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世界人権宣言第25条を布告する:人々の世界変革のための戦略

Mohammed Sofiane Mesbahi
2015年7月30日

長年の政治的怠慢の末、一般大衆の良識だけが、すべての国での断続する壮大な抗議デモを通して豊かな世界のなかの貧困を根絶することができるのです。従って、すべての人に十分な食糧、住居、医療、社会保障をもたらすために、長期に渡って合意されて来た、世界人選宣言第25条の人権を共に布告することにより抵抗最小限の道を選びましょう。それが、資源を再分配し、グローバル経済を再構築するよう政府を駆り立てるための最も確かな道であると、モハメッド・メスバヒは記します。

パート1:政府の失敗

パート2:理論的根拠についての手短な記述

パート3:環境問題

パート4:ハートを従事させる

パート5:新たな地球のための教育

注釈


パート1:政府の失敗

「すべての人は、衣食住、医療および必要な社会的施設等により、自己および家族の健康および福祉に十分な生活水準を保持する権利ならびに失業、疾病、心身障害、配偶者の死亡、老齢その他の不可抗力による生活不能の場合は、保障を受ける権利を有する」− UDHR 世界人権宣言第25条
 

今日の人類の最大の希望のひとつは、私たちの大変多くの難解な問題の解決の鍵を握る、世界人権宣言第25条のささやかな条項すべての人のために実現することにあります。この考察シリーズのなかで繰り返し主張されてきたように、第25条が各国の基礎的法律および指導的原理となることが不可欠ながらも、それは最富裕国および最貧困国双方の現状からかけ離れています。第25条の基本的要求が、国際関係およびグローバル発展の将来の方向性にとって遠大な意味をもつことから、特に若者が、第25条を抗議デモのスローガン、目標およびヴィジョンとして取り入れることが奨励されます。政府が歪んだ優先項目を再調整し、最終的に分かち合いの原理を世界情勢に実現するまで、今こそ、万人の十分な食糧、住居、医療および社会保障のために、長期に渡って合意されてきた第25条の権利を支持する、止むことのない大規模なデモンストレーションを世界中で開始する時です。 

しかしながら、高度に複雑で合理化された社会のなかでのそのように単純な手引きは、止むことのない反対尋問や反論にあいがちです。従って、正しい人間関係に基づいた公正で持続可能な平和的世界への道を照らしだすために、第25条の可能性を多くの角度から考察せねばなりません。人類の問題への解決策がもし本当にそのように単純ながらも問題自体が非常に根深く複雑なら、明らかに、これらの問題を違った種類のエネルギーと知覚を持って新たに見直す必要があります。人間のマインドは強く条件付けられ過去の間違った教育方法によって誤り導かれてきたため、シンプルな真実を把握するためには内面的に自由で執着心を持たないこと、あるいは少なくとも、良識と生来の霊的認識力を抑圧し続ける「主義」や分裂的イデオロギーから自由であることを必要とします。

従って、そのように新たな注意を伴った姿勢で、世界中の政府の最優先事項として第25条の普遍的人権を完全に実現することの意味合いを考察してみましょう。社会的、経済的および政治的観点からだけでなく、人間の成長と霊的進化の見地から、貧困を根絶し適切な生活水準を全人類に保障することはどのような効果をもたらすのでしょうか。第25条を優先することが、環境劣化やグローバル紛争などの相互連結したすべての世界危機の解決へとどのように繋がるのでしょうか。すなわち、人間の必要に見合った規模で政府が断固として行動するまで、なぜ来る日も来る日も平和的抗議デモのなかでこれらの基本的権利を支持するために何百万人という一般人が集結すべきなのでしょうか。手短に言うと、地球救出のためのすべての答えがこの一連の最も基本的な要求から急速に生じるだろうことを認識し、世界変革のための普遍的な戦略として第25条を提唱することによって、私たちは諸々の戦術を変えるべきではないのでしょうか。

これらの重要な疑問を考察する前に、なぜすべての国の政府が、社会的、経済的人権の完全な実現を保障できず、まさに何億もの人々を必需品への十分なアクセスがないまま放置しているのかを認識せざるを得ません。世界の利用可能な莫大量の富と資源を考慮すると、政府は適切な生活水準へのアクセスを万人に保障出来るはずです。既に様々なスカンジナビアの福祉国や他の高所得国が最高事例となっているように、第25条に包括される人権は20世紀中多くの富裕国において相当な割合で実現されました。多くの最先進国で以前からの社会保護の保障が取り除かれたり徐々に廃止されると同時に、貧困国の人口の大多数のためにそのような権利が存在したことはかつて殆どありませんでした。

広範囲に及ぶ文献がこの状況の複雑な理由を考察しています。その直接的原因はやや露骨に理解され得るのですが。なぜなら殆どの国のリーダーは、万人の基本的ニーズを優先する代わりにむしろ大企業との契約をより多く組むためか、あるいは経済成長を最優先するために役職に就いているからです。「人類家族全員の平等な奪うことの出来ない権利」を実現するため他の政党と協力し合う代わりに、全犠牲を払ってまで権力にしがみつく傍ら、グローバル化された取引による国家の利益や商機に何よりも関心のある「政治的会計士」としてこれらのリーダーを考慮出来るでしょう。

従って、可能な限り率直に幅広く世界問題を考察するために第25条万人に保障することの最大の障害のひとつは政府の誤り導かれた優先項目と容赦ない利益主導型の事業活動の有害な営みであるということに、私たちは注意を払うかもしれません。これらのグローバルなマニーメーキングの実体が、「合法的な盗みと破壊」と呼ばれるべき専門技能を発達させて来たところの、極貧困層や恵まれない民間人の人権に対しての多国間企業の無関心を列挙した無数の市民社会のレポートや本が書かれています。これは例えば、ある国の人々が所有する土地やその他の絶対不可欠な資源の着服や低賃金労働者からの搾取、あるいは単に租税義務の回避などを必然的に伴うかもしれません。

そして巨大企業が多くの政府より権力を持つ世界で、何千もの事業契約が危機にさらされる可能性がある時、政治的代表者に第25条を考慮する余裕などないのです。確実に、今日の世界のリーダーの真のアドバイザーは率直な指針を持つ第25条ではなく、むしろどの国であろうとその政府の政策を以前にも増して指図する商業化勢力です。例え政府や政治家が万人と国の共益のために仕えようとしても、いずれは強力な企業のロビー団体や金融利益が彼らを反対方向へ押しやるのです。そして善意の政治家が世界を変革しようとする過程において、やがて世界が彼を変革することは間違いないのです。利益、特権及び競争的な私欲など昔ながらのやり方に基づいた有害なシステムの純然たるパワーによって。

政府の歪んだ優先項目が、第25条の権限でなく覇権的目的や経済的優位性への攻撃的な追及によって外交政策が根本的に推進される国際レベルで最も目立っています。国家間の取引は強国が弱国を支配しようとする衝動に永続的に基づいており、それは同じく世界情勢の陣道を大部分決定するそれらの富裕国の地政学的戦略によって調整されています。もし世界中の何百万というすべての利益性の高い事業契約を追及することが出来たなら、国際的図式を定義付けるすべての主要な緊張と紛争の源を私たちは理解出来るでしょう。一国がアフリカからの分け前の一部を欲しがり、もう一国が南アメリカからの分け前の一部を欲しがり、そして他がアジアや中東のどこかにあるエネルギー資産の権利のために競争するなど、常に競い合う政府の間に不信の種を蒔きグローバル戦争を扇動しています。従って、憲法や国際法に謳われる高尚な価値感を各国が公言しながらも、ついで公益のために実際に貢献し、そして援助し仕える代わりに、他国から搾取し奪い取り続ける外交政策における、つまりは傲慢さと二枚舌ということです。

国連の発足以来、第25条実現の失敗とアメリカの外交政策の間には明らかな関係があります。なぜならそれは、アメリカの横暴で利己的な野望がへつらう同盟国と追従者によって従来通り支持され、世界中で、大変多くの戦争と大変多くの破壊の原因となってきたからです。ペンタゴン、C.I.A.およびその他の米国諜報機関のグローバル計略や秘密の策動は、実際多くの最貧困国や紛争で溢れる国々における第25条の間接的否定の実例です。それにもかかわらず全体としての世界政治は、一般的に国益や国家安全保障など、一見して正当な名目のもとに潜む偶発的な貧困創造のための無限の探求フィールドのようです。公式な証拠資料や政策上のレトリックによってなにが巧妙に述べられようと、「外交政策」という言葉さえが極端な富の不平等の世界のなかでは分離と不正義を意味し、正しい人間関係の対極を象徴しています。誠に、自己利益の原理によって臆面もなく支配される不平等な世界では、異なった国の人々の間に、あるいは彼らを代表する政府の間に、正しい関係に基づいた外交政策がひとつとして存在しないのです。

従って、国内及び海外双方の政府が権力の座を保てる唯一の方法が大企業や有力な個人的利害関係者を優先することである時、貧困の根絶と第25条の人権の確保に携わっていると公言する彼らを信じるなら浅はかというものです。多くの場合、まさに最貧困者やコミュニティにとって破壊的結果を伴う多国間企業の土地の着服、天然資源の搾取、そして不可欠な公共サービスの民営化のための契約に政府がサインし続ける一方で、もし表面上、不必要な人間の剥奪の存在を根絶するための国際会議が国家のリーダーたちによって招集されるなら、それは実際には偽善行為です。持続可能な開発目標への最新の誓約に謳われている通り、それは2030年までにいわゆる「極」貧を完全に根絶させるための無難で道徳的な熱望かもしれませんが、世界のリーダーたちが最貧困層を向上させるというような無駄な約束をしたのはこれが初めてではありません。適切に言うと、官僚や政策立案者の最良の意図を持ってしても、商業化パラダイムの状況下ではそのような熱望のどのような達成も更に不可能であり続けるでしょう。

貧困を根絶し、この地球にバランスをもたらす唯一の方法は、人類がどれだけ長い間この永続する義務を無視して来たかということに関係なく、世界資源を分かち合うためにグローバル経済を協調的に組織立て、そこから必要とされるところへ富を分配することです。急速に増加する人口の中で根強く永続する極貧の圧倒的規模を考慮すると、何度繰り返しても決して十分ではないふたつの原理に基づき、最も不利な立場に置かれ追い詰められた国々へ資源を大規模に再分配することなくして、世界の善意の真の表現はあり得ません。そのふたつの原理とは、経済的分かち合いと(今までのところ殆ど目撃されていませんが)真の国際協力です。

毎年決定的一年が過ぎるごとに、次のグローバル経済危機に私たちが遭遇するかしないかに関係なく、回避可能な貧困関連の原因から何百万の人々が死んで行かねばならないのでしょうか。そして一体どうしたら世界の最も裕福な政府は、緊急援助と食べ物を酷く必要とする何百万人という貧困者と余剰食糧や他の物資を分かち合うのでしょうか。それは資金不足の人道機関への大幅な追加的財政の転用と、「他の」目的のために常時待機する軍人や設備の使用を必然的に伴うかもしれませんが、政府、企業、富裕者、そして民間機関の何時でも自由になるお金のほんの僅かで確実に達成可能でしょう。

しかし分かち合いの常識が経済関係を統制するようになるまでは、十分に養うことの出来ない9人の子供と広大なスラムあるいは貧しい村に住み、そのような家族が極貧に落ちることを防ぐという政府の固い誓いや発展目標に頼ることの出来ない何人にも神の御加護があらんことを願います。従って第25条は、世界的貧困の根絶についての国際会議の間、政治家が彼らの脇に発見するであろう苦痛の種なのです。そして彼らが支配的な商業化パラダイムを追い続ける限り、10年か15年毎に同じ会議が繰り返されることが予測出来ます。その間、人類が生き残ることが出来ればの話ですが。

更に、私たちの社会と文化にチャリティの考え方が普及している限り、政府が飢餓と貧困の根本原因の取り組みに成功できると信じるなら、貧困者と同様に私たちも自分たちを欺いているのです。この豊かな惑星で私たちの間の最も恵まれない人々を生存するだけのために苦戦させたまま放置する一方、国家が自国民の慈悲を巧みに操作した結果でないなら、チャリティとは実際何でしょうか。最も包括的観点から、健康や良い生活状態の適切な提供を保証する手段が万人に容易に与えられ得るだろう今日、物質的、経済的に豊かな世界の中でチャリティの存在自体がどのように尊厳を欠いているかを観察できます。議論の余地はあるにしても、貧困者の経済不安への政府の歴史的無関心が何世紀もかけてチャリティの存在を生じさせたのであり、その意味ではチャリティそのものが真の分かち合い、結束や愛からでなく社会的不公正から生まれ出たということです。世界のすべての国で第25条に要約された人権が何千年か前に既に確立されていたなら、チャリティが存在することになっていたかどうか私たちは不思議に思うかもしれません。

しかしながら科学とテクノロジーにおける人類の全進歩にもかかわらず、正しい人間関係を具現化するために利用可能な唯一の確立された国際システムは、市民社会組織によって長い間認識されてきたように、自己利益と利益追求により常に劣化させられてきた海外「開発援助」による自発的寄付です。この視点からまず第一に、余剰食糧やその他の資源が富裕国によって蓄積されるのでなく、最初から常に正しく分かち合われているべきだったため、「人道援助」を与えるという考え自体が国々という家族としての私たちの共通性に対してどのような侮辱であるかも同様に観察できます。もし火星や金星からの人々が私たち地球人を助けてくれているとしたなら、惑星的視点から人道援助について話すことは理にかなっているかもしれません。しかし人類は、万人の基本的ニーズが無条件に(そして永久に)充足されることを保証する生産物と能力を常に授けられてきたひとつの相互依存する家族なのです。もし私たち自身の子供たちが餓死しかけており、私たちが毎日何げに楽しんでいる蓄えの僅かを彼らと分かち合ったとしたら、私たちはその行動を人道援助と呼んでいるでしょうか。そしてその後良い慈善家として自己を賞賛しているでしょうか。それとも、自分たちが慈善行為をしているという考えなしに子供たちの命と幸福だけを考え、謙虚な愛の行為から無条件で即時に彼らを助けているでしょうか。

認識及び慈悲を持ってこの疑問を見ることは、「人道援助」という言葉自体がどのように心理的に無意味で馬鹿げているかをあらわにし、そしてそれは人類がどのようにこれ程分裂し頽廃したかについて知るべきことすべてを物語っているのです。例えば、富裕国と貧困国の間の生活水準の純然たる格差を維持する蔓延る不正と制度化された窃盗の中で、海外の極貧者へ輸送される余剰生産物の積荷に「米国の外国援助」などの表現を使うことがいかに傲慢で下劣なことでしょうか。発展途上国の労働力と天然資源を通常通り食い物にする不正な経済活動を通して、そのような富裕国がまず最初にどのようにして余剰の生産物を溜め込むかを私たちは以前記述しました。そして、富裕国がつくり出す貧困をまたそれ自体が軽減することを支援するために、これらの不正利益のほんの僅かを再分配するのです。それを彼らは人道援助と呼ぶのです。特に、生活必需品を万人の利益のためにアクセス可能にすべきであることに(誠に、第25条に明確に説明されているように)政府が長期に渡って合意して来たが故に、この言葉がどのように善意と謙虚さの真の意味に反しているかを私たちは理解出来るでしょうか。愛の心理的認識内から「人道援助」というようなものは存在せず、従って、もし社会が始めから良識と正しい人間関係に基づいているとしたなら、チャリティという言葉と同等であるそのようなフレーズは決して存在するに至らなったでしょう。

政治家にすべてやってもらうことを期待し、そのような人道援助などの問題を彼らに丸投げした状態でいることが習慣となっている私たちが、意味を深く考えないままこの援助という言葉を受け入れているのはもっともなことかもしれません。しかし最貧困者と最貧国を食い物にし続ける一方、貧困の根絶に携わっていると公言する政府の二枚舌をもし理解できるなら、それは恐らく私たちが目を覚まし彼らに問う時です。足りない部分はどこにあるのか?豊かな世界の中で飢餓から人が死んで行くのを止めるための愛、思いやり、良識はどこにあるのか?恐らく私たちは皆で貧困の根絶に関する政府のサミットや秘密会議に押し入り、政治的代表者たちに一同に問うべきです。「もし本当に貧困者を助ける気があるなら、拘束力のない開発目標を定めることや不充分な外国援助を再分配するだけの代わりに、なぜすべての国の間でより平等に世界資源を分かち合わないのか?」

そしてもし飢餓の不正を二度と起こさないために、その根絶に私たちが一般人として真に関心があるなら、次いで同じ疑問を自己に問うべきです。何が欠けているのか?永続する絶望的な貧窮状態で生活する人々の基本的な権利を守るための思いやり、慈悲、関心はどこにあるのか?私たちを代表して貧困国へ更なる援助を送るよう政治家に圧力をかけることが充分なのか、それとも、同胞への愛が政府の面前に出て次のように言うことを私たちに余儀なくさせるのでしょうか。「この恥ずべき状況の存続は不可能です。あなたがたの最優先事項として、私たちの飢えた兄弟姉妹を救う時です!」どのような教育と条件付けがこのような事態を私たちに受け入れるようにさせ、そして私たちが世界の政府に要求することを何が止めているのでしょうか。欠けた部分はどこにあるのか?

チャリティと外国援助への私たちの根深い堕落的な態度の結果として、社会問題を改善し、貧困者を助けることに真剣に取り組んでいるチャリティ自体が政治的にならざる得なくなり、その結果、政府の政策や貧困の原因を更に永続させる企業の活動に対立することになるのです。あるいは、善意団体や民間人によってチャリティにエネルギーが投じられれば投じられる程、政府は緊急の問題として飢餓者に食糧を与える代わりに更なる戦争兵器を生産するなど、歪曲した有害な優先項目を追求し続けることが出来るのです。

筆者が繰り返し認めて来たように、酷く不平等な社会秩序の中で有難くも大部分が善の勢力であるチャリティの尊ぶべき必要性を疑問視する意図はここには何もありません。今日の上昇する人口レベルにもかかわらず万人が利用出来る十二分の資源を持つ世界の中で、真の分かち合いや正義でなくチャリティの手段を通していつの日か貧困を根絶することを固く誓う政府の馬鹿さ加減を、むしろ包括的に観察しようと試みているのです。いつの日か歴史を振り返り、必然的で最終的に不必要な、そして政治的無関心や公衆の自己満足的な無頓着さの副産物である21世紀のチャリティの存在の本当の姿を、私たちが理解するであろうことを願います。

 

*

 

混乱し道徳的に破綻した政治家を伴う機能不全社会において繁栄、経済成長、そして第25条の意味との間に存在する関係について熟考することは有益です。比較的裕福な生活様式を持つ少数派の特権的国々の間で、大部分が忍び難い貧困の中生活する人口を抱えた多くの国が存在する世界で繁栄するとはどういうことでしょうか。

皆が非常に「繁栄」している町を想像して下さい。そこでは大きな倉庫で余剰食品が腐り果て、ゴミ捨て場には高価な廃棄物がばら撒かれています。それにもかかわらず隣町は非常に貧しく、第25条で規定されているような健康と幸福のための適切な生活水準の権利を全員に保証するための十分な資源さえ持ちません。その地平線に潜む貧窮と悲惨さにもかかわらず、その裕福な町の市長が彼らの高レベルな経済成長と繁栄を誇らしげに称賛することは理にかなうのでしょうか。もし市長が町の資源を隣町と分かち合うことを決断しないなら、早かれ遅かれ何らかの形で隣町は彼らのところへやって来るでしょう。貧困にあえぐ町の猫や犬さえがどのような必要手段を使ってでも裕福な町にかじりつこうとするでしょう。このような比喩を世界情勢に適用することの極度の単純さは別として、海外の大多数派である貧困層が苦しむ剥奪に対して比較的無関心なまま最富裕国が生活するところにおいて、国際的または地域的な基盤で種々の国々がどのようにお互いを関連付けているかということからそれはそんなに違っているのでしょうか。

従って、テレビで政治家や経済学者によって余りに頻繁に繰り返される「繁栄」や「経済成長」などの欺瞞的で醜い低俗な言葉に対して私たちは心理上意識的であるべきです。人口増加及び貧困レベルが急速に上昇し、環境が絶え間なく破壊、略奪され、そして気候変動が既に何百万という貧しい家族に大混乱と破壊をもたらせているこの不幸な世界で、すべての国で繁栄が平等に分かち合われない限り、それがどのように危険以外のものであり、無秩序の原因以外のものであり得るのでしょうか。今日の極端な世界的不平等の現実の中で、これらの言葉がどのように醜く低俗で馬鹿げたもの以外であり得るのでしょうか。そして不必要な貧困から何百万という人々が死ぬのを許し、その他何百万もの人々に対して十分な栄養価の高い食物、きれいな水、適切な住居、または彼らを生かし健康に保つための基本的形態の医療を拒む世界で、それらの言葉がどのように意味を成し得るのでしょうか。

政治的指導者たちは国民の繁栄と成功を望んでいるのだと当然のごとく公言するかもしれませんが、世界が致死性ウイルスに感染している時、一国内だけでどのように繁栄が達成され得るのでしょうか。それはエボラではなく、他人を犠牲にしてまで成功するようあなたを条件付けるだけでなく、あなたも人類の集団的傲慢と無関心の一部となるまで、より恵まれない人々に対して優越感を持つようになるようあなたに影響を及ぼす、社会に横行する商業化勢力と呼ばれる伝染病なのです。私たちが「システム」と呼ぶものは現在、富や成功の自己本位な追求に大変深く影響されており、従って他国のより恵まれない人々だけでなく、自国の貧困者への憎しみとして露骨に要約される思想の新たな波をもまた作り出しているのです。

従って、商業化勢力におおよそ完全に影を落とされ混乱し、断片化された社会による終わりなき経済成長の追求は危険です。このような状況下でのこのような成長は、更なる分裂、無秩序、哀しみ、そして究極的に暴力をもたらすだけです。現代のすべての偽りの宣伝活動やマインドの条件付けの下での経済成長の近視眼的追求は、民間人と国家の間の拡張する分離を表しており、「富裕者を更に豊かにし、貧困者たちのど真ん中に更に億万長者をつくりだそう」ということを本当は意味します。このような状況下での経済成長は大企業のための私営の会計事務に等しく、その意味は豊かな世界でのチャリティの概念と同じように心理的観点から見て馬鹿げています。

故に、健康的、公正または持続可能な経済ではなく「商業化の成長」を暗示するこの言葉を使い続けることは政治家にとって重大な誤りです。ますます不公平で分裂して行く社会の中で、それは何のための経済成長なのでしょうか。多くの国々が今日程の負債を抱えていなかった近い過去においてさえ、貧困国と同様に富裕国でも広範囲な貧困と飢餓があったのです。従って、私たちは政治的代表者にこう問うべきではないでしょうか:何の目的のための、誰の利益のための経済成長なのか?計り知れない苦しみと大混乱を起こし、現在迅速にそれ自体の中で溶け崩れて行っているシステムのためでしょうか?

商業化勢力に議題を乗っ取られることを許している間は、経済成長についてなんら意味のある話をできる政治家はいません。最も包括的で立派な意図を持つ政治的指導者であっても、彼らの近視眼的目標が「更なる雇用をつくる」ためであるかないかにかかわらず、現在のシステムの更なる成長を促進することによって危険と結果的な大惨事を更に扇動するでしょう。私たちは政治家たちに再び問うべきです。どのような目的のための、そして誰の利益のための雇用なのか?霊的、道徳的、そして経済的に打ちひしがれた人々の真っ只中に巨大なカジノ、私営のショッピングモール、贅沢なマンション、そして更なる兵器工場を建てる目的のためでしょうか?そして法に基づき使い捨ての労働者へ最低賃金を支払う億万長者の利益のためでしょうか?

世界全体のニーズを網羅するために自国だけの懸念を越えたところまで私たちの焦点が拡大する必要がありますが、 分かち合いの原理に基づいた新たな経済的取り決めを通じてのみ、私たちは経済成長とまともな雇用創出について何らかの意味ある話を出来るのです。それは、生存に必要な十分な食糧と他の不可欠な資源を剥奪されている人々に対処することから開始し、最貧困者の緊急なニーズの即刻確保へ政府が優先事項を向け直すと共に、すべての国の間での資源のより公平な再分配を保証出来る改革されたグローバル統治システムを管理するよう政治的指導者を即時に義務付けるでしょう。

どの国であろうと、もしその政府が自国民のニーズを満たすことに真に関心があるなら、国家の聖書として第25条を通して働き掛けることによってのみ、恐らく彼らは経済成長について賢明に話すことができるでしょう。その場合、富、資源、経済的機会が国民の間で公平に分かち合われることを保証するために、政府は経済を再構築せねばならないでしょう。資源のより公平な分配を保証するための前提は、社会のすべての側面から商業化の爪を取り除き、政府の支出の優先項目を兵器やその他の有害な企業の補助金から向け直すことです。同時に、経済活動の指針となる原理が、尊厳のある生活のために必需品を万人へ永続的に保証することであるなら、目立った無駄な消費を通して環境を劣化し続けることはこれ以上できません。もはや、すべての耐久性の限界を超え無理強いされることのない、健全で自己再生する生物園内でのみ唯一経済が維持され得る時、これがわかりきった常識的論議だとまともな政治家なら現在同意するに違いありません。

しかし例えより啓蒙された国家が第25条を尊び、自国民の間で、公平で均等のとれた持続可能な資源の分配に最大の努力を投じたとしても、他国の問題から切り離されたままでいようとする限り彼らの幸せと繁栄は長続きしないでしょう。近隣同士の繁栄する町と貧しい町の比喩をもう一度思い出してみると、懲罰的移民規制と国家の安全機構の障壁があろうとなかろうと、可能な限りの手段を使って国境を超えて入って来ようとする遠方からの貧困者によって、国家内の資源を正しく分かち合う国が悩まされるのは時間の問題です。

貪欲、利己主義及び窃盗が金融経済活動の背後の推進力となる、私たちの分割されながらも経済的に融合された世界で健全な社会などあり得ません。第25条を完全に実現する手段をすべての国が持つ傍ら、一国のみが抑制されない商業化の道を追求する代わりに第25条を完全に実現するともし仮定するなら、ついでそれは、集合的に富を貯蓄し分かち合うその国以外すべての国に非があるという意味ではありません。それは人類全体に非があるという意味です。なぜなら、人類は本質的にひとつであり、あるいは私たちが「生命または「と呼ぶものの目から見るとひとつであるからです。私たちはひとつの霊的進化の中のひとつの人類という家族です。それは厳密には宗教的または「ニューエイジ」的見解ではなく多数の化学的研究分野で徐々に理解されていっている永遠の真実です。世界のすべての国はグローバルな取引、旅行及びコミュニケーションを通じて物質的、または外界的な意味だけで相互連結しているのではなく、鉱物王国から非肉体的及び最も高次な霊的王国まで、プラネット・アースで生きる全生物と私たちが分かち合うひとつの生命の視点からエネルギー的、主観的に相互連結しているのです。

先住民の宇宙論と同様に、古代の知恵の教えの研究を通して直感的に体得または認識され得る私たちの存在についてのこの超越的及び啓示的理解から、どのように人類が、一定の部分ばかりに気を配る一方で他の部分をおろそかにすることなく全体として大事にされねばならない肉体のようなものかということがわかります。もし人体の一方が良く機能しているけれどもう片方がおろそかにされ病んでいるなら、ひいては病がその人の全体の健康と幸福を確実に蝕むでしょう。同じように、特に商業化が非常な速度で激化し、社会と環境のどちらもその重圧にこれ以上耐えることの出来ない世界で、一国たりとも他の国々から分離したまま居続けることは不可能なのです。

それが、この惑星的な危機及び過渡期の時代における政策立案のパラドックスなのです。善行がすべての国で同時に、そして絶対的に成就されねばならない時、孤立して自国のためになることをする贅沢な余裕のある政治家はいないのです。すなわち、一国で成せぬことも、協力と分かち合いを通してすべての国が共同で成し得るのです。世界問題からの脱出戦略は他にあらず、従って政府の準備の有無に関わらず、それは緊急に達成されねばならないのです。さもなければ、間もなく私たち全員に終わりが来るかもしれません。190カ国以上あるうち一国だけがこの世界で第25条を完全に実施することは、その一国を「人類」と呼び残りを無視しない限りあり得ないのです。唯一ひとつの人類のみが存在する故、全体を分割することは出来ないのです。

魂の反映である個性の中で人生の目的を成し遂げることが許されないなら、世界資源を分かち合い、万人の根本的権利を実現する理由が他にあるのでしょうか。 それは、多くの生涯を経て自己本位、無知、混乱の混合によってどれだけ世界の善意や正しい人間関係について私たちの理解が堕落していようと、これまで常にそうであったしそうあり続けるであろう私たちの人生のより深い現実なのです。もし人類が私たちの真の姿の現れとして真の霊的資質の中でいつか結束することを望むなら、活動家、活動的市民、そして私たちの政治的代表者たちが世界のすべての国で、そしてすべての政府の主要な優先事項として、第25条が包括的に保証されるよう要求することは絶対不可欠です。国益のためだけでなく世界のすべての人々の利益のためにもまた同様に声を上げる時が来ました。既に基本的ニーズが満たされ恵まれた市民は恵まれない多くのグループに同情し、私たちの共通目標として第25条と分かち合いの原理を布告すべきです。

北アメリカ、西ヨーロッパ、オーストラリア、そして世界のその他の豊かな地域のすべての人々は、次の疑問を自己に問うために一時停止すべきです。私にとって当たり前の基本的資源へのアクセスを持たない他の人々はどうなのか? 自国だけでなく海外の貧困の中で生活する何百万人について政治家も同様に用いるべき言葉があります。他の人々はどうなるのか?そのような自問行為の結果、少なくとも自国の余剰資源を分かち合い、そして世界のすべての人々が貧困から自由となる永続的目標を満たすために、政府が他国と取り組むことを私たちは要求する気になるでしょう。 それが、「慈善寄付」、「人道援助」、「外交政策」または「国益」についての現代の観念と併せて「不法移民」についての考え自体が世界の機能の仕方への何人の理解に対しても最終的に逆となるまで、一国が25条と分かち合いの原理の同盟者となる時なのです。

 


パート2:理論的根拠についての手短な記述

前述の方向性に沿った理由付けに続いて、政府の誤った優先事項から多国間企業の純然たる無関心、外交政策の目的の強欲さと非人間性、そして正義の座に根を張ったチャリティ志向まで、すべての国における第25条の永続的な完全実現を妨げる多くの複雑な要因を私たちは容易に理解出来るかもしれません。基本的ニーズの確保を例外なく全ての男女子供に保証することによる想像外の結果にもまた私たちは気付き始めるかもしれません。それは、第25条を布告することがなぜ、世界を救出し再建するための実行可能な戦略であるのかという多くの理由を理論的に理解するために熟考を必要とします。

もしすべての政府が国連とその関連機関を通じて機能し、回避可能な貧困が原因で死亡する人々の道徳的屈辱を緊急に止めるための努力の中で融合するなら、既に力説したように、万人の社会的、経済的人権を保証するために必要なお金と資源はいつでも比較的短時間で利用可能だったのです。しかし最富裕国の政策でさえ国内での相対的貧困層のニーズを僅か最小限に反映するのみであり、従って他国の最も排除され疎かにされた貧困者の利益に貢献することは更に少なく、回避され得る莫大な死者数を日々生み出しています。

世界の指導者たちが戦争のために僅か数週間で集結し同盟国を募ることが出来るにもかかわらず、世界の飢餓者と貧困者の援助のためには十分な同盟国を募ることが決して出来ないのは何と驚くべきことでしょう。この堪え難い状況を改善するために存在した唯一適切な国際的対応は、飢餓と絶対的貧困を決定的に根絶するために経済的分かち合いの緊急プログラムを提案した1980年のブラント委員会報告に表されました。しかしこれは歴史的資料の中に埋もれ忘れさられてしまっているのですが。

長年の政治的怠慢の後、一般人の集結した善意だけが世界情勢に道徳観と正常さをもたらし、すべての国での大規模で断続的な公衆の抗議デモを通して政府の優先項目の再調整をもたらすことが出来るのです。唯一結束した世界の人々が、第25条の実現のために協力するよう国家を駆り立てることが出来るのであり、恐らくその時初めて、更なる生命を犠牲にすることや奪うことよりむしろ大規模な生命救出のために必要とされる同盟国と軍事資源を召集するであろう、望ましい政治家たちが指導的立場に立つのを私たちは目撃するでしょう。恐らくその時初めて、一般市民によって権限を与えられた政治的指導者が、彼らの善意ある懸念の後に続かない限り役職についていられなくなるまで、全革新的活動家が欲する公衆の大規模な積極的参加を私たちは目撃するでしょう。私たちの中の最も恵まれない人々へのそのような異例の世界的慈悲の噴出を通して、恐らくその時初めて、高価なスーツとネクタイを纏った権力的な外交官を装いトップの仕事を保つことにしか関心のない政治的会計士の役柄はもはやなくなるでしょう。

世界中でことごとく起こっている貧困の不正について私たちが考察しているのだということを忘れないようにしましょう。そしてそれは毎週アフリカで飢餓から2、3人が死んでいるということではなく、貧困関連の原因から毎少なくとも4万人が死んでおり、その多くは中間所得国で起こり、その大部分が回避可能であることが知られています。これらの悲惨にも疎かにされた人々を救助するために適切な規模で何も行われない傍ら、貧困と栄養失調に関する毎年恒例の無駄話を行う世界会議をあとどれだけの間私たちは目撃したいのでしょうか。過去4、50年間のそのような定期的ハイレベル・サミットを組織するために費やされた何百万ドルという全てが、代わりにそのような生命の多くを救うために既に使われていることが可能だったであろうことは確実ではないでしょうか。その一方で第25条の人権を当然とする私たち特権的少数派は、自国の余剰資源を最も緊急に必要とされるところへ再分配することを政府へ要求する代わりに、世界の食糧やその他の必需品を過剰消費し無駄にし続けるのです。私たちのほんの僅かな配慮さえも値しないかのように永続する残虐行為に対して、私たちの道義心を揺り起こすにはあといくつのブラント報告書が必要とされるのでしょうか。

 

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それでは私たちの異議はさておき、政府が第25条を実施するよう人々の意志によって著しく駆り立てられたと想像し、そしてそこからこの確実に達成可能な目標を成就することの劇的な意味合いを考察してみましょう。不可欠な資源がより平等に分配され万人が公共サービスを利用出来るように経済が構造化されない限り、必要不可欠な生活必需品やサービスを持って尊厳の中で皆が生活することは明らかに実行不可能です。しかしそのような常識的理解は、個人的利益や大企業の利益の可能性を推進する法律や制度の発足へと導く、主流の政治的意見を支配する市場勢力イデオロギーと相いれません。
 

では、第25条がもしすべての国の政府の最優先事項となるなら、社会の基礎を成すこれらの企業の傘下に置かれた規則や機関にとって結果はどのようなものとなるでしょうか。特に商業化勢力がもたらした影響の下では第25条がおおよそ無価値であることを考慮する時、その影響は疑いなく社会的、経済的、政治的に改革的なものとなるでしょう。例えば、世界で人々が餓死しているかたわら、企業によるみだりな土地の剥奪、食糧への投機、そして余剰農産物の溜め込みや破壊はもはや許されないでしょう。そして国家の資源の組織化された分かち合いを通じて万人のニーズを満たすことに政治家が真に関心を持つなら、公共サービスの商業化による経済成長や企業利益を優先することはもはや出来ないでしょう。一定時間の経過後、排他的に利益追求を促進する多くの複雑な法律が覆されるかまたは著しく改革され、真に道徳的で公平な新法律がつくられねばならないでしょう。そうすることにより、世界情勢の中で人の善意が繁栄出来るようにするのです。

誠に、もし国家の法律や政策の背後にある第一の動機が第25条の権利を守ることであるなら、ひいては既存のグローバル貿易協定が本質的に偏っており不当であることがまもなく明らかになるでしょう。もし私がすべての政府の決定を特徴付ける基礎的な法律として第25条を確立した貧困国の大統領だと想像するなら、その法律が真っ先に、すべての家族が十分に食し困らないことを保証するよう私に義務付けることは大変容易に理解され得ます。その場合、遠方の都市や外国の裕福な消費者の利益のためだけに、自国の最も貧しい農家や労働者が自分たちの商品を安価で輸出することにより食い物にされることを私は許せません。その農家がまず彼ら自身やコミュニティを養うことが出来るように、私は貿易規定の変革を要求せねばならないでしょう。そしてもし第25条が世界世論に支持された国連の監督下にあり、すべての国の法律並びに世界政策の指針の光であるなら、不公平な貿易条件を指図する多国間企業が私を止めることは出来ないのです。

どの方向から見ても、国家の適切な介入や規制を通じて利益、強欲、そして抑えのきかない市場勢力の支配的影響が一度くつがえされるなら、その意味合いは限りなく包括的です。企業の容赦ないロビー活動や合法化された窃盗による利益追求は必然的に譲歩させられ徐々に弱体化させられるでしょう。従って、第25条を実現することは実際に利益主導型企業が直面し得る最悪な敵のひとつなのです。分かち合いの原理を前提とした経済政策を指針として事業活動が違った手段を取り始めると同時に、恐らく富裕国及び貧困国双方の全政府を様々な度合いで蝕んでいる特有の腐敗も時間の経過と共に徐々に減少して行くでしょう。グローバル企業や裕福な個人を第一に代表して機能する代わりに、言うまでもなく共益のために真に仕える国家統治を私たちが心に描くことができるなら、権力に飢える人間が政治的領域へ入り込むどのような動機があり得るでしょうか。

各国での容赦なく断続する壮大な街頭デモの不可抗力的な圧力により、第25条の人権を守るために行動する世界中の政府がもたらす効果を思い浮かべてみて下さい。発展途上国の極貧者が彼らの苦境への公衆の認識の目覚めを大手を振って迎えるであろう傍ら、彼らを助けるための地球資源分配の第一の効果は、害虫の湧いた穴に化学溶液を流し込み、隠れた全ての害虫を日光の中に押し出すのと同じように、政府の腐敗を最も目に見える高みへもたらすものかもしれません。この政治的腐敗が存続し続け抑圧的政治家たちが国民を代表して受け取る援助を乱用する限り、そして責任を負うべき政党が役職から降ろされ交代させられない限り、一般市民の蜂起は確実に起こるでしょう。そしてもし暴力と国家的弾圧によって独裁的指導者たちがまだ更に権力にしがみつくなら、彼らの活動を監視し有罪を示す証拠収集のために国連から代表者が送り込まれることが可能な筈です。戦争を監視するために、または核兵器を探し出すために国連が検査官を送るのとまさに同じように、寄付された援助が意図された目的のために使用されることを、権限を付与された国連機関が保証するよう促進できる筈です。

世界の数々の国への酷い経済的「規範」の強要で厳しい非難を浴びた世界銀行や国際通貨基金など、一般人や貧困者の代表者として機能する義務を遥か昔に放棄した多国間機関にとっての、第25条を実施することによる結果を更に予言することが可能です。第25条が新グローバル経済秩序の設立の基礎になることを考慮すると、より良い世界の開始へ向けて第一ステップとなる大規模な資源の再分配、グローバル・ガバナンスの再構築並びに国際貿易の再規制のプロセスを促進する決定的役割を果たすために、これらの組織は廃止されるかまたは完全に改革されねばならないでしょう。結局のところ、人々の支持なしで生存出来る機関はありません。そして特権的な富裕層や私腹を肥す大国にとって良いことだけでなく、万人のための福利への同等の関心によって特徴付けられる人類文明のより啓蒙的な時代の始まりについて私たちはここで熟考しているのです。

再び多くの角度から分かり易い言葉で考察され得る国際関係や裕福な先進国の外交政策にとって、第25条の実現は分割された今日の世界で明らかに驚くべき革新的効果を持つことでしょう。まず第一に、万人の基本的ニーズの充足に向けて世界の優先項目の徹底的な再調整は、明らかに軍事予算の大幅な削減や軍事活動の急速な縮小を達成することに依存します。これは他のすべての国の支出を縮め続ける米国にとってだけでなく、多くの場合医療、教育または社会福祉より防衛費にますます多額を割り当てている高い貧困率を持つ発展途上国にとっても不可欠です。

更には、特に米国と他のG7加盟国の外交政策が「商業化は人類が生活する上で正しい道である」と事実上世界に吹き込み、多くの発展途上国で第25条への強まる否定の原因となっている傍ら、世界政治がどのように広範囲で経済の分かち合いと真の国際協力とは逆の原理に基づいているかを以前私たちは考察しました。世界情勢の持続不可能な軌道はそれ故、国民国家間の長期的関係にとってこの神聖な第25条を実現することが何を意味するか思い描くよう私たちを駆り立てます。明らかに、アメリカは世界のボスとして振舞うことを止め、グローバル・パワー及び支配の傲慢な追求を続ける代わりに世界の貧困の根絶を先導する目的でその有り余る資源を最終的に活用せねばならないでしょう。ロシアは連合独立国家の真の共和国として平和的に生存し、軍事力と威圧的な国際的影響力を追求する代わりにより大きな地方自治と連動した進展に集中することを学ばねばならないでしょう。同じく中国は、その拡大する経済的主権の保険証書として艦隊や兵器を増大することを止め、世界資源を分かち合うために他国と協力することによって土地グラブ戦略を差し控えねばならないでしょう。

政府間の政治経済関係においてそのような改善を見込むことは並外れて理想主義的に見えるかもしれません。しかし、現在における世界情勢の操作方法が無期限に未来へと存続する中で誰がわざわざ代替的シナリオを熟考するでしょうか。回避不可能とされる非道な報酬目当ての外交政策は、近い将来第3次大戦へと容赦なく至らしめるかもしれません。それは、ますます乏しくなる資源を巡っての激化する競争によるものでないなら、国内及び国家間のますます高まる極端な不平等の結果かもしれません。確実に、より道理をわきまえた政治家や外交官は、国々という家族に間もなく最終的選択が迫るであろうことを悟ります。それは、これらの危険な状況を癒すことにおいて協力し合い分かち合うか、あるいは取り返しのつかない人類の消滅を徐々に目撃するかというものです。

世界中で第25条を実現することによってもたらされる多くの有益な効果を私たちは自分たちで更に予測し、どのように国々が経済を再構築し、絶対不可欠なこの共通目標へ向かって真の協力のもと他国と取り組むよう導かれるかを考察すべきです。70億人以上のすべての子供と大人が十分な食糧、健康、物質的安定を(第26条で規定されるように、無料及び良質の公教育と併せて)保証するという正当な義務を政府が負う時、その過程でその他多くの問題が自動的に解決されることを私たちは発見するかもしれません。これは理論的なことであり、社会的、経済的権利を万人に保証するために、現在のグローバル化時代において明らかに必要とされる国際的に調和のとれた方策から推論出来ます。

食糧、医薬品、工業製品、そして他すべての素材や必需品は勿論のこと、技術、知識、人的資源、組織能力をも含むいつでも利用可能な余剰資源の全目録を作るよう各国が間もなく駆り立てられることでしょう。最貧困国及び最貧困地域へのこれらの資源の大規模な転送は、国連やそのグローバル・ネットワークによるものまたは4、5年の期間、速やかな続行が必要かもしれない短期緊急プログラムを監督するために、特別に設立された新たな国連機関を通して組織されねばならないでしょう。比類のない国際的な再分配プロセスを通して世界の利用可能な、そして不可欠な資源の少なくとも最小限の割り当てが、万人に与えられるというようなプログラムのための政治的意思が近隣の国々を統括するなら、北朝鮮でさえ参加するかもしれません。

飢餓を緩和し、絶対的貧困状態の中で生活するすべての人に即時救済を提供するという最優先目的が一度達成されるなら、すべての国の間でのよりバランスのとれた平等な世界資源の分配を確立するために、国際政治、経済、金融システムの包括的改革は壮大な意義を伴う重要性を担うでしょう。社会保護や公共サービスへの普遍的アクセスを保証出来る国家レベルでの効果的な再分配システムを設けるために、必要とされる適切な取り決めについて既に多くが知られ試みられています。同じように戦後の現代史は、拡大の一途を辿る少数派の富の勢力集中を防止出来る様々な政策と規制を立証しています。しかしながらグローバル基盤で資源の分かち合いの恒久システムを確立するために必要とされるであろう、新たな制度の取り決めや経済活動について今のところ僅か少数の主要な経済学者、投資家、または政治家が考えを巡らせているのみです。従って、開発の全体的な性質と目的を再考する必要性を各国が最終的に理解するなら、国際社会による世界資源の共有と協力的管理を実現することが可能となる前に、研究や意見交換の広範囲なプロセスの必要性を予期せねばなりません。

この高潔な試みの開始時において35年が経過し旧式とはいえ政治的姿勢とグローバル経済活動のための主要な指針として第25条を実現することの意味についての卓越した概要を、そのページの中にいまだ含んだ1980年と1983年のブラント報告の提案を政府が再検討し見直すことは有益でしょう。これらの提案がその時代の正統派経済学的仮説によって制約を受けたことは恐らく間違いなく、従って、今日の相互連結した危機の規模に取り組むには不十分なままです。それにもかかわらず、もしカンクン・サミットが1981年当時に真剣に受け取められていたなら、現在までに社会、そして政治、経済、社会制度の素行を統治する各国内で、第25条は一連の効果的な法律として確立されていたことでしょう。

そのような変革が世界中を通して政府の目標に起こったなら、国連は元来の使命を果たすために世界最高権威として民主的に改革されねばならないでしょう。疑問の余地なく、再構築された国連システムの下でグローバル経済ガバナンスを統一するなどの画期的な課題は、幕開ける21世紀において未解決必須事項として残ります。各国が独自の最も適切なやり方で第25条の法を実現する必要がある一方、グローバル・レベルですべての国がなすべきことの実施方法の不可侵コードとして、これらの法の教義を国家間の総会が監督し強化することを必要とするでしょう。

このようにして本質的に国連は、平和を維持し、弱者を守り、協力的な国際関係を促進するよう加盟国に呼びかける、卓越したグローバル機関として真にその名に恥じないものとなるかもしれません。そしてもしその様々な機関が第25条の基本的権利を万人のために守ることにおいて主要な役割を担う目的で強化されるなら、ひいては世界人権宣言の他のすべての項目が最終的に正当な扱いを受けるかもしれません。従って比喩的な意味で、私たちは人間の尊厳の最高法として第25条を理解するようになるかもしれません。そしてその実現は再び誇りを取り戻した概念としての「人権」の始まりを記すことでしょう。そのような時において国連創設時の展望の美と約束が、なくてはならないその未来の可能性に対して目覚めた理解を持って一般人のハートとマインドの中で新たに認識されるかもしれません。

しかしながらそれは、「私はいまもなお権力者であり、そうあり続けるだろう」というイリュージョン(幻惑)に象徴される過去の競争的で古い国家主義的有り方の残物である安全保障理事会やその不相応な機能や権力とは全く関係ないでしょう。自己利益に関係する時のみ経済的に優勢な国の大統領や首相は国連に従い、自分たちの目的のためにそのシステムをうまく操作しようとします。しかしすべての国の国民全体の利益に関係することになると、あたかも国連の加盟国としての義務がもはや存在しないかのようです。世界のケーキの有望なスライスの大きさによって、決議へ賛成するかあるいは反対する著名な政治的会計士によって代表されるメンバーが所属する、むしろプライベート・クラブのように機能する安全保障理事会は、真の平和や安全の追求には何の関係もないのです。そして国連憲章の第1章に述べられている国連の元来の目的と理念とは対照的に、それはこの時代遅れの理事会の国家安全保障ゲームを特徴付ける、地球資源の最大の取り分を巡ってのあの絶え間ない奪い合いなのです。安全保障理事会は最初から決して設置されるべきではありませんでした。そしてそれは、国連連合総会が真に民主的グローバル・フォーラムとしての位置を占めることを(拒否権の廃止と共に)許すためにずっと以前に解散されているべきだったのです。そしてその一方で、権力政治、国家的利己主義、そして完全な商業的または物質的目標の追求において弱者を食い物にするということが合法的だと考えられる根拠のもと、戦争の現実も維持されるでしょう。

私たちは、第25条実現への公衆の驚異的な要求がどのようにグローバル経済の再構築、真の国際協力、政府間の関係を特徴付ける緊張や紛争の大幅な緩和、そして国連の真の運命に従った安全保障理事会の最終的解散を遂にもたらすであろうかを心に描くために、この方向性の推論を容易に発展させて行くことが出来ます。世界資源を分かち合う中でもし国々が協力し合い、それ以後テロと紛争の経済的根源を抹消したとしたら、どのような場合でも安全保障理事会を必要とすることがあるのでしょうか。しかしこれは明確にしておきますが、第25条の実施がグローバル化された過度の資本主義の総合的代替を即刻もたらし、突然、世界の全問題を一挙に解決するであろうと推測しているのではありません。もし私たちが万人のために第25条の中に記されている基本的ニーズを即急に満たすつもりなら、優勢的な権力構造や非民主的政治体制へ効果的な挑戦を挑むことやあるいは富裕国と貧困国の間の富や所得のあからさまな格差を修正するだけではまだ十分でないことは間違いありません。

国連の多くのすべての高尚な志の達成を私たちが見越すことが出来る以前に、明らかに大規模な数の更なる政治経済変革が必要なため、第25条の人権を確保することが世界の問題への唯一の対策なのかと問うことは間違った方向性の論証追求です。そしてこれらの目標を達成するために必要とされる手段に関して果てしなく論議されていますが、私たちの追求の目的は、必要とされる未来の転換を先導するための人々の戦略について共通理解へ達するよう試みることです。そして私たちが既に確証して来たように、人類のより特権的な3分の1による断続した膨大な市民参加なしで世界人口のより貧しい3分の2の利益のために政府の優先項目を転換させる希望はあり得ません。グローバル・ステージにおいて欠落したこの決定的主役なくして ー すなわち、世界の大多数派である貧困層の充足されないニーズを代表する、認識高い世論の善意ある包括的影響力無くして ー より良い世界構築のための構造的青写真実現を達成することは不可能です。

この意味で現在の社会経済秩序の唯一の代替は世界の善意の人々の結束した声に見い出されるのであり、そして「選択肢は他にない」という印象を私たちに与えるのは平均的男女の広範囲に及ぶ自己満足的な無頓着さなのです。分かち合いの原理が持続可能な未来のためのグローバルな体系的代替の基礎とならねばならないことをもし私たちが受け入れるなら、その時、第25条はその原理を反映し、世界情勢にそれが実現されるよう呼びかけます。真実は、極度の人間の剥奪を根絶することの緊急性への認識が全世帯で、そして最も緊急の懸念として一般人のハートとマインドの中で感じられるまで、本当に何の選択肢もないのです。
 

それが、社会の新たな展望とそれを達成するために必要な政策を提案する革新的な思想家と活動家にとっての苦境なのです。なぜなら、街頭の平和的抗議デモにおいて世界中の何百万という人々が結集し、共にその展望を受け止めその達成のために取り組まない限り、それは決して実現しないであろうからです。私たちが更に深く探求を続けると同時に、このことだけでもなぜ第25条がその中に私たちが探し求める代替手段を持ち、そしてなぜその単純な指示が私たちを直接的、必然的、そして一見奇跡的にその代替手段へと導くことが出来るのかを説明しているのです。やがて私たちは、第25条を実現することが多種多様な経済的解決への直接的な入り口であり、自由と正義への最も確かな道であることを理解するかもしれません。その未知の可能性は、人類がマジックワードを発する時にのみ唯一作動し、それ自体を明らかにするのですが。そしてそのマジックワードは、この目標に情熱的に焦点を定め、止むことなく断続する全ての国での大規模なデモンストレーションを通して発せられるのです。 

 

パート3:環境問題

多くの人々の頭に浮かぶかもしれない主な反論のひとつは環境維持の問題に関係しており、人々の第一目標として第25条を布告することは、生態学的問題の緊急性を無視するのではないかということです。これは、深く考えるべきもうひとつの重要な問題です。なぜなら、現在人類は明らかに前例のないふたつの大規模な世界的緊急事態に直面しているからです。それは、飢餓、貧困、不平等、そして社会的排除の上昇するレベルは勿論のこと、大気汚染及び環境劣化の問題です。   

まず第一に、この問題の答えが現在主流の考え方に程遠い結論であるとしても、それは理論的に、そして単純な演繹的推理を通して理解され得ます。私たちが自分たちで考察すべき根拠がここにあります。それは、全生態学的問題解決の起点となるところの豊かさの中の貧困の不正を是正することなくして、気候変動や環境危機に取り組むことが決して出来ないということです。そしてこれは心理的、道徳的及び霊的視点を含んだ多くの角度から再び熟考されるべきです。   

この驚くべき試みを支援するであろう発展途上国への無制限の援助と平行して、各国における軍事予算からの公共サービスや社会福祉への補助金の再割当など、第25条実現のための大衆支持の高まりがどのように政府の支出の優先項目の劇的変革を直ちに生み出さねばならないかを私たちは今検討しました。第25条を布告することは、私たちが今までに見聞きして来たものとは全く異なる範囲と規模の再分配を本質的に必要とします。一国の富と資源の共同蓄積、そして人間のニーズに基づいたそれらの富と資源の国内及び世界的再分配を通じて、他の多くの危機的な問題が最短期間で解決され得ます。   

例を挙げると、もし第25条が何年も前に世界の全地域で実現されていたなら、その結果、恐らくアルカイダやISILのような特定の過激派やテロリスト・グループが存在するに至ることはなかったでしょう。貧困国の全ての家族が社会における信用と保証のための物質的基盤を遥か以前に与えられていたなら、恐らく若者の間での暴力的な宗教イデオロギーへの受容性がよもや存在するに至ることはなく、政府と戦うことやその(結果的にもはや完全に頽廃していない)政権を転覆する理由もなかったでしょう。そしてもし、大規模な資源の移行、広範囲な農業改革及びグローバル経済構造の大規模なリストラを通じて飢餓と極度の剥奪を根絶するための緊急プログラムが遥か以前に開始されていたならその時、恐らく政府は国際協力の真の利益を実際に実現していたことでしょう。従って恐らく遥か昔に、唯一真の協力だけが達成することの出来る、人類の未来へ迫り来る他の脅威の解決に彼らは乗りだし、戦争推進の最終的な放棄や二酸化炭素排出の制限と環境再生のために無比の努力をもたらしていたことでしょう。   

実に、もし私たちが世界資源を分かち合い、世界の貧困、特に飢餓を根絶していたなら、その結果恐らく今日の環境問題は最小限に保たれ、そしてグローバル開発のパターンが大変異なるより持続可能な経路を辿っていたことでしょう。集結した政治的リーダーたちがブラントの提案への合意に漕ぎ着けなかった1981年のカンクン・サミット後、多くの面で環境の哀れな運命は封印されました。そのことは未来の歴史学者が、それがその後のすべての展開への分岐点であったと認識するかもしれません。マザーアースが話すことさえ出来たなら、集結した国家のリーダーたちに言ったかもしれません。「成る程、あなたがたは協力することを拒み、私が信用の中惜しみなくあなたがたに与える豊かさを分かち合いたくないというのですね。では、自己の行為の結末を私のせいにしないことです!」   

レーガンやサッチャー、そして彼らのグループがサミットを馬鹿にしていたのも当然かもしれませんが、彼らが去った今、ブラントの実行への呼びかけを無視した彼らの決定の結果的現実に対して私たち全員が証人となり、代わりに商業化勢力を解き放つこと、そして分離、貪欲、及び利己的競争の分裂的な商業化勢力の道を追求することを選んでいるのです。それから現在までの間、歴代の政府らは社会、経済、政治情勢の中で市場勢力の影響が蔓延ることをますます許して来ました。それらの政府は併せて全員で共益のための統治を捨て、代わりに世界市場の気まぐれに決定権を丸投げしているのです。そして国連とその創設時の展望へ背を向け、代わりに国際法を嘲笑する安全保障理事会を通してパワーゲームを追求しています。これらの要因が組み合わさった不可避の結果は環境劣化の高速化であり、そして、ふたつの緊急事態が人類の未来の展望を脅かす今日に至っているのです。そのふたつの緊急事態とは、不平等と気候変動の双方であり、カンクン・サミットの時点では主に前者に集中することが私たちには可能な筈でした。   

政治的指導者たちが持続可能な平和的世界の長期的ヴィジョンを抱いていたと仮定し、最も自己本位な視点から見ても、環境問題の激化を防ぐために貧困の根絶を優先することは道理にかなっていたでしょう。何はさておき、貧困が過去6、70年間の急激な人口増加の背後にある根本的な要因であることは良く知られた事実であり、この動向が予測通りにもし今後100年間続くなら、ひいてはとりわけ発展途上国での資源消費増大、そしてその結果としての二酸化炭素排出量の増加が環境へ深刻な影響を及ぼすでしょう。富裕国の人々が地球資源の大部分を消費することによって環境に最大の影響を及ぼすことが真実である一方、断続する人口爆発が資源ベースや地球の生態系への支えきれない負担の原因になり得るという事実を否定する余地はありません。しかし、家族が適切な生活水準に恵まれている時、人口レベルが低下し安定することは十分証明済みです。そしてそれは、貧困者自身の心理に共感することを通してのみ真に理解され得るのです。貧困の中で生活する人々がなぜしばしば多くの子供を持つのかという深く哀しい理由があります。それは主に、子供たちの何人かが ー もし栄養失調や予防可能な病気で早死にしなければ ー 老齢期の両親を援助するだろうという希望です。発展途上国のこれらの根深い文化的態度は、第25条に要約される人間の基本的ニーズの充足を、政府が常に保証するだろうという完全な信用と確信を全市民が持つことによってのみ変革され得るのです。   

私たちは、20世紀中に既に起こった世界の人口レベルの劇的増加を目撃するにあたり、この事態を永続させる状況の改善に政府が心底から最大限の努力を投じ、そして必要とされるすべての国際援助や人口プログラムの支援と併せて貧困、病気及び栄養失調との戦いを最大限重要視していたであろうことを想像するかもしれません。地球環境への負担が原因となるだけでなく潜在的に破壊力のある社会的、経済的、政治的紛争の視点からこの複雑な状況に内在する時限爆弾もがまた同様に原因となり、貧困と人口の相互関係した拡大が極度に危険な時点に現在私たちは到達したのです。それにもかかわらず、長期的修復作業のためのまともな方針へ最大限の努力を投じるどころか、政府は世界人口の急速な増加を邪悪に楽しむ商業化の不毛の道を追求し続けて来ました。裕福な企業の利益を拡大できる限り、人類の未来へのリスクなど彼らにとってどうでも良いのです。   

発展途上国同様、すべての先進国の大都市でも現在経験されるように、なぜ世界がそんなに混雑しているのかという本当の理由を、私たちに考えさせるかもしれない難解な人口問題の背後の謎がここにあるのです。貧困がその根本的原因であるとまだ言えるでしょうか。それともそれは、社会的不安定、不平等、そして抑えのきかない移民群 ー このすべてが更なる企業利益と経済成長を促進する名目で ー の激増を通して、ここ数十年に渡りこれらの動向を駆り立てている商業化勢力なのでしょうか。   

国連の創設以来もし私たちが世界資源を分かち合っていたなら、環境状態への遠大な意味を持って人口がどのように持続可能な割合で保たれていたであろうかということを理解するために、この方向性についての質問は役立つかもしれません。一方で、21世紀末までに無理強いされ劣化した惑星に110億人以上が住むという悪夢的展望は決して不可避ではなく、緊急の国際的優先事項として世界中で、特に極貧地域で第25条を真っ先に実行することによりまだ回避可能な予測です。もう一方では、以前概説されたすべての理由により、第25条の実現がどのように商業化勢力へ直接的チャレンジを挑むであろうかということについてもまた私たちは検討しました。それは誠に、見たところ地球と人類そのものを忌み嫌う利益への原動力が、社会や環境の中でもはやそのような破壊的要因となり続けないことを意味します。資源の分かち合い、富の分配、そして第25条実現の絶対不可欠な目標へ向けての国際協力の世界的プロセスを通じて、多国間企業はより人間的で社会的に善意のある、そして環境に対して意識的な方法でやがて機能せねばならないと信じる充分な根拠がここにあるのです。   

これが、直接的な手段であろうと間接的な手段であろうと環境を知らず知らずのうちに破壊するよう強いられた ー 彼らの株主への信任義務の一環として ー 企業のエグゼクティブを含んだ私たち全員の利益のためであることを誰が否定出来るでしょうか。私たちが第25条の実行に急いで漕ぎつけない限り、これらの大企業の存在が熱狂的な破壊活動を激化することを防ぐ方法は恐らく他にありません。地球の生物圏内での恐ろしく酷い影響を彼らもまた目撃し始めると共に、彼らの最善の判断に反して法外な利益を上げ続ける唯一の方法は、更なる自然界の破壊によるものなのです。これらの愚純な商業化勢力が世界情勢において支配的な影響であり続ける限り、社会の富を分かち合うための、普遍的な社会保護などの控えめな提案さえがますます理想主義的、達成不可能、そして究極的にユートピアンとなるであろう傍ら、環境が人間の居住に不適切なレベルとなるまで劣化することは疑いありません。   

しかしながら風土病的飢餓や貧困の緊急事態に取り組むことなくして、今日の世界の環境的緊急事態の解決があり得ないということを多くの善意の人々はいまだ認識出来ないのです。人類の貧窮化した莫大数の人々の基本的権利をもし私たちが見落とすなら、それと同時にマザーアースの権利のために戦うことがなぜ無意味なのか認識することを試みてみましょう。環境には自然と人間の2種類があり、それぞれが相互依存しているため、上記の理由付けから単純な論理を推測出来ます。森林、土地、海、大気、そしてその他が私たちが普通理解する自然環境の総合ですが、この世界で起こっているすべての誤りの原因要素として、人間環境の総合の健康もがまた同様に考慮されるべきです。   

この理解に基づくと、極貧の中で生活している何百万という人々は最悪の人間環境災害です。それは恥ずべきことに長年容認されてきた後、私たちのより広い生態学的問題の過程を決定した災害です。従って、環境保護主義者は決定的な判断エラーをおかしたのです。なぜなら、もし私たちが1950年に時計を戻すことが出来て、まず第一に第25条を実現することにより人間環境の健康を修復したなら、ついで地球の健康は今日のような危険にさらされていなかったであろうからです。そして万人の基本的ニーズを満たすために富と資源がより公平に分配され、完全利益主導型勢力は必然的に適切な場所へ退けられていたことでしょう。グローバル・サウスの国々の人口レベルは最終的に安定し、減少し始めていたかもしれません。そして再構築された国際経済は、高度に工業化された国々で更にシンプルで持続可能、そして平等な生活様式をもたらしていたかもしれません。   

私たちは世界問題を環境主義者のせいにしているのでも、彼らの重要な取り組みを中傷しているのでもなく、貧困と環境問題の間の直接的繋がりをなぜ殆どの人々が見落としていのるかということを、一緒に問おうとしているのです。膨大な規模でこの地球上に貧困があるとしたら、ひいては確実に環境問題がおおよそ不可思議な方法でそれに続くことがあり得るのではないでしょうか。そして至るところで貧しい家族の現実が、酷い天候状態の現実に反映されていることがあり得るのではないでしょうか。なぜなら、豊かな世界で貧困の原因となっているのは人間の欲、無関心及び無知に基づいた利益と権力への追求である以外何者でもないからです。それは経済成長と消費主義の名の下に、この地球から略奪することへと多国間企業を至らせたのと同じ要因です。もし私たちが注意深く考察するなら、環境と貧困危機の間には切っても切れない繋がりがあります。それは、「気候変動」、「飢餓/貧困」、そして「人口増加」の言葉をそれぞれの角に、そして「利益/商業化」を中心に持つ三角形としての図式形態に簡潔に表されるかもしれません。制御されない商業化を通しての更なる利益成長プロセスの中で、更なる貧困が、大気内の更なる大混乱と共に生み出されます。そして貧困レベルが上昇すると同時に、世界人口も上昇するのです。それは商業化勢力をますます強力にし、そしてこれらの自己破壊的動向を際限なく激化させる原因となるのです。

 

従って、世界の人々が地球資源の分かち合いを通して第25条の完全な実現を要求しない限り、商利への追求は自然環境を破壊し続けるでしょう。そして世界の産物が分かち合われることなく、何百万もの人々が飢える一方で余剰食糧が腐るままに放って置かれ、人類という家族がその最も貧しい人員の苦しみを見落とし続ける限り、この惑星の生態系と気象パターンの中で不均衡が生じることは不可避です。なぜなら貧困の不当さ、人間の搾取の不当さ、そして私たち万人のものである地球の産物を溜め込み分かち合わないことの不当さに取り組むことなくして、私たちは環境問題に取り組めないからです。それ故、「飢餓」という言葉、あるいは私たちの世界での分かち合いの欠如についてふれることさえせず、気候危機についての認識を公衆にもたらすことは十分なのでしょうか。それとも、広範囲に及んだ人間の剥奪に十分な注意を払わぬ一方で私たちが環境問題に取り組もうとすればする程、地球の健康がますます悪化することを考慮すると、それは私たちの無知の定義付けなのでしょうか。

世界を救うために行動すると同時に、私たちが飢える人々を救うことが出来ない理由はありません。それ故、単に道徳的な理由上、世界の飢餓に取り組まずして環境問題に取り組めると私たちが信じるのは嘆かわしいことなのです。現在、気候変動や環境破壊を止めるための多くの大衆動員を目にしますが、飢餓や貧困の命を脅かす状況の即刻廃絶を要求する世界規模の活動を、私たちはどれだけの割合で見ているでしょうか。それでもなお、不法な戦争(特に2003年に起こったように)を阻止するための、あるいは世界の多くの指導者たちがないがしろにしているであろう差し迫った生態学的大惨事についての認識を高めるための試みの中で、もし私たち自身を組織化できるなら、ひいては第25条実現の目標の中で統一され「他の人々はどうなるのか」という姿勢に動機付けられた大規模な国際的抗議デモを組織化できる筈なのです。

毎年貧困関連の原因から千7百万人が死んでいる傍ら、なぜ気候問題が私たちの家庭内でそのように重要になったのかを、私たちは恐らく腰を掛けて自問すべきでしょう。グリーンピース創設以前でさえ、飢餓は何百万の人々にとって日常の現実でしたが、私たちにとってどうしょうもなく貧しい人が今日一切れのパンを口にすることより、自分たちが明日きれいな空気を吸うことの方がもっと大切なのでしょうか。壊滅的な気候変動を防ぐために私たちには恐らく10年か15年残されているのでしょうが、栄養失調から徐々に死に行く貧窮した子供には何年どころか何日残されているのでしょうか。これらの疑問は筆者がその答えを決して理解出来たことがなく、これからも決して出来ないであろうことを読者に伝えたい、彼からの個人的な抗議として提起されているのです。貧困の屈辱は今日の環境汚染問題の遥か以前から存在して来ましたが、何かしら奇妙な理由から天候だけが世界的な公衆デモにおいて声を見い出しているのです。貧困者には座るクラスさえない一方で、まるで環境にはグローバルな運動の中でファーストクラスを与えられているかのようです。しかし貧困者自身が彼らの苦境について声をあげることや、純然たる絶望から反乱を起こすことは滅多にありません。これまで常にそうであったように彼らは自己の運命を受け入れ、貧困の中静かに死んで行くよう大変強く条件付けられているのです。

高い貧困率を持つアフリカ、アジアまたは他の地域での悲惨な気候パターンの永続にもかかわらず、もし富裕国が自国の地域環境修復に成功出来ると仮定するなら、上記のすべては不穏な認識の中に私たちを取り残します。私たちは他の人々のことを考え、彼らを助けるよう政府に強いるのでしょうか。それとも、現在定番となっている自分たちの偏狭で無関心、そして自己満足的な生活様式を続けて行くのでしょうか。事実、環境問題は遠方の国々における極貧の子供たちの将来などへの配慮が殆ど皆無の、主に私たち自身と私たちの将来、そして私たちの子供たちの生活に関することなのです。私たちは子供たちに環境に良いことを考えるよう、そしてプラスチックや空き缶をリサイクルするよう教育していますが、日々栄養ある食べ物を口にする恩恵さえなく、外国で貧困の中衰えていく何百万人の他の子供たちのことをどう気にかけるかを彼らに教え損なってきました。富裕国の子供が家で空ビンを1本リサイクルする度に、その瞬間、世界のどこかで恐らくは二人以上の子供が貧困関連の原因から死んでいるのです。

勿論、環境問題について認識を高めることは、この惑星が破損状態であり人類からの適切な対応が殆ど始まっていないことから、疑いなく極めて重要であり賞賛されるべきです。しかし、私たちは自問するために恐らく今一度、暫くの間立ち止まるべきでしょう。流行りの理念について他の従者に説き伏せられたのでないなら、なぜ私は世界的な飢餓より気候変動を気にかけるのでしょうか。誠に、私は先週家庭のゴミを何度リサイクルしたのか、そして同時に、貧困の結果不必要に死んだ多くの人々について何度考えを巡らせたのか。もしあなたがそれらの致命的に貧しい人々が亡くなる前に環境状態について彼らに話したとしたら、彼らがこう返答したであろうことは確実です。「私には森林や二酸化炭素について考えられない。私はただ食べ物、きれいな水、医療、そしてまともな家が欲しいだけです!」

ここで再び繰り返しますが、環境的緊急事態について他を教育することは確かに良いことなので、思い違いのないようにしましょう。しかし分割され、苦悩に満ち、道徳上非難されるべき世界で、これは一体どのような種類の教育なのかということをもまた自問せねばなりません。商業化が主流の全政党の議題を乗っ取り、不正な世界経済が無数の家族に苦難と絶望をもたらし、国際緊張が不安と抑うつの異常発生の原因となり、そして公衆の注目をかいくぐったところで何万人もが貧困から死んでいる時、どのような種類のより良い生活を私たちは期待出来るのでしょうか。世界がもしこの同じ不正な経路に沿って続くなら、一体なぜ私たちは環境の健康の修復を望むのでしょうか。富裕国に影響を及ぼすかもしれない変わり行く気象パターンや温室効果ガスの流れに関しては、無限に溢れるデータへのアクセスがあるにもかかわらず、絶対的貧困の中で何人が飢え、暗黙のうちに苦しんでいるのかという確かな統計がありません。これは、礼儀正しい会話の中では、世界の最も暗い片隅で貧困から死に続ける人々の惨事のために殆ど一言も発せられない一方で、環境に関しての公的な論議は理にかない教養あるとされている時、恐らく驚くべきことではないのです。

それでも現在においてさえ、激しい気候の混乱と金融動乱の真っ只中で飢える人々に食べ物を与え、病める人々を癒し、剥奪された人々を世話し、そして同時に暴走する気候変動を防止して環境を修復することはまだ可能なのです。そうすることはこれらの問題が今まで存在し続けてきた限りいつでも可能だったのです。しかしながら今日、政府がこの比類なき目標を達成できる唯一の道は、結束した世界の人々が後ろ盾となり適切な政治家を選任することですが、しかしそこに広く行き渡った私たちの無関心や自己満足の結果としての問題が根を張っているのです。

包括的、霊的な観点から世界問題を観察する時、環境コモンズに対しての一般化した無関心へと結果的に導いた、利益、富及びパワーへの私たちの集団崇拝を通して、気候危機は人間の聡明さが誤った方向へ行ってしまった結果と言わざるを得ません。しかし、私たちの時代におけるこの山場を迎えた問題の原因である自分たちの共犯が、どのように自己を環境破壊の罠に嵌めているのかということを認識するよう私たちにやむなくさせる、この芳しくない現実に皆が参加しているのです。その罠とは、自然界の自己破壊を激化させているプロセスに私たちが最初から常に一役買っている傍ら、「この惑星を救うための時間は僅かしか残されていない」と信じていることです。不十分な教育システムとその結果としての自己知識の欠如に起因して、私たちは自己や人生の目的を知らず、従って、物質性への自己投影を通して偏狭で自己本位な方法で「幸せ」になりたいという欲望に容易に影響されるのです。そして、クリスマスの過剰消費の狂乱やブラック・フライデー・セールの無分別なショッピングを通して最も下劣な形で実証されるように、商業化勢力は全方面で収益をあげることによって私たちの無知と服従を食い物にすることに卓越しているのです。安全と幸福への私たちの心理的必要性を通して私たちは皆、他より優れている「偉い人(成功者)」になるか、そうでなければ贅沢な家、無駄な消費癖、そしてジェット機で飛び回る旅行など、贅沢三昧に生活することを熱望する社会的条件付けの影響を受ける傾向にあるのです。

これが乏しい地球資源を巡る激烈な競争に基づく外交政策と併せて、どのように全世界の何百万ものビジネス契約や利益追求によって特徴付けられるグローバルな全体像に繋がるのか、私たちに理解出来るでしょうか。それは全体的に永続する破壊的影響を環境に及ぼします。個人は成功した偉い人となることを熱望するよう教育され、それは国家及び国際レベル双方で表現される自己本位的態度や他人に対する特定の無関心をもたらします。そしてその蓄積された自己本位性は多国間企業の誇りと喜びであり、過剰消費の大衆パターンと自然環境劣化の原因となります。

結局のところは、熱帯雨林の伐採、貴重な鉱物のための露天採掘、化石燃料の止むことのない掘削などの背後にある駆動要因は政府でも企業でもなく、むしろ破壊が起こる他国の人々へのその影響にもかかわらず、この必然的な破壊を起こす高消費の生活様式を欲するよう教育されて来た各国の人々です。どこかで私たちが言及したようにアメリカン・ドリームの物質的、利己主義的理念が現在世界のおおよそ全ての国に輸出されました。それは商業化だけでなく、環境破壊ともまた同じ意味合いを持つ社会的条件付けの形態をも象徴します。私たち皆が永続させていることに多かれ少なかれ責任のあるこの大混乱の全体像を観察するにあたり、地球温暖化の原因の中の人間の有責性に関する疑問は、私たちが当然次のように返答するかもしれないことに対する誤魔化しです:とにかくそれがどうしたって言うんだい?

今日の気候危機を長引かせることに私たちがどのように加担しているかについて深く考えることは、社会の中での私たちお互いの共存と交流の仕方に根源を持つ、問題のより深い原因の認識をもまた同様にもたらすかもしれません。人々が喜びを失い、強い条件付けを受け、創造力を欠き、そして人間関係において心理的にお互いに分離した ー これらのすべてが環境と大気内での深刻な不均衡の原因となります ー 世界に私たちは生まれ落ちているのです。従って、貧困と悲惨の真っ只中で裕福となり成功するための一般的な動機もまた自然環境の中で感じられる混乱の原因です。それは秘境的ながらも、私たちが全面的に社会問題を解決しない限り、なぜこの惑星の生態系を決して治癒出来ないのかを理解したいなら、感知すべき欠くことの出来ない洞察です。別の言い方をすると、それは人間がする行為だけではなく、人間が考える行為、そして感じる行為もまた同じく環境に影響を与えるのです。なぜなら、人間の思考と自然界の間には入り組んだ関係があるからです。

もしあなたが抑鬱病または薬物中毒者の部屋へ入り、そしてそれが微妙な、または感情的レベルであなたに良くない影響を与えるとしたら、大衆としての人々のすべての良くない思考と感情が、自然や世界の気候条件に有害な影響を与えるということは確実にあり得るでしょう。そして、人間が生み出している考えの主旨は何でしょうか。それは他の人々の生活状態に対する風土病的無関心と混ぜ合わさった利益、パワー、そして富への盲目的崇拝以外の何でしょうか。貪欲そのものが不均衡を象徴し、そしてもし私たちが個人の中に表現されるすべての貪欲、利己主義及び無関心の総計数を推定するなら、気候パターン、海面、そして植物や動物の振る舞いを含んだ私たちの周りの生命に、それが与えているかもしれない影響を推測出来るかもしれません。

従って生態学的破壊の原因は、多国間企業の世俗的な活動だけではなく、社会及び自然双方において感じられる様々な混乱の一因となる企業のロビー活動、または悪質な取引形成の思考及び意図そのものでもあるのです。同じように、他国に兵器を売る強力な政府は、遠方領域での戦争と死の存続に責任があるだけではなく、世界中で人々の意識に恐怖と抑鬱をも拡散しているのです。それは最終的に、この惑星の大気と生態系内の混乱に反映されます。ウエスト・バンクとガザ地区の周りのアパルトヘイト壁でさえが自然環境に途方もない悪影響を与え、私たちの分割された世界で猛威を振るう心理的抑鬱、苦悩、そして憎しみを広範囲に及び浸透させるのです。もし人類のために進化上の聖なる計画が存在するとしたら、ひいてはそのような壁はその対極を象徴し、20世紀後半に建てられた最も醜い記念碑のひとつとして考慮されるべきでしょう。人間はライフ(生命)であり、そして宇宙の中の全原子は密接に繋がっています。故にそれは、一度私たちがその正当性を完全に受け入れ理解するなら、社会的取り決めと人間関係へ深い意味合いを持つ基本原理なのです。

その時までともかく、社会及び環境双方の危機の断続について私たち全員が責められるべきであり、そしてこれらの関連した問題の繋がりに関する限りは、無知や無関心の中でのみ私たちは真に結束しているのです。多国間企業の実体が、自然に対して自ら犯す破壊についてまさに無関心であるように、飢餓や貧困関連の原因から死ぬ危険にある何百万もの人々に対してまた同様に私たちも集団で無関心なのです。もし大企業が利益目的のために事実上自然を憎むなら、私たちも事実上個人的幸せと安楽さを追求する目的のために自分たちの最も貧しい兄弟姉妹を憎んでいるのです。従って私たちは、自己中心的、盲目的、傲慢、無知、そして無関心である点から見ると皆同じなのです。更には、人工的な飢餓や貧困の問題を私たちが大変長く無視して来たため、現在貧困は社会混乱と環境災害を通して私たちにとり憑くために戻って来たのです。なぜなら、この地球で起こることすべてが霊的に相互関係しているからです。

商業化が私たちの血管に入り込んで以来、気候がどのように過去2、30年間で突然悪化し、人類が以前にも増してより凄まじく資源を消費し始めたかあなたは気づいていますか。道がより混雑するようになり、ホームレスや貧困率が日に日に悪化し、全ての苦しみ、痛み、そして世界の道徳的腐敗から私たちがますます混乱し疲れ果てて行くのをあなたは気が付いているでしょうか。そして私たちが共同で維持するこの機能不全のシステムが今、どのようにそれ自体を再構造する賢いメカニズムを発達させ、私たちがもはやその分裂的プロセスの一部でありたくなくてもその中に私たちを無理やり捉え続けているかということに気が付いているでしょうか。それが嫌なら、すべての哀しみ、不正、貪欲、不平等、そして何よりもこの惑星における風土病的無関心から生まれ出た機能不全の社会において、気候変動が現在大変顕著な不秩序の反映であるという真実を知ることです。それらすべてを覆すなら、あなたが生き続ける限り、そしてその後も健全な環境があることでしょう。飢餓及び貧困に対して無関心でいることは、平和な内部の静寂の中であなたが深い青空を見つめ、気候がその四季と共に尊厳を保ち、そして愛に溢れた海がその子宮へ流れ込む川を決して拒むことのないところの、神から授かった自由の瞬間をあなた自身に拒むことなのです。

 

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環境危機の第一の原因が私たちの意識、そして私たちお互いの関係に根付いていることを理解する中で、人類のすべての問題はヴィジョン及び愛の欠如の結果だと私たちは簡略に結論付けるかもしれません。政府が自国民に耳を傾けないのと同じく、自己のハートの声に耳を傾けないのは私たちです。そしてこれが世界の未来を脅かす最も非情な公害なのです。それは良識と道義に対して私たちの目をくらますハートの特質への公害であり、それ故、大気中の二酸化炭素より更に酷いのです。裕福なエリートが貧困者の剥奪の原因となる状況を根絶させる代わりに、彼らを根絶することにより対処されるべき社会的公害のようなものとして貧困者を常に見て来たことを私たちは知っています。しかし豊かな世界において何百万人もが貧困の中、人工的な原因からまったく不必要に死んで行く事態を受け入れ続ける限り、私たちもまたハートの特性を無視しているのです。

絶望的な貧困の中で長年生活する人の心理に、私たちは一体どれだけ共感するのでしょうか。余りの貧しさに十分に面倒をみる術もなく、生きるチャンスを得る以前に彼らの多くが死んで行くであろうことを知りながらも多くの子供を持つことに。それはあなたがコミュニティの目から見て既に尊厳を失い、社会に失望させられ、人類自体から見捨てられたという意味です。そのような男女の心の中には激しい喪失感と唯一絶望的に貧しい人だけが経験し得る恐ろしい孤独感があります。完全に不必要とされ、内面的に無価値で神に裏切られたという感覚です。あなたが絶望的に恵まれない境遇にいる時、悲惨さと絶対的貧困の中で生活している時、それはあなたを魂のない人間であるかのように感じさせます。そしてそれが、私たちの中の最も不幸な人々の苦しみに対しての、人間の無関心の有害な効果なのです。あなたには人生に何の目的をも見ることが出来ません。あなたは自分を好きでも嫌いでもありません。そして、感じることの出来る唯一の感情は、決してやって来ることのない助けのために泣き叫ぶ、あなたの心のそれなのです。

それが、世界中を通して多くの未発達地域の極貧の村や都市のスラムの何百万もの人々にとっての日常の心理的現実なのです。私たち自身は親切で物惜みがなく善意と高潔な意図で満たされているかもしれませんが、もしそのような種類の貧困を今までに経験したことがないなら、政府の福祉や公的支援の希望がなくこの先2週間の食べ物がないということがどのように感じられるのか私たちには及びもつきません。私たちの自己満足的無頓着さと無関心の影響は想像を超えて深刻であり、そして私たちは自分たちの文化的態度と社会倫理におけるその真の意味合いをまだ把握していないのです。不必要に飢え貧窮したそれらの人々に背を向けることは彼らの魂の神聖な目的の不可侵権を実際に拒むことであり、そして神から授かった進化への権利を彼らから剥奪することです。それは筆者が以前か繰り返し主張して来たように、私たち全員が犯しているすべての罪の中で最も重い罪なのです。

どうか今ここで述べられたことに思いを巡らし、ひいては話し合い、抗議、コミュニケーション及びその他の中で今何がなされるべきかを自分自身で直感するために、第25条の内容について再び真剣に考えて下さい。どのような経歴を持とうとすべての人が経済的、社会的、芸術的手段、また化学的な手段を通してでも、古来からの飢餓と貧困の誤ちを緊急に正すためのこの偉大な文明的試みにおいて役を担うことが出来るのです。私たちの考えと行動の中で最も優先されるべきことは、自分たちの家庭に影響を及ぼすかもしれない生態学的な問題だけではなく、むしろ世界資源を分かち合うことが全レベルにおける人類の問題の解決策だという理解に私たちを導くであろう、世界的な環境危機と貧困危機の間の相互連結についての認識なのです。

街頭に出て気候変動へ取り組むよう政府に対してデモをすることは、世界の貧困者が食べ物を提供され保護されることを要求することとは大変違うのです。なぜなら、後者は私たち自身より恵まれない人々への慈悲心に基づいた、私たちの意識的な認識の中での変革の始まりを象徴するからです。それは、心からの共感的な懸念を通して「他の人はどうなるのか?」と考えることであり、一時的に自分自身の生活と自己本位な懸念を忘れることです。それは、世界の全問題の包括的関連を感知することであり、その理解から社会や天候正義のためのすべてのデモンストレーションに、願わくばいつでも私たちは参加すべきなのです。最終的にそれは、人類はひとつであり、そして正義自体は分割され得ず、故に気候混乱や大変病んだ地球の見地からでさえ飢餓は世界全体に悪影響を及ぼすため、それを不正義そのものとして認識することを知ることなのです。

世界問題の相互関連性を理解するということは、私たちが善意、良識、そして正しい人間関係について拡大する認識を既に身につけていていると仮定し、私たちが人類のための大使として話し行動する責任をもまた認識するという意味です。誤用された人間の知性がそのような言葉の簡単な意味を数千年間曖昧にして来たため、唯一私たちのハートだけがこれらの不十分な言葉の重要さを真に説明出来るのです。もし私たちが、国際的な分かち合いと協力を通して人間の命をリサイクルする重要性についても子供たちを教育しないなら、例えば、環境保護のために家庭の廃棄物をリサイクルする重要性を彼らに教育するだけでは不十分なのです。そうでなければ、私たちは彼らの意識的な認識をリサイクルの箱だけに制限しているのであり、その箱があたかも他のすべての世界問題に繋がるパンドラの箱であるかのように環境問題が最初にどのように起こったのかをもまた彼らに教えない限り、その箱はこの惑星を救うこととは余り関係ないのです。これはまた商業化が環境に対して何をしているのか、そして政府が世界に対して何をしているのかということについて両親が自己を教育せねばならず、そうすることによって彼ら自身のように人類の大使となるための指針を子供たちに与える中で、手本を持って導けることをも意味するのです。

従って今日の学校教育のプログラムの中心に、すべての国ですべての人の基本的ニーズを確保する必要性についての理解があるべきであり、そしてそれは食糧、医療、住居及び社会保証への普遍的権利のみに関するものではないのです。果てしなく続く抗議デモの中で世界人権宣言第25条を布告することはまた、道徳的責任への新たな認識とひとつの世界のためのヴィジョンをも示唆します。従って第25条を定義する2、3の文章に私たちの理解を制限する代わりに、その行間を読むために直感を使いましょう。環境のための世界的なデモンストレーションを通して起こっていることは事実、人類はひとつなのだという浮上する認識の象徴であり、そしてそれは世界意識の始まりと長い間分割されてきた私たちの過去への拒絶の到来を象徴するのです。この点において気候変動は惑星規模の共通目標のために世界の人々をひとつに結ぶことを試みている偉大な教師であり、それによって私たちは遂に自分たちの霊的一体性と相互関係の意義を理解するようになるかもしれません。しかし飢餓と貧困を根絶するための世界規模の公衆のデモンストレーションがないという事実はまた、私たちがいまだ誤った方向へ進んでおり、そして、どのように世界資源の分かち合いが環境破壊を覆し、より簡素な生活様式をもたらし、万人の共益に基づく持続可能な経済を確立するための唯一道となるかをまだ集団で理解していないということなのです。

 


 

パート4:ハートを従事させる

第25条の実現がなぜこの先何年かにおいて極度に重要であるのか、そしてなぜ世界変革への責任が、積極的に活動する一般人の結束した声にかかっているのかといういくつかの重要な理由を私たちはこれまで探求して来ました。今日私たちが直面する貧困、環境及び安全保障危機の規模についての深刻さを考慮すると、政府が突然現実に目覚めより安定した軌道へ世界を導き始めるだろうと信じるのは世間知らずかまたは馬鹿げたことでしょう。殆どの国家のリーダーの政策が公有財産の残りのすべてを更に商業化する一方、返済不可能な国の債務や激化する不平等にもかかわらず、何千億ドルもが無分別な戦争と破壊的な地政学的計略へと注ぎ込まれ続けています。

世界経済に深刻なダメージを与え、民間金融機関のための国民による経済救済処置を必要とした世界的金融危機の後でさえ、社会的、地球的再生の共通目的へ向けての国際的結束のレッスンがいまだ習得されていません。各国家は真の協力と経済の分かち合いの精神を持って遂にお互いに助け合い取り組む代わりに、残りの部分には再び背を向け地球の苦しみに真の懸念を全く見せていません。私たちはパレスチナの人々に対するイスラエル政府の行為から例えを引用し、利益主導型の暴虐を振るう多国間企業と並んで残忍な外交政策を行使する大国によって世界全体に押し付けられた服従を、彼らの隣国イスラエルによる抑圧と比較するかもしれません。弱者と発展途上国に彼らが強いる苦しみに対して彼らの目を開くのは何でしょうか。そして良識、優しさ及び愛情を持って哀れな同胞を扱う簡単なレッスンを彼らはいつ習得するのでしょうか。

あの「平和プロセス」という二枚舌のフレーズの隠れ蓑の下、断続する侵略をイスラエル政府が止めるであろうと信じるならまさにそれは私たちが騙されやすいということであるように、もし既得権益が突然ロビー活動を中止し利益のために世界資源を盗むことを止めるであろうと信じるなら悲しいかな、私たちは欺かれているのです。世界情勢が悪化するこの永続的行き詰まりに終止符を打つにはふたつの希望があるのみです。それは、聖なる神の介入への願望的、受動的懇願か、あるいは、次のように言うために何百万人という数で結束する一般人の協奏的な目覚めです。「いい加減にしてくれ!もうこれ以上絶対にごめんだ!

前者の可能性にもかかわらず、政府の決定に影響を与え現在破壊的な世界の方向性を改められるよう、十分な力と尊厳を持って結束した人々の声が拡大し続けて行くことを望むなら、ある特定の前提条件があります。まず第一に、第25条の人権を目覚ましく支持する何百万もの人々が絶え間なく世界の街頭にあらねばならず、そしてそれは日夜を通して限りなく繰り返されることが必要です。実に、もしあなたの肉体が深刻に病んでいるとしたら、一日ではなく、自然の流れに従い治癒過程が終了するまであなたはかなりの期間入院するでしょう。同様に、人類の身体は余りの重体であり、唯一の治療は無数の善意の人々が街頭に集まりあたかも世界の未来がそれにかかっているかのごとく ー 文字通りそうなのですが ー 政府の優先項目の転換のために平和的に抗議することです。その時が来て、すべての大陸のすべての国で一般市民が同じ目標を受け入れる時、ひいては私たちは来る日も来る日も毎週増え続ける人数の中、各都市で一斉に集まる何千万もの人々を真剣に思い描くことが出来るかもしれません。

この点で、セントラル・スクエアでキャンプを張っているかもしれない様々なオキュパイ参加者に敬服せねばなりません。これらの忠誠心厚い活動家は今のところ人口のほんの僅かな割合を占めるだけなので、警察によって強制的に立ち退かされているかもしれないのですが。従って、権威者が彼らの希望と熱望をもみ消すことは比較的簡単であり、彼らは全同胞市民の役割を勇敢に果たそうとした不満を持つ寂しいグループとなってしまいました。しかし、もし人口の絶対多数がここに至って第25条の実施に基づいたそれらの止むことのない抗議デモに加わり、参加者が断続して増え続け余りの莫大数に膨れ上がって警察も彼らを制圧し阻止出来ないとしたら政府はどうするでしょうか。

権力層の政治家、警察や裕福なエリートが新たな抗議運動が現れるごとにそれらを注視していることは疑いなく、そして次のように考えることによって自分たちを安心させ続けます。「彼らは確実におとなしくなって前回のように最終的には家に帰り、また業務平常通りとなるだろう」。それ故、児童や公共部門労働者はもとより、以前抗議デモをしたことのない家族なども含んだあらゆる経歴を持つ一般人がこの非暴力的抗議デモの再開に参加する段階に達せねばなりません。その時点で警察さえが政府に向かって言うかもしれません。「我々はあなた方ではなく、人々と共にあります!」

政府に何を要求する必要があるのか私たちは現時点で明確であるべきです。それは、自国での最低賃金引き上げまたは発展途上国への拡大された援助の寄付などより更に大きなことです。取るに足らない「最低」賃金のための永続する戦いは、人間からの搾取、企業による着服及び公衆の無関心の長く暗い歴史を反映しており、そしてそれは最も幅広い意味での ー 公平で適切な生活水準への権利を万人に保障する一連の遥かに包括的な法律の中で最終的に具体化されねばならない ー 第25条と本当の関係は何もないのです。不平等に分配された莫大な富で溢れた今日の社会の中でどうして私たちは動くことが出来、その上、必死に生活する貧しい大多数派のためにかろうじて最低限の生活水準しか要求出来ないのでしょうか。

先に示されたように、もし私たちが行間を読むことができるなら、ひいては第25条は、自己本位、強欲や盗みに基づいた古いやり方の終焉、そして善意、分かち合い、正義、ついでその結果としての正しい人間関係に基づいた良識と新たな生き方の始まりを本当は意味しているのです。それは、選出されたリーダーは、イデオロギーでなく基本的道徳と尊厳の観点から国家及び世界双方で、貧困の全形態を根絶するという公衆の決意に従わずして在任し続けることが出来ないことを意味します。そしてこれまで私たちが手短に理論付けて来たように、全政府により一度第25条の人権が確固として保障されるなら、それは、増大する商業化による締め付け、多国間企業による理不尽な略奪と破壊、そして侵略と権力政治を前提とした外交政策の狂気への対抗手段を代表することでしょう。もしそれらの商業化の物質勢力を人格化出来さえするなら、ついで世界中で第25条を要求する何百万という人々の真っ只中で頭を掻く彼らを私たちは思い浮かべるかもしれません。彼らはお互いに囁き合います。「今回、我々は本当に危ういようだ」。

従って、人々のナンバーワン目標として第25条を布告することは抵抗最小限の道であり、そしてそれは迅速に多くの良い結果や現在予測不可能な新たな社会的解決をもたらすかもしれません。前の章で既に私たちがいくらか検討したように、環境正義の点からでさえ、万人のための第25条のシンプルな要求のなかには大昔からの革新的運動家の要求のすべてが埋め込まれているのです。政府が同意すべき長い要求リストを編纂する時間はもはやなく、分極化した社会の不安定な状況の中でもしそのような要求が無理やり追求され多くの革命に繋がるなら、それは世界を変革する包括的な方法ではないのです。世界中で共通目標のなか集まる一般大衆を通して「システム」と呼ばれるもののパワーを弱める代わりに、今日の若い活動家の多くは、あたかもシステムをそのまま真似してその難解なプロセスに従事しようとしているかのようであり、政治経済変革のためのマニフェストを持つことによって物事を複雑化しています。私たちが生まれる以前から常にそうであったように、システムの分割的な複雑さは極度に古く有害である故、システムの代表者の都合の良いように操作された交渉を彼らとしようと試みるのは、無益で終わりがないことを忘れないようにしましょう。それは正に、政府を内部から改革しようと試みる善意の政治家が、逆に彼の内部から改革されがちであるように、システムを変革しようと試みる寂しい活動家は、システムが彼を変革してしまったことを最終的に発見するのです。

従って、抵抗最小限の道を選び、これが資源を再分配し、グローバル経済を再構築するよう政府を駆り立てるための最も確かな経路であることを認識しながら、共に第25条を支持しましょう。私たちが探すすべての答えがその中にあることを知る安心の中で、そのような要求は私たち自身の創造的な方法で表現されることが可能です。ひいては、分かち合いへの呼びかけが現在初期形態で表現されている富裕国などでも、世界の活動家の既存の要求の多くが既に、世界人権宣言に包括されていることを私たちは理解するかもしれません。この点において、アクセス可能な住居、施設や交通機関の公的管理、医療と高等教育の無料提供、または公平な租税を通してのもっと平等な再分配的社会のための様々な運動を観察して下さい。分かち合いの原理がこれらの予備的ラインに沿って各国内で制度化されねばならないことは疑いなく、そして従事する市民が各々の社会の中でこれらの課題の推進に当然熱中することは間違いありません。しかし、私たちの問題が根本的に他国のそれと同じであることをもまた認識せねばなりません。なぜなら、それが私たちをひとつに結び、(平和的ではあるものの)抑えのきかない国際的勢力にするであろうからです。

この新グローバル意識は事実、第25条を布告するための市民の戦略のエッセンスです。なぜならそれは一国だけでなく、常に多くの異なった国で同時に実践されるべきものだからです。経済成長と社会繁栄の問題との関係において先に考察されてきたように、この惑星はひとつの相互関係した身体であり、何世紀もの誤った集団行為の結果、厳密に国家的または一方的基盤では取り組み不可能な、明白に世界規模である人類の問題を解決するために、惑星規模のグループワークが必要な時点に私たちは到達したのです。これがなぜ、従事する市民の責任が第一に第25条の意味について行間を読むこと、そしてひいてはその認識から先例に倣うよう他国へ呼びかける明確な意図を持って自国全体で人員動員することなのかということです。

私たちの全般的な目的が、第25条が統轄する法として各国で制定されることだという事実への理解を保つと同時に、それはそのような法律がどのような方法で法制化されようと、世界の全政府がその持続を保証するために私たちが国連に権限を与えたいと望むということを意味します。社会保証が解体され多くの人々の不可欠なニーズの充足を犠牲にする有害な政策を、政府が追求し続ける殆どの国の現状が明らかにそれとはどう逆であるかを私たちは指摘して来ました。しかしもし第25条が全ての国の不変の基本法として制定されたとしたら、ひいては一般人の平和的な抗議デモを抑え込む代わりに、恐らく警察は政治家を逮捕せねばならなくなるでしょう ー 人々の多くは、国連によって遥か昔に保護されているべきであった基本的人権を守るために戦っているのですから。

この理解から世界の変革のための正しい戦略は、全国民の公共の福祉を保護することに大部分失敗していると知られる自国の政府だけに要求するのではないということを私たちは悟るべきです。それと同時に私たちはまた、国連が真に世界の人々を代表するよう要求すべきであり、それをもし断続して効果的に行うつもりなら、その呼びかけは大陸間規模で声を発せられねばなりません。結局のところ、一政府が他国によって圧力をかけられる時、国際司法裁判所の面前でその申し立てを提起する機会がありますが、世界の極貧家族や個人にとってどこにそのような機会があるのでしょうか。グローバル経済の国際的崩壊に続いて政府が裕福な金融機関に救済処置を施している時、貧困の不正のために援助を求めて彼らが行けるところは当然どこにもないのです。

従って世界の人々のハートとマインドを代表し、忘れ去られ死に行く貧困者のニーズに最優先権を与える国連が必要とされます。私たちの生活と自由などの歴史的人権及び基本的権利への乏しい配慮を持って、政府が私たちの最も貴重な公共機関や社会福祉を攻撃する時、私たち自身誰に文句を言うつもりでしょうか。例えば私たちは、生活の全側面を更に商業化している自由貿易協定や民主化に情熱的に異議を唱えるかもしれませんが、政府が私たちの最も基本的な社会的懸念を優先する代わりに企業を代表し機能している時、どのようにして私たちはより良い世界を築くつもりなのでしょうか。

これがなぜ、私たちが世界人権宣言の条項を持って取り組む必要があるのかというもうひとつの理由なのです。それは、大規模な大衆動員によって世界の人々が断続してこれらの共通に合意された達成基準を提唱しない限り、全ての国のために決してそれが実現されることはないからです。そしてそのプロセスから国家のリーダーが遂に選挙人を聞き入れ、それに従い忠実に行動し始めるかもしれません。しかしながら既存の政権のリーダーの一人がそうするであろう可能性は殆どなく、従って国連を全人類の真の大統領として、そして世界の貧困者に救済処置を施すための私たちの最高の希望として見なすべきです。国際社会の明白な意志を代表することにおいて国連の駐留がどのように無力であったとしても、世界のある地域内で紛争があり即時の解決策が見つからない時、ついで青いヘルメットをかぶった彼らの平和維持勢力が状況を監視し解決を求めるために入り込むのです。では、国連が世界の全市民の明白な意志を代表し始め、その結果、第25条実現するという人々からの使命のもと行動するために、溢れ出る世界的支持を通して権限を与えられると想像して下さい。国連がワシントン、ブリュッセル、クレムリン、そしてその他すべての政府本部へ次のように言うために使者を送るまで、確実にそんなに長くかからないでしょう:「もう十分に待ちました ー 世界の餓えて貧窮した人々を食べさせ保護する時です!」

若者は、この一連の活動に注意を払うことが世界中で驚くべき音を立てるであろうことと、それが私たちがかつて見たことも聞いたこともない社会的空気の中で起こる例外的な結果をもたらすであろうことに間もなく気が付くかもしれません。最も望まれることは国連に新たな命を吹き込むことであり、もし何百万もの人々が第25条実現の厖大な目標のために何ヶ月であろうと、そしてたとえ何年であろうと日夜絶えることなくデモを続けるなら、ついで国連連合総会への大幅な権限委譲と安全保安理事会の漸次の弱体化が最終的に目撃されるかもしれません。以前結論されたように、改革された完全に民主的な国連システムは再構築されたグローバル経済管理の監督において主要な役割を持ちます。しかしながら国連憲法の第55条に明白に説明されているように、その役割において意図された国連システムの機能は、安全保安理事会の拒否権の束縛から自由となり、企業の支配下にあるブレトン・ウッズ制度の影響から自由となり、そしてより大きくより信頼できる資金源を通してその基金調達の制限から自由となるまで果たされることはあり得ません。国連はアメリカ、中国、フランス、ロシア、または英国の政治や企業関係者の所有物でなく私たち万人のものです。それが、「すべての人の経済的、社会的前進」の促進の中で想定されたその存在の目的です。

これを心に留め、国連本部の周りに集まり第25条を布告する代わりに、アメリカの若者は彼らがなぜウォール・ストリートで抗議デモをし、「99%」の権利を宣言しているのか自問すべきです。「我々は99%」を宣言することは最終的に何の結果ももたらしませんが、もし私たちが第25条を要求するなら、ひいては貧困者が遂にはそれを聞きつけ参加するでしょう。そしてそこに解決策があるのです!サブサハラアフリカ、中国農村部及びインドのような地域の極貧者に、あなたがオキュパイ・ウォール・ストリートについて話すことを想像して下さい。彼らがあなたの国家的懸念にどう反応すると思いますか?グローバル経済がどのように機能するかを彼らに説明して下さい。恐らく彼らにはあなたが何を言っているのかわからないでしょう。クレジット・デフォルト・スワップまたは量的金融緩和政策の意味について彼らに説明して下さい。多分彼らは一言も理解しないでしょう。極貧のスラムや村では「資本主義」という言葉さえ聞いたことのない人が大勢います。しかしもしあなたが第25条の内容を彼らに読んで聞かせるなら、その時彼らの目が輝き、すぐにそれを理解するだろうことは確実です。なぜならその時あなたは自己の生活だけでなく、彼らの生活についてをも話しているからです。

知識人によって私物化され過度に複雑化される以前は、不平等や不正は常に貧困者の問題でした。世界の複雑な問題は貧困者の問題でもあります。従って、私たちは彼らを代表して話をするつもりなのか、それとも彼らが自ら話しをするために彼らを招くつもりなのでしょうか?なぜなら、大変貧しい人々は前述のように、薄汚さと惨めさの中で暗黙の死に至るまで、その境遇がどんなに困難で不当であろうと口を閉ざしたまま生きることに慣れているからです。しかし、彼らの貧困の無意味さを非難する何百万もの人々を通して表現される変革への要求を彼らが耳にする時、既に知っていたかのように彼らは頭の中にその代替を見ることでしょう。なぜなら彼らに関する限り、第25条は遥か昔に実行されているべきだったからです。

各々でこれを理解するために、私たちは貧困の現実を知的または自己満足的な無頓着さを通してでなく内面的、心理的に考察せねばなりません。それは、どのようにそれ自体の中で第25条が代替となるのかを理解するために、私たちは霊的、感情的に貧困者と「共にならねば」ならないことを意味します。連続する世界的デモンストレーションの中、善意の一般人が貧困の根絶を要求する時初めて、その代替が生命を宿しやって来て話すのです。それに続く政治経済改革は余りの高速ペースで起こるであろうため、富とパワーの拡大する集中に起因して豊かになり続ける富裕者など、良くない世界の動向の多くが覆され始めるでしょう。それは、世界の極貧地域への不可欠な資源の再分配において国々が協力し始める時、少なくとも暫くの間人類に一息つかせることでしょう。

赤十字社やオックスファムなど無政府組織の活動やその他の違った方法を通して、第25条が世界的に実施されることを人類は長い間要求して来ました。しかしこれらの断片的で物惜みのない努力は、豊富な資源を完全に活用し割り当てられた役割を断固果たすことを政府に義務付けるために、世界の大衆がそれらを確固として支持しない限り決して十分ではないでしょう。だから貧困者を参加させましょう!他国を参加させましょう!良識を参加させましょう!正当な理由のためとはいえ実りない抗議デモをし、僅か2、3千人しか従事しないデモンストレーションへ参加することに私たちはうんざりしているのではないのでしょうか。では、共に第25条を支持し、何が起こるか見てみましょう。なぜなら、もしあなたが飢餓と貧困の根絶のために街頭に立つなら、何人であろうとどこに住んでいようと関係なくやがて近いうちに何千万という人々が参加するだろうからです。もし遂にその時が来たなら、恐らく全主要都市にいる観光客もガイドブックを投げ出しあなたの隣に立つでしょう。世界のどこであろうと貧困は貧困であり、あなたの社会的地位や出身国が何であろうと不正義は不正義です。

それ故、富裕国の「99%」を賞賛することは誤った行為であり、誤った戦略です。なぜならそれは不正義が西洋化され、残りの人類には属さないことを暗示しているかもしれないからです。大多数の極貧者自身、2011年と2012年に多国を呑み込んだオキュパイ抗議デモについていまだ聞いたことがなく、そして例え彼らがそれらの様々な国の運動に同情したとしてもそれに関与する立場にありませんでした。しかし貧困自体を根絶するための抗議デモは万人が役割を担う世界的呼びかけです。だから第25条を布告することにより貧困者にアピールし、それによって壮大なアーミーを築きましょう。自国だけで社会的正義の必要について話すのでなく、万人のために基本的ニーズの即時の充足を確実にすることについて、国際規模でお互いにコミュニケーションをとり合いましょう。それは、私たちが知るように、万人に行き渡ることが出来る十二分の資源があるのですから確実に達成可能なのです。

例えば、各国でどれだけの食糧の余剰があるかまたは無駄にされているかを明確にする常識的な統計調査を通してなど、この簡単な事実を様々なキャンペーンための試みの中で独創的に説明出来ます。あるいは、利益の追求に妨げられることなく余剰資源を貯蓄し再分配する新グローバル経済の取り決めを通して、どれだけ簡単に政府と市民社会が無条件で生活必需品を各人に届けることが可能であるかを明確に示すことが出来ます。ブラント報告に含まれる中心的提案が交渉の場に戻るまで、革新的考えや無数の直接的行動を通して「私たち国際連合人」に政府が敬意を払い耳を傾けるよう要求しましょう:すべての優先項目を越えた世界的優先事項として、絶対的貧困の根絶により飢餓と栄養失調を消滅させるための緊急プログラムを目指して。

しかしながら「資本主義」または「システム」と戦い続けることによって世界を変革出来ないこともまた認識しましょう。それは、多くの無教育な貧困者がそのような複雑で好戦的な理念を理解することはなさそうだからです。「資本主義」という言葉自体が誤解を招き分割的です。そして、私たちが積極的に対立できる「システム」と呼ばれる実体のようなものは実際存在しないのです ー 世界には、理念の背後に隠れるかまたは本道から外れた意図を持って主義を乱用する人々が存在するだけです。資本主義は、裕福な政治的エリートが理解することのないそしてしばしば彼らとは縁もゆかりもない「民主主義」や「自由」の名の下で、彼らの自己利益に有利な法や政策を巧みに操作する彼らによって4、5百年間乗っ取られて来た単なるアイデアであり原理です。

ですから世界問題について他が資本主義を指差しシステムを責める時、騙されないようにしましょう。なぜなら資本主義原理自体が不正義、不平等またはスーパーリッチを意味することはあり得ないからです。私たちがシステムと呼ぶものは、それを作り出し維持して来た人間の意図以外存在せず、その大黒柱は野望、貪欲、利己主義、そして残酷さでさえあります。ですから全体としてのシステムは、大部分が不公平、自己中心的、無関心、そしてしばしば残酷です。世界の財政混乱と不正義を見る時、私たちが目にするものは資本主義ではなく、人生の霊的目的に対して無知で常識に欠け、自己に対してさえ愛を欠いた特定の個人の動機の結果です。お金、パワー、そして名声を追いかける人々が非常に大勢いるにもかかわらず、人類に仕え、他人の福利を保護することに真に関心がある人々をほんの僅かしか私たちは目にしません。

これは、筆者が資本主義をかばっているということではありません。それはその逆であり、同じことが社会主義や共産主義の原理についても言えます。本質的に、原理としての資本主義のどこが悪いのでしょうか。何も悪いところはありません。本質的に、原理としての共産主義のどこが悪いのでしょうか。独裁政権や権力欲の強い指導者によってこの本質的に霊的な理念がどのように頽廃させられ歪曲されたにせよ、それに悪いところは何もないのです。資本主義、社会主義の原理のどちらもそれらの社会組織の真の形態に近いものにおいていまだ何も実証されておらず、そして分かち合いの原理が正しい人間関係に基づき世界情勢の中で実現されるまでそれは決して起こり得ないのです。従って、一般人がこれらの誤解された言葉や肩書きに自己投影することは無駄です。世界問題について責められるべきは原理でなく唯一人間自身です。従って、資本主義やシステムではなく唯一人間だけが変わり得るのです。なぜなら、システムは単なる人間の考えと行為の産物だからです。システム自体は存在しません ー 唯一人だけが存在します。そしてそれにもかかわらず私たちが作りだした社会は余りに分割され不公平なため、私たちは自己の不満や不幸を奇妙にも「システム」のせいにします。それは、辿り着くには誤った潜在的に危険な結論です。

私たちは派閥政治や切りのない不和に基づいた人類の古いやり方に従うのではなく、違った角度から、そして更なる霊的理解を持って社会主義や資本主義の下地となる原理に目を向ける必要があります。権力層と「対立」し、そしてそれを他の「主義」に置き換えたいと欲する政治的運動は万人の共益を促進することには決して成功しないであろうし、社会主義者、共産主義者、自由主義者、またはその他何者かになることにまったく興味のない極貧者を包括することは決してないでしょう;彼らは家族を養い、安定した平和的生活様式に恵まれたいと欲するだけです。私たちはそれ故、資本主義や頽廃したシステムに対立した立場に立つことにより、何百年もの間繰り返し階級紛争や社会的排除の原因となったそれらの古い分割的プロセスに従事しているのです。

それはあたかも活動家が、理論上何も殺されるべきものがない時に、頭の中で資本主義を人格化しそれをナイフで殺そうとしているかのようです:私たちには起こっていることの真実を理解出来るだけです。それは本当は「資本主義」とはまったく何の関係もない商業化によりもたらされた戦争なのです。従ってあなたが資本主義と戦おうとする時、現状を維持するエリートに実際に挑戦するかまたは取り組む代わりにあなたは理念と戦っているのです。自分たちを「反資本主義者」と呼ぶそれらの抗議者を権威者はせいぜい一目見やって考えることなく彼らを一掃するでしょう。なぜならそのような行動主義は常に人口の少数派、そしてしばしば過激派からのみ成ってきたからです。しかしながら最悪の場合、既存の社会秩序に「対立」するどのような大衆運動も最終的には更に極端な社会的、政治的結果を伴い、暴動、混乱、そして暴力的な蜂起をもたらし得るのです。

従って、この分極化した現代社会で「私たちは革命が必要だ」と主張することは気狂いじみた無謀な提言なのです。なぜなら、革命という言葉は敵という言葉を肥やし、その敵という言葉は対立という言葉を肥やします;そして「対立する」内部の姿勢はついで精神的盲目と利己主義を肥やします。「私はあなたに対立する」という考えの心理的片われは頑固さ、傲慢さ、そして暴力であり(その表れが内的または外的のどちらであろうと)、それは必ず人々のハートを荒ませ、個人的、社会的両方のレベルで分裂と対立をもたらします。革命という言葉は全面的に時代遅れであり、そして今が、沢山の常識はもとより協力、善意、分かち合い及び世界統一に基づいた新制度の時なのです!

私たちがこれを聞き入れ、社会の原理として資本主義の代替になるものを要求することの無意味さを理解し、代わりに世界問題の元来の原因である現在の教育方法の代替になるものを提唱することになれば良いのですが。私たちが世界のどこに住もうと、どの言葉を話そうと、そして社会組織の外観がどのように違って見えようと、私たちは万人のニーズが基本的に同じであるひとつの相互依存した家族なのだという教養ある認識を持って、正しい人間関係の観点からすべての子どもたちが誕生当初から教育される必要があります。正しい教育はまた、根強い社会的分裂の解決やイデオロギー的考えの対立的様式の消失への第一歩を象徴する分かち合いの原理が、経済の構造及び実践の基礎とならねばならないという基本的理解を必要とします。

もし十分な数の人々が自己を再教育し、「左翼」や「右翼」などの無分別な言葉によってしばしば定義付けされるところの政治的「主義」の広く行き渡った条件付けを意識から抹消するなら、新時代が即座に始まることは可能です。新教育への必要性は多くの熟考と更なる考察を要求する広大な主題です。なぜなら、人間の創造性と自由に対する莫大な破壊的波紋を持って間違った考えとあらゆる形態の主義への自己投影を通して、何世紀もの間私たちがマインドを条件付けて来たからです。主に、世界情勢においていまだ権勢を奪い合う主要な宗教的、政治的イデオロギーに強制されることによって、何世紀をも通して人間の自由意志の甚だしい侵害の最も有害な結果を被ったのは一般男女です。

資本主義や社会主義、または何か他の知覚可能なイデオロギー的な敵に「対立」する広く行き渡った心理的態度について深く考えることによってのみ、私たちは問題の膨大さを理解し始めることが出来ます。それでもそれは、今後数年間において人間関係を促進させねばならない新認識を私たち自身で理解し始めるには有益な出発点なのです。「対立」という言葉が私たちの語彙と思考の中で「同意しない」という言葉に決定的に置き換えられるべき一方で、私たちはマインドの中での「左翼」、「右翼」、「資本主義」、「社会主義」、「無政府主義」、「自由主義」、そしてその他どのようなものへの自己投影も第一に放棄すべきです。「私はあなたに対立する」と言うことは敵意や暴力を暗示するかもしれませんが、「私はあなたに同意しません」と言うことは不必要な対立なしで対話や解決の可能性を暗示します。しかしながら更に意義深いのは、後者の思考設定は、あなたと私の間には本当の心理的分裂がないことを微妙に認識しています。それは例え私たちが社会的態度や観念化において異なっていたとしても、人間として私たちがどのように結ばれているかを認識することに役立つかもしれません。対立する政治的イデオロギー間の和解出来ない衝突があるとしたらひとつの「主義」がもうひとつの「主義」に勝つことではなく、私たち共通の人間性に対する共有の理解を通してそれらすべてを結束出来るものに解決策があるのです。それは、自己の内部の真の性質に入り込んだ教育を必要とします。

人口の大部分がより霊的でハート中心の包括的方法で思考し自己知識を持つよう教育されるなら、人間関係へのそのような姿勢が社会変革の可能性をもたらすため、これらの提言の中に感傷的または世間知らずなところは何もありません。「唯一ひとつの人類がある」ではなく「唯一私がある」という態度の裕福なエリートによって今日の資本主義は圧倒的に維持されていることがまもなく明白となるでしょう。私たちの今日の資本主義についての理解に心理的に大きく近づくには、その多様な社会組織形態がどのように貪欲や愛の欠如によって特徴付けられているかを実際に観察することです。人間がそのことに対して意識的になりそれに応じて意図を転換する時、まったく同じように資本主義がその外的表現を転換するでしょう。必需品やサービスの普遍的提供を優先する社会的に管理された経済背景において、資本主義が最終的に歯止めの利かない市場勢力の法則でなく革新の分かち合いに基づく時まで、国内及び国家間双方で制度化された資源の分かち合いのプロセスを通して徐々により非支配的で純粋な表現形態をとることは必然的です。

恐らく、私たちの意識内と社会全体においてこれらの変革の口火を切る唯一の道は、分かち合い、正義、そしてグローバル協力の時代のために、資本主義及び社会主義双方の各々を適切な形態に変換するためのドアを最終的に開くことの出来る、絶え間ないデモンストレーションと平和的集まりの中で第25条を布告することです。しかしながら第25条が社会主義や資本主義自体と何の関係もないという事実を更に自分自身で熟考することは有益です。なぜなら、この地球で万人が尊厳と自由を持って進化することを可能にするという意味で、それは唯一正しい人間関係の原理に関連しているからです。

私たちのイデオロギー的教育や趣好がなんであろうと資本主義に対立して立ち上がることは、理念と戦う理念へ及ぶ不条理であることを認識しましょう。その代わりに、最も包括的な方法で政治的違いを超越出来るひとつの要求を布告することにより実際的になりましょう。私たちには何万という異なる孤立した理念でなくひとつの統一した要求が必要です。更に、第25条を布告することは人類を全体として統一し、リーダーとしての未開発の潜在的能力を実現するようすべての人を招く一方で、資本主義と戦うことは非政治的な公衆を遠ざけ広範に及ぶ大衆の参加を制限します。何百万もの人々が「対立」のエネルギーなしでひとつになる時、何が起こるかを発見して私たちは驚くかもしれません。なぜなら、それは大変なインスピレーションと歓びを傍観人にもたらし、更に何百万もの人々がまもなく参加するだろうからです。世界問題の顕現の複雑さのすべてとそれについて執筆され続ける本のすべてにもかかわらず、実に最後には世界問題の解決がいかに簡単であるかを私たちは発見するかもしれません。

解決策は、知的生産物や複雑な学術理論にあるのではなく、一般人のハートが自発的で止むことのない平和的な、そして驚異的に膨大なデモンストレーションに参加することを唯一必要とするだけです。献身的な活動家はあの「革命」という脅威的な言葉を完全に避け、その代わりに、前例のない世界中の人々の結束のために確実な手段であるハート軍の形成の観点から考えるべきです。古いイデオロギーや主義ではなくハートを通して話す時です。私たちは、世界を「不服従」、「対立」、または「反」という言葉を通して変革することは出来ません。しかし、新制度のためにハートからハートへコミュニケーションをとることにより、想像を越え世界を変革出来るのです。各社会の大部分がこの集団的試みに参加し、そして根気強く第25条を要求する時、それらの平和的デモンストレーションのエネルギーは主に無意識的であるとはいえ、現在人類が準備している新しい地球の啓示をもたらすでしょう。従事するハートを伴うそれらの世界的抗議デモの集まりの響きを通して、そして毎日断続してデモを行う何百万もの人々の献身を持って「どのように」世界を変革するのかという疑問は自然と明らかになり、それらの変革を止めるものは何もないでしょう。

私たちの腐り切って頽廃したシステムの最大の敵は人間のハートであると言えるでしょう。なぜなら、ハートの特質は大変簡素でありながらも共通の目標においてハート同士が共鳴する時、驚くほどパワフルになるからです。私たちが自分たちの子供の面倒を見ること、または家族を守ることにハートを従事させるのと同じように、何百万という家族と極貧者が遭遇している酷い貧困とその中の多くの人々が飢餓や予防可能な病気から死ぬ危険にさらされていることへの認識と確固とした懸念を、大衆デモンストレーションと融合させる必要があります。これは、殆どの活動家と革新的な思想家がグローバルな変革のための必須条件として認識出来ていない要素です。なぜなら一般人のハートを目覚めさすことなくして、世界をより良い場所にするためのどのような試みにおいても大衆を参加させる希望はないからです。

もし革命について言及されねばならないのであれば、それをハートの革命と呼ぶのも良いでしょう。しかし、それはアラブの春とそれに伴う蜂起についての政治演説の中にいまだ見られる主義の古い条件付けからは程遠いものです。私たちがここで考察している世界再生のための戦略は、主に独裁主義の頽廃的政治体制の統治の廃止に関係した、エジプトやその他の中東の国々で起こったものとは異なります。抑圧的なリーダーに対するそのような抵抗は、特定の国の人々の大義です;私は同情するかもしれないが、それが自国で起らない限り参加することは恐らくない。しかし世界の貧困の根絶を布告することは、もしそれを絶対に成功させるつもりなら世界規模のハートの革命を必要とする、すべての国と世界の人々の大義です。

この提案は、活動家が熟考し、理解を試みるべき重要なジレンマを浮き彫りにします。変革と正義のために戦うことは間違いなく必要であり賞賛に値いしますが、主義とイデオロギーによって条件付けられたマインドと戦うことは状況を更に悪化させ得る危険なタスクです。その条件付けのメカニズムに宿るのは人類の過去の間違いの無限の繰り返しであり、それがなぜ、「対立」する姿勢を持つことなくハートの特質を通して正義と新たな生活のあり方を私たちが要求せねばならないのかということです。

しかしながら、これらの簡単なガイドラインは漠然としたユートピア的考えとしてではなく、どのように戦いそして実際に勝利するかということのための現実的な戦略として見なされるべきです。その戦略とは、人間の苦しみの即刻の根絶への懸念を示す平和的な大衆デモを通してすべての国で無数の人々のハートを従事させることによるものであり、それは、その完全な開花においてこの惑星がかつて経験しことのない深く感動的で歓喜的壮観となるでしょう。多くの活動家はより良い世界をつくる可能性を現在断言していますが、そのような世界はハートとマインドの特質の調和への従事なくして決して実現され得ません。そうすることによりもはや利益、イデオロギーあるいは自己利益でなく、私たちの間の極貧者に与えられる第一の考慮と共に万人の公益に向かって人間の知性がようやく正しい方向へ動き始めるのです。

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今日、最も必要とされるものは革命ではなく、日常の思考や行動の中で明示されるべき常識であり、簡素さであり、知恵です。第25条を布告することは、これらの資質を抗議活動にもたらす直接的な方法であり、それは象徴的かつ文字通りの点で富裕者と貧困者の間の緊張を緩和し両者を話し合いへと導く程でしょう。今日、正しい考えに沿ったように見えるであろう「霊的革命」を呼びかけている人々さえいますが、人間関係が欲望、混乱、無知、そして主義やイデオロギーへの自己投影に基づく時、私たちの集団意識の突然の啓蒙を要求することは無駄であり道理に合いません。

西洋でヨガの教えの導入と共に既に起こった「商業化された霊的革命」は別として、このように分割され物質的な社会でどのような種類の霊的革命を起こせるのでしょうか。社会全体で最初に心理的革命を経験せずして霊的革命をもたらそうとするのは絶望的です。そうすることによってハートを従事させ、大衆抗議の中で共通の関連性を通して自己の真の姿を私たちは知り始めるかもしれません。地球上のすべての人が尊厳、信用、自由の中で生きるために必要なものを手にして初めて、私たちは霊的革命を要求することが出来るのです。そうでないなら、その革命がもし人格化されたならそれは言うでしょう。「あなた方万人のもとに来たいのはやまやまですが、あなた方が、あなた方自身の問題を片付けるまで私にはそうすることは出来ないのです」。

激化する不平等、破壊的紛争及び気候の激変によって破壊される世界の中で自己の霊的革命を得ようといまだ奮闘する多くの人々がいます。そのような状況下では道理に反して、私たちの時代のより深淵な霊的危機に対して認識のない個人としてのみ救いを得ることが可能です。彼らはアシュラムや修道院に避難して何年も隔絶の中瞑想にふけるかもしれませんが、世界が劇的に方向転換をしない限り果てしなく続く社会的混乱や環境の激変の時代が差し迫っている時、彼らは何のために瞑想しているのでしょうか。その上、飢餓者を食べさせ、私たちの最も貧しい同胞へ仕えることもまた霊的救いへの道ではないのでしょうか。筆者に関して言えば、21世紀において豊かさのど真ん中で飢餓の犯罪が続く限り、そして少なくとも「他の人々はどうなるのか?」という態度を持って第25条を布告するよう私たちを導く惑星規模の心理革命が起こるまでは、霊的革命に関するどのような話もされるべきではないのです。

このように世界中でデモをする人々に関する事実そのものが、人類はひとつなのだという歓喜的な認識を通して実現されるだろう心理的革命であり、それらのデモンストレーションの声は事実この地球で霊的革命の始まり自体を構成するような方法で磁化されるでしょう。その方向性に沿った絶え間ない世界規模のデモンストレーションの新たな蜂起は大変な尊厳と力を人々に与えるであろうため、まるで私たちが常に兄弟姉妹であったかのように、そしてそうすることを選択していたならまるでいつでも信用がそこに存在したかのように、言葉、人種及び階級の障壁なしでお互いを見ることでしょう。新たな法とグローバル経済の取り決めを通して第25条が一度実現され始めるなら、自己を人類の外交官と呼ぶことの意味をその時私たちは知るでしょう。同時に、新発見された尊敬と信用、そして勿論、私たちが愛と呼ぶエネルギーと同様に、他人に対しての認識から生じるこれまで未知であった性質の不思議な驚異が男女のマインドに生じるでしょう。

同じ統一された要求の中で多くの国が噴出するという私たちのヴィジョンに比べると、2011年以来多くの抗議野営地において既に目撃されて来た出来事の意味合いは色あせるであろうにもかかわらず、それはこの浮上する意識の小さな兆候なのです。それが例え臨時ライブラリーで本を共有することや無料で食べ物を分配するだけのことでも、共に「わたし」という考えなしで他へ仕えることに歓喜が見出される最近の平和的な大衆デモンストレーションにおいて人々がグループとしてやり取りする時、彼らがどのように振る舞うかをあなたは観察したことがありますか。抗議者は典型的におよそすべてを分かち合い、その表現において感動的、創造的、治癒的な生きる喜びと連帯感を体験します。従って、筆者は読者に尋ねたいのです:これはヒッピーじみたものなのか、それとも恐らくあなた自身が感じた現実の出来事なのでしょうか。

これまで私たちが目撃して来たことは、新たな生活様式の実現をもたらすための無意識的な訴えかけであり、それはこれまでに例を見ない惑星的規模で起こるだろう出来事の徴です。デモンストレーションの度に世界のすべての国で何ヶ月にも渡り何億人という人々が経験し表現する、ハートを呼び起こす驚異の完全な解放をどうか想像してください。最近起こった大衆抗議の散発的な波は実際、「私たちはより良い世界を望んでいる」と言っているわけですが、あらゆるところで人々が直感的に掴もうとしているこのより良い世界をどう始めるかについての指示が与えられていません。

私たちは第25条を布告することによってまた、世界資源の分かち合いが本当にこの文明危機への解決策なのだという普遍的意識をもたらすことをも促進するかもしれません。なぜならそれは、従事するハートと大衆の善意の中、断続する世界規模のデモンストレーションを通して実現されるであろうこれらふたつの概念の間の相互依存の関係があるからです。それは常にシンプルな関係だったのですが、現在は寓話的に語られるだけです。それは、人間が深い眠りから目覚め、彼の神聖な可能性の純然たる真実を理解し始めるまで数え切れない人生を経て、自己が誰なのか認識するための長い旅であるからです。無知、貪欲、主義に対する執着によって人間だけがすべてを複雑にする傍ら、神の愛や生命の中ではすべてがシンプルです。

従って、分かち合いの原理である母艦へ人類を導く前に行方不明の一行、すなわち人類を捜索するために出発する円盤として象徴的に第25条を考えてみましょう。それはそういった意味で第25条がそれ自体の中に解決策と代替案を秘めており、人類がひとつとなり世界規模の心理革命の真っ只中それを大声で要求する時、その事実は明らかになるでしょう。その時、多くのテストチューブのコルク栓がすべて一気に抜け泡が溢れ出るように、最も予想外の啓示を私たちが体験するまで化学反応が起こるのです。それは、人類はひとつであり、それ故人生は貴重な贈り物であり、真に生きるに価するということです。ひいては第25条が分かち合いの原理への帰途へと私たちを導き、世界の再建設が開始出来る時が間も無くやって来るでしょう。

 


 

パート5:新たな地球のための教育

もうひとつの世界が可能であると断言し本当に信じるなら、ついで盲目的な政治家、自分たちの集団無関心と自己満足的な無頓着さ、そして真実と自由への道を見つけることから自己を妨げているすべての主義について私たちはどうするつもりでしょうか。批判、あるいは恐怖や非難ではなく、歓喜と善意をもっていつ私たちはお互いを見るつもりなのでしょうか。短い人生の中で例え一度でも、通常と違った毎日をいつ私たちは経験するつもりなのでしょうか。もう一度繰り返します。その答えは、私たちがどれだけ長い間それを否定しようと、地球で自由をもたらす生命の真実、人類はひとつであるという啓示から始まる愛と知恵を通しての自己知識に基づいた新たな種類の教育なのです。従って、私たちは今日革命ではなく正しい教育を必要とします。なぜなら、万人がわかち合わねばならないひとつの惑星の資源内で私たちがより簡素に、そして平等に生きることを学ばなければ、第25条実現への希望は永久にないからです。

人類は主義や何世紀もの人間の資質についての誤った考えによって余りに条件付けられているため、世界中で第25条の完全な実現を保証するだろう法を維持するための新たな教育方法が即急に必要です。そうでなければどのような法律も長続きしないでしょう。地球と他の人間を徹底的に破壊することに卓越した権力の座につく多くの「高学歴」者をつくりあげた「良い教育」と称されるものが、パーソナリティーへの投影や認識された成功基準を達成することへのグラマー(幻惑)に基づく機能不全社会の中で、正しい教育が何を意味するのか一般的に私たちにはまったく見当が付きません。これは、貧富格差の極端さが余りの割合に達しそれ自体の中に第3次世界大戦の種を秘める傍ら、生命自体を維持する天然資源基盤を迅速に消費する社会に関連して観察されるべき否定出来ない事実です。すべての首相、大統領またはチーフエグゼクティブがいわゆる良い教育と呼ばれるものを受けたにもかかわらず、彼ら全員が相も変わらずこれらの悲惨な動向を永続させているのです。

特権階級の子供が学校へ行く時、彼らが正しい人間関係の観点から教育されることは決してなく、利益と商業化勢力によって悲惨にも汚染される一方で、人生の意味と目的についての何世紀もの間違った理解によってむしろ洗脳されます。世界をより良い場所にしようと高い熱望を生み出す幼い子供や十代の若者は、例え彼らが社会へ「お返しする」かまたは公共心に富んだ使命を追求するくじけることのない大望を持ち続けたとしても、教育終了後、これらの勢力に条件付けされてしまっているだけでなく、完全に汚染されたマインドを持って戻って来る運命にあるのです。

私たちは皆、どのように考えるべきかを私たちに命令し、成功を達成するように私たちを洗脳し、野心家になるよう私たちを培養し、そしてその結果として私たちを分割し、究極的に自己の破壊と乱用を生みだす教育の子供なのです。私たちが今日知るところの教育はますます、多くのオルタナティブ・スクールやより霊性主導の学校やカレッジにおいてでさえ、成功した「偉い人」となるためにプログラムされた大量生産のロボットをつくる工場のようになってしまいました。従って、私たちを誤り導いて操作し、そして自己の存在の真の資質について意識的な認識を拡大することの出来ない教育に私たちは皆さらされており、それは代わりに貪欲、利己主義、そして最終的には他人と地球の苦しみへの無関心の原因となる個人主義的感覚を伴った野心を私たちに植え付けるのです。

人類はひとつの進化の中で不滅であり分割されることは不可能です。それにもかかわらず、物質、誤った考え、そして誤った教育方法への誤った自己投影の結果として、無数の人々は自己があたかも社会の一部でないかまたはなぜか世界が自分たちの敵であるかのように感じるほど、私たちは沈み込んでしまっているのです。活動家が、システムが彼らに対立しているとしばしば思い込むのと同様に、極貧者は自己が人間の文明の一部でないとしばしば思い込むのです。その一方で「良い教育」を成し遂げ、商業化の利己的術に従うことによって高い社会的地位を達成した人は、「私は、成功した特別で値打ちある一握りの人間だ」と書かれた旗を自己の潜在意識に打ち立てるよう条件付けられているのです。

人類はひとつであるという霊的理解から世界情勢を包括的に見る時、どのような学校や一流ステイタスを持つ大学においても適切に教育されている人は一人もいないと私たちは結論付けるかもしれません。その中核として商業化を選んだ機能不全社会で、子供を霊的、心理的に健全な方法で教育することは不可能です。私たちが本当に生み出しているのは内部の自己の教養ある認識を通しての「良い教育」ではなく、組み立てラインにのった「良い消費者」だからです。商品化された生産品とサービスの切りのない消費者となるよう私たちは飼育されているだけでなく、私たち自身の不注意な人生の乱用を通して自己を消費するよう養成されているのです。自己で考えず、自己知識を持たず、愛情ある認識の中で生き行動するよう教えられておらず、外に向かって商品を消費し、内に向かって自己を消費するであろう人、それは彼が自由で悦びのある人間ではなく「自己が商品」としてより良く述べられるということを意味します。自分たちに授けられたすべてのエネルギーや美をもって創造的となる代わりに、内部の認識の欠如を通して睡眠状態及び自己満足的で居続けることを私たちは好むのです。それ故、私たちは自分たちの最も貴重な特質を「消費」し、消耗しており、知らない間にじわじわと霊的飢えに苦しんでいるのです。

政治的、経済的、社会的、環境的、そして感情的に持続不可能な大衆消費パターンに続いて貪欲、自己憐憫、鬱病、寂しさ、そして薬物中毒による心理的な自己破壊を通して、意識しない自然界の乱用などすべてにおいて私たちは思い付く限りの方法で自己を消費しています。自己の内外両面で起こっているすべての苦しみへの無関心を通してまで私たちは「自己消費」しているのです。これがなぜ、同じ疲労と混乱の日々を変わることなく毎日延々と繰り返しているように感じられるのかという理由です。なぜなら、それに気がついていようといまいと私たちは皆ある程度、自己の人間性を消費しているからです。この社会的混乱と自らに課した暴力の真っ只中で、それでも多くの場合、私たちは余りにも頑固に絶え間なく良い健康と捉えどころのない幸福を探求するため、自己の人生を犠牲にする必要があると信じる程、哀しみと痛みに圧倒されるのです。それは自殺の行為を通して自己を破壊する、最終的な悲しい試みとして表されます。

一般的に私たちのリーダーは、信念、主義、無知の世界に生きるよう自己を誘導した残りの私たちのように、正しい人間関係の意味に関して混乱し歪曲した見方を持っています。現代社会のすべての不平等と惨めさの中で政党のリーダーとなることは、実際、子供の人生において愛情ある認識を維持し、そして青年期を越えて内部の無執着と知恵へと導く自己知識に基づいた教育の欠如を通して、人類がどのようにそれ自体を分割したかということの象徴です。そのような教育は、品位を下げる上位と下位の意味合いを持つリーダーシップという言葉の今日の私たちの理解に対極します。なぜなら、人間に追従するプロセスの中で、自己の霊性、創造性及び生来の聡明さを拒むことにより、自己満足と無関心の状態へと人間は沈み込んでしまっているからです。率いる者と追従せねばならない多くの者。物質的豊かさや権力の利己的な蓄積を崇拝する機能不全の、そして道徳的に退廃した社会での政治的リーダーシップは常に更なる混乱と社会的分裂の原因となり、常に更なる抑圧、暴力そして広範囲な苦しみの原因となり続けるだけです。 

使い古された主義を私たちの疲労した人生と子供たちへ授けるために、すべての政治的候補者がどこからともなく現れるところの、ひとつの人類の存在の理念そのものを否定する低俗なゲームに政治がどのように化してしまったかを日常生活の中で明白に目撃する傍ら、どのような種類の民主主義について私たちは話しているのでしょうか。主義に追従すること自体が低俗行為であることから権力の座に飢える政治家について考えることを望まず、代わりに「ああ、政治か。その言葉さえ聞きたくない!」と答える多くの人々を誰が責めることが出来るでしょうか。右や左の政党に密着し追従する他の多くの人々もまた、一般的に正しい人間関係と私たちの内在する霊的統一の観点から考えられず、最近の政権争いで彼らの選んだ政党が他のすべてに勝つことに、より興味を持っています。とりわけ、新しいリーダーが減税または恐らく住宅ローンの減額をもたらすという希望の中でもし彼らが主義に忠誠を誓い、それによって自己満足と偏狭な人生のあり方を強化するなら彼らもまた政治家と同等に低俗なゲームの一部なのです。人生と自己知識は私たちが「私の人生」または「私の権利」と呼ぶそれらの自己中心的箱の中だけに限定された意識ではなく、常に人間関係を通して私たちの意識の拡大に基づいて来ました。この現実を理解することを生涯を通して拒否しひとつの政治的主義を他の主義に置き換えることにより、私たちは繰り返し自己と他人を騙しているのです。

この混乱の時代において大きな選挙戦は国内で更に多くのストレスと分裂をもたらし、そして心理的レベルで投票の行為はその社会の拡大する不和と霊的断片化を象徴します。これは、普遍的投票権とより良い民主主義的表現のための多くの歴史的な奮闘をはねつるためのものでなく、より包括的及び霊的知覚能力を持ってこれらの民主主義とリーダーシップについての疑問を考察するためのものなのです。経済が崩壊している時、商業化が人間と自然を乱用する中蔓延っている時、環境が余りに急速に劣化して最後にはこの惑星に住むことが不可能になるかもしれない時、私たちは誰に、そして何のために投票しているのでしょうか。

右または左の主義にただ投票することは、唯一更なる痛みと分裂をこの大混乱の中からもたらすだけです。なぜならそれは、私たちが自己満足的な無頓着さを放棄し、意識的な認識を広げ、私たち自身で世界情勢を変える責任を引き受けることをいまだ拒否しているからです。もし私たちがもともと彼らを当選させること以外何もしなかったのなら、その場合、政府が私たち自身を反映しているだけではなく私たちにそれ以上の価値がないということであり、これらの問題を彼らのせいにすることは出来ないのです。選挙運動の贅沢で不穏な空騒ぎへの参加を拒む無関心で疎外された無投票者も含み、政府と投票者は同一なのです。本当に長い間、不適切な教育に私たちは捉えられて来たため、これが、社会が機能出来る唯一のあり方だと考えているようです。そして私たちが想像出来ない違った生き方の基盤となる正しい人間関係なくして実際には世界情勢に調和や平和はあり得ないのです。

今日見られる競争心の激しい権力に飢えたリーダーがいる限り、対立と社会的分裂が絶えることはないでしょう。そしてこれらのいわゆるリーダーに追従し続ける人々がいる限り、私たちの生来の霊性、創造性及び知恵への無意識的な否定が絶えることはないでしょう。しかし愛があり、自由があり、主義に条件付けられたマインドでなく敬意と信用があるところには、ついで権威もリーダーシップもないのです。そこには指針があるのみです。現在の形態のリーダーシップが更なる追従者をつくり私たちの全問題の根源となる一方で、真のリーダーシップは指針を与えます。従って、正しい教育を通してすべての人が一度自己知識を持つなら ー 私たちの断続する進化のためのこの必要な段階へ到達するために人類が文明的(またはむしろ霊的)危機を乗り越えられると仮定すると ー その結果、リーダーを選ぶための投票はおおよそ不可能となるでしょう。そしてもはや政党の必要はなくなるでしょう。投票によってではなく、公益の代表者として彼らの知恵と包括的姿勢に対する公衆の認識によって選ばれた官職で仕える、任命された人々の一団があるだけとなるでしょう。そしてそのような代表者の第一の義務は、すべての人の必需品の常時確保を保証する一方で彼らが魂の認識の中で成長し、霊的進化の中で人類への奉仕を通して自己を誘導するよう彼らを備える教育をもまた同様に保証するということでしょう。

草の根的社会運動において団結する若者たちは、来るべき時代を定義付けるであろうこの新たな様式を感じ始めており、明確なリーダーシップ構造や集中型の権威なくして自然に出現しています。なぜなら、彼らは主義に基づかず従事するハートを通して良識の点から考え始めているからです。大衆のエンパワーメントや参加民主主義の中の多くの試みを通して、もしすべての人の意識が大多数派の最大利益のために協力するよう誘導され、それによって社会正義と正しい人間関係の追求の中で自己のリーダーシップの可能性を実現するようすべての人を備えるなら、社会統治にリーダーが必要無いことを既に彼らは発見しているのです。

しかしながらこの新意識も、またそれが挑戦するシステムの性質故に膨大な問題に直面します。それは、少数派の特権階級の裕福層や有力な既得権益など各国の何百万という追従者の支持を持つ自己利益、競争及び派閥政治の古いやり方に基づいています。しかし抗議者は、彼らの理念や活動を指揮するリーダーを外部に探すことなくどのように世界中の無数の人々の支持を得ることが出来るでしょうか。この莫大数の市民参加開始への正しいアプローチは疑いの余地なく:私たちが自己のハートを起動させ、止むことのない平和的デモンストレーションを通して第25条を布告することによって、更に幅広い公衆へ訴えかけることを必要とします。例え私たちのために努力しようと正しく仕事をできるリーダーは存在しないのですから、一体となって動く大規模な抗議デモを自分たち自身がオーガナイズしない限り、もしより良い世界が投票箱によってもたらされると信じるなら悲しいかな私たちは間違っているのです。そしてそれが特に、ある政党に自分たちの人生を支配する権威を私たちが与えていることを意味するなら、自国及び海外双方でより恵まれない人々のことを考えるよう国を教育しようとしない政治家のために、なぜ私たちは投票すべきなのでしょうか。

これらの心情が、主流の民主的プロセスへの支持をやめるべき指示として理解されるべきではありませんが、あなた自身も国内選挙が危機的な世界情勢へ何ら違いをもたらすのか自問したことがあるのではないでしょうか。政治家の投票と家庭のゴミのリサイクルを比較することが可能です。双方の行為は必要で賞賛されるべきですが、どちらの行為も悲惨な世界的動向を巻き返すために余り効果はないのです。プラスチックをリサイクルすることが、地球温暖化の効果を緩和するために十分なのでしょうか。そしてあなたの投票は世界中の飢餓と貧困を根絶するために十分なのでしょうか。明らかに十分ではありません。従って、これらの難しい問題を解決し始める唯一の方法は、前述のガイドラインで提案されているように、街頭へ出て大規模な集まりの中絶えることなくデモンストレーションをすることなのです。

私たちが自問すべき本当の疑問はなぜ政府が世界を救うことに失敗しているのかということではなく、なぜ自分たちが当選させた代表者が適切な行動をとるよう彼らを駆り立てることに私たちが失敗しているのかということです。今日の世界のリーダーが人類全体の最大利益を促進することを真剣に望んでいると仮定すると、不道徳で頽廃したシステムの支配に一人で打ち勝てる政治家がいないことは本当かもしれません。しかし投票される男女に、第一の懸念として飢餓と貧困を優先せねばならないと何度私たちは要求したのでしょうか。第25条の観点から唯一真の統治者とは、政府が医療、住居、食糧及びその他の必需品の提供を満たすという重要な役割を疎かにする一方で、最大限の努力を投じて最善をつくす何千という無政府組織のワーカーなど、貧困者に仕えるために投票箱でなく人間のハートによって選ばれた人々です。

更に、1日1ドル以下で生活する人の視点から民主主義の意味を考察すること、そしてひいては生存のための日々の奮闘の中での投票が、どのような成果をもたらすのか自問することは有益です。「投票は私のパワーであり権利です」とあなたは言うのか、それとも、「民主主義などどうでも良い。私は食べたいだけだ」と答えるでしょうか。富裕国の国民として、税金削減についての自己利益的懸念、私の年金の増加、移民抑制及びその他のことの中で私が余りに行き詰まっているかもしれないため、ビジネススーツ姿の狡い政治家によって授けられた私の唯一の自由は、私が選んだ政治的主義に投票することです。もしそれが、あなたが意味するところの民主主義と自由であるのなら。しかし、遠方の村またはスラム街の絶望的な貧困者として二枚舌の政党の候補者によって賄賂を渡されるか強要されるかしない限り、私が投票を頼まれることはまったくありそうもないのです。例えば、もし私がインドに住んでいるとしたら、国が毎年兵器に400億ドル以上を使う傍ら最大の栄養失調者数を持つにもかかわらず、私は自国を世界の最も偉大な民主国家と呼ぶことになっているのです。あるいは、恐らく裕福な政治家から私が授かった唯一の自由が政府の援助なしに貧困の中死ぬことであるところの、アフリカのどこかの隔離され紛争だらけのコミュニティでは、私は民主主義という言葉を聞いたことがありません。

従って、ひとつの人類についての霊的理解を通して真にグローバルで包括的な展望からこの疑問に目を向けるなら、どのような種類の民主主義について私たちは話しているのでしょうか。資本主義者が民主主義について話しており、社会主義者が民主主義について話しており、今日ファシストさえが民主主義について話しています。しかし、栄養失調で死にかけている人に投票する自由を誰が与えるのでしょうか。また別の政党を当選させるための票でなく、生きるための票を?これは、国内で正義や「私の権利」だけに焦点を合わせる代わりに、私たち全員によってその人に与えられているべき票です。私たちがこれまで明確にして来たように、世界の飢餓者が生きるための票が政治家によって与えられることはないでしょう。それは、第25条の実現への一致した要求を通して、唯一街頭に立つ一般人だけがもたらすことが出来るのです。そしてそのような票が、私たちのやる気のなさや無関心を通して与えられることは不可能です。それは私たちのハート、私たちの慈悲及び私たちの常識の参加を通してのみ授けられるのです。しかし、命を脅かす貧困の恐ろしい現実が何十年も根強く存続して来たにもかかわらず、その間ずっと私たちが行動出来なかったのは真実ではないでしょうか。もしそうであるなら、私たちは恥を知るべきです!

自分たちが立ち上がり行動する代わりに「実行しない政府のせいです」と言う人を大変気をつけて観察しましょう。私たちの霊的統一及び相互連結の視点からこの心理的傾向を再度感知するにあたり、資源が有り余る世界で不必要な極貧の犯罪を根絶することに私たちもまた同様に参加しないことには、人が貧困の中死んでいる時に政治家を非難するその行為自体が内部で自己を人類から切り離すということなのです。私たち集団での自己満足的無頓着さは、私たちが「貧困者の病気」としてあるウィルスを述べる時の言葉の引用の中にそれとなく暴露されている程です。それは、あたかも貧困者はどこかしら私たちと異なり彼ら自身の軽率さによって生み出されたこれらの致命的な病気への責任が、彼らにあるかのようです。大部分が治療可能な病気の集団発生は、本当に貧困者のせいなのでしょうか。それとも政治家のせいなのか、あるいは私たちが知ることのないその人々の予防可能な苦しみへの自分たちの無頓着な態度を通して、本当は私たち全員が責められるべきなのでしょうか。実に、第25条がすべての国で法として実現されるようもし皆で要求していたなら、私たちは遥か昔に発展途上国での病気の根本原因や健康格差に取り組むことが出来ていたことでしょう。私たちのすべての兄弟姉妹のための適切な住居、医療、衛生及び十分な栄養摂取によって、多くの致命的疾患は最近何十年かの間で復活する代わりに既に過去の歴史となっていたかもしれません。

このような内省は、常識の観点から考えるということがどういうことなのか、そして世界経済情勢を統制するために分かち合いの原理を提唱するということ − それは単純な理念や理想郷的提案ではなく本当の人生が存在するところなのですが − がどういうことなのかを示唆する手助けをしてくれるかもしれません。第25条を布告する常識的戦略に続く同情的な世界規模のデモンストレーションによって、貧困者を支援しようと試みる多くの援助組織の努力が強化されるまで、彼らは常に任務に圧倒され最終的には仕事へのやる気を失ってしまうでしょう。全世界に絶え間ない苦闘と貧窮状態に生きる何百万人という貧困者がいます。その多くが、もし招かれ、彼らの状況が変わり得るという希望が与えられるなら、いつでも外にでて長期間抗議する用意があるのです。

従って、どのような行動をとるべきかこれ以上問うのは止めて街頭に出ましょう。そしてあらゆる国家と人々の利益のために、話し合いの席で全政党と協力することを誓うと共に、飢餓と貧困の根絶が彼らの会議事項の最重要項目でない限り、どの政治家へも投票するのを止めましょう。このような極端な手段が政治情勢において正常さを目覚めさすために必要であるこの時、この段階にまで私たちが行き着いてしまったことがどのように妙で悲しいことであるにもかかわらず、これが世界変革への常識的な一連の行動なのです。人類がひとつの大きな機能不全の家族のようであり、その多くの子供たちが不適切な扱いを受け、愛情を受けず、最後には歩道に立ちすくみ両親に抗議することを止む無くさせられることを単に想像して下さい。その損傷した家庭にとってなんと悲しく衝撃的な訴えであり、そして最も包括的、霊的観点からこの惑星で起こっていることについてのなんと悲しい例えでしょう。

豊かさの中の飢餓の惨禍など想像もつかない大変平和で進化した惑星に私たちが住んでいると想定して下さい。ついで地球での生活を特徴付ける大変大きな分裂、繰り返す紛争、そして不必要な苦しみを私たちはどう説明するでしょうか。巨大な双眼鏡を覗き込むだけで遥か下方でどのように人々がお互いにやり取りしているかを観察でき、この美しく豊かな地球に私たちは宇宙船を着陸させる必要さえありません。もし街頭で暴力的な抗議デモが見えたとしたら、地球全体の至るところにある霊的不均等さと同様に、それは政府と人々の間に存在する亀裂を象徴し、従って「そこへ行くのは止めなさい!」を意味するでしょう。しかしもし分かち合い、そして歓喜や善意を表現する平和的デモンストレーションにおいて集まる何百万もの人々が見えたなら、その時それは、もはや分裂したままでいることを望まず、疎かにされた同胞のために立ち上がる人口の大部分によって示されるように、ひとつとなった群衆は惑星的進化を象徴し、従って「注意深く見続けなさい!」ということを意味します。ひいては地球がその家族関係の性質と目標を完全に見直し、そしてその世界情勢と経済的取り決めの中で最終的に分かち合いの原理を実現するのは唯一時間の問題でしょう。

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要約すると、一点集中する世界の危機を解決するために、二つの主な解決策があると私たちは見定めるかもしれません。第一に、利益、競争及び自己利益によってもはや動機付けられることのない新たな形態の世界的交流を通して、国々の間で不可欠な資源を分かち合うことです。そして二番目に、より協力的、より慈悲的、より簡素な生活様式を維持するために、介在年に必要な認識をもたらすことの出来る新たな教育を開始することです。21世紀に人類は、商品やサービスのグローバル化された貿易(現在の形態においてそれがどのように不均等で不平等であろうと)を通して、あるいは私たちの世界的融合や、興味の共通性を示す世界的なコミュニケーションやスポーツイベントを通して、そして莫大な犠牲者を伴う自然災害に次ぐほとばしる同情と寄付を通してなど、自分たちの相互連結と統一を大変多くの方法で既に証明しています。各国の各人が正義、平和並びに正しい人間関係を成就することに関連して世界資源の分かち合いの意味と重要さを理解するまで、新たな教育が私たちの惑星規模の相互依存に関するこの初期段階の理解の上に積み立てられねばなりません。 

常にひとつの人類の観点から考えることを確かにする学校のカリキュラムの一部として、これらの線に沿って子供は教育されねばならず、それは彼らが全体への各国特有の貢献と各個人の生来の平等性と創造的可能性を理解するということです。社会学、自然科学、人文学、美術、そしてその他を理解する上でまさに学校教育が必要であるように、「この世界において私は誰なのか」ということについて若者が理解することを促進出来る愛と知恵に基づいた種類の教育もあるのです。そのような教育があるべき特定の形態についての正確な詳細を筆者が述べることが適切でないにしても、そのようにして自己認識を通して人間関係の中でマインドを平穏に、そしてハートを常に目覚めた状態に保つよう子供を訓練することは可能です。あえて言うなら、どのような種類の宗教的信念、政治的イデオロギーまたは「主義」であっても、それが学習と発達の形成段階で子供のマインドに強制されるべきでなく、そして自己中心性なしで他人のことをどのように考え、また利益追求と個人的競争の優位性が過去の産物となった世界でどのように公益に仕えるべきかを若者に教える、特別または補足的な教科がすべての学校で導入されるべきです。

この新教育がどのような速度で導入されるかは、世界規模で同時に起こるべき経済政治改革に決定的にかかっています。それは、どのように分かち合いと協力の原理が持続可能なグローバル経済システムの基盤をなすかについての基本的な教えが、学校の授業に最初に含まれるべきだからです。すべての子供は人間同士あるいは人間と自然環境の主観的相互関係、そして世界の蓄積された富、資源、テクノロジー、知識を更に平等かつ自由に、国家間で分かち合うことの結果的重要さを理解するよう手引きされるべきです。家族内でお互いのものを自然に分かち合うように信用の中、余剰資源が世界貯蓄の何らかの形態に委ねられ、利益や貪欲よりむしろ分かち合いに基づき必要に応じて再分配されるような方法で、国々という家族も彼らの行政を整えねばならないのです。そのようにわかりやすい概念はこれ以上シンプルであり得ず、それはいつの日か世界の人々と国々の間の正しい関係の意味への最も初歩的な手引きを象徴するかもしれません。分かち合いの原理の真の表現が、近い将来国際経済システムの基盤になるともし私たちが信じることが出来るなら、時代遅れのイデオロギーや主義にもはや条件付けられない最年少の世代が最終的に学校を卒業する時、恐らく彼らの中の誰も、トップの政治家になる野心を募らせることはないでしょう。もしその中から一人の子供が大統領または首相になったとしても、彼の国と他のすべての国との平和的共存をどのように保障するかを彼は正確にわかっているでしょう。

前述の考えを全体的に熟考するにことにより再び私たちは、世界問題は非常に複雑でありながらもその解決は非常に簡単であると推定します。分かち合いの原理を社会と国際情勢の中に組織的に実現することにより、代わりにそれはグローバル経済の骨組みの再建築を必要とし、次にそれはまた、このより啓蒙された社会秩序を維持するために正しい人間関係に基づいた新教育の開始を必要とするでしょう。このすべては、第25条を理解することが「人権」の実現への要求からでなく、この地球での正しい人間関係の真の始まりに至急続くべき政治的、経済的転換のために必要な基礎となる第25条を莫大な人数で一斉に布告することから始まります。これらの絶対不可欠な状況が多世代に渡って万人のために確固として確立される時、もはや第25条についてふれられることもなく、歴史家に「常識の項目」として思い出されるだけかもしれません。

象徴的意味で人類は分離と呼ばれる潜在的に致命的な病気にかかって苦しんでおり、何よりも次の理由から、唯一の治療薬は時間を超越した分かち合いの原理なのです。それは、この世界が一度その資源を分かち合うなら、すべての人の基本的ニーズが決定的に確保され、ひいては現在の教育方法は必然的に、そして恐らく劇的にその形態と全体的方向性を変え始めるであろうからです。私たちが先ほど論じた内部と外部における消費の意味に従い、自己を尊敬し、自己破壊のパターンと振る舞いによって自己の人間性をもはや消費しないよう個人を導くことの出来る、私たち全員の中に存在する沈黙の教育者を呼び起こしさえするならば、社会的、心理的、政治的な混乱の真っ只中で、分かち合いの原理は言葉では言い尽くしがたい変革の波をもたらすことが出来るのです。言い争っている近所同士が彼らの間で分かち合うことによって内面的に平和と変革を得ることが出来るのと同じように、地球規模で資源を分かち合うプロセスは、現在想像を絶する展開で人類の集合意識を変革する可能性を秘めているのです。利己的競争を私心のない協力に、社会的分裂を公衆の結束に、無秩序を均衡に、そして憎しみを愛に変えることによって、マイクロレベルからマクロレベルに至るまで、分かち合いはコインを裏返す力を持つのです。

外に向かって社会全体で、そして内に向かって心理的に、そのような変革が世界を席巻している時、正しい人間関係に基づいた教育の新時代を開始することを人類は自由に鼓舞されるでしょう。従って、人が自己と正しい関係を持つ時、その結果彼は他の人々とも正しい関係を持つことへと自然に導かれる故、個人やその個人の社会環境に関して私たちが考慮すべき正しい関係が二形態あります。内部の熟考と外部の観察を通してこの事実上の現実を確認することによって、私たちは第25条実現の膨大な重要さを更に再確認するかもしれません。なぜなら、以前定義付けられたようにそれは分かち合いの原理の影であり、破壊的な自己消費の騒乱へ最終的にバランスをもたらすことによってお互いと自然界との関係の中でより簡素で維持可能、そして平和な生活へのドアを開くであろうからです。

正しい人間関係の意味を思案する時、おおよそすべての可能な方法で治癒力を持つ偉大な社会的医師あるいは惑星規模の精神療法家として分かち合いの原理を想像することもまた有益です。それは、飢餓者に食糧を与え、病人を癒し、破損した家族を修復し、精神的健康を回復させ、コミュニティを再構築し、個人が彼らの自信と創造力を取り戻すよう養成するなどその治癒力は無限です。それ故もしあなたが個人またはグループとして自己を癒したいなら、世界情勢における分かち合いの原理の実現を提唱し、そしてあなたの全エネルギーをもって第25条を布告することにより人類に仕えなさい。そのようにして、あなたは分裂と呼ばれる病の集中をあなた自身から反らせ、正しい人間関係に基づいた新たな地球を確立するための役割を演じるのです。

 

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ここで提案された方法で街頭に集まることをどのように何百万という人々に納得させ得るのかということを、それでも読者は問うかもしれません。その問いに対して筆者は、それに答える責任は読者自身にかかっているとしか答えようがありません。「どのように」これらの平和的大衆抗議デモをもたらすかについては、世界変革のための実行可能な戦略として第25条を布告することの意味と可能性を全側面から読者が個人的に考察することを勧告する以外、これ以上の指針が与えられることは不可能なのです。時宜を得た瞬間、一個人が「99%」のパワーを宣言するアイデアの火付け役となったように、口火を切ることが必要とされるすべてです。そしてその時は近しです ー いえ、もう既に来ているのです ー 世界中でデモンストレーションをすることによって国連内で第25条を蘇生させる時が。

しかしながら「どのようにして」という疑問には、大変簡単に答えることも可能です。ハートの目覚めが唯一必要とされるすべてです。なぜなら、各人そしてすべて人のハートには、全人類の愛と知恵が埋め込まれているからです。「なんてことだろう。あらゆるところに沢山のお金と富があるにもかかわらず、多くの人が貧困の中で死んでいる!」ともし富裕者が世界を改めて見つめなおし内部を観察するなら、その時、そのありふれた観察自体がハートの従事を通して理解された知恵の始まりを象徴するのです。そしてもし、人々の苦しみを和らげるために彼が富を分かち合うことに専心するなら、その時、その行為自体がこの世界の愛と知恵の小さな表れを象徴するのです。ハートの特質は常に簡素でありながらも非常に賢明です。なぜなら、私たちの自己満足的な無頓着さ、無関心及びマインドの条件付けのすべてにもかかわらず、それは人間としての自己の真の姿を認識するよう私たちを導くことが出来るからです。

無数の人々のハートを他人のニーズへ目覚めさせるために必要とされるものは、信用、インスピレーションそして歓喜であり、それは飢餓と生命を脅かす貧困を根絶するために同じ私心のない懸念をもって、十分な数の国々が協力し合う時もたらせられるであろうすべての資質です。その時、援助機関、そして市民社会組織や革新的な政治団体の様々なネットワークの中で取り組む人々など今日正義のために戦っている多くの活動家が、分かち合いを無意識的に要求していることを第25条の実現を通して明らかになるでしょう。従って、人間のハートの特質(慈悲、共感、寛大さ、分かち合いやその他を通して表現される主に愛と知恵)を目覚めさせるために必要とされるものがもし輝きであるなら、ひいては「飢餓と貧困をこれを限りに根絶しましょう。なぜなら今その時が遂に来ており、もし十分な数の人々が参加するなら私たちは本当にそれを達成できるからです!」と話すそれは、条件付けから自由となった聡明さの輝きなのです。

人間の剥奪の圧倒的な範囲を知りながらもそれについて何もしないことさえ残念ながら私たちの条件付けの一部であるとしても、殆どの一般市民は強く条件付けされ、危機的な世界情勢への認識がないことは事実です。従って、「どのようにしてこれが始まるのだろうか?」という問いへの答えとして、「あなたの直感と常識、そして更に沢山の常識を使うことによってです!」という以外他に何が言えるでしょうか。現在人類の大部分にその呼びかけを聞く準備ができています。それ故、私たちが同じ目標のために戦っていることを認識し、ハートを従事させることにより結束しましょう。そして生きる喜び、創造の喜び、人類がひとつであることを遂に認識する喜びを第25条に再びもたらさせましょう。

あまりに混乱した局面に私たちは達していると思われ、政治的分派や無数の推論的学説からの無数の相反する答えの中にこの「どのように」という疑問は失われているのです。地球規模の変革のための包括的で実行可能な戦略を生むために、このすべての分裂的な考えの舵をとる能力が、「もうひとつの世界は可能」であると宣言する活動家には欠けているのです。従って、もうひとつの世界が可能なのは本当かもしれませんが、莫大数の一般人の(主義やイデオロギーから自由となった)常識とハートの従事なくしてその実現は不可能なのです。それにもかかわらず、私たちはあまりに長い間自分たちのハートに耳を傾けることを拒否して来たため、世界情勢は破局の絶頂へ急速に近づいており、気候さえがおおよそ修復不可能なところに至るまで、傲慢さと無謀さを通して人間が作りだした窮地を考慮すると、誠に私たちを救えるのは唯一神の介入しかないのかもしれません。

やや不適切にも、世界の無数の教会、シナゴーグ、モスク及び寺の宗教的長老たちは、群れを集結させるかあるいは神聖な主義へ避難することにすべての時間を費やす代わりに、私たちのハートを従事させ死に行く貧困者を救うために、いつでもこの緊急のメッセージを広めることが出来たはずです。例えば、マリアとイエスを排他的に崇拝する代わりに、豊かな世界の中の飢餓の不正義について話し続けることによって世界を癒すために彼らの集まりを教育し、それによってキリストの簡素な教えの現代との関連性に注意を払うことが、教会にとってなぜそのように難しいことなのか私たちは問うかもしれません。どのようにハートを従事させ他に奉仕するかを、教会は初めから常に人類を教育すべきだったと議論出来ます。それは、その恥ずべき歴史のすべてのドグマ、教派分裂及び偽善的スキャンダルの真っ只中で、教会が大部分放棄した役割です。昔から現在にかけてそうであったように、神の目から見て「選ばれた者」となることを神父が切望する一方で、歴史に名を残すことを政治家が切望するに至るまで、双方が権力や個人的特権への思いによって動機付けられている時、彼らの間に何ら心理的違いはないのです。今日、不必要に存在する人間の剥奪のただならぬ規模への全認識を持って、私たちのコミュニティや国の中、そして最も重要なことに、世界中で分かち合いの原理を実現する試みに彼らの毎日毎秒が費やされていない限り、どの政治家であろうと神父であろうと真の公共サービスに関しても、イエスの名において慈悲心に関しても、何ひとつわかっていないと言えるのです。

もし実際にキリストが現在に戻り、テレビのスクリーン上で自らの臨在を宣言すると想像できるなら、政府と人類全体への彼の神聖な助言がどのようであるかと熟考するのは興味深いことです。資本主義を壊し、社会主義的代替をもたらすことについて彼は複雑な学術的言葉で話すのか、それともあなたのハートが他人のことを思い、飢える人々を即刻救うことを要求するでしょうか。私たちが近所の人と自分たちのコミュニティだけで分かち合うよう彼は助言するのか、それとも正義、慈悲及び正しい人間関係に基づいて世界資源を分かち合うよう助言するでしょうか。第25条を実現することは、対立する「主義」と商業化勢力に捕らわれ分割された世界への対抗手段であることを彼が賢明に理解するであろうように、人類の問題に関しての完璧な知識にもかかわらず、彼の助言は恐らく非常に簡潔で質素でしょう。

しかし、どれだけ多くの人々が彼の助言に従うと私たちは考えるでしょうか。どれだけの人が、分かち合い、世界を救出するための彼の謙虚な指針に対して憤慨するでしょうか。そして、ペンテコステの普遍的経験の中で彼らが例えキリストの愛に包まれたとしても、どれだけの人が胸が張り裂けるような彼の言葉に無関心で居続けるのでしょうか。これらすべての3つの反応の中で私たちが最も懸念すべきは3番目です。なぜなら、意義を唱える人は少なくとも自己で考えており、考えを変える余地があるかもしれないからです。第3のグループは更にもっと気がかりですが、それは彼らが、社会に浸透し何千年も人間の進化を妨げ深く根をはった無関心を象徴するからです。神々は遥か昔に人間のお互いに対する残酷さには慣れましたが、血にまみれた紛争や目に余る不正義が各年代から受け継がれ永遠に続くところの、歴史がそれ自体を何度も繰り返すことを可能にする、私たちの自己満足的な無頓着さと無関心に慣らされることは決してありませんでした。

残念なことに、大義のために全社会が結束するという2、3の主要な前例が、近年特定の国の経済崩壊に続いて目撃されているように戦争や社会的崩壊によるものである時、前述の思い描きは私たちを不吉な結論へと導きます。世界を変革するためには第一に、無数の人々のハートを結束した共通目標に従事させねばならないことを私たちが受け入れるなら、ひいてはこの大規模な任務を開始することができるかもしれない二人の世界の救い主がいることを歴史は暗示しています。多くの霊的な傾向のある人々がキリスト、弥勒菩薩、イマム・マーディまたはクリシュナの再来を期待しているであろう一方で、他の人々は過去の私たちの古い利己的そして競争的やり方の断続がもはや不可能となる程のグローバル経済の最終的破綻が必要だと合理的に結論付けるかもしれません。お互いに助け合い、持っているものを分かち合うことによって人々が生き残ることを強いられる時、社会的関係の中で心理的に分裂し分割されたままで居続けるのとは違った生き方が可能だと悟るのは簡単です。例え私たちが困っている誰かと単にニシンの缶詰を分かち合うだけでも、そのギブアンドテイクの質素な行為の中に歓喜の動きがあるのです。更にボーナスとして、切羽詰まって選択の余地のないことから分かち合うそれらの人々は、その必然的結果がどうのように短命であろうと、またはどのように小規模であろうと、彼らのコミュニティ内で平和の香りを予想外に感じ取るかもしれません。なぜなら、分かち合いの原理はそれがどのような状況下で適応されようが、コミュニティ・レベルから国際レベルまで上方へ向かって常に歓喜と平和に関連するからです。

従って私たちは自己の条件付けを振り払い、恵まれない人々の苦しみへの無関心を克服し、そして不可欠な資源へのアクセスを絶え間なく剥奪されている何百万という人々の苦悩に対して自己のハートを目覚めさすために、世界の広範囲に渡る経済の崩壊を恐らく必要とするのです。一緒に立ち上がり、正しい道を歩み始める前に、私たちは集団で故意にノックアウトされねばならないのかもしれません。なぜなら、分別と慈悲心への常識的な訴えかけへの反応を通してでなければ、常に劇的な要因と大惨事によって私たちは行動へと駆り立てられるからです。別の言い方をすると、人類が必要とするものは愛でなく、周りの世界が崩れ落ちて行っている時でさえ、どのような犠牲を払ってでも個人的幸福と保証を求めるよう私たちが条件付けされて来たところの、長年の私たちの自己満足と無関心が合わさった結果である深刻な状況が原因となった途方もない危機かもしれません。

それにもかかわらず、私たちはいまだ古い考え方によって非常に強く条件付けられており、以前の成長と見せ掛けの安定状態へ経済が戻れると推定し、自分たちの物質主義的で偏狭な生活様式の追求へ再び舞い戻るかもしれません。今日でさえ、富裕国の多くの抗議デモや社会運動は万人の利益のための世界変革に関するものではない上、裕福者と貧困者の間の生活水準における痛切な違いを維持する全体的な不正義に対しての考えは皆無であり、むしろ彼らの以前の生活様式を政府に取り戻させるために戦っているのです。これは再び、どれだけ一般市民が政治家と同じくらい社会問題について責められるべきかを明らかにします。なぜなら、公衆意識全体の幅広い部分に浸透する同じメンタリティーを、政府が少なくともある種反映しているからです。どのようなイデオロギーを促進していようと、政治家が一般的に誠実な意図を持ち続けるただの人間であることを忘れないようにしましょう。そして対立する何種類かの政治的主義への部族的固守を通して、分極化した考え方を維持するのは一般大衆です。

この事実の中にだけでも私たちの時代の最大の危険が横たわっています。なぜなら、もしある社会の異なる分派が権力の座に居続ける誰かを退けることを求めているなら、グローバル経済の著しい崩壊が最終的に暴力と革命をもたらすことが可能だからです。グローバル・ノース及びサウス両方の国々の主要な政治家と支配的な経済勢力による徹底的支持を持って、この事前に予測されたできごとに対して大規模な国家システムが万端に準備されているため、公衆の暴動的な蜂起は極度に危険だということもまた忘れないようにしましょう。従って、もし次の国際経済システムの崩壊に続いて多くの人々が政府に対して暴力的に抗議するなら、その時、独裁的リーダーシップへ対立した様々な分派や「主義」がお互いに戦い始めたところの2011年以降の中東で痛々しく見られて来たように、社会的動乱または内乱のより一層なる勃発を予期できるのです。

不安定な世界情勢に新たな方向を与える唯一の平和的方法は余りにシンプルであるため、今一度繰り返される必要があります。それは、イデオロギーや自己利益を考えることなく大規模な世界的抗議デモにハートの特質を従事させることです。なぜなら、それが作動される時、人間のハートはどこまでも賢明で「対立」することができないからです。先駆的な若者は世界に氾濫しているこの新たなエネルギーに既に同調しており、「これは私のものであなたのものではない」、「あなたは黒人、私は白人」、「それは私の国の利益にならない」または「あなたは毎日を同じように生活せねばならない」と言う、古い意識から離れる時が来ていることを知っているのです。私たちの長く恥ずべき過去を象徴する人々が大変注意深く認識し耳を傾けないなら、多くの若い活動家の激しく革新的な見解が社会に更なる危険を突きつけるであろうにもかかわらず、この迅速に浮上し結束する意識は未来に希望を持つべき多くの理由を私たちに与えてくれます。

決算の日は近しです。従って、私たちはこのより良い新たな世界の先駆者となることをどのように決意するつもりでしょうか。社会主義を用いるつもりでしょうか。無政府主義でしょうか。宗教を用いるつもりなのでしょうか。それとも、政府が世界資源を分かち合うことに全力を傾けるまで、数え切れない人数で平和的に結束するつもりでしょうか。一度のデモンストレーションでは決して成功しないでしょう。別々の日に千のデモンストレーションをしても恐らくそんなに多くを達成しないでしょう。しかし、世界人権宣言第25条の実現を着実な基盤として世界中で同時に起こる何百万という無数のデモンストレーションを毎日止むことなく続けることは?それで、十分かもしれません。

 

注釈

[i] See note 2.  

[ii] cf. Mohammed Mesbahi, ‘A discourse on isms’, op cit.

[iii] cf. Mohammed Mesbahi, ‘Commercialisation: the antithesis of sharing’, Share The World's Resources, April 2014. <www.sharing.org/information-centre/articles/commercialisation-antithesis...

[iv] Mohammed Mesbahi, ‘Rise up America, rise up!’, Share The World's Resources, October 2014. <www.sharing.org/information-centre/articles/rise-america-rise>

[v] For example, see: Mohammed Mesbahi, ‘Uniting the people of the world’, Share The World's Resources, May 2014. <www.sharing.org/information-centre/articles/uniting-people-world>

[vi] Willy Brandt, North-South: A Program for Survival (The Brandt Report), MIT Press, 1980; Willy Brandt, Common Crisis, North - South: Co-Operation for World Recovery, The Brandt Commission 1983. London: Pan 1983. 

[vii] Share The World’s Resources, Financing the global sharing economy, October 2012. <www.sharing.org/information-centre/reports/financing-global-sharing-econ...

[viii] Willy Brandt, op cit.

[ix] Editor’s note: Following The Brandt Commission’s proposals, leaders of eight industrialised and 14 developing nations gathered in Cancun, Mexico, in October 1981 for a summit aimed at breaking the deadlock in years of protracted negotiations on problems of world poverty. The hope was that representative heads of state would meet in an informal setting for two days, thereby creating the momentum and goodwill that would permit global negotiations to advance. In the end, however, no firm proposals materialised and the demands of Southern countries for a global reallocation of resources remained unmet. US President Ronald Reagan notably rejected the summit’s aims to bridge the wealth gap between the few industrialised nations and the majority of poorer countries. While not all of the Brandt Commission’s recommendations remain appropriate today (particularly its emphasis on increased trade liberalisation and global Keynsian policies in an era when we are fast approaching environmental limits), there is still much that policymakers and civil society campaigners can draw from its “program of priorities” and its vision for a more equitable world. Above all, this includes the proposed five-year Emergency Programme that would necessitate massive resource transfers to less developed countries and far-reaching agrarian reforms. The Commission also called for a new global monetary system, a new approach to development finance, a coordinated process of disarmament, and a global transition away from dependence on non-renewable energy sources. To date, governments have yet to realise Brandt’s vision of a multilateral process for “discussing the entire range of North-South issues among all the nations, with the support and collaboration of the relevant international agencies” (Common Crisis, 1983).

[x] Mohammed Mesbahi, ‘Rise up America, rise up!’, op cit.

[xi] cf. Mohammed Mesbahi, ‘Christmas, the system and I’, Share The World's Resources, December 2013. www.sharing.org/information-centre/articles/christmas-system-and-i


モハメッド・メスバヒはSTWRの創始者である

編集協力:アダム・パーソンズ

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