が商業分野での協調と共同生産の浮上する形態に限られていようとも、今やっと私たちは経済生命の根本原理として分かち合いと協力の重要さに対して突如意識的になったようです。確かに、たとえそれが実際のところ、現代的な事業方式と高度なコンピューター技術によって現在促進される社会的相互関係の古代の習慣の復活であったとしても、生産品やサービスへの相互化されたアクセスに基づくこれらの活動は確実に初期段階にあります。根本的な交流形態は現在非常に革新的で洗練された技術を通してすべてが以前よりさらに早く起こっているため、それが完全に新しいものだという錯覚を起こさせることを除いてはもっと以前の人類文明に相当するものです。

過去何十年間の進歩する技術と迅速に過ぎ去るように感じられる時間との間にもまた奇妙な関係があります。そしてそれは、社会が大変急速に進展しており、グローバル経済及び社会情勢において分かち合いが決定的なやり方となり得る新時代に、私たちは近づいてさえいるという感覚をさらに起こさせています。そのような印象の真実は確かに実証されるかもしれませんが、すべての場所で人間の意識に浸透する、この展望のある思考形態に私たちがどのように真剣に応じようと、分かち合いが世界全体にとって何を意味するのか私たちは的確に理解しているのでしょうか。

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「経済」という言葉を「分かち合い」という言葉に付け足す前に、商業化勢力が非常な混乱と破壊を生み出しているこの不幸な惑星の状況下で、私たちはまず初めに分かち合い自体の人的価値について熟考すべきです。世界問題に関連して分かち合いが何を意味するかを探求することにもし私たちが真剣に興味があるなら、理論的及び文字通り両方の意味で、横行する商業化が分かち合いとは正反対の傾向にあるということを基盤として、それは今日人類が直面する最大の危険なのだという認識を持って始めねばなりません。[1]

これはまた別の大変基礎的な見解のように聞こえるかもしれませんが、国内及び国家間の生活水準に非常な格差をもたらし、何世紀にも及ぶ植民地主義、帝国主義及び自由放任の経済的自由主義の結果として生じた非常に不平等な世界の中で、発展可能な分かち合い経済がどうあり得るのでしょうか。それにもかかわらず僅か一握りの分かち合い経済の提唱者しか、豊かさの中で蔓延する極貧という不朽の犯罪への解毒剤として、世界資源を分かち合う緊急な必要性を理解するという根本的な見地から始めていないようです。

恐らくあなたは、広範囲における貧困は徐々に改善しておりそのような問題の解決は政府に任せておけば良いと思っているでしょう。結局のところ、主流の政治家やビジネスエグゼクティブの殆どは、年に一度のダボスでの世界経済フォーラムなどの目立った会議においてそのようなメッセージを広めていました。制御不可能な貧しい難民や移住者群の流入の結果、断続的に不安定化するヨーロッパなど、前例のない規模で富と所得の拡張する不平等性の明らかな証拠にもかかわらず、いくつかの援助及び開発組織でさえが少数派の繁栄が最終的に大多数派の利益をもたらすという神話を信じるよう罠にはめられてきました。

国連のポスト2015年開発アジェンダに最近明記されたように、国家のリーダーたちは2030年までに貧困の全形態を根絶すると誓ったかもしれませんが、私たちがどこかで考察したように、政府が「商業化パラダイム」の支配下にあり続ける間はそのような約束の誤魔化しを理解するのは容易です。[2] 政府の政策立案・決定への大企業の過度の影響が、万人の確立された社会経済権利を尊重し、保護し、満たすために必要な国際的取り決めに全力投球する国々を想像するのをおおよそ不可能にします。広く予期されているように、次の世界経済危機が起こった途端、恐ろしいほどの苦難にあえぐ最も貧しい市民たちを既存の政権が即時に優先するであろうと私たちは本当に信じるのでしょうか。そして、たとえ極貧率が劇的に急増したとしても、ダボスに集まる気高いエリートたちがビジネス取引からの利益を犠牲にするだろうと私たちは信じるのでしょうか。

すべての国のすべての人の共通のニーズを満たすことのできるグローバル・プロセスとしての分かち合いの原理の実現にもし私たちが真に関心を持つなら、これらが自問し始めるべき種類の政治的及び道徳的疑問であると考えられるかもしれません。しかし残念ながら現在理解されている分かち合いの経済は、一点集中する多数の危機への反応として、そして文明の緊急事態の基盤のもと、人類が資源をより公平に分かち合わねばならないという意識から間接的に生まれ出たのではありません。今日の分かち合い経済は、大部分が商業的活動、商品化された快適環境へアクセスすることに関する漠然とした集産主義的な観念に関係していますが、しかしそれは、もし人類が生き残るつもりなら、この地球の豊富な生産物を皆で分かち合わねばならないという意識とは関係ないのです。それは勿論、世界の飢餓者と貧窮者、栄養不良及びその他の非情な貧困関係の剥奪に苦しむ20億以上の人々を助けるという考えとは無関係なのです。
 

分かち合い経済の環境的利益を信奉する人々でさえ、カーシェアリングは道路上の交通量の削減を意味するとか、ツールシェアリングライブラリーは豊かなコミュニティでの個人消費が減ることを意味するなどの論議で示されるように、危機的な世界情勢との関係における分かち合いの意味に対して適切な関心がありません。そのようなケースの正当性は経験的に立証されるかもしれませんが、もしそれが分かち合いにおける私たちの思考の範囲であるなら、ひいては消費主義の条件付けや「主義」の中に私たちはいまだとらわれており、自分たちの認識を「消費を減らす」というアイデアに制限しているのです。それは適切に構想され普遍的に表現される分かち合い経済とは何の関係もないのです。商業化が新技術の中にどのように隠れているか、そして自分たちの周りの世界のより大きな環境及び社会問題について無関心で居続ける一方で、高価な商品を際限なく買って消費するよう私たちを条件付ける勢力に対してそれがどのように私たちを盲目的にするかを理解するために大変注意すべきです。

これらの新技術プラットフォームの利用から生じるかもしれない好ましい社会的効果にもかかわらず、いわゆる分かち合い経済の恐らく90%がある程度商業的利益と自己権益に関連付けられます。これが、その最も深遠な哲学的及び霊的意味合いに基づいた分かち合いの真の意味が見い出されるべきところであると私たちは本当に確信しているのでしょうか。

私たちが実際に創造したものは、それを商業化のもっと緩やかな形態として見なすことがたとえより適切だとしてもお金儲けの動機によって余りに制限されるため、それは安楽な生活のための新方式なのです。神に関する特定の概念を信じ、ついで自己のマインドと思考が作り出した神を研究するため神学校に行く僧のように、人間のマインドは新方式や「主義」を作り出すことが大好きです。私たちのマインドの条件付け及び社会的服従に対しての認識なくしては、相互依存した生活の内なる霊的現実への意味ある繋がりの全くない、持続不可能で甚だしく不正な、そしてますます不平等な社会の中で、より便利で楽しい生活のあり方を促進することにおいて悲しくも分かち合い経済の提唱者も同じなのです。

従って、分かち合い経済のアイデアを正義及び人権に関する解放のための概念に向ける代わりに、私たちに「一つ分の値段で二つゲット」させる企業マーケターと同じ意識レベルまで自己を下げ続けるのです。共同消費や、新進の起業家のための共有所有権のアイデアを促進することに何も間違ったところはないかもしれませんが、大多数派の最大の利益のために分かち合いの原理を私たちが新たに考案したと装うのはやめましょう。心理的観点からせいぜいそれは、より恵まれた階層のためのストレスのより少ない生活様式として理解されるべきです。

最も深遠な哲学的及び霊的側面においての分かち合いの性質を考察するために、上記の個人間の分かち合いの形態はパーソナリティや低次の自己に関連し、人類全体の固有の統一性と相互連結を認識する高次元の魂の意識の貧弱な現れとして見定められるかもしれません。私たちの社会的生活の小さな箱の中で感情的に乱されることのないよう自己を安楽に保つためにもっぱらエネルギーを集中することにより、これらの物質主義的時代においてこの高次の意識がいかに抑圧されようと、自己の中に絶えず存在し眠っているそれを覚る能力が私たち全員にあるのです。

分かち合いと協調の低次の個人的形態にエネルギーを夢中で費やす人にもしあなたが話そうとするなら、貧困、紛争及び環境破壊を決定的に根絶するために国家間で資源を分かち合うことの正当性について聞くことに彼らは興味がないだろうということを意味します。沈静したまま彼らの内部に横たわる分かち合いの意味へのより深遠な認識にもかかわらず、地元のコミュニティで個人の所有物を分かち合うことの安易なアイデアの方がより楽なため、その認識について考察することを彼らは拒否しその変革的意味合いを自動的にはねつけるでしょう。
 

しかしながら世界情勢における分かち合いの原理の実現は余りに多くの取り組みを必要とし、ビジネス及び政治の領域では直面せねばならない反対勢力が余りに多いため、最初は気持ちの良い経験になるとは言えないでしょう。私たちの自己没頭的な人生及び試みにおいて、それらの蓄積された勢力は疑いなく最終的に私たちをかき乱すでしょう。そしてこれから先、世界の多くの危機が長引き山場を迎えると同時に、私たちが社会変革の必要性に対して目覚めることを強いられるまで長くはかからないでしょう。

大変豊富な金融資本及び利用可能な資源を持つ世界で飢餓根絶の経路を通してのみグローバルな分かち合いと協力の新時代が始まり得る一方で、真の分かち合い経済は利益と競争的な自己権益の追求によって特徴付けられる古いやり方の終焉を象徴します。今のところ、真の分かち合い経済は貧困層から始まり、貧困層に属し、そしてどのような道徳的または現実世界の視点から見ても貧困層に借りがあるままなのです。日常生活の便利性を高めるという狭量な概念からそれが始まることは決してないでしょう。そして分かち合いのアイデアがそのような自己満足的で自己準拠的理解に縮小される限り、それは長期的には必然的に崩壊し、不必要となるでしょう。しかしながらその一方で、もしお金儲けが私たちの第一の関心事であるなら、商業化された分かち合いの旗のもとそのための機会が沢山あるかもしれません。実に、なんと都合の良いことでしょう!

新たなシェアリングテクノロジーといわゆる破壊的なビジネスモデルを活用することから私たちを止めるものは何もありませんが、私たちは少なくとも自分たちの根本的動機と心理的態度について認識を持ち正直であるよう試みるべきです。消費主導型の分かち合いの行動様式を続行すると同時に、私たちは他人と世界情勢について本当に考えているのでしょうか。それとも、相変わらずそれはすべて私たち自身に関することなのでしょうか。西洋諸国全体で今までのところ出現した分かち合い経済のイニシアチブをどうか大変詳しく考察してください。そしてそれらが愛、正しい関係及び人間の最高の聡明さを実証する霊的認識の内的能力に何ら関係があるかどうかを自問してください。

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貧困国で自己の血、自由、家族、そしてしばしば命を捧げることにより正義のために戦う何百万という社会的に排除された人々と比較すると、今日の殆どの分かち合い提唱者は豊かな社会において最も容易でできるだけストレスのない人間関係の様式を追求します。前者が筋金入りの分かち合いの道であり、インドの剥奪された先住民の人々、ガザ地区のパレスチナ人、南アメリカの土地なし労働者たち、サブサハラアフリカのスラム住民と小規模農民、アジア中の経済特区の搾取される縫製労働者、その他多くの人びとの苦戦を通して目撃される辛い真の道なのです。その全員が、彼らの最も基本的な人権を満たすことのできる分かち合い経済を、暗黙のうちに政府に要求しているのです。

多くの大衆蜂起はまた、より包括的で再分配的な政府政策を通して分かち合い経済が制度化されることを間接的に要求しています。それは、拡大した社会的及び経済的平等の名において動員された反緊縮財政デモンストレーションやオキュパイ運動だけでなく、退廃した政治体制を退けることを狙いとしたアラブの春のデモの波などです。不公平な経済システムの強制を根源とする不正へのあからさまな反応を通してたとえ無意識的に表されているとしても、これらすべての様々な抗議デモ活動がどのように分かち合いへの拡大する要求の表れであるかということを、私たちは自分自身で把握できます。拡大する不平等と大多数派の経済的危険性によって特徴付けられた世界において、正義のために立ち上がることは必然的にストレスを伴う責任の引き受けであり、従って「分かち合い」という言葉が特権及び富という強力な砦の利益を支持する政府と連動して、利益を追求し搾取するために活動する大企業に反対する活動家の口から発せられないのは理解できることなのです。

階級制度、宗教や人種に関係なく、戦争で破壊され貧窮化した地域の疎かにされた市民を援助する絶え間ない活動を通して「分かち合い」や「経済」という言葉の真の表現を、共同で実証する赤十字国境なき医師団のような団体内の第一線で人類に仕える人々をもまたよく見てください。この点において、アドボカシー活動の中で分かち合いの真の意味を知らずのうちに特徴付け世界の再建設を計画する、初期段階にある未知の分かち合い経済の多くの構築者がいます。世界資源のより公平な分配をもたらすために必要な政策と制度的変革の中心となるより公正で生態学的に持続可能な発展形態を求める無数の革新的な学者、市民社会組織及び政治的キャンペーン・ネットワークから成る長いリストは親しみのあるものです。これらの熱心な思想家たちと活動家連合は、世界中で分かち合いの原理を実現することへの要求と正義のための戦いの間の相互関係をあからさまには認めないかもしれませんが、全体の慈悲的な認識を基盤として私たちの機能不全な社会の問題を知覚する誰にでもこの繋がりは明瞭であり現実的です。

従って、今日の商業化された分かち合いのイニシアチブが虐げられた貧困層のために、政府の優先事項を変革することにより実現される真の分かち合い経済への道を示すこれらの偉大な社会的闘争や市民運動に同調していると私たちはどれほど信じるのでしょうか。しばしば栄養不足や小児疾患が原因で起こる、富裕国では殆ど見られない貧困関連からの約180万人の早すぎる死を防ぐためにも、 国家の余剰の富及び資源を分かち合うよう政治的リーダーたちを即す努力に打ち込むことには、コミュニティレベルの運動における分かち合い経済の実践者の誰にも興味がないようです。もしそれが、ローカル・コミュニティの中の特権的な生活の快適さや便利さではなく、私たちの心からの動機となる関心事であるなら、ひいてはおそらく私たちは正当に自己をシェアラー(分かち合う者)の創始者及び人類への大使として見なすことができるでしょう。しかしもし私たちの分かち合いのアイデアが自分たちの隣近所やソーシャルピアグループの範囲に制限されたままであるなら、ひいては環境的持続可能性、平和及び正義への最良の道として分かち合いが何を達成できるかについてのアイデアが明らかに私たちにはまったく欠けているのです。

自分たちの間で分かち合い、より調和のある持続可能な生活のあり方を達成しようと試みた無数のコミュニティが世界中にありますが、世界の生態学的危機が取り返しのつかない時点へ急速に達している時、そのようなコミュニテイが何を達成できるのか自問する時です。種々多様な霊的コミュニティやエコビレッジがずっと以前に現れ、時満ちて消えて行きましたが、過去何十年かに渡る商業化の激化する動向が修復が効かないほど分割され環境的に劣化する世界の中で制御されない限り、それらの動向が自給自足コミュニティののどかさを達成する全可能性を最終的に断ってしまうかもしれません。これは、地球の天然資源を保護することによって現代社会の中で個人のカーボンフットプリントを削減することを目的とした、その多くが食料生産、住居、交通、エネルギー発生、そしてその他の持続可能なモデルにどのように移行するかのための至って貴重なモデルを提供する無数の草の根イニシアチブを非難するためのものではありません。様々な分野の持続可能性の実践者に長く認められてきたように、小規模及び地域規模での分かち合いと充足の倫理は間もなく私たちの時代のスローガンとなるかもしれませんが、強靭なコミュニティのこれらの先駆者でさえが多くの場合、彼らの文献及びアイデアにおいて「貧困」や「飢餓」という言葉に言及することを怠っているのです。
 

これは、彼らが全体への認識によって力づけられ、危機的世界情勢の人間の現実に浸っているという意味なのでしょうか。特に私たちが直面する文明危機が霊的根源を持つ何千年もの破壊的な人間の振る舞いの結果であり、それが過去生を通して私たち全員が一役買ってきた目に余る不正と分裂の繰り返しを引き起こしていることを考慮する時、人里離れたコミュニティに退くことによって平和を見出せると信じるのは、私たちの生活様式がいくら質素であろうと、自給自足であろうと、それでもやはりファンタジーなのです。万人の基本的ニーズが永久に保証されたより平等な世界の創造に向けて自己のエネルギーを貢献しない限り、このただならぬ時代の苦しみと大波乱のど真ん中で人里離れた平和で持続可能な生活を送るという実際のアイデアは、現実には私たち自身を内なる霊的統一から切り離すということです。その霊的理解、その内的悟り、そしてその原動力となる理想が、その言葉の本当の意味においての「分かち合う」世界のための奮闘の中で私たちは一人ではないのだという自覚を通して認識されるように、歴史のこの非常に危険な急場において私たち自身の中で経験できる唯一の真の平和なのです。

それでは、知ってか知らずか商業化によって影を落とされ、精神的盲目やお金儲けへの関心によって既に分かち合いの原理から尊厳を奪った、現代の分かち合いの伝道師はどうでしょうか。他の人々の悲惨な苦しみへの何の関心もなくして分かち合い経済に関心を持つことは、あなたのアイデアがハートの内的認識との繋がりを持たず習慣的思考によってつくられただけのものだということを意味します。従ってあなたは深遠な人間的及び霊的概念を、正義及びバランスの真の性質や人類の一体性とは全く何の関係もないもうひとつの「主義」へと縮小することに成功するだけでしょう。安楽な生活の新様式を作り、楽しみたいという欲求から、分かち合い主義が基準となるまで自己本位な追求のための分かち合いの原理をあなたは不意に拉致するでしょう。

それは既に現実ではないのでしょうか。そしてそれ故、その多くの商業化された形態における分かち合いの提唱者は恥じるべきではないのでしょうか。この地球に極貧がいまだ蔓延っているという明らかな認識があるにもかかわらず、戦争や気候変動による原因はもとより、予防可能な病気や飢餓から止むことなく死んでいく私たちの兄弟姉妹を救うことへ分かち合いのアイデアが向けられないということがどのように可能なのでしょうか。何が人間をそのように盲目にし、内面的に貧しくし、彼を取り囲むひとつの生命体に対して無関心にするのでしょうか。なぜ彼は絶えず自己のハートの知恵と多くの暗黙の嘆きをはねつける無関心に執着することによって、認識をコミュニティ、革新、そして断片的な人生のあり方のみに制限するのでしょうか。何が人間をそのように小さくし、捉え、そして無駄な観念化のメカニズムの中で混乱させるのでしょうか。彼は、万物を愛し、生きとし生けるもののために自己を捨てるようにと話す、聖なる目的を持った自己の魂の存在自体の中で真にに自由で真に偉大であるのに…?
 

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商業化パラダイムの中で分かち合いのアイデア及び実践を追求することは、このふたつの概念がそれらの内的及び外的表現両方において対極をなすため最終的に無益です。私たちが以前観察したように、ひとつはその複雑さにおいて分割的である一方、もうひとつはその簡潔さにおいて統一的です。[3] ひとつは人間と低級自然王国双方に対して操作的、無道徳、有害である一方、もうひとつは公平性、無害、認識、敬意、善意の志、そして私たちの今日の文化によってしばしば感傷的で最下位の意味にさらに格下げされた愛や慈悲の最も深遠な理解にさえ基づきます。確かに、分かち合い経済の思考形態は、時間の経過とともにより道徳的で包括的アイデアに進化していくでしょうが、それが世界の貧困者のための正義の政治的意味に融合されない限り、ひいては政府間の資源の分かち合いの変革的ビジョンはこの先何年にも渡って初期段階にとどまり続けるであろうことは確実です。

現在、新政治経済パラダイムとして分かち合いの真の意味に取り組み始めている知識人がますます増えていますが、彼らの鼓舞された分析や提案でさえがもしこの世界の豊富な資源が正しく分かち合われさえするなら、回避可能な貧困関係の原因から毎年救出され得るであろう何百万という罪のない生命を一般的に除外しています。分かち合い、結束及びコモンズの概念を学術的レンズを通して多くの能力ある思想家が考察しているという励みになる兆しがあるながらも、日々まともな食事を食せるよう国家の富の僅かな部分を分かち合うよう、政府に必死で頼んでいる最貧困層の市民たちと彼らの家族の為に私たちの学術的定義が何を達成するのかをもまた自問してみましょう。

貧窮した人のその謙虚な懇願が、実際にはそのすべての純粋さと本質における分かち合いの化身です。従って、栄養が十分に行き届いた経済的分かち合いの理論家がどういうわけかこの純然たる真実を無視するのはなぜでしょうか。多様な形態における分かち合いへの要求は常に常識の一表現ですが、無教育の市民を除外し、最終的に私たちを混乱させ誤まり導き、そして前進のための正しい道についてキリのない仮説的討論に私たちを絡ませる過度に知的な態度で常識に応じることが可能です。この理由から、分かち合い経済の意味へのどのような探求も、世界情勢に分かち合いの原理を実現するための私たちの多くの計画と提案が方向を見失い過ぎることのない主な社会的及び政治的優先項目として、この地球から慢性栄養不足が拭い去られねばならないという演繹的理解を持って始まらねばなりません。

国境なき医師団を通して活動し、戦争の狂気の終焉を望む医師たちの例えを考察してください。第一に彼らは、政府によって疎かにされた紛争地域の何十万もの人々が悲壮な世界で痛切に欠乏する救命医療治療を必要とする現実に対処せねばなりません。それと平行して現代社会における分かち合いの知的アイデアが討議され、仮説として取り上げられることは重要ですが、政府の福祉や公的支援の形態が一切ない過酷な剥奪に苦しみ続ける貧困国の何百万という人々にまず私たちの注目を向け直さねばなりません。

比較的に特権的で安楽な所帯の中でのあなた自身の日常的関心と、予防可能な病気または栄養不足からこの瞬間死にかけている人にとっての人生の現実との間に存在するかもしれない内的関係について熟考してみてください。あなた自身より恵まれない人々の生命に対しての心からの認識とこの霊的冒涜の終結を促進するために行動するというあなたの個人的な意図 − その認識自体が、世界中で制度化されるべき分かち合い経済の必要性に対する認識なのです。絶対的貧困がもたらす広範囲にわたる苦しみの終焉に貢献しようと試みるどのような行動もそれ自体が、特にもしその行動が世界資源の分かち合いに全力を投球するよう政治的代表者を即す試みに集中するなら、ハート、成熟さ、そして常識を通じての、分かち合い経済の最も純粋な表現なのです。

故郷では家族や友人が基本的人権として十分な食料、医療、住居及び衛生にアクセスできるのを認識しながら、サブサハラアフリカなどの貧しい地域で栄養失調から死んでいく誰かをあなたは腕に抱えたことが今までにありますか。その深く惨事的経験から、分かち合い経済に関するあなたの理解はハートとマインドの中で違った響きと意味を帯びるであろうことは確実であり、そしてそれが単に自己やその個人のもっと恵まれたソーシャルピアグループに向けられる可能性はありそうにありません。

家族の大切な誰かを不治の病または惨事でなくし、ついでチャリティ団体を創設したり社会変革のためのキャンペーンをするなどして、同じような境遇に他の人々が落ちるのを防ぐことに時間とエネルギーを注ぎ込むことにより人生の目標を変容させる人をもまた考てください。明らかにその人の人生における悲しい出来事の結果として、その問題へのかつての自己満足的な無頓着さが完全に消えた一方で、内的認識と共感が著しく拡大され新たな方向へ向けられました。それが、もし適切な生活水準に恵まれた何百万もの人々が世界人口の3分の2の貧困層が経験している不必要な剥奪を包括する共感的認識を皆で一緒に拡大できるなら、想像を絶する規模での分かち合い経済というアイデアへの希望なのです。

私たちはこれらの僅かな類推の中のより深遠な哲学的意味を考えようとしているのでなく、率直な人間的観点から従事するハートがもたらす常識を通して社会におけるより大きな認識の必要性を単に観察しようとしているだけです。それは、飢餓と命を脅かす貧困のぞっとするような現実を根絶する必要に関係するだけではありません;それはまた、他の人々の不必要な苦しみを懸念する、生命への文明人らしい道徳的姿勢に表現されるように、最も一般的、実際的意味での愛にもまた同様に関することなのです。筆者は以前、一度ハートの認識が内的姿勢及び態度を決定するなら、その人の人生の追求の完全な方向転換をもたらす原動エネルギーである愛の意味について基本的に霊的及び心理的観点から考察しました。[4]

人間のおおよそすべての活動分野でのハートの目覚めを通して個人の心理的及び霊的変革を観察できますが、商業化されるか、または個人向けにされた経済的分かち合いの形態の誤まり導かれた提唱者も疑いなくこの例に漏れません。私たちの希望のすべては、この誤用された原理の高度な意味を今日の自称シェアラーがどのように低俗化しているかを彼らが認識するということ、そしてそこから彼らが、必需品へのアクセスの欠如から誰一人として苦しみ死ぬことを許さない公正な世界のために勇敢に戦う他の何百万人に参加することによってやり方を変えることです。

 


パートll:内部から外部の分かち合い経済へ

さて、霊的及び心理的観点からの用語解説を提示できないということを念頭に置きながら、分かち合い経済の内的意味へ注目を向けてみましょう。なぜなら、分かち合いの意味が知的活動からだけでなく、ハートから発しているからです。これまで手短に考察してきたように、個人及び地域レベルでの分かち合いの最下の理解においてでさえ、私たちの考えが常にハートによって方向付けられるまでその可能性の真の重要性を私たちが理解することはなさそうです。

ハートに、私たちが認識と愛によって構築する分かち合い経済の建築家とならせましょう。そうしない限り、私たちが切望するより良い世界がもたらされることは決してないでしょう。誇らしげに誕生し、遠い昔に消滅したすべての時代と文明を通して、何百万年間も私たちはその他すべてを試みてきました;愛とハートが私たちに残されたすべてです!しかし、分かち合い経済の内的意味を人類が従事するハートの認識を通して受け入れている時、それをどのように私たちは知るのでしょうか。世界人口の大部分が結束し、すべての場所で貧困の全形態を完全に根絶するという心からの決断を情熱を持ってどうにか宣言するまで、それは起こらないということを断言させてください。

そのように言うことは簡単ですが、無数の一般人が日常の認識の中でそれを現実として心に描くことは遥かに難しいのです。では、分かち合い経済が今日の社会的及び文化的観念化の中で滅多に証明されることのない包括的世界観をそれが私たちに要求する時、どのようにしてその内面的に変革的な側面を私たちは知覚できるのでしょうか。上記の考察を思案し、ついで自己の中に入って分割された世界の中の分かち合いのより深遠な意味について静かに熟考することから私たちは始めるかもしれません。そして恐らく私たちは、直感を通して筆者が伝えようとしていることの感情的重要性を把握し、またそれを感じるでしょう。
 

最も高次な霊的意味での慈悲とは、特定のものや人にだけでなく全体にとって良いことへの認識を意味します;従って、単に一個人、一家族、一コミュニティまたは一国だけにとって良いことに限られた認識の中には絶対的慈悲心というものはありません。私たちの認識が一般的に自己の近隣の特定のコミュニティや社会のためになることに気を取られっぱなしであるのは決して間違ったことではありませんが、もし私たちが分かち合い経済の包括的意味を把握したいなら、ひいてはひとつの人類のヴィジョンを誠実さ、正直さ及び成熟さを持って受け入れることを要求する世界全体のニーズに対する私たちの共感的懸念をもまた拡大させねばなりません。注目を外部にも向けねばならないとはいえ、例えば、基本的ニーズが万人に保証されることを見届けるために世界に目を向ける以前に、空腹の隣人を食べさせるよう要求されたかのように私たちはまず第一に自分たちのコミュニティに集中するかもしれません。

それ故、分かち合い経済の霊的及び包括的理解とは、私たちが内的にも外的にも残りの人類からもはや自分たちを分割していないということを意味します。そしてこの意味で、分かち合いの内的意味は商品化された品物やサービスの組織的な交換方法から遥かに程遠いのです;それは、慈悲、道徳、倫理、愛情を持って、全側面において「他と共にある」ということを意味します。それは、私たちがまだ理解していない、物質主義的で商業化された文化への計り知れない意味合いを持つ、秘教学的現実である魂の存在とその目的について認識を持つことを意味します。それはまた「害を加えない」という意味でもあります。なぜなら、私たちの貪欲さ、自己本位、憎しみ、そして何よりも自己満足的な無頓着さ及び無関心によって主に特徴付けられるように、社会的分裂及び紛争の原因となる、分かち合いの対極にある有害さが常に存在するからです。

しかし私たちの殆どが機能不全社会の文化規範によって余りに条件付けられているため、分かち合いのこれらのより高度な意味合いに対して完全に盲目的であり、その驚くべき多面性や霊的進化への重要性が何であれそれに対する理解の余地が私たちにはまったくないのです。従って分かち合い経済のアイデアは、私たちの殆どが現在見通せる以上に遥かに偉大です。物質的材料でいくつかの形態を構築する職人の隠喩を用いると、分かち合い経済の真の革新者は、愛のエネルギーを通して形態を構築する仕事を請け負っています;なぜなら人間的及び霊的視点から分かち合いは、第一に愛の存在の証明を意味するからです − それは見返りを求めない与るだけの愛です。さて、その隠喩の中の職人が、彼のビジネスが世界中で認められることを望んでいると想像してください。同じように私たちは、人類への私心のない奉仕を通して愛のビジネスに取り組む自己を見通すことができます − そしてすべての国にその愛を輸出入する唯一の方法は、貧困によって引き起こされる飢餓の完全な根絶への要求を普遍化することです。
 

上記の考えを熟考することは、現在どのように分かち合い経済が、その意味を定義付ける社会的活動や市場取引におおよそ何の関連も持たないかということをより良く把握することに役立つかもしれません。なぜなら、それがむしろ内的自己の現実に対する認識の中に根を張るべきだと理解することは、グループレベルでの人類意識の心理的革命の予兆であるこの地球での新しい何かのきらめきを意味するからです。多くの秘教的及び宗教的教義の中に具現化されキリスト原理の象徴的解釈に反映されるように、分かち合い経済の道徳的または霊的アイデアは何千年も私たちと共にあったとも解釈できます。キリスト教的表現を借用すると、個人間での分かち合いの内的意味についてのそのような解釈は、快適さや便利さ及び一時的な感情的満足以外何ももたらさない現代の商業化された社会における分かち合いの単純な見解とは対照的に、あなた自身のキリストの認識へと導きます。

これは、正しい人間関係についての古代のすべての聖典や教えに様々に表現されるように分かち合いの原理が第一に貧困者に属し、そしてそれゆえそれが各個人に宿るハートの内的認識の中に存在するという主張の霊的正当化に役立ちます。確かに、分かち合いの霊的アイデアが、今日追求される社会的福利の自己本位な観念の一部であったことはかつてありませんでした;それは、この世界の何百万人という飢餓者がまるで存在しないかのようであり;食料備蓄やその他の生活必需品の膨大な余剰がまるで存在しないかのようであり;これらのなくてはならない資源を最も決定的に必要なところへ輸送するための技術や人的資源がまるで存在しないかのようです。

従って、日常生活の中で習慣化された実践における分かち合いの意味と、目覚めたハートの聡明さを通してのみ理解される得る聖なる分かち合いの原理との間には著しい違いがあります。もし私たちが瞑想の中で意識を高め、聖なる概念としての分かち合いの原理に適切に同調できたとしたらあなたが世界へ目を開くと同時にあらゆるところに見えるのは、不正と、どこかで大量の食糧が無駄にされ腐ったまま放って置かれる一方で何百万人が飢餓からハエのように死んでいくことを許す底知れない無関心だけです。
 

それでもなお、尊厳と経済的安全性の中で生活するために発展途上国の貧困層が必要とする十分な住居、医療、衛生、金融、資金移動及び他のすべてを提供するための大規模な国際救援活動を通して政府が分かち合いの原理を実現しない限り、私たちの無関心によるこれらの無防備な犠牲者たちを救えないのです。それが達成された時に初めて、私たちはグローバルな社会政策及び国際発展の指針となる光として分かち合い経済の真の始まりについて話すことができるのです。そして包括的な多国間行動計画を通じて世界資源を分かち合うということが何を意味するかという一般的な明示を得るために、1980年のブラント委員会報告書を参照すべきでしょう。

それが、分かち合い経済の愛情にあふれる慈悲的で成熟したヴィジョンが、恒久的及び構造的基盤での資源分配の世界的システム施行のための最高の希望である国連を通して構造化されるべき貧困根絶及び経済変革のための緊急プログラムの概念によって見出されるところなのです。まさしく、政府の政治的動機がどのように低俗であろうと、戦争すべきかどうかを決めるのに適切な国際組織として国連が見なされるように、それはまた、世界的にノースとサウスの関係を再びかたちどることにおいてその全加盟国の共通利益を実行可能な方法で代表することのできる唯一の既存のグローバル機関です。結局のところ、第二次大戦後、国連の創設がより公平な世界秩序のための可能性及び希望双方を生み出したのです。そして国連システムの著しい改革及び民主化が必要であるにもかかわらず、極度の人間貧困を数年の短期間で根絶するために、援助及び余剰資源を再分配する計り知れないプロセスを調整してまとめる国連の可能性を否定することはいまだできないのです。[5]

要するに、分かち合い経済のアイデアの適用は普遍的でなければならず、それは経済競争による最大収益の対極としての正しい分配への懸念に立脚せねばならず、そしてそれは見返りを求めず与えることの原理を取り入れねばならないと結論を出すことができます。これらのすべてがグローバル・ガバナンスの民主的システムのもと、国家間での必需品の自由な流通の観点から思い描かれねばなりません。現在甚だしく不適切な形態の外国援助についての既存の見解及び実践にこのどれもがあまり関係がなく、多くの場合、外国援助は第一に多国間企業やドナー国の競争的権益を有利にする条件制限のもと送られます。単に二次的にのみ(そしてしばしば大変選択的に)外国開発援助は発展途上国が富を再分配し、大多数派である貧しい市民の生活を改善するための手段を提供します。それはどのような政治運動団体でも細部に渡って確証できるでしょう。

従って、国際人権法に長く謳われてきたように、すべての国民に適切な生活水準を保証するための責任を政府が満たす世界を十分に心に描くために想像を広げることは可能でしょうか。それは、どのような形態であろうと生命を脅かす貧困、紛争、自然災害または強制移住への対応において国連を通して機能する協調的な政府の行動が、人間の苦しみを軽減するNGOやチャリティの役割をついに上回る世界です。そしてそれは、世界人権宣言第25条が例外なくすべての男女子供に遂に保証され、従ってようやく共益への正しい方向に向かう分かち合い経済の穏やかな始まりを知らせる世界です。[6]

このヴィジョンを達成する展望は、世界に流通している金融資本と富の本当の規模と万人を貧困から解放するために必要とされる比較的取るに足らない額についてをもまた考慮する時、実際には過激でも夢想的でもないかもしれません。それでもなお、グローバルパブリックの大部分がこの画期的な目標に全力で打ち込み、そこから最大の懸念として貧困関係の苦しみを根絶するためにトップの政治家全員に圧力をかけ続けるまではそのようなヴィジョンは実現され得ません。そうしない限り、権力の座に就くどの政治家の議題をも商業化勢力が指図しそれが日増しに強くなっている時、自らの強い要請から行動する政治的エリートによって分かち合い経済が確立されると期待できるのでしょうか。それとも、一般人がハートの特質に従事することにより社会を変革する必要なくして、億万長者の企業の慈善家たちが私たちのために世界問題を解決できると信じるのでしょうか。
 

彼らが選んだ目標に巨額のお金をつぎ込むことによって貧困者の英雄的な救世主であるとしばしば主張する、チャリティや非政府組織のメジャードナー(大口寄付者)の行動及び意図を大変注意深く観察してください。彼らの貢献の結果が、それらの幸運な受取人にいくらかの相対的利益をたとえもたらすとしても、それでもそれは、霊的統一と一体感の点からの分かち合い経済の内的意味とも、そして国連システムの相当な改革及び権限の復帰と新経済協定を通して政府によって構造化されねばならない世界資源の分かち合いの外的意味のどちらともまったく関係がないのです。

今後もし慈善家が、大きな文明的非常事態として貧困の存在を根絶する必要への慈悲的な認識で満たされるなら、恐らく彼らは商業的追求から法外な利益を上げることにもはや駆り立てられる代わりに、国際社会における協力的な分かち合い経済を実現するという目標に時間と個人的な富をつぎ込んでいることでしょう。優先事項を再調整して世界に平和と正義のための方策をもたらすよう政府を納得させるためにこれが必要な手段であると一度認識するなら、恐らく彼らは熱烈で平和的な活動家のグローバルネットワークを構築する手助けをするでしょう。

考え付く限りすべての市民社会組織の同盟のもと構築され、あらゆる分野の無数の人々の協調した意志によって後押しされると同時に、分かち合い経済を支持する世界規模の表示がどのような様相を呈するかについてこの考えが想像を呼び起こさせますように。従ってそれは、世界中での歓喜の爆発によって特徴付けられ生命を吹き込まれると同時に、そして最も無力で疎かにされた市民への奉仕によって認識されると同時に、そのすべての究極の栄光の中での分かち合いのための真の社会運動となるでしょう。従って、世界復興のための輝くかがり火として世界人権宣言第25条を何百万何千万もの人々が支持する時、物質形態の中に神性が顕現していることを私たちは知るでしょう。

*

最も幅広い観点から分かち合い経済が何を意味するかということを仮定すると同時に、話し合いによって考慮することがさらに多くあります。そしてその意味に対する私たちの認識は、グローバル経済システムの全構築が再び構造化されると同時に徐々に変化し進化するでしょう。第一段階が、生活必需品への不十分なアクセスしか持たない飢餓者及び極貧者に向けて資源を再分配するよう世界中で政府に要求する莫大数の人々をどのように必要とするかということを熟考しました。それは公正な経済秩序の構築を通して徐々にシステム化される、グローバルプロセスとしての分かち合いの最も初期の表現であると考慮され得ます。そして例えば、1980年のブラント委員会や2009年のスティグリッツ報告書によって提案された勧告をはるかに上回る真の分かち合い経済が、民主的グローバル・ガバナンスの形態や貿易及び金融の改革化された形態を通してそれ自体を明確にし始めるでしょう。

それにもかかわらず、反対方向へと機能する分裂的で不均衡な腐敗したシステムの影響に苦しみ続ける一方で、その基本的活動原理として資源の分かち合いのプロセスを取り入れる代替的なグローバル経済システムを私たちは正確に述べることができません。国家総会の偉大な未来の運命を見通すことのできる以前に安全保障理事会が廃止されねばならないのと同じだけ、真の協力と分かち合いを基盤として期待される構造を見通せる以前に現在の経済システムは事実上解体されねばなりません。多くの前向きな政策思想家及び市民社会団体の提案に証明されるように、意見と青写真は当然のこと存在するかもしれませんが、誰一人として4、50年先の地球資源分配のコモンズ基盤のシステムの最終的出現を精密に予測することはできないのです。

敢えて言うなら、過去2千年間、国家主権の従来型の概念に要約されるように政府の最大の念願は、競争の激しい世界舞台において各国の個性を体系化し前進させることの必要に関係しました。しかし人類が成熟するとともに、必要不可欠な資源の分かち合いと私心のない奉仕という理想への文化的方向性を通して全体にとっての利益を支持するにあたり、その過度に目立った個性を国際レベルまで拡大させる義務が国際社会に課せられます。

従って、単なる商業的報酬や戦略的国益とは対照的に、必要性と共益に基づき平等に再分配される世界的貯蓄の何らかの形態に余剰資源を最終的に貢献する各国を持って、グローバル経済ガバナンスの新方式として国連の重要性が信用と合意のもと実現されるのです。それが、多種多様なすべての文化、人種集団、宗教及び政治信念を持つ様々な民族の異なるアイデンティティを尊重し保護する傍ら、ひとつの村としてすべての国の相互依存性を促進できる分かち合い経済の最も純粋なヴィジョンなのです。

このヴィジョンが曖昧すぎるかあるいは技術的詳細に欠けると感じる読者のための熟考の主要ポイントは、分かち合い経済の外的意味は、その発展が人間の意識の漸進的拡大に関係しそれに依存することから、私たちの認識中の多くの理解段階を経るであろうということです。私たちはこの観点から再度分かち合いの内的次元に戻らねばなりません。なぜなら、分かち合い経済の外的または社会的表現は極度に広大で、時とともに際限なく進化しており、そしてその源は思考や政策的処方にではなく霊的認識という人間の潜在的能力にあるからです。

先ほど私たちが暗示したように、最終的な普遍的形態における分かち合い経済の外的表現は、高次元の存在または意識に関する基本的真実としての私たちの内なる霊的統一の反映であり、特に、不朽の知恵の教えの中で魂の王国として言及されているあの現実なのです。もしこの前提をたとえ実用可能な仮説としてでさえ受け入れることができるなら、ひいては先立つ思考は頭の中で遥かに明確となり、この主題についで自己でさらに深く追求するよう私たちをさらに鼓舞するかもしれません。

不必要な貧困関連の死の不甲斐ない現実を即刻防止するよう政府に要求する世界中の何百万という人々の展望に耳を傾ける;その史上初の出来事は、全体 − ひとつの人類 − の利益のために平和的抗議デモの中で結束する莫大数の一般人によって代表されるように、外部の物質界において私たちの内なる霊的統一への最初の重要な認識を象徴するでしょう。その壮観は、これがさらなる社会的、経済的及び環境的大惨事を回避するための最後の希望だと理解する、地球資源のより公平な分かち合いを要求する世界の公衆の大部分の間で予備的合意が存在するという事実をもまた実証するでしょう。疑いなく、大勢が異議をとなえるであろう傍ら、そして大勢が無感覚なままで居続けるか世界危機の悪化する動向にも心を動かされないまま居続けるであろう傍ら、歓喜に満ちた月日が過ぎ去ると同時に、何千何万という死に行く多くの貧困者を救うために不可欠な資源の緊急再分配を組織化することを政府が余儀なくされるとすぐに合意の事実は広まるでしょう。

あらゆる場所の男女のハートには、単一の問題において結束する人々の共同活動を通してこの合意が明らかになることへの準備が無意識にできています;抑圧され疎かにされた貧困者にも同じように、その時が来たらいつでも声を貸す準備ができています。そしてその時初めて、世界の政府の政策を決断する力を持って、真の分かち合い運動は抑えきれない平和的驚異として認識されるでしょう。その時、全運動を包括するこの運動、全目標を包括するこの目標に参加する全員が、他の人々の決定的なニーズへの揺るぎない懸念によって動機付けられた、主観的に結束したグループとしてどのような行動をとるべきかを正確に知るでしょう。

これらの予測から明瞭であるべきことは、改革され正しく再分配的な経済システムは、一般の人々が第一にそれを受け入れ、そしてその後はその永続的実施を維持するという意識を持たずしてそれは構造化され得ないということです。これは、もし全ての前向きな政治思想家をてこずらせる問題への答えを知覚したいなら、正直なマインドを持って自己を内面的に見ることを私たちにやむなくさせます − その問題とは、地球の環境的限界を尊重する一方で国際レベルで機能し、万人の基本的ニーズを充足する決定的な分かち合い経済をもたらすことがどう可能であるかということです。

なぜなら、各々の社会においてもっと喜ばしく信頼を持てる参加型の生活様式を確立するまで、全世界を通して同等に全ての家族と個人の利益となる分かち合い経済はあり得ないからです。そして、自己の先天的創造力を探求するために必要な経済的安全性と自由を万人が持つまで、もっと資源制約及び人口過剰の少ない地球での分かち合いの進化するパラダイムはあり得ません。そして多数派が特定な人々だけでなく全体についての認識を受け入れる前述の能力なくして、長い未来に存続する分かち合い経済のアイデアはあり得ません。それは、貧困と紛争の苦しみから自由となり統一性及び一体性感の中で人類が共に生きることがどのように緊急を要するかということを理解する認識です。そして、過剰消費する社会の中で殆どの人の懸念から現在程遠い気候変動や環境劣化の酷さを考慮し、より簡素でより公平な生活水準に各人を導く認識です。

そしてもし、革新的思考及び実験の先駆けの中で発達し始めているこの新意識の最初のヒントを私たち自身で見つけることができるなら、ひいては物々交換に基づいた経済交流と社会関係の新様式の方向性を持つ、この拡大する認識が自分たちを連れていっている最終目的地をもまた私たちは知覚し始めるかもしれません。既に、地域レベルでの分かち合い経済の真の性質は、自発的に与えることと受け取ることへの本質的な社会的傾向に有利に働く、交換手段としてのお金の役割が優先されることのないギフト経済の現代的観念に本質的に関係します。従って、上記で私たちが強調した総体的な論拠に要約されるように、世界的基盤で分かち合いの原理を実現することによる予期外の社会的及び文化的結果をあなたのマインドで直感的に掴むようにしてください。

  • まず第一に、不可欠な資源を再分配し、広範囲な飢餓と生命を脅かす貧困を緩和するために、適切な国際機関を通して協力的に機能する政府らによって組織化された緊急プログラムを通して。
     
  • そして第二に、利益上の動機や独占的な私的利益から切り離された、その基本的活動原理として自然資源及び必需品を分かち合う全体に浸透したプロセスを取り入れる再構築されたグローバル経済を通して。

民主的に改革され、信望を得た国連システムに大銀行やその他の金融機関の優勢的な権力が移行されるところの、何十年にも渡り漸次進展するそのような政府間の経済協定の結果として私たちは何を予見するでしょうか。論理的に分かち合いのアイデアや存在は、それを説明するのに新たな政治経済の語彙目録が必要かもしれない、世界的な交換や物々交換の進歩的なシステムとして想像できるとても異なった何かに発展するでしょう。これは、現在私たちが考えるようなかつての古代社会に特徴付けられる互恵貿易の原始的形態としての物々交換ではないでしょう。代わりに、すべての国の間での一般的な物資や資源の持続可能で十分な流通を維持する、大規模な情報技術や複雑な輸送ネットワークの使用により施行される地球資源の管理システムを思い浮かべてみてください。

エネルギーや水のような特に大きな公共事業に関係する不可欠な資源の普遍的及び自由な分配をどのように達成できるかについてなど返答されるべき仮定的質問の数に限りがないため、ここでの私たちの関心は、これらの未来の経済協定の機能の仕方についての特定の詳細にあるのではありません。今回考慮すべきさらに重要なことは、もしこれらの外的経済変革が実行可能な現実となることを望むなら、人類が経験せねばならない内的変革です。そしてその追求の方向から、物々交換の原理をその基盤となるメカニズムと制度化された枠組みに融合させるどのような新グローバル経済システム内にも善意、歓び、創造性そして質素さが根付いていると私たちは理解できるのです。

もしお金や利益が完全に不必要なら、広範囲な規模で個人間の物々交換がどのように欲求やニーズの簡素化、ストレスや貪欲の減少、そして大いなる自由と内的創造性をもたらすかについて簡単な言葉で私たち自身で考えることから始めることができます。そこから私たちは人間関係を基盤としたこの新発見された信用と善意の表現がどのように各国の状況、文化及び伝統に適合した特定のアプローチに従って、異なった国々の中で経済システムとして物々交換の導入を自動的に促進できるかについてのかすかな予見を掴むことができます。そして私たちの女王として象徴される国連と共に全体の利益のために協力し合う蟻の大集団に似た段階に人類が達したかのように、国内でのあの物々交換プロセスが世界の政府間でのぶつぶつ交換のグローバル・システムの導入を促進し維持するでしょう。
 

そのような結果は、貿易及び消費の前資本主義モデルへの復帰を示唆するものではないでしょう;それとは反対に、それは進化において私たちを妨げ、物質主義的目標や自己中心的野望の追求へ若者を仕向ける商業化の制御されない勢力とイデオロギーによって導かれた経済です。テクノロジーや科学における人類の以前の進歩がもたらした利益のすべてを吸収し、社会経済関係の基盤として必需品の自由な交換プロセスをもまたさらに包括し持続する、平和で公平及び持続可能な世界秩序を私たちが心に描けない理由はありません。そしてそのような文明には人間の基本的ニーズの充足や非再生可能資源の持続可能な分配のどちらにも無関係な生活分野における、民間事業や市場の競争の降格された役割がないと仮定すべき理由はありません。

もし私たちがこれらの一般的な提案を受け入れることができるなら、ひいては分かち合いと自発的な簡素さの道が国際社会間での物々交換や交換の進歩的なシステムの最終的導入に密接に繋がっていることに私たちは同意するかもしれません。関係のあるすべての人々の利益のためにこれらの新経済プロセスを国際基盤で開始するのに協力し合う政府の活動は、国、市町村、コミュニティ及び近隣地域内で開始される同じようなプロセスを必然的に伴うでしょう。そして市民及び国家双方の意志で成立されたこれらの変革の合流を通して、この豊かな地球の限界内でより簡素及び平等に人類が生きれるのだという証拠を私たちは遂に目撃するかもしれません。

従って、分かち合い経済のより象徴的意味は次の言葉に要約され得ます:物質的及び商業的価値観の支配によって特徴付けられる時代の迫り来る終焉をそれは象徴するでしょう。そしてそれは、人類の断続する霊的進化を授けてくれるスパイラルのより上位の転換点にありながらも、現代の歴史において初めて経済交流の原則様式として物々交換の復活を象徴するでしょう。

 

パートlll:在ることの術のための霊的教育

しかしながら私たちは再び、自分たちの追求の元来の根拠に戻らねばなりません。なぜなら、より霊的な価値観に基づいた新教育によって育まれ鼓舞されるべき、人類全体を通しての慈悲と認識の大規模な解放なくしてこれらの未来の変革のどれも見通しが立たないからです。これからの時代のための最も普遍的な形態の分かち合い経済を実現するためのアイデアをどんなに熱心に受け入れようとも、無数の個人の貪欲と無関心に特徴付けられる現代の現実と持続可能な未来のどのようなヴィジョンにおいても無視しがたい腐敗した世界秩序全体に及んだ不正の中に私たちは取り残されるのです。

これは、学校や大学を通して正式に教えられる従来の教育以上のものを要求するチャレンジを私たちに提示します。自己に対してもっと霊的認識を持つという観点からの教育が即急に必要です。それは、私たちのハートの参加を妨げる自己の思考と過去の分裂的あり方を再現する機能を果たす、私たちの見過ごされた社会的条件付けを何らかの形で包括せねばならない認識です。この点で、分かち合い経済の広く行き渡った観念は適切に注目すべきケースです。なぜなら、全体としての人類がまるで私たちの日常的な思考及び信念の一部ではないかのように、またしてもそれは私たち自身、そして利己的態度だけに関することだからではないのでしょうか。

従って社会における正しい教育の欠如は、私たちの根本的なジレンマを浮き彫りにします。なぜなら、世界の奮闘する貧しい大多数派のニーズにまず私たちの全注目を集中することによりもし分かち合い経済が完全に包括的及び道徳的方法で成就されるなら、それは実行可能なアイデアであり、そして潜在的に途方もない惑星規模のアイデアだからです。世界の難民危機に反映されるように正しい人間関係に対するシンプルな理解から教育がどれだけ遠くに逸れようとも、私たちが力強く論じたようにそれが、分かち合い経済が正しく維持され時間と共に着実に発展できる唯一の希望なのです。

西ヨーロッパの最も進んだ民主主義社会においてでさえ、自分たちより恵まれない人々と分かち合うよう私たちは教育されてきませんでした;確かに、もし万人にゆりかごから墓場までの分かち合いと協力の価値観が染み込んでいたなら、ひいては無意味な地域紛争と大部分が西側諸国の外交政策が原因の大規模な難民危機と不安定性は決してこの危険な段階に達していなかったでしょう。しかしそれが不平等な世界の痛切な挿絵のように顕著に現れており、分かち合いの原理を世界情勢に実現することなしにその根深い原因の解決はあり得ないため、それは私たちを中核的根拠に今一度連れ戻すのです。
 
分かち合い経済を維持するためのより総体的または霊的教育の必要性に関して私たちはまだそんなに多くを発見しておらず、自分たちの現在の目的のためにその最終的形態と変革的意味合いについて一時的概要を述べることができるだけです。疑いなく新教育は、基本的な社会的、経済的及び政治的観点から分かち合いの意味を教え、なぜこのシンプルな原理が地球の健康と生存にとってそのように重要なのかを幼児に教えることのできる学校の授業形態の中に最終的に見られねばなりません。
 

しかし、どのように分かち合いの原理が本質的に霊的であるかということ、それ故どのような子供や大人にも内的自己に関する認識を教え込むことができ、人類はひとつの相互依存した存在であり本質的に平等でそのパーソナリティの無数の表現の中で潜在的に神聖であるということを、彼ら自身で(意識的理解及び直感的認識双方を通して)理解するよう個人を導くより高次の教えを必要とすることを私たちはまた強調しました。

今後、分かち合い経済の内的意味を学ぶということは最終的には、多くの宗教的及び霊的思想家が生きる術として言及するものへの理解に到達するということです。それにもかかわらず残念ながら私たちが、術の形態としての生活への理解を可能にするであろう種類の教育と社会状況から遥か遠方にいるように見える時、現在の人間及び霊的発達段階においてこの言葉の明瞭な説明を伝達することは困難です。この主題についてのより深い理解は、人間の霊的構造に関する十分な知識無くして達成され得ないということを心に留めておく必要があります。これに関しては、アリス・ベイリーの著作など未来の新教育の方法及び目標についてのより詳しい情報を提供する、その分野の権威ある著者を読者は参照する必要があるでしょう。[7]
 

しかしながら、分かち合いの原理に基づいた新経済システムがどのように人類の内的人生の途方もない変革を伴わねばならないかということ、そしてその結果、私たちの集団としての霊的進化や予告外の人間意識拡大の迅速なスピードアップをもたらすということについてもまた、自己内省と論理的推論を通して私たちは各々で発見することができるのです。

そのような疑問をさらに追求するには、生きる術に直接的に関連しながらもその意味と含蓄において遥かに異なる在ることの術の観点から分かち合い経済の社会的及び文化的表現について考えることが有益です。人間関係と社会組織の様々な様式を通して在ることの術はこの世界で外部に向けて表現される人生の内部に関係するためこのふたつは切り離せません。生きる術が外部に関係する一方で在ることの術は内部に関係します。誠にそれは、もし世界が変革すべきなら人間が内部から変革せねばならないと在ることの術が言及する霊性についてのありきたりな決まり文句なのです。すなわち、それは主に万人の中に存在し、正しい人間関係を通して表現を求める本質的な神性の啓示なのです。
 

従って現時点で、私たちはしばしば述べられるように生きる術ではなく、その連続的進化段階において新時代の教育を大部分特徴付けるであろう在ることの術に最も注目すべきです。それは瞑想、秘教研究及び人類への奉仕を通して魂の認識とその目的に関係すると述べることによってたとえ要約できるにしても、霊的教育のより高度なレベルがどのようであるかということは私たちの現在の管轄範囲を超えているのです。それが、何千年も通して様々な伝統の中で人類に放たれてきた不朽の知恵の教えに証言されるように、最終的に自己の覚り(あるいは在ることの術)を私たちにもたらす永遠の術なのです。しかしここに至ってさえ、私たちは現在の難しさを認めねばなりません。何故なら、条件付けされたマインドを通して在ることの術を実践することや実現すること、あるいは単に知的にその意味を理解しようと試みることはできないからです。実際には、在ることの術の意味を求めるプロセス自体が、徐々に私たちの条件付けを解き、従ってさらに意識的に目覚め内的に自由であるよう私たちを導くであろうものなのです。

先の発言だけでも、それが単純に聞こえようとも慎重に検討し認識すべきことが沢山あります。何故なら、在ることの術が意味することとそれがこれらの方向性に沿って象徴することに対しての初期段階の理解が欠如している限り、個人及びグループの基盤で生きる術を表現することは不可能だからです(特に、平均的人間が自己の魂の目的を探索し、理解し、そして実践するための十分な教育や内的空間を提供できない不平等な社会においては)。[8]

私たちの気を散漫にする今日の狂乱的人生において、私たちはせいぜい環境リサイクル活動、慈善活動、そして地域化された形態の分かち合い経済のより非商業的な側面など、生きる術の最も脆弱な反映である社会的実践と利他的行いに唯一携わることができるだけです。これらの活動にどんなに価値があり多くの場合不可欠であったとしても、自然と生きとし生けるものに関連して無害さ、簡素さ、そして正しい関係の中で生きることが何を意味するかについての広く行き渡った社会的認識を代表することは決してありません。定義として、内的自己の現実を探求するために内部に向かい、そして日常生活の表現の中にその認識を顕現させることを求めない限り、生きる「術」はあり得ません。

この考察を損なう言葉での説明の困難さにかかわらず、分かち合い経済の霊的または内的意味を追求すると同時に生きる術について熟考することはそれでもなお有益です。 その目的のために、生きる術は、全人類の間での正しい人間関係に対しての直感的理解及び認識として、そしてそれが永久に確立されるための個人的及び社会的手段として一般的に定義付けられ得ます。 しかしまたしてもそのような定義のすべてに問題があります。なぜなら、世界情勢に分かち合いの原理が実現されていない時、自己、社会及び自然環境への人間の正しい方向性に基づき、この地球での新生活様式についてどのように明瞭さを持って話すことができるのかということです。

謙虚さ、正直さ、誠実さ、無執着及び無害さなど、生きる術に関連したすべての内的性質を持ってその一般的実践が社会の特徴となるまで何世代もかかるかもしれません。さらに、世界中で慈悲心が花開くことなく持続する生きる術はあり得ません。なぜならそれが、地球の進化を導くための在ることの術の必要性に対して、さらに着実に意識的になる人類の必須条件だからです。手短に言うと、それは、在ることの術自己の覚りへの広く行き渡った認識を示す社会組織化の外的様式に特徴付けられるだろう新文明であるため、この主題において正確さや説得力ある意味を持って私たちは話すことができません。

*

分かち合い経済を維持することにおける認識の問題をさらに熟考する中で、国連の霊的または秘教的重要性、そしてこの偉大な国際組織の将来の進展と共に起きる新教育の進展との間に存在する、不明瞭な繋がりをも私たちはまた発見するかもしれません。これは、異なった文化や様々な物質的発展レベルを持った加盟国間の正しい関係の現実をいつか国連が表現せねばならないということをもし私たちが認めるなら、言うまでもなく明らかかもしれません。そしてそれは、もっとバランスのとれたグローバル経済システム実現のための資源の再分配における国連の未来の監督機能を通して第一に達成されねばなりません。

もし私たちが今日初期段階にあるものとしてグローバルな真の分かち合い経済について正確に話すなら、ひいては国連もまた世界の善意を代表する最高の国際権威として、可能性を実践することにおいて最も未発達段階にあります。しかし、象徴的に言えば、国連が官僚的な事務所及び専門機関の集まりという単なる国家間機関以上の人類にとって遥かに意味深い崇高な役割を、それはどのように達成するのでしょうか。

もし私たちが今日初期段階にあるものとしてグローバルな真の分かち合い経済について正確に話すなら、ひいては国連もまた世界の善意を代表する最高の国際権威として可能性を実践することにおいて最も未発達段階にあります。しかし象徴的に言って、国連は官僚的な事務所及び専門機関の集まりという単なる国家間機関以上の、人類にとって遥かに意味深い崇高な役割をどのように達成するのでしょうか。

一般的に主権国家、異なる文化及び人種の観点から私たちが理解する正しい人間関係は明らかに様々なグループの交流に関連するため、この疑問に答えるには霊的聡明さ及び直感を使うことをさらに余儀なくされます。そしてそれは、国家的、文化的または人種的アイデンティティを越えて彼らの意識を高め、それによって私たちの主観的相互関係とひとつの人類としての超越的アイデンティティを認識するよう、これらすべてのグループを間接的に教育できる再建された国連の存在及びエネルギーそのものなのです。

悲しいかな、殆どの人々は国連の将来の霊的重要性に関して全く考えが及ばず、従って、これらの所見は気ままな想像の旅のように思われがちです。差し当たりは、その多くの欠陥と承服のため国連を大変尊ぶ人は僅かですが、私たちはその存在が人生の内部から象徴するものを理解しようとする以前にその妥当性を軽率に退けてしまうことに注意すべきです。

まず初めに、人類に仕えるグループを通してオーバーソール(大霊)がその目的を遂行するためのグローバル構造や外的手段を実際どのように完全に機能する分かち合い経済が提供するかを理解する必要があります。この秘境的観点から、国連の霊的目的は分かち合い経済のムーブメントの中に埋め込まれたエネルギーを運び、国連の魂の資質と一緒にそのエネルギーを全てのグループと国へと舵を取ることです。これは、大規模な飢餓や広く行き渡った人間貧困の断続する大惨事を防ぐために、物資やサービスの正しい分配だけに関係するのでない、資源の再分配の緊急プログラムとグローバル経済改革の新解釈をもたらします。さらにそれは、「自由」「平和」「信用」「愛」及び「正義」などの言葉へ最終的に新たな深みと実際的意味を与えるであろう影響を伴い、世界全体を通して魂のエネルギー解放の初期段階を意味します。

学校教育や制度上の議題を通してなど特に正式な意味でなく、将来のその運命的役割と進化する霊的目的からもたらされるだろう変革を通して、国連がどのように教育の真の意味を表現できるかをとりあえず把握するためにこれは役立つのでしょうか。進化計画に合わせて人類に仕えるという霊的目的を魂が持つのと同等に、国連は、地球での明らかな事実として魂の王国の現実を最終的に認め表現するという潜在的な霊的目的を持っています。それ故、緊急再分配プログラムの実施は言うなれば、肉体を持つ魂のひとつの相互依存した集まりとして人類がそれ自身への認識を遂に表現し始めていることを意味するでしょう。そしてその意味で私たちは、新時代あるいはハート時代としてよりよく理解され得るものの始まりとしてそのようなプログラムを考えることができます。

言い方を変えてみましょう:私たちの文明危機を緩和するための国際的努力の無比の動員は、世界の善意の活力的な顕現を通して適切な場所に国連を置く第一段階をもまた象徴する一方、人類のハートが「分かち合い経済」の意味をその適切な場所に置くことを象徴します。そして、その最初の世界規模での善意のほとばしりが、魂の目的のより大きな意味と正しい関係を認識するよう人類を導くかもしれません。それは私たちが暗示したように、地球の霊的ハイラーキーが物質界において外部に出現すると同時に、そのハイラーキーとの意識的協力のもと聖なる計画を促進させるためなのです。[9]
 

従って、国連が正しい人間関係の表現を支持することによって、人類を教育する機能を果たせる幾つかの方法があります:

  • 世界情勢における分かち合いの原理の実現を監督し、国家間の資源分配に正義とバランスをもたらすことによって。
  • 何千年という計り知れない時間の中で初めて人類との意識的協力のもと、霊的ハイラーキー聖なる計画を遂行することを可能にするグローバル構造または外的手段を提供することによって。
  • 霊的目的の表示を通して地球での魂の王国の事実を支持することによって。これは、ヘッド・センターがすべての側面における国連の未来の活動によって象徴される一方で、人類のハート・センターを構成するキリスト原理の観点から象徴的に理解され得ます。

現時点でどのように突飛で難解に見えようとこれらすべての理由から、権限を与えられた国際組織としての国連のより高次の霊的可能性に対して偏見のない心を持って、この時点から分かち合い経済の真の概念が国連の世界との関係に向けられるべきことが少なくとも明瞭であることが望まれます。

この点について役立つかもしれないシンプルな隠喩は、この地球全体で断片化した愛のエネルギーがおおよそ宇宙規模の膨大なジグゾーパズルであるかのように考えることです。そしてそれは、世界のすべての国が同等にユニークで不可欠な小片を代表するため、人類そのものと同じほど古いこの惑星規模のパズルを解くことは各国次第なのです。それらの小片を再びもとに戻す手段は誠に簡単であり、人類としての私たちの断続する進化を脅かす大危機に取り組むために、国際社会のすべての使用可能な資金、能力及び余剰資源の協力的な貯留が絶対的に必要です。

最富裕国が彼らの資源を発展途上国と真に分かち合い、また発展途上国が彼らの資源を先進国と分かち合い、そして緊急の再分配プログラムのアイデアが断続した大規模なデモンストレーションのなか一般市民によって支持され始めると同時に、私たちが愛と呼ぶパズルが一片ずつ徐々に完成していくでしょう。恐らくこのようにして私たちは、自分たちが経験しているこの歴史的過渡期における国連の予期せぬ重要性を心に描くことができるのです。そしてそれは人類が最も緊急な世界的優先項目に神聖な分かち合いの原理を始めて適用した時代として、常に思い出されるでしょう。

現在の世界情勢に注目を戻すと、人類が世界中で真の平和や正義に近いものを経験する以前に、新たな霊的教育の意味についてのこれらのアイデアの適用は疑問視されがちです。政府や社会全般からの十分な助力なくして何百万もの人々が薄汚く死んでいくことを許す惑星で、どのような種類の包括的教育が、顕現した宇宙と未顕現の宇宙を浸透するひとつの生命の資質に関して成就できるのでしょうか。

世界情勢における分かち合いの原理の実現は、活性化された国連総会と最終的に生きる術が顕現することを可能にする新たな教育方法の必要性に、直接的に関係があるということを理論的に私たちが認めるのも当然かもしれません。しかしこれらの推論的熟考が今日、弱者や剥奪された人々のニーズにしっかり耳を傾ける特権者全員を伴い真の教育が始まらねばならないという根本的な理解をもたらさないなら他に何をもたらすのでしょうか。

もし私たちが自分たちの家を建て直したいと思うなら、ひいてはその基盤から始めねばならないため常にこの中核的理解に戻らねばなりません。そして21世紀の私たちの惨めさの基盤は、回避可能な人間性剥奪の恥ずべき現実の永続がいまだ許されているという事実です。霊的教育自体はハートから自分自身ではっきり考えることをもまた意味します。従って、貧困者を疎かにし食い物にすることを止め、そしてもしこの太古からの不正を最終的に根絶するために行動しないなら、現時点において愛の認識を通して自己を他にどのように教育できるのでしょうか。

*

インターネットやオープンソースムーブメントの迅速な発達を、分かち合いたいという人類の意欲の徴として考えることができるように、世界変革における新技術の可能性についての疑問を思いつく読者がいるかもしれません。しかし、現在の技術的革新が神聖な原理として分かち合いの真の反映であるのか、そしてそれが尊厳ある健康的生活に必要な不可欠品を持たないすべての人の生活の改善にもまた同様に向けられていないのかということをもう一度自問してみましょう。

私たちは、「愛への認識を持って最先端のプロジェクトに取り組むことはできないのか」と問うこと以外に革新や進歩への創造的推進力に誤りがあると示唆しているわけではなく、普遍的及び霊的理解を通して表現されるように愛は「他の人々はどうなるのか」という基本的疑問に要約される事実を考慮しているのです。今日、特に若い世代を筆頭に、誰もが新たなデジタルの発見や切りのないガジェットに夢中になっているようですが、(常に改訂され見積もられたグローバル統計の報告結果に関係なく)殆どの国で確実に悪化している貧困の不正に夢中になることから私たちは程遠いようです。
 

世界中に不正が横行しようとしなかろうと、人類が常に科学的及び技術的発見に魅了され続けるであろうことは確実でしょう。科学調査と創造的革新は自己の気質と地球の周囲の状態を探索する人間の本質的傾向の自然な延長であり、それはいつまでも進んで残るでしょう。しかし、さらに明らかにされた方向性の追求は、世界情勢の経済プロセスとして分かち合いの原理が私たちの考察に基づき一度実現されるなら、どのようにテクノロジーがその全体的形態と方向性を変えるかについての疑問に関係します。人類として私たちがもはや心理的に分離したままでいれないことを意味する自然界の事実として、万人は創造においてひとつであり、平等で相互依存しているという認識をもし人類の相当数が受け入れるならどうなるでしょうか。

確実に、新技術が社会にとって有益か有害かについてのすべての討論は徐々に消滅し、時と共に人類の社会的、経済的及び霊的発展に置き換えられるでしょう。物質的欲望が今日の文化規範及び態度を支配する傍ら技術についての現在のジレンマは、人類のハートが自己満足的な無頓着さ、無知または無関心によって一般的に抑圧される世界に唯一関連します。ハートの霊的革命がまだ目撃されない、または殆どの一般人には想像もつかない、明らかに持続不可能で狂気的に自己破壊的な消費主導型の世界全体を通して表面的な物欲や必要性が社会革命を体験していると言えるでしょう。

従って、生活の質を改善するはずの拡大する経済のデジタル化や自分たちには購買力があると思い込んでいるハイテック商品の容赦ない製造を大手を振って熱狂的に受け入れる人々がいます。同時に、日常に商業化を定着させ、そして多くの場合、民間人の自由や基本的人権の衰えと密接に関連するテクノロジーの有害な副次的影響を嘆く人もいます。しかしもし何百万という人々が他の人々の決定的なニーズに目覚めるなら、そしてもし万人の基本的物資及び教育的ニーズを提供する世界で新技術の目的が改められるなら、果たしてそのような分極化した討論がそんなに長く続くのでしょうか。
 

現在の動向の不幸な犠牲者は、物質形態への没頭に個人の意識を制限することによって自己意識の成長を妨げる、商業化された技術の形態のための簡単なターゲットである世界の子供達と不用心な若者たちです。勿論問題は、工業革命以前は想像もつかなかったであろうほど経済的に進んだ国々の平均的家族の生活水準を全体的に改善した、社会的プログレスのための某体としての現代テクノロジーの存在にあるのではありません。問題は従来通り、世界人口の少数派のためのそれらの発展の利益を受け入れ、そしてどんな技術的手段によっても社会的改善がとどくことのない何百万という人々の生活について殆ど考慮しない人間の意識にあります。

従って、私的利益によって良いように利用されますます商業的な方向に進められる代わりに、真に万人の共益のために使われた場合の科学技術の重要性について疑問を投げかけてみましょう。新技術の驚異を発見し、ついで自身の創造の対象物に自己投影する個人の内的認識と動機についての問題がどのように生じるかを理解するにはかなりの想像力の飛躍を要するかもしれません。その自己投影の結果として、典型的に低位自己または「私」が革新プロセスに影を投げかけ、新技術が万人の利益のために奔放に分かち合われる代わりに個人的または物資的利益のために食い物にされる原因となります。そしてまさに、利己主義的な動機によって創造されたどの個人の特定の革新をも分かち合うことを「私」が妨げるのと同じように、さらにその延長線上で考えると、最大限の利益に関心を持つ多国間企業は全人類の向上と改善のための世界のテクノロジーの分かち合いを妨げます。

革新能力は理解と成長への私たちの衝動の当然の結果として人類にもたらされたかもれませんが、それは単に僅かな数の人々によって独占されたり征服や支配のための道具として使われるために意味された本能的能力では決してありません。従って、次のように問われねばなりません:技術の進歩と慈悲心の普遍的意味の間に存在する関係は何でしょうか。なぜなら、もし技術の正しい形態が世界中の最貧困者と分かち合われるなら、確実に彼らの大多数の健康及び福利回復を大きく促進するであろうからです。AIDSや貧困が原因で起こる病気のための薬の多くは、私たちが技術と呼ぶものの一部であることを忘れないでおきましょう。それにもかかわらずこれらの特許薬を開発する医薬品業界は、万人の利益のために地球から奔放に与えられた薬草や植物を使用しているにもかかわらず、明らかに分かち合いや共益の精神によって駆り立てられているのではありません。従って、もし人生への基本的に慈悲的態度を通してこれらの問題を考察し始めるなら、なぜすべての薬品と医療の恩恵が奔放に人類にも与えられていないのかを、私たちの病んだ文明のすべての間違いの中心に帰すという推測を持って問わざるえません。

これらは発展し得る分かち合い経済を長年に渡って確立してきた、そして万人が同じ平等な権利、機会及び基本的自由の利益を得ることを可能にする世界での技術の役割を理解しようと試みる以前の最も予備的考察の幾つかです。そのような時においてのみ科学知識の急速な発展が、人間の意識の急速な拡張に本来関係するところの人類の霊的進化と同時進行で進歩する技術のより高次の目的を私たちは予知し始めるかもしれません。現在私たちは、ロボットや自動操作の出現の中でこれらの未来の可能性のほんの僅かな兆候を目撃しているに過ぎませんが、機械によって生み出された富の成果が平等に分かち合われない時、広範に渡る失業や急増する不平等の見通しについて多くの不安がもたらされています。従って、スーパーマシーンの時代が内的自己の現実について熟考し学ぶよう人類を解放し、そして最終的に在ることの術自己の覚りを追求する空間と自由を各個人に与える機能を果たす、さらに平等で平和的な世界の可能性を近い将来予期することは難しいのです。

ここで私たちは、不朽の知恵の教えと魂の科学の学習へと向けられた霊的指向性の学校の導入を革新的に要求するであろう、新タイプの教育導入の必要性についての考察へ戻らねばなりません。人間の霊的性質の目覚めに根付いた新教育と未来の技術との間のさらなる関係に特に言及する以外は、前述のアリス・ベイリーやその他の著者による執筆の中でこの題目についてさらに多くが書かれています。事実は、新たな勢力及びエネルギーが世界に押し寄せると同時に、人間意識の進化を加速することにおいて果たすべき偉大な役割をテクノロジーは持っています。それにもかかわらずこの課題における現代の著者の殆どは、無常な物質形態の具体的な分析を通してはシンプルに理解され得ることの決してない技術的プログレスのより深遠な霊的意味と含蓄に対しての認識がありません。

技術の秘教的重要性は、環境をコントロールし、現在まだ目撃されたことのない科学的に未知の進化勢力と調和して機能することによって、自然の隠された潜在力を解き放つ人間の能力に関係する「物質を超えたマインド」という言葉に埋め込まれています。例えば、電気の謎の部分的解明は人間の振る舞いが人類への奉仕に向けられ、そして彼の動機が商業的、国家的または利己主義的目的に妨げられない包括性によって大部分が特徴付けられる時、人間が使うことのできる宇宙に内在する思いもよらないパワーの小さな徴なのです。読者は既に、電話の発明が人間生来のテレパシー能力を象徴することを既に知っているかもしれません;それと同様にインターネットの発明は、自己醒覚したアデプトの正当な遺産であるひとつの世界についての認識または全知の意識を象徴します。

方向付けられたマインドの内的能力を通して外的形態の生命をコントロールする自己の潜在能力を人間が発見する時、将来の技術発展は並外れて加速するでしょう。そしてそれはいつの日か、魂の存在の化学的発見という結果をもたらすかもしれません。テクノロジーの進化が人類の霊的進化のための計画への認識と遂に同調する時、前述の考察のように物々交換の高度なシステムが世界規模で促進されるために必要とされる複雑な戦略的解決策を、どのようにテクノロジーが提供するかをもまた私たちは目撃するかもしれません。全般的にこれらのコメントはすべての驚異を条件付ける神聖な目的と高次の法則への現在の理解の欠如によって、どのように私たちの概念化が大幅に制限されているかということを把握する手助けをするよう単に意図されているだけです。テクノロジーの拡大は人間意識の拡大と常に密接に関係しているため、現代世界の定着した社会的、政治的、経済的、心理的及び霊的分裂が覆される方向に進むまではどちらもその正しい道を進むことはできないないのです。
 

*

分かち合い経済の内的及び総体的意味についてのこれらの初期の熟考に波調を合わせることができるかできないかにかかわらず、少なくとも世界情勢に分かち合いの原理を実現することの最重要性について読者が確信を持つことが望まれます。例えば、テクノロジーがさらに分かち合われれば分かち合われるほど、人類の霊的進化のために良い結果をもたらす道具としてそれが何を達成できるかについての理解がさらに拡大します。そして経済的不安定と大衆からの搾取を止めるために地球資源の分かち合いを人類が要求すればするほど、最も遠大な形態及び表現形式における分かち合い経済が何を意味するかについての認識がさらに拡大します。

現在、限られた形態の分かち合い経済を促進する人々が理解すべき最重要なことは、上記に示された方向性で世界資源を分かち合うことを政府に要求する平和的抗議デモにおいて何百万という人々が蜂起する以前に、分かち合いのコミュニティ・ビジョンが人類の問題への持続的な解決策だと私たちがもし信じるなら、それは馬の前に荷車をつなぐようなものです。分かち合いの地域化された方法は、一度分かち合い経済がグローバル・プロセスとして確実な実現段階に入って初めて急速に発展し、完全に包括的となるであろうことを私たちはまだ確信していないのでしょうか。

最富裕国が発展途上地域と富や資源を真に分かち合う時、そしてより幅広い一般市民が経済的分かち合いのアイデアをハートからその最もふさわしいところへ向ける時、それがコミュニティ主導の基盤で分かち合いの実践が想像を遥かに超えて開花する時なのです。なぜなら、ひいては生活への基本的権利と自由が以前満たされていなかった4、50億人を含んだ全世界が参加するだろうからです。そしてついで、地球の一般市民の広大な広がりの中でハートの認識が目覚めされられ、解放され、そしてこの地球でかつて目撃されたことのない喜びと善意の流出、知覚可能な世界規模のストレス及び緊張の減少、富裕層と貧困層双方の間の新発見された信用及び希望感という結果が内的及び外的に変革的意味合いを伴いもたらされるでしょう。

簡単に言うと、山場を迎える世界情勢は自分たちの懐や自己中心的な個人的利益ではなく、私たちが世界と貧困者のニーズを優先するようやむなくさせます。さもなければ、コミュニティレベルでの私たちの分かち合いのアイデアは永久に分裂し、商業化され、無関心な世界への高まる動向の結果として必然的にもがきながら進むことになるでしょう。私たちは、大部分が受動的な選挙民に社会の改善を約束する、その時はまさに正直で本物に見えるかもしれない政治家のようになるでしょう。しかしそれらの約束は、企業覇権の命令に縛られた、新たに選出された政府の中に消えてしまうのです。同じように、完全に利益志向の物質主義的文化においてその表現が比較的小数の富裕者に限定された分かち合い経済のビジョンの結果として何がいで得るのでしょうか。そして、同盟国政府間でグローバル及び政治的レベルで実践される唯一意味のある種類の分かち合いが − 現実政治の制約に相対して − 武器、情報及び秘密情報の分かち合いなのです。

もし私たちが持続可能な文明開始に成功するつもりなら、食糧、資金及びその他の基本的物質資源から全体の共益をもたらすために拡大されねばならない共感及び認識の無形の性質へと、エネルギーをそのふさわしい場所へ運ぶことに分かち合い経済がどのように関連するかということを私たちは強調しました。そして、この地球でバランス及び正しい関係をつくりだす手段として分かち合い経済のアイデアが包括的、総合的に理解されるところの、この起こり得る待望の結果に反して横行する商業化勢力のエネルギー(あるいはむしろ統合された有害な勢力)が働くと私たちは論じました。従って、「分かち合い経済」という言葉でさえ誤解され、見当違いな場所に置かれ、そしてそれは必然的に間違った手に陥ってしまいました。最善の意図を持つそれらの分かち合いの支持者の多くは、捕らえたネズミを時間をかけて少しずつ味わう前にそれをいたぶる猫のように、商業化勢力のよこしまなパワーを認識することができませんでした。

従って分かち合い経済の変革的ヴィジョンは、それを持続するための従事するハートと社会におけるその表現を構造化するための聡明なマインドを持たずして発展は不可能です。それが欠如するなら、分かち合いのアイデアがどのように素早く営利及び事業活動に降格され得るかが私たちにはわかります。しかし人類のハート・センターが明白に従事する時、不必要に死んで行く同胞たちを救うために資源の正しい再分配を私たちが共に要求する時、ひいては真の分かち合い経済そのものが突如初めて話し始めるでしょう。

オバマ大統領が最初に選挙で選ばれ公職に就いた時、世界の至る所で人々がどれだけ喜んだか、少なくともアメリカの外交政策が帝国主義的支配の追求から劇的に方向転換されるだろうといった初期の待望の日々を思い出せますか。では、世界資源の分かち合いに政府が全力を傾ける日がその何倍もパワフルで現実的な悦びを人類にもたらすであろうことは確実です。私たちがいまだ最大限に経験していないもうひとつの津波があります。物理的勢力として有害性でなく善意を持つものです − それは愛の津波です。余りの勢力の凄さにそれがあなたを打つ時、あなたをひざまずかせるでしょう。新たな種類のエネルギー、新たな種類の明瞭さ、新たな種類の創造性と力によって、あなたの様々な試みにおいてあなたを持ち上げるであろう勢力。それは、世界変革への希望の水源を含んだ最も裕福な郊外から最も貧しいスラム街まで、すべての国で何百万何千万人もの支持者によって支持されるであろうため、すべての分かち合い経済の提唱者が心待ちにし受け止めるべき勢力です。

恐らく真剣な読者は、これらの結びの言葉に至っても幾つかの実際的な助言の言葉を求めるでしょう。それ故、その目的のために以下の所感が提案されます。「分かち合い」という言葉が革新的な活動家の大多数の考えや想像にも及ばない限り、真の分かち合い経済の世界規模のムーブメントを生み出すことの非常な難しさを筆者は認めています。従って現在のところ、以前私たちが認めたように、その多くが不平等な富と資源の分配の問題から生じる様々な表現における自由と正義のための既存のムーブメントに参加することによって、私たちは可能な限りをつくさねばなりません。

同時にまた私たちは、分かち合いと協力に対する自己の理解を総体的にさらに深く掘り下げ、そしてこれらの普遍的原理が人類に直面する相互連結した危機へ適用される際にその変革的可能性を熟考すべきです。国家間の経済プロセスとして分かち合いの原理の実現を人類の生存のために世界が必要とする時、分かち合いの政治的アイデアが知的概念のまま残らないようにしましょう。なぜなら、富裕層と貧困層の間の拡大するギャップはその中に自己破壊の種を秘めているからです。従って分かち合い経済のアイデアが、私たちの考えと試みの中で特に社会的に最も排除されている人々と恵まれない人々へと世界的に拡大されることが決定的に重要です。

分かち合い経済の真の意味が世界の大多数派である貧困層との関連の中でしか見出されないであろうことを、私たちは声が枯れるまで繰り返すかもしれません。しかしその認識が即時の時間枠内で極度の剥奪をなくすことに集中した活発な議論と行動に転換されない限り、あまり意味はないのですが。それらの断続する討論に参加すること、そしてこの創造的な概念を新たな未開発分野へ拡大することに関心がある分かち合い経済の提唱者グループを形成することから私たちを止めるものは何もありません。何がなされるべきかを私たちは既に明瞭に説明しました。それは、すべての場所のすべての人々を極貧から完全に解放するという世界のリーダーたちのあの長年の熱望をついにもたらすために、国連とその関連機関を通して余剰資源を分かち合うよう政府に圧力をかけることです。

従って、ともかく何らかの手段で分かち合いの原理を具現化するコミュニティ主導型の活動を続けましょう。しかしまた、少なくとも一週間に一度はそれらの活動の方向を変え、国内及び遠方の海外双方で飢えた人々と貧困者のために分かち合い経済を使うよう政治的代表者たちを即すことはできないのでしょうか。西洋社会の圧倒的に裕福な地域で一般的に理解され適用されているように、様々な分かち合い経済のアイデアやイニシアチブに既に従事している人々の数について考慮してください。毎週ひとつの要求を持って結束し、そして飢えと絶対的貧困を決定的に根絶させるという、精神を高揚させる誇るべき目標に向かって政府が国の余剰生産品を再分配するよう署名することからそれらの善意ある団体を何が止めるのでしょうか。

一連のそのようにシンプルな行動を遂行することに長く失敗すればするほど、分かち合いについてのアイデア自体には何の意味もなく、魂も、目的も、そして未来も何もないということが明らかになるでしょう。もし私たちが繁栄と分かち合いのアイデアを自己の特定のコミュニティ、文化または国家に付随させるだけなら、それは一体どのような目的を持つのでしょうか。十二分に恵まれている人々と何も持たない人々のますます引き裂かれたふたつの世界の中で他の人々のニーズについてもまた考えない限り、私たちのアイデアは最終的に非人間的であり、崩壊する運命となるでしょう。

分かち合いの原理を世界情勢に実現するための唯一の理由は貧しく飢える大衆であると誤解されるかもしれませんが、現実は遥かに異なります。私たちの最大の関心は、認識、愛及び良識を日常生活の思考と行動にもたらす必要性であり、そして他の人々の福利への考慮の一般的欠如が、これらの抑圧された人間の特質をたまたま最も明白に証明しているということです。もし私たちが貧困関連の原因から不必要に死んでいく人々を霊的に進化する神聖な権利を持つ自己と同等であると考慮しないなら、私たちはなぜ彼らを救うことに関心があるのかを自問する必要があります。万人に行き渡るだけの十二分の食糧とその他の資源が世界にある時、自分たちの集団無関心の結果として人が死ぬのを私たちにはもはや許せないのだということが、全理由の中で一番の理由ではないのでしょうか。

同様に、唯一真の希望が人類全体の霊的ハート・センターの覚醒にある一方で、国連が最終的に世界を癒し、修復し、変革する最大の希望だと信じるのは間違っています。ふさわしい場所にエネルギーを運ぶために、正しい動機をもたらす意識と慈悲心なくして必要な変革が他にどのようにもたらせられるのでしょうか。この最後の修辞的疑問についてどうかじっくり考えを巡らせてください。それは前途に横たわる惑星的再生の偉大な取り組みに、私たちが個人的にどう役立てるかについて多くを明らかにするかもしれません。 

 
 

注釈


[1]  この題目についてのさらなる詳細は以下を参照:モハメッド・メスバヒ、商業化:分かち合いの対極、シェア・ザ・ワールズ・リゾースィズ、2014年。

[2] cf. モハメッド・メスバヒ、世界人権宣言第25条を布告する:人々の世界変革のための戦略、Matador books、2016年、パート1:政府の失敗を参照。

[3] cf. モハメッド・メスバヒ、商業化:分かち合いの対極、前掲書;対談〜デモンストレーションと分かち合いと正義、2011。

[4] CO2.例として参照:アダム・パーソンズ、気候危機への取り組みにおける政治と冷笑の交差点:モハメッド・メスバヒのインタビュー、シェア・ザ・ワールズ、リゾースィズ、2016年6月、パート2を参照:内部と外部のCO2。

[5] モハメッド・メスバヒ、国連と分かち合いの原理、シェア・ザ・ワールズ・リゾースィズ、2007年。

[6] 世界人権宣言第25条で次のことが明確に述べられています:(1)すべての人は、衣食住、医療及び必要な社会的施設等により、自己及び家族の健康及び福祉に十分な生活水準を保持する権利並びに失業、疾病、心身障害、配偶者の死亡、老齢その他の不可抗力による生活不能の場合は、保障を受ける権利を有する。(2)母と子とは、特別の保護及び援助を受ける権利を有する。すべての児童は、嫡出であると否とを問わず、同じ社会的保護を受ける。(外務省ウエブサイト:http://www.mofa.go.jp/mofaj/gaiko/udhr/1b_002.html

[7] 特に参照:新時代の教育、Lucis Press Ltd, 1954;秘教瞑想に関する手紙、Letter IX, Lucis Publishing Company, 1922;未完の自叙伝、Appendixes, Lucis Publishing Company, 1951。

[8] 編集者注:この文脈において著者の「内的空間」の概念は、平均的人間が生きる術の真剣な実践に打ち込むために必要な社会的援助と教養ある関心だけでなく、時間と経済的手段の観点からもまた理解され得る。これは、この考察全体を通して示唆されるように、教育、社会サービスの提供、社会保護の公共システムの現在の様式に対して膨大な意味合いを持つ。

 

[9] 霊的ハイラーキーは、自己統御を通して人間の進化の全分野における統御を達成した人類メンバーの集まりである。知恵のマスター大師)として知られるハイラーキーの長老格のメンバーは、この惑星の聖なる計画の管理者であり、政治、宗教、教育、化学、哲学、心理学及び経済など世界の取り組みの全主要分野における弟子たちを通して舞台裏から従事している。今の時代におけるハイラーキーの行動の傑出した劇的な特徴は、外界活動への復帰のための準備過程にある。自然界の新王国である第五王国または魂の王国の出現が現在地球に突如起こっており、大師方の様々なアシュラムが外面化され、公に知られるようになると同時に、それは人類のための新時代を特徴付けるであろう。我々の惑星ハイラーキーの性質と活動については、アリス・ベイリーを通してマスターD.K.によって書かれ、ルーシス・トラストから出版された以下の著書を特に参照:イニシエーションInitiation, Human and Solar, 1922);キリストの出現The Reappearance of the Christ, 1948);ハイラーキーの出現The Externalisation of the Hierarchy, 1957)。

 

Mohammed MesbahiはSTWRの創始者である。

編集協力:アダム・パーソンズ

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