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世界人権宣言第25条を布告する:人々の世界変革のための戦略

Mohammed Sofiane Mesbahi
2015年7月30日

モハメッド・ソフィアン・メスバヒ「奮い立て、アメリカよ、奮い立て!」、シェア・ザ・ワールズ・リゾースィズ、2014年10月。長年の政治的怠慢の後、一般大衆の良識だけが、すべての国での絶えることのない壮大な抗議デモを通して、豊かな世界のなかでの貧困を根絶することができるのです。従って、この抵抗最小限の道を選ぶことにより、十分な食糧、住居、医療、そして社会保障を万人にもたらすために、長期に渡って合意されて来た世界人権宣言第25条の人権を共に布告しましょう。それが、資源を再分配し、グローバル経済を再構築するよう政府を駆り立てるための最も確かな道であると、モハメッド・ソフィアン・メスバヒは記します。

パート1:政府の失敗
パート2:理論的根拠についての要約
パート3:環境についての疑問
パート4:ハートを従事させる
パート5:新たな地球のための教育
注釈


パート1:政府の失敗

「すべての人は、衣食住、医療及び必要な社会的施設等により、自己及び家族の健康及び福祉に十分な生活水準を保持する権利並びに失業、疾病、心身障害、配偶者の死亡、老齢その他の不可抗力による生活不能の場合は、保障を受ける権利を有する」− UDHR 世界人権宣言第25条

今日の人類の最大の希望のひとつは、私たちの大変多くの難解な問題の解決の鍵を握る、世界人権宣言第25条のささやかな条項をすべての人のために実現することにあります。この考察シリーズのなかで繰り返し主張されてきたように、[i] 第25条が各国の基礎的法律および指導的原理となることが不可欠ながらもそれは最富裕国および最貧困国双方の現実からはかけ離れているのです。第25条の基本的要求が国際関係および世界的発展の将来にとって夢にも思わない意味合いをもつことから、特に若者が、抗議デモのスローガン、目標およびヴィジョンとして第25条を導入することが奨励されます。政府が歪んだ優先項目を再調整し、最終的に分かち合いの原理を世界情勢に実現するまで、今こそ、すべての人の十分な食糧、住居、医療および社会保障のために、長期に渡って合意されてきた第25条の権利を布告し、世界中で止むことのない大規模なデモンストレーションをする時です。 

しかしながら、私たちの高度に合理的で複雑な社会のなかでのそのように単純な手引きは、止むことのない反対尋問や反論に遭いがちです。そのため、正しい人間関係に基づいた公正かつ持続可能な平和的世界への道を照らしだすために、第25条の可能性を多くの角度から考察せねばなりません。人類の問題への解決策がもし実際そのように単純であると同時に、問題自体が非常に根深く複雑なら、ひいては明らかにこれらの問題を違った種類のエネルギーと知覚をもって新たに見直す必要があります。人間のマインドは強く条件づけられており過去の間違った教育方法によって誤り導かれてきているため、単純な真実を理解することは、内面的に自由であり執着心をもたないことあるいは少なくとも良識と生来の霊的認識力を抑圧し続ける「主義」や分裂的イデオロギーから自由であることを必要とします。[ii]

従って、そのように新たな注意を伴った態度をもって、世界中の政府の最優先事項として第25条に明確に述べられた普遍的人権を完全に実現することの意味合いを考察してみましょう。社会的、経済的、政治的見地から、そして人間の成長と霊的な進化の見地から、貧困を根絶し全人類の適切な生活水準を保障することによりどのような効果がもたらされるのでしょうか。第25条を優先することが環境劣化やグローバル紛争さえを含んだ、相互連結するすべての世界危機の解決にどう繋がるのでしょうか。すなわち、人間の必要に見合った規模で政府が断固として行動するまでくる日もくる日も何百万人という一般人が集結し不断の平和的抗議デモを通して、なぜこれらの基本的権利を支持すべきなのでしょうか。手短に言うと、地球救出のためのすべての答えがこの一連の最も基本的な要求から急速に生じるだろうという認識を通して、世界変革のための普遍的な戦略として第25条を提唱することにより私たちは諸々の戦術を変えるべきではないのでしょうか。

これらの重要な問いを考察する前に、政府がすべての国で社会的および経済的人権の完全な実現を保障できず、必需品への十分なアクセスがないまま文字通り何億という人々を放置していることを始めに認識せざる得ません。世界の利用可能な莫大な富と資源を考慮すると、適切な生活水準へのアクセスを政府が万人に保障できるに違いありません。既に、スカンジナビアの福祉国や他の高所得国の多くが最高の例として挙げられるように、第25条に包まれる人権は20世紀の間多くの富裕国において著しい割合で実現されてきました。多くの最先進諸国で以前からの社会保護の保障が取り除かれたりあるいは徐々に廃止されたりしているにせよ、同時に、貧困国の人口の大多数にとってそのような権利が存在したことはかつて殆どありませんでした。

広範囲におよぶ文献が、この状況の複雑な理由を考察しています。その直接的原因は、やや露骨に理解され得るのですが。なぜなら、殆どの国のリーダーは、すべての人のための基本的ニーズを優先するよりむしろ大企業との契約をより多く組むために、あるいは経済成長を最優先するために、役職に就いているからです。「人類家族全員の剥奪することのできない平等な権利」実現のために他の政党と協力し合う代わりに、全犠牲を払ってでも権力にしがみつくかたわら、グローバル化された取引による国家の利益や商機になによりも関心のある「政治的会計士」としてこれらのリーダーを考慮できるでしょう。

従って、可能な限り率直に幅広く世界問題を考察するために、第25条をすべての人に保障することの最大の障害のひとつは政府の誤り導かれた優先項目と容赦ない利益主導型事業活動の有害な営みであることを私たちは認識するかもしれません。これらのグローバルなマニーメーキングの実体が、「合法的な盗みと破壊」と呼ばれるべき専門技能を発達させてきたところの、極貧困層や恵まれない市民の人権に対する多国籍企業の無関心を列挙した無数の市民社会の報告書や本が書かれています。これは例えば、ある国の人々が所有する土地やその他の絶対不可欠な資源を着服すること、または生活維持が不可能な賃金しか支払わないことにより労働者を食い物にすること、あるいは単に租税の義務を回避することなどに関連するかもしれません。

そして、巨大企業が多くの政府より権力をもつ世界で、何千もの事業契約が危険にさらされる可能性のある時、第25条を考慮する余裕など政治的代表者にはないのです。確かに、今日の世界のリーダーの真のアドバイザーは、率直な指針をもつ第25条でなくむしろどの国であろうとその政府の政策を以前にも増して指図する商業化勢力なのです。[iii] 例え政府または政治家がすべての人と国の共益のために仕えようとしても、いずれは強力な企業のロビー団体や金融勢力が彼らを反対方向に押しやるのです。そして、善意の政治家が世界を変革しようとする過程において、やがて世界が彼を変革することは間違いないのです – 利益、特権および競争心の激しい私欲など昔ながらのやり方に基づいた有害なシステムの純然たるパワーによって。

政府の歪んだ優先項目が、第25条の権限でなく覇権的目的や経済的優位性への激しい追及によって外交政策が根本的に推進される国際レベルで最も目立っています。国家間の取引は、強国が弱国を支配しようとする衝動の上に常に成り立ち、それは同じく世界情勢の陣道を大部分決定するそれらの富裕国の地政学的戦略によって調整されています。もし世界中の何百万というすべての利益性が高い事業契約を追及できたなら、国際的図式を定義づけるすべての主な緊張および衝突の源を理解できるでしょう。一国がアフリカからの分け前の一部を欲しがり、もう一国が南アメリカからの分け前の一部を欲しがり、あるいは他がアジアや中東のどこかにあるエネルギー資産の権利のために競争するなど、常に競い合う政府の間に不信の種が蒔かれグローバル戦争を扇動しています。詰まるところはそれは、憲法や国際法に謳われる高尚な価値感を各国が公言し、ついで公益のために実際に貢献し援助して仕える代わりに他国から搾取し奪い取り続けるところの、傲慢な二枚舌外交政策だということです。

国連発足以来の第25条の未実現とアメリカの外交政策の間には明らかな繋がりがあります。なぜならそれは、アメリカの横暴で利己的な野望が強力な同盟国および追従国によって従来通り支持され、世界中で非常に多くの戦争と非常に多くの破壊の原因となってきたからです。ペンタゴン、C.I.A.および他の米国諜報機関のグローバル計略や策動は、実際多くの最貧困国や紛争が溢れる国々における第25条への間接的否定の例です。それにもかかわらず全体としての世界政治は、一般的に国益や国家の安全保障など一応は正当な名目の背後に潜んだ、偶発的に貧困を生みだす無限の探求フィールドのようです。公式な証拠資料や政策上のレトリックでなにが巧妙に述べられようと、「外交政策」という言葉さえが極端な富の不平等の世界のなかでは分離と不正義を暗示しており正しい人間関係の対極を象徴しています。実に、自己利益の原理が臆面もなく支配する不平等な世界では、異なった国の人々の間に、あるいは彼らを代表する政府の間に、正しい関係に基づいた外交政策がひとつとして存在しないのです。

従って、国内および海外双方で政府が権力の座を保つための唯一の方法が、大企業や有力な個人的利害関係者を優先することである時、貧困根絶および第25条の人権確保に携わっていると公言する彼らを信じることは浅はかというものです。多くの場合、最貧困者やコミュニティに破壊的結果をもたらす多国籍企業の土地の着服、天然資源の搾取、そして不可欠な公共サービスの民営化のための契約に、まさに政府が署名し続ける一方でもし表面上、人間の不必要な剥奪の存在を根絶するための国際会議を国家のリーダーたちが招集するなら実際それは偽善行為です。持続可能な開発目標のための最近の誓約に謳われている通り、それは2030年までにいわゆる「極」貧を完全に絶滅するという無難な道徳的熱望かもしれませんが、世界のリーダーたちが最も貧しい人々の生活を向上させるというような無駄な約束をしたのはこれが初めてではないのです。適切に言うと、官僚や政策立案者の最良の意図をもってしても、「商業化パラダイム」の状況下ではそのような熱望のどのような達成もさらに不可能であり続けるでしょう。

貧困を根絶しこの地球にバランスをもたらす唯一の道は、人類がどれだけ長い間この永続する義務を無視してきたとしても、世界資源を分かち合うためにグローバル経済を協調的に組織立てそこから必要とされるところへ富を分配するということなのです。急増する人口のなかで根強く続く極貧の圧倒的規模を考慮すると、何度繰り返しても決して十分でないふたつの原理に基づいた、最も不利な立場に置かれ最も悩まされた国々への大規模な資源の再分配なくして世界の善意の真の表現はあり得ません。そのふたつの原理とは、経済的分かち合いと(今までのところ殆ど目撃されていませんが)真の国際協力です。

毎年危機的一年が過ぎるごとに、私たちが次のグローバル経済危機に遭遇するかしないかに関係なく、回避可能な貧困関連の原因から何百万の人々が死んでいかねばならないのでしょうか。そして一体どうしたら世界の最も裕福な政府は、緊急援助および食べ物を酷く必要とする何百万人もの貧困者と余剰食糧および他の物資を分かち合うのでしょうか。そのような目的の達成には、資金不足の人道機関への大量の追加的財政の転用と「他の」目的のためには常時待機する軍人や設備の使用を必要とするでしょうが、政府、企業、富裕者および民間機関のためには何時でも自由になるお金のほんの僅かで確実に達成できるでしょう。

しかし、分かち合いの良識が経済的関係を支配するようになるまでは、十分に養うことのできない9人の子供と広大なスラムあるいは貧しい村に住み、そしてそのような家族が完全な極貧に落ちることを防ぐという政府の誓いや発展目標に頼ることのできない状況にあなたがいないことを願います。従って第25条は、世界的貧困の根絶に関する国際会議の間、政治家たちが脇に見つけるだろう大きなトゲなのです。そして優勢的商業化パラダイムを彼らが追い続ける限り、10年か15年毎に同じ会議が繰り返されることが予測できるのです − その間人類が生き残れればの話ですが。

さらに、私たちの社会と文化にチャリティの考え方が普及している限り、飢餓と貧困の根本原因への取り組みに政府が成功できると信じるなら、貧困者と同様に私たちも自身を欺いているのです。この豊かな惑星で、私たちのなかの最も恵まれない人々をただ生存するために苦戦させたまま放置する一方で、国家が自国民の慈悲を巧みに操作した結果でないなら、実際チャリティとはなんでしょうか。最も包括的視点から、すべての人に健康と福利を十分に保証する手段の提供が容易に実行可能であろう今日、物質的および経済的に豊かな世界におけるチャリティの存在自体がどう尊厳を欠いているか認識できます。議論の余地はあるにしても、貧困者の経済不安への政府の歴史的無関心が、何世紀にも渡ってチャリティの存在を生じさせたのであり、その意味ではチャリティそのものが真の分かち合い、結束または愛からでなく、社会的不正義からもたらされたということです。世界のすべての国で第25条に要約された人権が何千年か前に既に確立されていたなら、チャリティが存在することになっていたかどうか私たちは疑問に思うかもしれません。

しかしながら、人類の科学と技術における全進歩にかかわらず、市民社会組織によって長い間認識されてきたように、正しい人間関係を具現化するために整っている唯一の確立された国際システムは、自己利益と利益追求により常に価値を下げられてきた海外「開発援助」の自発的寄付です。この視点からまず第一に、余剰食糧や他の資源が富裕国によって蓄積されるのででなく、最初から常に正しく分かち合われているべきであったため、「人道援助」を与えるという考え自体が国々という家族としての私たちの共通性にとってどのような侮辱であるかもまた観察できます。もし火星または金星からの人々が私たち地球人を助けてくれていたとしたら、惑星的視点から人道援助について話すことは理にかなっているかもしれません。しかし人類は、万人の基本的ニーズが無条件に(そして永久に)満たされることを保証する産物と能力を常に授けられてきた、ひとつの相互依存した家族です。もし私たち自身の子供が飢餓から死にかけており、私たちが毎日なにげに楽しんでいる蓄えの僅かを彼らと分かち合ったとしたら、私たちはその行動を人道援助と呼んでいるでしょうか。そしてその後良い慈善家として自己を賞賛しているでしょうか。それとも、自分たちが慈善行為をしているという考えなしで彼らの命と幸福だけを考え、謙虚な愛の行為から無条件で即時に彼らを助けているでしょうか。

認識と慈悲を通してこの問いを考察することは、「人道援助」という言葉自体がどのように心理的に無意味で馬鹿げているかをあらわにし、そしてそれはどのように人類が分裂し頽廃したかについて知るべきことすべてを物語っているのです。例えば、富裕国と貧困国の間の生活水準における純然たる格差を維持する蔓延した不正義と制度化された窃盗のなかで、海外の極貧者へ輸送される積荷に対して「米国の外国援助」などの表現を使うことはどれだけ傲慢で下劣なことでしょうか。発展途上国の労働力と天然資源を通常通り食い物にする不正な経済活動を通して、そのような富裕国がまず最初にどのように余剰の生産物を溜め込むかについて私たちは以前言及しました。そして、富裕国がつくりだす貧困をまたそれ自体が軽減することを支援するために、これらの不正利益のほんの少しを再分配するのです – それを彼らは人道援助と呼ぶのです。[iv] 特に、生活必需品をすべての人々の利益のためにアクセス可能にすべきであることが(実に、第25条に明記されているように)政府間で長期に渡って合意されてきたことから、この言葉が善意と謙虚さの真の意味にどう反しているか私たちは理解できるでしょうか。愛の心理的認識内において「人道援助」というようなものは存在せず、従って、もし始めから社会が良識と正しい人間関係に基づいていたなら、チャリティという言葉と同じで、そのようなフレーズは決して存在するに至らなったでしょう。

政治家にすべてやってもらうことを期待し、人道援助などの問題を彼らに丸投げした状態でいることが習慣となっている私たちが、意味を深く考えないままこの援助という言葉を受け入れているのはもっともかもしれません。しかし最貧困者と最貧国を食い物にし続ける一方、貧困の根絶に携わっていると公言する政府の二枚舌をもし理解できるなら、それは恐らく私たちが目を覚まし彼らに問う時です。足りない部分はどこにあるのか。豊かな世界のなかで飢餓から人が死んで行くのを止めるための愛、思いやり、良識はどこにあるのか。恐らく、私たちは皆で貧困の根絶に関する政府のサミットや秘密会議に押し入り、政治的代表者たちに一同に問うべきなのです。「もし本当に貧困者を助ける気があるなら、拘束力のない開発目標を定めることや不充分な外国援助を再分配するだけの代わりに、なぜすべての国の間でより平等に世界資源を分かち合わないのか」

そしてもし、飢餓の不正義を二度と起こさないようその根絶に一般人として私たちが真に関心があるなら自己に問うべきです:なにが欠けているのか。永続する絶望的貧窮状態のなかで生活する人々の基本的権利を守るための思いやり、慈悲、関心はどこにあるのか。私たちを代表して貧困国へさらなる援助を送るよう政治家に圧力をかけることが充分なのか、それとも、同胞である貧しい人々への私たちの愛が、政府の面前にでて次のように言うことを私たちに余儀なくさせるのでしょうか:「この恥ずべき状況が存続できるわけがない。あなたがたの最優先事項として、私たちの飢えた兄弟姉妹を救う時です!」どのような教育と条件づけがこのような事態を私たちに受け入れさせ、そして私たちが世界の政府に要求することをなにが止めているのでしょうか:欠けた部分はどこにあるのか。

チャリティと外国援助への私たちの根深い堕落的態度の結果として、社会問題を改善し、貧困者を助けることに真剣に取り組んでいるチャリティ自体が政治的にならざる得なくなり、その結果、政府の政策や貧困の原因をさらに永続させる企業の活動に対立することになるのです。あるいは、善意の団体や民間人によってチャリティにエネルギーが投じられれば投じられる程、政府は緊急の問題として飢餓者に食糧を与える代わりにさらなる戦争兵器を生産するなど歪曲した有害な優先項目を追求し続けることができるのです。

筆者が繰り返し認めて来たように、酷く不平等な社会秩序のなかで有難くも大部分が善の勢力であるチャリティの尊ぶべき必要性を疑問視する意図はここにはまったくありません。[v] 今日の上昇する人口レベルにもかかわらず万人が利用できる資源が十二分にある世界のなかで、– 真の分かち合いまたは正義でなくチャリティの手段を通して – いつの日か貧困を根絶することを固く誓う政府の馬鹿さ加減をむしろ包括的に観察しようとしているのです。いつの日か歴史を振り返り、必然的でかつ究極的に不必要な、そして政治的無関心や公衆の自己満足的無頓着さの副産物である21世紀のチャリティの実体を私たちが理解するだろうことを願います。

 

*

 

混乱し精神的に破綻した政治家をもつ機能不全社会において、繁栄、経済成長、そして第25条の意味との間に存在する関係について熟考することは有益です。生活様式が比較的裕福な特権的少数派の国々の間で、大部分が忍び難い貧困のなか生活する人口を抱えた多くの国が存在する世界において繁栄するとはどういうことでしょうか。

皆が非常に「繁栄」している町を想像してください。そこでは大きな倉庫で余剰食品が腐り果て、ゴミ捨て場には高価な廃棄物がばら撒かれています。それにもかかわらず、隣町は非常に貧しく、第25条で規定されているような健康と幸福のための適切な生活水準の権利を全員に保証するための十分な資源さえもちません。地平線に潜む貧窮と悲惨さにもかかわらず、その裕福な町の市長が彼らの高レベルな経済成長と繁栄を誇らしげに称賛することは理にかなうのでしょうか。もし市長が町の資源を隣町と分かち合うことを決断しないなら、早かれ遅かれなんらかの形で隣町は彼らのところへやってくるでしょう – 貧困にあえぐ町の猫や犬さえがどのような手段を講じてでも裕福な町にかじりつこうとするでしょう。世界状況にそのような比喩を適用することの極度の単純さは別として、世界の大多数派である貧困層が苦しむ剥奪への相対的な無関心さのなか富裕国が生活するところで、国際的または地域的基盤で種々の国々がどうお互いを関係づけているかということからそれはそんなに違っているのでしょうか。

従って、テレビで政治家や経済学者によって余りに頻繁に繰り返される「繁栄」や「経済成長」などの欺瞞的で低俗な醜い言葉について私たちは心理上意識的であるべきです。人口増加と貧困のレベルが迅速に上昇し、環境が絶え間なく破壊、略奪され、そして気候変動が既に何百万という貧しい家族に大混乱と破壊をもたらしているこの不幸な世界のなかで、繁栄がすべての国で平等に分かち合われない限りそれは危険、そして無秩序の原因以外のなにものであり得るのでしょうか。これらの言葉が今日の極端な世界的不平等の現実のなかで醜く低俗で馬鹿げたもの以外のなにものであり得るのでしょうか。そして不必要な貧困から何百万という人々が死んでいくのを許し、さらに何百万という人々に対して十分な栄養価の高い食物、きれいな水、適切な住居、そして彼らを生かし健康に保つための基本的医療を拒む世界で、それらの言葉がどのように意味を成し得るのでしょうか。

国民の繁栄と成功を望んでいるのだと政治的リーダーたちは当然のごとく公言するかもしれませんが、世界が致死性ウイルスに感染している時、一国だけでどのように繁栄が達成され得るのでしょうか – それは、エボラと呼ばれるウイルスでなく、他人を犠牲にしてまで成功するようあなたを条件づけるだけでなく、あなたも人類の集団的傲慢と無関心の一部となるまで恵まれない人々に対して優越感をもつようになるようあなたに影響を及ぼす、社会に蔓延る商業化勢力と呼ばれる伝染病なのです。私たちが「システム」と呼ぶものは現在富や成功の自己本位な追求に大変深く影響されており、従って、他国のより恵まれない人々だけでなく、自国の貧困者への憎しみとして露骨に要約される新思考の波をもそれはまたもたらしているのです。

従って、商業化勢力によってほぼ完全に影を落とされ混乱し断片化された社会の終わりなき経済成長の追求は危険です。そのような状況下でのそのような成長は、さらなる分裂、無秩序、哀しみ、そして究極的に暴力へと至るだけです。現代のすべての偽りの宣伝活動およびマインドの条件づけの下での経済成長の近視眼的追求は、国民と国家の間の拡張する分離を表し、「富裕者をさらに裕福にし、貧困の真っ只中にさらに億万長者をつくりだそう」ということを本当は意味するのです。このような状況下での経済成長は、大企業のための私営の会計事務に等しく、その意味は豊かな世界におけるチャリティの概念と同じように心理的視点から見ると馬鹿げています。

従って、健康的、公正または持続可能な経済でなく「商業化の成長」を暗示するこの言葉を使い続けることは政治家にとって重大な誤りです。ますます不公平で分裂しつつある社会においてそれはなんのための経済成長でしょうか。多くの国々が今日程の負債を抱えていなかった近い過去においてさえ、貧困国のように富裕国でも広範囲に渡る貧困と飢餓があったのです。従って、私たちは政治的代表者にこう問うべきではないでしょうか:なんの目的のための、誰の利益のための経済成長なのか?計り知れない苦しみと大混乱を起こし、現在迅速にその内から溶け崩れつつあるシステムのためなのか?

商業化勢力に議題を乗っ取られることを許している間は経済成長について意味のある話をできる政治家はいません。最も包括的で立派な意図をもった政治的指導者であっても、彼らの近視眼的目標が「さらなる雇用をつくる」ためであるかないかにかかわらず、現在のシステムのさらなる成長を促進することによって、危険と結果的大惨事をさらに扇動するでしょう。ここでまた私たちは政治家たちに問うべきです。どのような目的のための、そして誰の利益のための雇用でしょうか?霊的、道徳的、そして経済的に打ちひしがれた人々の真っ只中に巨大なカジノ、私営のショッピングモール、贅沢なマンション、そしてさらなる兵器工場を建てる目的のためでしょうか?そして法律に基づいて使い捨ての労働者へ最低賃金を支払う億万長者の利益のためでしょうか?

世界全体のニーズを網羅するために自国だけの懸念を越えたところに自分たちの焦点が拡大するべきですが、 分かち合いの原理に基づいた新しい経済的取り決めを通じてのみ、私たちは経済成長とまともな雇用創出についてなんら意味のある話ができるのです。それは、生存に必要な十分な食糧とその他の不可欠な資源を剥奪されている人々から取り掛かり始め、最貧困者の緊急なニーズを即刻確保する方向へ政府が優先事項を向け直すことと共にすべての国の間での資源のより公平な再分配を保証できる、改革されたグローバル統治システムを管理するよう政治的指導者を即時に義務づけるでしょう。

どの国であろうと、もしある国の政府が自国民のニーズを満たすことに真に関心があるなら、国家のバイブルとして第25条を通じて働き掛ける限り恐らく彼らは経済成長について賢明に話すことができるでしょう。なぜならその場合、富、資源、経済的機会が国民の間で公平に分かち合われることを保証するために政府は経済を再構築せねばならないだろうからです。資源のより公平な分配を保証するための前提は、社会の全側面から商業化の爪を取り除き、そして兵器およびその他の有害な企業の補助金から政府の支出の優先項目を向け直すことです。同時に、経済活動の指針となる原理が永続的な尊厳ある生活のために万人に必需品を保証することであるなら、目立った無駄な消費を通して環境を劣化し続けることはこれ以上できません。健康で自己再生的な、そしてもはや耐久性の全限界を超えることのない生物園内でのみ唯一経済が維持され得る時、これがわかりきった想定であるとまともな政治家なら現在同意するに違いありません。

しかし、もしより啓蒙された国家が第25条を尊び、自国民の間の公平でバランスのとれた持続可能な資源の分配に最高の努力を投じたとしても、他国の問題から切り離されたままでいようとする限り彼らの幸せと繁栄は存続しないでしょう。近隣同士の繁栄する町と貧しい町の比喩をもう一度思いだしてみると、懲罰的移民規制と国家安全機構の障壁があろうとなかろうと可能な限りの手段を使って国境を超えて入ってこようとする遠方からの貧困者によって国家内で資源を正しく分かち合う国が悩まされるのは時間の問題です。

貪欲、利己主義および窃盗が金融経済活動の背後の推進力となっている、分割されながらも経済的に融合された世界において健全な社会などあり得ません。第25条を完全に実現する手段をすべての国がもつ一方で一国のみがそれを成就し、その他のすべての国が抑えのきかない商業化の道を追求すると仮定するなら、それは集合的に富を貯蓄し分かち合う国を除いたすべての国に非があるという意味ではありません。それは人類全体に非があるということを意味するのです。なぜなら人類は本質的にひとつであり、または、私たちが生命またはと呼ぶものの目から見るとひとつであるからです。私たちはひとつの霊的進化のなかのひとつの人類という家族です。それは厳密には宗教的または「ニューエイジ」的見解でなく、多数の化学的研究分野で徐々に理解されつつある永遠の真実です。世界のすべての国は世界的な取引、旅行およびコミュニケーションを通じて物質的または客観的な意味だけで相互連結しているのでなく、鉱物王国から非肉体的および最も高い霊王国に至るまで、地球で生きるすべての生物と私たちが分かち合うひとつの生命の視点からエネルギー的および主観的に相互連結しているのです。

先住民の宇宙論と同様に、古代の知恵の教えの研究を通して直感的に体得または認識され得る私たちの存在についてのこの超越的かつ啓示的理解から、どのように人類が、体の特定の部分ばかりに気を配る一方で他の部分を疎かにすることなく全体として大事にされるべき肉体のようなものであるかがわかります。もし人体の一方が良く機能しており、しかしもう片方が疎かにされ病んでいるなら、ひいては病がその人全体の健康および福利を確実に蝕むでしょう。同じように、商業化が非常な速さで激化し、社会と環境のどちらもこれ以上その重圧に耐えることができない世界では特に、一国たりとも他の国々から分離したままでいることはできないのです。

それが、この惑星的危機および過渡期の時代の政策立案のパラドックスなのです。善行がすべての国で同時に、そして絶対的に成就されねばならないこの時、孤立して自国のためになることをする贅沢な余裕のある政治家はいないのです。従って、一国で成せぬことも協力と分かち合いを通してすべての国が共同で成せるのです。世界問題からの脱出戦略は他にあらず、従って政府の準備の有無に関わらず、それは緊急に達成されねばならないのです。さもなければ間もなく私たち全員に終わりがくるかもしれません。190カ国以上あるうち一国だけがこの世界で第25条を完全に実施することは、その一国を私たちが「人類」と呼び残りを無視しない限りあり得ないのです。唯一ひとつの人類しか存在しないためそれを分割することはできないのです。

魂の現れである個性のなかで人生の目的を成し遂げることが許されないなら、世界資源を分かち合い、万人の根本的権利を実現する理由が他にあるのでしょうか。 それは、多くの生涯にわたる自己本位、無知および混乱の混合によってどれだけ世界の善意や正しい人間関係についての私たちの理解が堕落していようと、今まで常にそうであったしそうあり続けるであろう人生のより深い現実なのです。私たちの真の姿の現れとして人類が真の霊的資質のなかで結束するためには、活動家、活動的市民、そして政治的代表者たちが世界のすべての国で、そしてすべての政府の主要な優先事項として、第25条が包括的に保証されるよう要求することは絶対不可欠です。国益のためだけでなく世界のすべての人々の利益のためにも声を上げる時がきました。既に基本的ニーズが満たされ恵まれた市民は恵まれない多くのグループに同情し、私たちの共通目標として第25条と分かち合いの原理を布告すべきでしょう。

北アメリカ、西ヨーロッパ、オーストラリア、そして世界の他の豊かな地域のすべての人々は一度立ち止まって次の疑問を自己に問うべきです。私が当たり前としている基本的資源へアクセスをもたない他の人々はどうなっているのか? 自国内だけでなく海外の貧困のなかで生活する何百万人について政治家も同様に使うべき言葉があります。他の人々はどうなのか?そのような自問行為の結果、少なくとも自国の余剰資源を分かち合い、そして世界のすべての人々が貧困から解放される永続的目標を成就するために、政府が他の国々と取り組むことを私たちは要求する気になるでしょう。 それが、「慈善寄付」、「人道援助」、「外交政策」または「国益」に関する現代の観念と併せて、「不法移民」についての考え自体が世界の機能の仕方に関する何人の理解に対しても最終的に逆となるまで、一国が第25条と分かち合いの原理の同盟者となる時なのです。

 


パート2:理論的根拠についての要約

前述の方向性の論理に続いて、政府の誤った優先事項から多国籍企業の純然たる無関心、外交政策の目的の強欲さと非人間性、そして正義の座に根を張ったチャリティ志向に至るまで、すべての国での第25条の永続的な完全実現を妨げる多くの複雑な要因を私たちは容易に理解できるかもしれません。例に漏れず、すべての男女子供の基本的ニーズの確保を保証することによる予期外の結果についても私たちはまた気づき始めるかもしれません。それは、第25条を布告することがなぜ世界を救出し再建するための実行可能な戦略であるのかという多くの理由を理論的に理解するための熟考を必要とします。

もしすべての政府が国連とその関連機関を通じて機能し、回避可能にも関わらず貧困から死亡する人々の道徳的屈辱を緊急に止めるための努力のなかで融合するなら既に強調されているように、万人の社会的、経済的人権を保証するために必要なお金と資源は比較的短時間でいつでも利用できたのです。しかし、最富裕国の政策さえが国内の相対的貧困層のニーズを僅か最小限で反映するのみであり、他国の最も排除され疎かにされた貧困者の利益に貢献することはさらに少なく回避できるはずの莫大な死者数を日々生みだしています。

世界の指導者たちが戦争のために僅か数週間で集結し、同盟国を募ることができるにもかかわらず、世界の飢餓者および貧困者の援助のためには十分な同盟国を募ることが決してできないのはなんと驚くべきことでしょう。この堪え難い状況を緩和するための唯一適切な国際的対応は、飢餓と絶対的貧困を決定的に根絶するために経済的分かち合いの緊急プログラムを提案した1980年のブラント委員会報告に示されました – しかしこれは、歴史的資料のなかに埋もれ忘れさられてしまっているのですが。[vi]

長年の政治的怠慢の後、一般人の集結した善意だけが世界情勢に道徳観と正常さをもたらし、すべての国での大規模な断続する公衆の抗議デモを通して政府の優先項目の再調整をもたらせるのです。唯一、結束した世界の人々が、第25条の実現のために協力するよう国々を駆り立てることができ、恐らくその時初めて、さらに生命を犠牲にすることまたは奪うことよりむしろ、大規模な生命救出のために必要とされる同盟国および軍事資源を召集する適切な政治家が指導的立場につくでしょう。恐らくその時初めて、一般市民に選出され権限を与えられた政治的指導者が一般市民の善意ある懸念に従わない限り役職についていられなくなるまで、すべての革新的活動家が欲する大規模な公衆の積極的参加が実現することでしょう。私たちのなかの最も恵まれない人々へのそのような異例の世界的慈悲の噴出を通して、恐らくその時初めて、高価なスーツとネクタイを纏った権力的な外交官を装いトップの仕事を保持することにしか関心のない政治的会計士の役柄はもはやなくなるでしょう。

世界全体でことごとく起こっている貧困の不正義について私たちは考察しているのだということを忘れないようにしましょう。そしてそれは発展途上諸国において毎週飢餓で少数の人々が死んでいるということでなく;貧困関連の原因から毎日少なくとも4万人少なくとも4万人が亡くなっているということであり、そしてその多くは中所得国で起こっておりその大部分が回避可能なことが知られています。[vii] これらの悲惨にも疎かにされた人々を救助するために十分な規模でなにも行われない一方、貧困および栄養失調に関する毎年恒例の無駄話を行う世界会議を私たちはあとどれだけの間目撃し続けたいのでしょうか。過去4、50年にわたるそのような定期的ハイレベル・サミットを組織するために費やされた何百万ドルというすべてが、代わりに多くの失われた生命を救うことに既にあてがわれていることが可能だったろうことは真実ではないでしょうか。その一方で、第25条の人権を当然とする私たち特権的少数派は、自国の余剰資源を最も緊急に必要とされるところへ再分配することを政府に要求する代わりに世界の食糧や他の必需品を過剰消費し無駄にし続けるのです。私たちのほんの僅かな配慮さえも値しないかのように永続する残虐行為に対して、私たちの道義心を揺り起こすにはあといくつのブラント報告が必要なのでしょうか。

 

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それでは私たちの異議はさておき、人々の意志によって第25条を実現することを政府が殆ど余儀なくされることを想像し、そこからこの確実に達成可能な目標を成就することの劇的な意味合いを考察しましょう。明らかに、不可欠な資源がより平等に分配されるよう経済が構造化されすべての人が公共サービスを利用できるようにならない限り、すべての人に必需品が保証された尊厳のある生活はあり得ません。しかしそのような常識的理解は、個人的利益や大企業の利益への可能性を推進する法律や制度の発足へと導く主流の政治的思考を支配する市場勢力のイデオロギーと相いれません。

では、第25条がもしすべての国の政府の最優先事項となるなら、社会の基礎を成すこれらの企業の傘下に置かれた規則や機関にとってどのような結果がもたらされるでしょうか。疑いなく、その影響は社会的、経済的、政治的に斬新なものとなるでしょう。特に、商業化勢力について知られていることを考慮する時:それがもたらした影響下においては第25条がおよそ無意味だということです。例えば、世界で人々が餓死する一方での企業によるみだりな土地の剥奪、食糧への投機、そして余剰農産物の溜め込みまたは破壊はもはや許されないでしょう。そして、組織化された国家資源の分かち合いを通じてすべての人々のニーズを満たすことに政治家が本当に関心をもつなら、公共サービスの商業化による経済成長や企業利益を優先することはもはやできないでしょう。一定時間経過後、排他的に利益追求を促進する多くの複雑な法律が覆されるかまたは著しく改革され、真に道徳的で公平な新法律が作られねばならないでしょう。そしてそれは世界情勢のなかで人の善意が繁栄することを可能にするでしょう。

実に、もし国家の法律や政策の背後にある第一の動機が第25条の権利を守ることなら、既存のグローバル貿易協定が本質的に偏っていて不当であることがまもなく明らかになるでしょう。もし私が、すべての政府の決定を特徴づける基礎的な法律として第25条を確立した貧困国の大統領であると想像するなら、その法律が第一に、すべての家族に十分な生活水準を保証するよう私に義務づけるため、それは大変容易に理解され得ます。その場合、遠方の都市または外国の裕福な消費者の利益のためだけに、自国の最も貧しい農家や労働者が生産品を安価で輸出することにより食い物にされることを私は許せません。その農家がまず自分たちやコミュニティを養えるよう貿易規定が変えられることを要求せねばならないでしょう。そしてもし第25条が、世界世論に支持された国連の監督下にありすべての国の法律や世界政策の指針の光なら、不公平な貿易条件を指図する多国籍企業が私を止めることはできないのです。

どの方向から見ても、国家の適切な介入や規制を通じて利益、強欲、そして抑えのきかない市場勢力のなによりも優勢的な影響が一度抑制されるならその意味合いは包括的です。企業の容赦ないロビー活動や合法化された窃盗による利益追求は必然的に譲歩させられ徐々に弱体化させられるでしょう。従って第25条の実現は、実際に利益主導型企業が直面し得る最悪な敵のひとつなのです。分かち合いの原理を前提とした経済政策を指針として事業活動が違った経路を取り始めると同時に、恐らく富裕国および貧困国双方のすべての政府に様々な度合いで損傷を与えている特有の腐敗も時間の経過と共に徐々に減少していくでしょう。グローバル企業や裕福な個人を第一に代表して機能する代わりに、当然のこと共益のために仕える真の国家統治を私たちが心に描くことができるなら、権力に飢える人間が政治的領域へ入り込むどのような動機があり得るでしょうか。

各国での終わりのない壮大な、そして容赦なく断続する街頭デモの不可抗力的圧力によって、第25条の人権を守るために行動する世界中の政府がもたらす影響を思い浮かべてみてください。発展途上国の極貧者が彼らの苦境への公衆の認識の目覚めを大手を振って迎えるであろう一方、彼らを助けるための地球資源分配の第一の効果は、害虫の湧いた穴に化学溶液を流し込み、隠れたすべての害虫を日光のなかに押しだすのと同じように、政府的腐敗をその高みへもたらすものかもしれません。政治的腐敗が存続し、抑圧的政治家たちが国民を代表して受け取る援助を乱用する限り、それに対して責任のある政党が役職から降ろされ交代させられるまで一般市民の蜂起は確実に起こるでしょう。そしてもし暴力と国家的弾圧を通じて独裁的指導者たちがまだ権力にしがみつくなら、彼らの活動を監視し有罪を示す証拠収集のために国連から代表者が送り込まれることが可能なはずです。戦争を監視するために、または核兵器を探しだすためにちょうど国連が検査官を送るように、権限を付与された国連機関が、寄付された援助が意図された目的のために使用されるよう保証することを促進できるはずです。

世界の国々に対する酷い経済的「規範」の強要によって厳しい非難を浴びた世界銀行や国際通貨基金など、一般人や貧困者の代表者として機能する義務を遥か昔に放棄したこれらの多国籍機関にとっての、第25条実現による結果をさらに予言できます。第25条が新世界経済秩序の構築基礎になることを考慮すると、より良い世界の開始へ向けて第一ステップとなる大規模な資源の再分配、グローバル・ガバナンスの再構築および国際経済改革のプロセスを促進する重要な役割を果たすためにこれらの組織は廃止されるか完全改革されねばならないでしょう。結局のところ、人々が維持しない限りそれ自体だけで生存できる機関はありません。そして特権的な富裕層や私腹を肥す大国にとって良いことだけでなく、すべての人々のための福利への平等な懸念によって特徴づけられる人類文明の啓蒙的時代の始まりをここで私たちは考えているのです。

多くの角度から分かり易い言葉で再び考察され得る国際関係や裕福な先進国の外交政策にとって第25条の実現は分割された今日の世界で明らかに驚くべき革新的効果をもつでしょう。まず第一に、すべての人々のための基本的ニーズの充足に向けての世界の優先項目の根本的再調整は明らかに軍事予算の大幅な削減や軍事活動の急速な縮小の達成に依存します。これは、他のすべての国の支出を縮め続ける米国にとってだけでなく、多くの場合が医療、教育または社会福祉よりも防衛費にますます多額を割り当てる、高い貧困率をもった発展途上国にとっても不可欠です。

さらには、特に米国と欧州連合の外交政策が「商業化は人類が生活する上で正しい道である」と世界に吹き込み – 多くの発展途上国で第25条がますます否定される原因となる一方、世界の政治がどう広範囲に経済の分かち合いと真の国際協力とは逆の原理に基づいているかを私たちは以前考察しました。世界情勢の持続不可能な軌道はそれゆえ国民国家間の長期的関係にとってこの神聖な条項を実現することがなにを意味するか思い描くよう私たちを駆り立てます。明らかに、アメリカは世界のボスとして振舞うことを止め、グローバル・パワーおよび世界支配の傲慢な追求を続ける代わりに世界の貧困の根絶を先導するためにその有り余る資源を最終的に活用せねばならないでしょう。ロシアは連合独立国家の真の共和国として平和に営み、軍事力および威圧的な国際的影響力を追求する代わりにより大きな地域の自主性をもって進展することに集中するよう学ばねばならないでしょう。同じく中国は世界資源を分かち合うために他国と協力することにより、その拡大する経済的主権の保険証書として艦隊や兵器を増大することを止め、そして土地グラブ戦略を差し控えねばならないでしょう。

政府間の政治経済関係においてこのような改善を見込むことは並外れて理想主義的に見えるかもしれませんが、この世界情勢の操作方法が無限に未来へと存続するなかで誰がわざわざ代替的シナリオを考えるでしょうか。回避不可能とされる非道な報酬目当ての外交政策は、近い将来第3次大戦へと容赦なく至らしめるかもしれません – それは、ますます乏しくなる資源を巡り激化する競争によるものでないなら、国内および国家間の高まる極端な不平等の結果かもしれません。確実に、もっと道理をわきまえた政治家や外交官は、国々という家族に間もなく最終的選択が迫られるだろうことを悟るはずです。それは、これらの危険な状況を癒すために協力し合い分かち合うか、あるいは取り返しのつかない人類の消滅を徐々に目撃するかというものです。

世界中で第25条を実現することによってもたらされる多くの肯定的な結果を私たちは自身でさらに予想し、国々がどのように経済を再構築し絶対不可欠なこの共通目標へ向かって他国との協力のもと取り組むよう導かれるかを検討すべきです。70億人以上のすべての子供と大人が十分な食料、医療および物質的安定性を保証されるなら(そして第26条に規定されるように、無料かつ良質の公教育が保証されることと併せて)、それと同時に他の多くの問題が自動的に解決されていくかもしれません。これは理にかなったことであり、現代のグローバル化の時代において明らかに必要とされる、すべての人の社会的、経済的権利を保証するために国際レベルで調和された方策から推論できます。

食料、医薬品、工業製品、および他のすべての素材や必需品などと同様に、技術、知識、人的資源、組織能力を含んだ、いつでも利用可能な余剰資源の全目録をすぐに各国は作成せざるを得なくなるでしょう。最貧困国および最貧困地域へのこれらの資源の大規模な転送は、国連やその援助機関のグローバルネットワークを通して、または4、5年間速やかに続行する必要があるかもしれない短期緊急プログラムを監督するために、特別に設置された新国連機関を通して組織化されねばならないでしょう。比類のない国際的再分配プロセスを通して、世界の利用可能で不可欠な資源の少なくとも最小限でも万人に配分されるというようなプログラムのための政治的意思が近隣の国々を統括するなら北朝鮮でさえ参加するかもしれません。

飢餓を緩和し、絶対的貧困状態のなかで生活するすべての人々を即時に救済するという最優先目的が一度達成されるなら、すべての国の間でよりバランスのとれた平等な世界資源の分配を確立するために、国際政治、経済および金融システムの包括的改革が遠大な重要性をもち始めるでしょう。社会保護や公共サービスへの普遍的アクセスを保証できる効果的な再分配システムを設けるために必要とされる適切な取り決めに関しては、国家レベルですでに多くが知られ試みられています。同じように、戦後の現代史は、増加の一途を辿る少数派の富および権力集中を防止できる様々な政策と規制を立証しています。しかしながら、グローバル基盤で資源の分かち合いの恒久システムを確立するために必要とされるだろう新制度の取り決めや経済活動について今のところ少数の主要な経済学者、投資家または政治家が考えを巡らせているのみです。従って、開発の全体的性質および目的を再考する必要性を各国が最終的に理解するなら、国際社会の世界資源の共有権と協力的管理を実現することが可能となる以前に研究や意見交換の広範なプロセスの必要性を予期すべきです。

この高潔な試みの開始時において、35年が経過し旧式とはいえ、政治的姿勢とグローバル経済活動の主要な指針として第25条を実現することの意味について卓越した概要をいまだそのページに含んだ、1980年および1983年のブラント報告の提案を政府が再検討し見直すと良いでしょう。[viii] これらの提案がその時代の正統派経済学的想定から制約を受けたことは間違いなく、従って、今日の相互連結した危機の範囲に取り組むには不十分なままです。それにもかかわらず、もしカンクン・サミットが1981年当時に真剣に受け取められていたなら、現在までに、政治的、経済的、社会的システムおよび社会を統治する各国において第25条は一連の効果的な法律として確立されていたことでしょう。[ix]

世界中で政府の目標のそのような変革が起こった場合、国連はその元来の使命を果たすために遥か昔に世界最高の権威として民主的に改革され、再度権限を与えられていたかもしれません。間違いなく、再構築された国連システムの下でグローバル経済ガバナンスを統一するなどの画期的課題は、幕開ける21世紀に未解決の必要条件として残ります。各国が独自の最も適切なやり方で第25条の法を実現する必要がある一方で、世界情勢においてすべての国がどう振る舞うべきかということのための不可侵コードとしてこれらの法律の原則を国連総会が監督し施行することが必要とされるでしょう。

このようにして本質的に国連は、平和を維持し、弱者を守り、協力的な国際関係を促進するよう加盟国に呼びかける卓越したグローバル機関として真にその名に恥じないものとなるかもしれません。そしてもしそのさまざまな機関が万人のために第25条の基本的権利を守ることに主な役割を担う目的で強化されるなら、ひいては世界人権宣言の全項目が最終的に正当な扱いを受けるかもしれません。従って比喩的な意味で、人間の尊厳の最高法として第25条を私たちは理解するようになるかもしれません。そしてその実現は、再び誇りを取り戻した概念としての「人権」の始まりを記すでしょう。次いで、国連創設時のビジョンの美および約束が、そのなくてはならない未来の可能性への呼び起こされた理解をもって一般人のハートとマインドのなかで新たに認識されるかもしれません。

しかしながらそれは、「私はいまだ権力者であり、常にそうであるだろう」というイリュージョン(幻想)に象徴される過去の競争的で古い国家主義的有り方の残物である安全保障理事会およびその不相応な機能や権力とはまったく関係ないでしょう。自己利益に関係する時だけ、経済的に優勢な国の大統領や首相は国連に従い自分たちの目的のためにそのシステムをうまく操作しようとします。しかしすべての国の国民全体の利益のこととなるとあたかも国連の加盟国としての義務はもはや存在しないかのようです。世界のケーキのスライスの見込みのサイズによって決議に賛成したり反対したりする主要な政治的会計士によって代表されるメンバーが所属するとこところの、むしろプライベート・クラブのように機能する安全保障理事会は、真の平和や安全の追求にはなんの関係もありません。そして国連憲章の第1章に述べられている国連の元来の目的と理念とは対照的にそれは、この時代遅れの理事会の国家安全保障ゲームを特徴づける、地球資源の最大の分け前を巡ったあの絶え間ない奪い合いなのです。安全保障理事会は最初から決して設置されるべきではなかったのです。そしてそれが、国連連合総会が真の民主的グローバル・フォーラムとしてその位置を占めることを(拒否権の廃止と共に)許すことなく現在の形態で存在し続ける限り、完全に商業的または物質的目標の追求のなかで権力政治、国家的利己主義、そして弱者を食い物にすることを合法的基盤として戦争の現実も維持されるでしょう。

これによって私たちは、第25条の実現への公衆の驚異的な要求が最終的にどのようにグローバル経済の再構築、真の国際協力、政府間の関係を特徴づける緊張や紛争の大幅な緩和、そして国連の真の運命に従い安全保障理事会の最終的解散に繋がるのかを思い描くために、この方向に沿った論理を容易に拡張できます。世界資源を分かち合うなかもし国々が協力し合い、それ以後テロおよび紛争の経済的根源を抹消したとしたら安全保障理事会が必要な時があるのでしょうか。しかしこれは明確にしておきますが:第25条の実現が、グローバル化された極度の資本主義の体系的な代替を即刻もたらし、突然、世界の全問題を一挙に解決するだろうと推測しているのではありません。すべての人のために第25条のなかに記されている基本的ニーズを即急に満たすためには、優勢的な権力構造や非民主的政治体制へ効果的な挑戦を挑むこと、あるいは富裕国と貧困国の間の富や所得のあからさまな格差を是正するだけではまだ十分でないことは間違いありません。

国連の多くの高尚な志をすべて成就することを見通せる以前に、明らかに膨大な量のさらなる経済的および政治的変革が必要なことから、第25条の人権を確保することが世界の問題への唯一の対策かと問うことは間違った方向性の質問の追求です。そしてこれらの目標を成就するために必要とされる手段に関して果てしなく議論されていますが、私たちの追求の目的は、必要とされる未来の転換を先導するための人々の戦略について共通理解へ達しようと試みることです。そして私たちがすでに確証してきたように、人類のより特権的な3分の1による不断の莫大な民間参加なくして世界人口の貧しい3分の2の利益になるよう政府の優先項目を転換させる希望はあり得ません。グローバル・ステージにおいて欠落したこの決定的な主役無くして – すなわち、世界の大多数派である貧困層の充足されていないニーズを代表する、認識の高い世論のすべてを包括する善意ある影響力 – より良い世界を構築するための構造的青写真の実現を達成することは不可能です。

この意味で、現在の社会経済秩序の唯一の代替は世界の善意の人々の結束した声に見いだされ、そして、平均的男女の広範に渡る自己満足的無頓着さが私たちに「選択肢はなにもない」という印象を与えています。分かち合いの原理が持続可能な未来のためのグローバルな体系的代替手段の基礎となるべきことを受け入れるなら、その時、第25条はその原理を反映し、世界情勢にそれが実現されるよう呼びかけます。真実は、極端な人間の剥奪を終わらせることの緊急性に対する認識が全世帯で、そして最も緊急の懸念として一般人のハートとマインドのなかに感じられるまで本当はなんの選択肢もないのです。

それが、社会の新たな展望とそれを達成するために必要な政策を提案する革新的な思想家および活動家にとっての苦境なのです。なぜなら、街頭の平和的抗議デモにおいて世界の何百万もの人々が結集し、共にその展望を受け止めその達成のために取り組まない限り、それは決して実現しないだろうからです。私たちがさらに詳しく探求を続けると同時に、このことだけでもなぜ第25条がそのなかに私たちが探し求める代替手段をもち、そしてなぜそのシンプルな規定が私たちを直接的、必然的、そして一見奇跡的に代替手段へと導くことができるのかを説明しているのです。やがて私たちは、第25条を実現することが多種多様な経済的解決への直接的な入り口であり、自由と正義への最も確かな道であることを理解するかもしれませんが、その未知の可能性は人類がマジックワードを発する時にのみ唯一作動しそれ自体を明らかにするのです。そしてそのマジックワードは、この目標に情熱的に焦点を定めすべての国で止むことなく断続する大規模なデモンストレーションを通して発せられるのです。 

 

パート3:環境についての疑問

多くの人々の頭に浮かぶかもしれないひとつの主な異議は環境維持の問題に関することであり、人々の第一目標として第25条を布告することは生態学的問題の緊急性を無視することになるのではないかということです。これは深く考えるべきもうひとつの重要な問題です。なぜなら現在人類は明らかに前例のないふたつの大規模な世界的緊急事態に直面しているからです:それは、飢餓そして上昇するレベルの貧困、不平等および社会的排除ならびに大気汚染および環境劣化の問題です。従って、どのように第25条がこれらすべての相互連結した全体的危機の解決策を提起できるのでしょうか。   

まず第一に、この問題の答えが現在主流の考え方に程遠い結論だとしても、それは理論的に、そして単純な演繹的推理によって理解され得るのです。私たちが自分たちで考察すべき根拠がここにあります:それは、全生態学的問題解決の起点となる、豊かさのなかの貧困という不正義を是正することなく気候変動や環境危機に取り組むことは決してできないということです。そしてこれは心理的、道徳的および霊視点などを含んだ多くの角度から再び熟考されるべきです。  

この驚くべき試みを支援するだろう、発展途上国への無制限の援助と平行して、各国における軍事予算から公共サービスおよび社会福祉への補助金の再割当など、第25条実現への大衆の支持の膨大な高まりがどのように政府の支出の優先項目の劇的変革に緊急に繋がらねばならないかを私たちは今検討しました。第25条を布告することは、私たちが今までに見聞きしたものとは異なった範囲と規模の再分配を本質的に必要とします。国家の富および資源の共同蓄積、そして国家レベルおよびグローバルレベルでの人間のニーズに基づいた、それらの富と資源の再分配を通じて他の多くの危機的問題が最短期間で解決されることが可能です。   

例として、もし何年も前に第25条が世界の全地域で実現されていたなら、結果的に、恐らくアルカイダやISILのような特定の過激派やテロリスト・グループが存在するに至ることはなかったでしょう。貧困国のすべての家族が社会における信用と保証のための物質的基盤を遥か以前に与えられていたなら、恐らく若者の間での暴力的な宗教イデオロギーへの受容性もなく、政府と戦うことや(結果的にもはや完全に頽廃していない)その政権を転覆する理由もなかったでしょう。そして、大規模な資源の移動、広範な農業改革およびグローバル経済構造の大規模なリストラを通じて飢餓と極度の剥奪を根絶するための緊急プログラムが遥か以前に開始されていたなら、恐らくその時政府は国際協力の真の利益を実際に実現していたでしょう。従って、恐らく遥か昔に、唯一真の協力だけが達成できる、人類の未来に迫り来る他の脅威の解決に彼らは乗りだし、戦争推進の最終的放棄、二酸化炭素排出制限、および環境再生への最大限の努力をもたらしていたでしょう。   

実に、もし私たちが世界資源を分かち合い、世界の貧困、とりわけ飢餓を根絶していたなら、その結果恐らく今日の環境問題は最小限に保たれ、そしてグローバル開発のパターンが大変違ったより持続可能な経路を辿っていたことでしょう。集結した政治的リーダーたちがブラントの提案に合意できなかった1981年のカンクン・サミット後、多くの面で環境の哀れな運命は封印されました。そのことは、未来の歴史学者がその後のすべての展開への分岐点であったと認識するかもしれません。マザーアースが話せさえするなら、集結した国家のリーダーたちに言ったかもしれません。「成る程、あなたがたは協力することを拒み、私が惜しみなく信用のなか与える豊かさを分かち合いたくないというのですね。では、あなたがた自身の行為の結果を私のせいにしないことです!」  

レーガンやサッチャー、そして彼らのグループがサミットを見下げていたのも当然かもしれませんが、彼らが去った今、ブラントのアクションへの呼びかけを無視した彼らの決定がもたらした現実に対して私たち全員が証人となり、代わりに商業化勢力を解き放し、分離、貪欲および利己的な競争の彼らの分裂的道を追求することを私たちは選んでいるのです。それから現在までの間、歴代の政府らは、社会、経済、政治情勢に市場勢力の影響が蔓延ることをますます許してきました。それらの政府は皆で共益のための統治を捨て、代わりに世界市場の気まぐれに決定権を丸投げしているのです。そして国連とその創設時のビジョンに背を向け、代わりに国際法を嘲笑する安全保障理事会を通してパワーゲームを追求しています。これらの要因の組み合わさった不可避の結果は環境劣化の高速化であり、そしてふたつの緊急事態が人類の未来の展望を脅かす今日に至っています – そのふたつの緊急事態とは、不平等および気候変動の双方であり – カンクン・サミットの時点において私たちは主に前者に集中することができたはずでした。   

政治的指導者たちが持続可能な平和的世界の長期的ヴィジョンを抱いていたと仮定し、最も自己本位な視点から見ても、環境問題の激化を防ぐために貧困の根絶を優先することは理にかなっていたでしょう。なによりも、貧困が過去6、70年間の急激な人口増加の背後にある根本要因であることは良く知られた事実であり、この動向が予測通りもし今後100年間続くなら、とりわけ発展途上国で増大した資源消費、そしてその結果としての二酸化炭素排出の増加が環境に深刻な影響を及ぼすであろうことは明白です。富裕国の人々が地球資源の大部分を消費し、従って環境に最大の影響を及ぼしていることは本当ですが、断続する人口爆発が資源ベースや地球の生態系への支えきれない負担の原因になり得る事実は否定できません。しかし、家族が適切な生活水準に恵まれている時、人口レベルが低下し安定することは十分証明されています。そしてそれは貧困者自身の心理と共感することを通してのみ真に理解され得るのです。貧困で生活する人々がなぜしばしば多くの子供をもつのかという深く哀しい理由があります。それは主に、子供たちの何人かが – もし栄養失調または予防可能な病気で早死にしなければ – 老齢期の両親を援助するだろうという希望です。発展途上国のこれらの根深い文化的態度は、第25条に要約される人間の基本的ニーズの充足を政府が常に保証するだろうという完全な信用と確信を全市民がもつことによってのみ変革され得るのです。   

私たちは、20世紀中にすでに起こった世界の人口爆発を目撃すると同時に、この事態を永続させている状況の改善に政府が心底から取り組み、すべての必要な国際援助や人口プログラムの支援と併せて貧困、病気、栄養失調と戦うことに全力投球することを想像するかもしれません。地球環境への負担が原因となるだけでなく、潜在的に破壊力をもつ社会的、経済的、政治的紛争の観点からこの複雑な状況に内在する時限爆弾もがまた原因となり、貧困と人口が相互関係した成長が極度に危険な現時点に私たちは到達しています。それにもかかわらず、長期的な修復作業のためのまともな方針へ最大限の努力を投じるどころか政府は、世界人口の急速な成長を邪悪に楽しむ商業化の不毛の道を追求し続けてきました。裕福な企業の利益を拡大できる限り人類の未来へのリスクなど彼らにとってどうでも良いのです。

発展途上国同様すべての先進国の大都市でも現在経験されるように、なぜ世界がそんなに混雑しているのかという本当の理由を私たちに考えさせるかもしれない難解な人口問題の背後にミステリーがあるのです。貧困がその根本的原因だとまだ私たちは言えるのでしょうか。それともそれは社会的不安定、不平等、そして抑えのきかない移民群の激増 – このすべてがより多くの企業利益と経済成長を促進するという名の下に – を通して過去何十年間に渡りこれらの動向を駆り立てている商業化勢力なのでしょうか。   

国連の創設以来もし私たちが世界資源を分かち合っていたなら、環境状態への遠大な意味を伴い人口がどう持続可能な割合に保たれていたであろうかということを理解するために、この方向性の質問は役立つかもしれません。一方で、決して不可避でなくまだ回避可能な予測として、21世紀末までに、無理強いされ劣化した惑星に110億人以上が生活するという悪夢的展望は緊急の国際的優先事項として世界中で、特に極貧地域で真っ先に第25条を実行することによりもはやあり得ないのです。またもう一方で、以前概説されたすべての理由から、第25条の実現がどのように商業化勢力に直接チャレンジを挑み、そしてそれは、実に見たところ地球と人類そのものを忌み嫌う利益への原動力が社会や環境のなかでもはや破壊的要因で無くなることを意味すると私たちはまた検討してきました。資源を分かち合い、富を分配し、そして第25条を実現するという絶対不可欠な目標に向け国際協力の世界的プロセスを通じて多国籍企業はより人間的で社会的に善意ある、そして環境的に意識的な方法でやがて機能せねばならないであろうことを信じるべきすべての理由があるのです。   

これが、直接的な手段であろうと間接的な手段であろうと環境を知らず知らずのうちに破壊するよう余儀なくされた – 株主への彼らの信任義務の一環として – 企業のエグゼクティブを含んだ私たち全員の利益のためであることを誰が否定できるでしょうか。私たちが第25条の実現に即刻漕ぎつけない限り、これらの大企業の実体が熱狂的な破壊活動を激化することを防ぐ方法は恐らく他にないのです。地球の生物圏内における恐ろしく酷い影響をまた彼らも目撃し始めると共に、彼らの最善の判断に反して過剰な利益を上げ続ける唯一の方法は自然界をさらに酷く破壊することによるものなのです。これらの愚純な商業化勢力が世界情勢において支配的影響であり続ける限り、– 普遍的社会保護のような – 社会の富を分かち合うための控えめな提案さえがますます理想主義的、達成不可能、そして究極的にユートピアンとなろう一方で、環境が人間の生活に不適切となる段階まで劣化するだろうことは疑いないのです。   

しかしながら、風土病的な飢餓や貧困の非常事態に取り組むことなくして今日の世界の環境的非常事態の解決はあり得ないということを多くの善意の人々はいまだ認識できません。莫大な数の貧窮化した人類の基本的権利をもし私たちが見落とすなら、それと同時にマザーアースの権利のために戦うことがなぜ無意味なのかを認識することを試みてみましょう。先ほどすでに私たちが論じたことから単純な論理が推測できます。環境には自然と人間の二種類がありそれぞれが相互依存しています。森林、土地、海、大気およびその他が、私たちが普通理解する自然環境の総合ですが、この世界で起こっているすべての誤りの原因要素として人間環境の総合的な健康を同様に私たちはまた考慮すべきです。  

この理解に基づくなら、極貧のなかで生活する何百万という人々は最悪の人間環境災害です。それは恥知らずにも長年容認されてきた後、私たちのより広い生態学的問題の結果を決定した災害です。従って、環境保護主義者は重大な判断の誤りをおかしました。なぜなら、もし私たちが1950年まで時計を戻すことができ、まず第一に第25条の実現により人間環境の健康を修復したとしたら、ついで地球の健康は今日のような危険にさらされていなかっただろうからです。そして万人の基本的ニーズを満たすために富と資源がより公平に分配され;完全利益主導型勢力は必然的に適切なところへ追いやられていたでしょう;グローバル・サウスの国々の人口レベルは最終的に安定し減少し始めていたかもしれません。そして再構築された国際経済は、高度に工業化された国々でさらにシンプルで平等、そして持続可能な生活様式を生みだしていたかもしれません。

私たちは世界問題を環境主義者のせいにしているのでも、彼らの重要な取り組みを中傷しているのでもなく、貧困と環境問題の間の直接的繋がりをなぜ殆どの人々が見落としていのるかについて一緒に問おうとしているのです。莫大な規模でこの地球上に貧困があるとしたら、ひいては確実に環境問題がおよそ不可思議な方法でそれに続くだろうことはあり得るのではないでしょうか。そして至るところで貧しい家族の現実が酷い天候状態の現実に反映されていることがあり得るのではないでしょうか。なぜなら、この豊かな世界で貧困の原因となっているのは人間の欲、無関心および無知に基づいた利益と権力の追求である以外何者でもないからです。それは、経済成長と消費主義の名の下この地球から略奪することへ多国籍企業を至らせたのと同じ要因です。もし私たちが注意深く見るなら、環境と貧困危機の間には切り離すことのできない繋がりがあります。それは、「気候変動」、「飢餓/貧困」、そして「人口増加」の言葉をそれぞれの角に、そして「利益/商業化」を中心にもった三角形の図式形態に簡潔に表されるかもしれません。制御されない商業化を通してさらなる利益をあげるプロセスのなかでさらなる貧困が大気内のさらなる大混乱と共に生みだされます。そして、貧困レベルが上昇すると同時に世界人口も上昇するのです – それは商業化勢力をますます強力にし、これらの自己破壊的動向を際限なく激化させる原因となっているのです。

 

従って、地球資源の分かち合いを通して第25条を完全に実現することを世界の人々が要求しない限り、商利への追求は自然環境を破壊し続けるでしょう。そして世界の産物が分かち合われない限り、何百万人が飢えるなか余剰食糧が腐るまま放って置かれる限り、人類という家族がその最も貧しいメンバーの苦しみを見落とし続ける限り、この惑星の生態系と気象パターンのなかで不均衡が生じることは避けれません。なぜなら、貧困の不当さ、人間の搾取の不当さ、そして私たち万人のものである地球の産物を溜め込み分かち合わないことの不当さに取り組まずして、私たちは環境問題にも取り組むことができないからです。従って「飢餓」という言葉、あるいは私たちの世界の分かち合いの欠如にふれることさえせず、気候危機についての認識を公衆にもたらすことは十分なのでしょうか。それとも、広範に渡る人間の剥奪に十分な注意を払わぬ一方で、私たちが環境問題に取り組もうとすればする程地球の健康がますます悪化することを考慮すると、それは私たちの無知を特徴づけているのでしょうか。

単に道徳上の理由だけでも、世界の飢餓に取り組むことなくして環境問題に取り組めると信じるのは嘆かわしいことなのです。なぜなら、世界を救うために行動すると同時に、私たちにとって飢える人々を救えない理由はないからです。気候変動を阻止するため、あるいは環境破壊を止めるための大衆動員を現在多く目にしますが、命を脅かす飢餓や貧困の即刻廃絶を要求する世界規模の活動をどれだけの割合で私たちは目にしているでしょうか。それでもなお、もし私たちが不法な戦争(特に、2003年のイラク戦争など)を阻止するため、あるいは世界の多くの指導者たちがないがしろにしているだろう差し迫った生態学的大惨事への認識を高める試みにおいて私たち自身を組織できるなら、ひいては第25条実現の目標のなかで統一され「他の人々はどうなるのか」という態度に動機づけられた大規模な国際的抗議デモを組織できるはずです。

毎年、貧困関連の原因から1700万人が死んでいくかたわら、なぜ気候問題が私たちの家庭内でそのように重要になったのかを恐らく腰を下ろして自問すべきでしょう。私たちにとって、どうしょうもなく貧しい人が今日一切れのパンを口にすることより、自分たちが明日きれいな空気を吸うことの方がもっと重要なのでしょうか。グリーンピース創設以前でさえ、何百万もの人々にとって飢餓が日常の現実であったにもかかわらず?壊滅的な気候変動を防ぐために私たちには10年か15年残されているかもしれませんが、栄養失調から徐々に死んで行く貧窮した子供には何年どころか何日残されているのでしょうか。これらの疑問は筆者がその答えをかつて理解できたことがなく、これからも決してできないだろうことを読者に伝えたい彼からの個人的な抗議として提起されているのです。貧困の屈辱は今日の環境汚染問題よりずっと以前から存在してきましたが、なにかしら奇妙な理由から天候だけが世界的な公衆デモにおいて声を見いだしているのです。貧困者には座るクラスさえない一方、環境にはグローバルな運動のなかでファーストクラスを与えられているかのようです。そして貧困者自身が彼らの苦境について声をあげることや純然たる絶望から反乱を起こすことは滅多にありません – これまで常にそうであったように – 彼らは自分たちの運命を受け入れ、極貧のなか静かに死んでいくよう非常に強く条件づけられているのです。

これは、高い貧困率をもつアフリカ、アジアまたは他の地域での悲惨な気候パターンの断続にもかかわらず、もし富裕国が自国の地域環境修復に成功できると仮定するなら、不穏な認識に私たちが直面することをやむなくさせます。なぜならそれは、私たちが他の人々のことを考え彼らを助けるよう政府に強いるのか、それとも現在定番となっている自分たちの偏狭で無関心、そして自己満足的で無頓着な生活様式を続けていくのかということだからです。事実環境問題は、遠方の国々における極貧の子供たちの将来などへの配慮が殆ど皆無の、主に私たち自身と私たちの将来、そして私たちの子供たちの生活にとって重要なことなのです。私たちは子供たちに環境に良いことを考えるよう、そしてプラスチックや空き缶をリサイクルするよう教育しますが、日々栄養ある食べ物を口にする恩恵さえ受けず外国で貧困のなか衰えていく何百万人もの子供たちのことをどう気にかけるかを彼らに教え損なってきました。富裕国の子供が家で空ビンを1本リサイクルする度に、その瞬間、世界のどこかで恐らく二人以上の子供が貧困から亡くなっているのです。

勿論、環境問題について認識を高めることは、この惑星が破損状態でありそして人類からの十分な対応が殆ど始まっていないことから疑いなく極めて重要であり賞賛されるべきです。しかし、私たちは自問するために恐らく今一度暫くの間立ち止まるべきでしょう:流行りの理念について他の追従者に影響されたのでないならなぜ私は世界の飢餓より気候変動を気にかけるのでしょうか。実に、先週何度私は家庭のゴミをリサイクルしたのでしょうか、そして同時に、貧困の結果不必要に亡くなった多くの人々について何度考えを巡らせたのでしょうか。もしあなたがそれらの貧しい人々が亡くなる前に彼らに環境状態について話したとしたら、彼らがこう答えたであろうことは確かです。「私には森林や二酸化炭素について考えられない。私はただ食べ物、きれいな水、医療、そしてまともな家が欲しいだけです!」

ここで再び繰り返しますが、環境的非常事態について他を教育することは確かに良いことなので思い違いのないようにしましょう。しかし、分割され苦悩に満ちた道徳上非難されるべき世界でこれは一体どのような種類の教育なのかを私たちは自問せねばなりません。商業化がすべての主流の政党の議題を乗っ取り、不正な世界経済が無数の家族に苦難と絶望をもたらし、国際緊張が不安と抑うつの異常発生の原因となり、そして公衆の注目を搔い潜ったところで貧困から何万もの人々が死んでいる時、どのような種類のより良い生活を私たちは期待できるのでしょうか。世界がもしこの同じ不正な経路に沿って続くなら、私たちは一体なぜ環境の健康の回復を望むのでしょうか。富裕国に影響を及ぼすかもしれない移りゆく気象パターンや温室効果ガスの流れに関して無限のデータがあるにもかかわらず、絶対的貧困のなかどれだけの人が飢え暗黙に苦しんでいるのかという確かな統計がありません。これは、礼儀正しい会話において、世界の最も暗い隅で貧困から死に続ける人々の惨事のために殆ど一言も発せられないかたわら、環境に関する公的な論議は理にかない教養があるとされている時、恐らく驚くべきことではないのです。

それにもかかわらず現在でさえ、激しい気候の混乱と金融動乱の真っ只中で飢える人々に食べ物を与え、病める人々を癒し、剥奪された人々を世話し、そして同時に、暴走した気候変動を防ぎ環境を修復することがまだできるのです。そのようにすることはこれらの問題が今まで存在し続けてきた限りいつでも可能だったのです。しかしながら今日、政府がこの比類なき目標を達成できる唯一の道は、結束した世界の人々を後ろ盾とした適切な政治家の選任によるものであり – そしてそれが、広くいき渡った私たちの無関心や自己満足的無頓着さの結果としての問題が根を張っているところなのです。

最も包括的および霊的視点から世界問題を観察する時、環境コモンズに対しての一般化した無関心へと結果的に導いた、私たちの利益、富、権力への集団崇拝を通して、気候危機は人間の聡明さが誤った方向へいってしまった結果だと言えるかもしれません。しかしこの不運な現実に皆が一役買っており、そしてそれは、この時代の山場を迎えた問題の原因における自分たちの共同犯罪が元で、どのように自分たち自身を環境破壊の罠に嵌めているか認識することを私たちに余儀なくさせています。その罠とは、自然界の自己破壊を激化させているプロセスに私たちが始めから常に一役買っている一方で、「この惑星を救うための時間は僅かしか残されていない」と信じていることです。不十分な教育システムとその結果としての自己知識の欠如に起因して、私たちは自己または人生の目的を知らず、従って物質性への自己投影を通して偏狭で自己本位な方法で「幸せ」になりたいという欲望に容易に影響されるのです。そして、クリスマスの過剰消費の狂乱またはブラックフライデー・セールの無分別なショッピングを通して最も下劣な形で実証されるように、全方面で利益をあげることにより商業化勢力は私たちの無知と服従を食い物にすることに卓越しているのです。保証と幸福への心理的要求を通して私たちは皆、他より優れている「偉い人(成功者)」になるか、そうでなければ贅沢な家、無駄な消費癖、そしてジェット機で飛び回る旅行など贅沢三昧な生活を熱望することを已む無くさせる社会的条件づけの影響を受けやすいのです。

これがどのように、乏しい地球資源を巡る激烈な競争に基づいた外交政策と併せて、全世界の何百万ものビジネス契約や利益追求によって特徴づけられるグローバルな全体像に繋がるかを私たちに理解できるでしょうか。それは全体的に永続する破壊的影響を環境に及ぼします。個人は成功した偉い人になることを熱望するよう教育され、それは国家レベルおよび国際レベル双方で表現される自己本位的態度や他人に対する特定の無関心へと至ります。そしてその蓄積された自己本位は多国籍企業の誇りと歓びであり、過剰消費の大衆パターンと自然環境の劣化の原因となるのです。

結局のところ、熱帯雨林伐採、貴重な鉱物の露天採掘、化石燃料の不断の掘削などの背後にある推進要因は、政府でも企業でもなくむしろ破壊が起こる他国の人々へのその影響にもかかわらず、この必然的な破壊を起こす高消費の生活様式を欲するよう教育されてきた各国の人々です。どこかで私たちが述べたように、アメリカン・ドリームアメリカン・ドリームの物質的および利己主義的理念が現在世界のおよそすべての国に輸出されました。それは、商業化そして環境破壊と同じ意味をもつ社会的条件づけの一形態を象徴します。[x] 私たち全員が永続させていることに多かれ少なかれ責任のあるこの大混乱の全体像を観察するにあたり、地球温暖化の原因に対する人間の有責性に関する問いは、私たちが当然このように返答するかもしれない誤魔化しです:とにかくそれがどうしたって言うんだい?

今日の気候危機を長引かせることに私たちがどのように加担しているかについて深く考えることは、社会のなかでの共存および交流の仕方に根源をもつ問題のより深い原因の認識へと私たちを導くかもしれません。人々が喜びを失い、強い条件づけを受け、創造力を欠き、そして人間関係のなかでお互いが心理的に分離した – これらのすべてが環境と大気内での深刻な不均衡の原因となり – 世界に私たちは生まれ落ちているのです。従って、貧困と悲惨の真っ只中で裕福になり成功するという一般に広く行き渡った動機もまた自然環境のなかで感じられる混乱の原因です。これは、全面的に社会問題を解決しない限りなぜこの惑星の生態系を決して治癒できないのかということを理解したいなら把握すべき密教的かつ基本的認識です。別の言い方をすると、それは人間がすることだけでなく、彼が考え、感じることもまた環境に影響を及ぼすのです。なぜなら、人間の思考と自然界の間には複雑な関係があるからです。

もしあなたが抑うつ病または薬物中毒者の部屋に入り、そしてそれが微妙な感情的レベルであなたに良くない影響を与えるとしたら、大衆としての人々のすべての良くない思考と感情が、自然と世界の気候条件に有害な影響を及ぼし得ることは確実です。そして、人間が生みだしている考えの主旨はなんでしょうか。それは、他の人々の生活状態に対する風土病的無関心と混ざり合った、利益、パワー、富の盲目的崇拝以外のなんでしょうか。貪欲そのものが不均衡を象徴し、そしてもし私たちが個人のなかに表現されるすべての貪欲、利己主義および無関心の総計数を外挿するなら、気候パターン、海面、そして植物や動物の振る舞いを含んだ私たちの周りの生命にそれが与えているかもしれない影響を推定できるかもしれません。

 

従って、生態学的破壊の原因は多国籍企業の世俗的活動だけでなく、社会および自然双方で感じられる様々な混乱の一因となる企業のロビー活動または悪質な取引形成の思考および意図そのものでもあるのです。同じように、他国に兵器を売る強力な政府は遠方領域における戦争と死の断続に責任があるだけでなく世界中で人々の意識に恐怖と抑うつをも拡散しているのです。それはこの惑星の大気と生態系内の混乱に最終的に反映されます。ウエスト・バンクとガザ地区の周りのアパルトヘイト壁でさえが自然環境に途方もない悪影響を与え、私たちの分割された世界で猛威を振るう心理的抑うつ、苦悩、そして憎しみを広範囲に渡って浸透させます。もし人類の進化に聖なる計画があるならそのような壁はその対極を象徴し、20世紀後半に建設された最も醜い記念碑のひとつとして考えられるべきでしょう。人間はライフ(生命)であり、そして宇宙のなかのすべての原子は密接に繋がっているという基本原理は、一度私たちがその正当性を完全に受け入れ理解するなら社会的取り決めと人間関係にとって深い意味合いをもちます。

その時まで、社会的危機と環境危機の双方の存続についてともかく私たち全員が責められるべきであり、そしてこれらの問題の間の繋がりへの無知または無関心に関してのみ私たちは真に結束しているのです。多国籍企業自体が自然に対して犯す破壊にまさに無関心であるように、飢餓や貧困から死ぬ危険にある何百万という人々に対して私たちもまた集団的に無関心なのです。もし大企業が事実上利益目的のために自然を忌み嫌っているなら、私たちも事実上個人的幸せと安楽さを追求する目的のために自分たちの最も貧しい兄弟姉妹を忌み嫌っているのです。従って、自己中心的、盲目的、傲慢、無知、そして無関心であることの点から見ると、私たちは皆同じなのです。さらには、人為的な飢餓や貧困の問題を私たちが大変長く無視してきたため、現在、貧困は社会混乱と環境災害を通して私たちに取りつくために戻ってきているのです。なぜなら、この地球で起こるすべては霊的に相互関係しているからです。

商業化が私たちの動脈に入り込んで以来、気候がどのように過去2、30年間で突然悪化し、そして人類が以前にも増してより凄まじく資源を消費し始めたかあなたは気づいていますか。道がより混雑するようになり、ホームレスおよび貧困率が日々悪化し、すべての苦しみ、痛み、そして世界の道徳的腐敗から私たちがますます混乱し疲れ果てていくのをあなたは気づいているでしょうか。そして私たちが共同で維持するこの機能不全のシステムが自己再生する賢いメカニズムを現在発達させ、私たちがもはやその分裂的プロセスの一部でありたくなくてもそのなかに私たちを無理やり捉え続けるのです。そうでありたくないなら、すべての哀しみ、不正、貪欲、不平等、そしてなによりもこの惑星特有の無関心から生まれた機能不全の社会において、現在気候変動が大変顕著な不秩序の反映だという真実を知ることです。それらのすべてを覆すなら、あなたが生き続ける限り、そしてその後も健全な環境があることでしょう。飢餓と貧困に対して無関心でいることは、平和な内なる静寂のなかであなたが深い青空を見つめ、気候がその四季と共に尊厳を保ち、そして愛に溢れた海がその子宮へ流れ込む川を決して拒むことのないところの、神から授かった自由の瞬間をあなた自身に拒むことなのです。

 

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環境危機の第一の原因が私たちの意識および私たちのお互いとの関係に根づいていることを知覚するなかで、人類の全問題はヴィジョンおよび愛の欠如の結果だと私たちは簡略に結論づけるかもしれません。政府が自国民に耳を傾けないのと同じく、自身のハートの声に耳を傾けないのは私たちです。そしてこれが世界の未来を脅かす最も非情な公害なのです。それは、良識と道義に対して私たちの目をくらますハートの特質への公害であるため、大気の二酸化炭素よりもっと酷いのです。裕福なエリートは貧困者の剥奪の原因となる状況を根絶させる代わりに、貧困者を根絶することにより対処されるべき社会的公害のようなものとして常に彼らを見てきました。しかし何百万人が貧困のなか、豊かな世界において人為的原因からまったく不必要に死んでいく事態を私たちが受け入れ続ける限り、私たちもまたハートの特性を無視しているのです。

絶望的な貧困のなかで長年生活する人の心理に私たちは一体どれだけ共感するのでしょうか。余りの貧しさに十分に面倒をみる術もなく、生きるチャンスを得る以前に彼らの多くが死んでいくであろうことを知りながらも多くの子供をもつことに。それはあなたがコミュニティの目から見てすでに尊厳を失い、社会に失望させられ、人類自体から見捨てられたという意味です。そのような男女の心のなかには激しい喪失感と唯一絶望的に貧しい人だけが経験し得る恐ろしい孤独感があります。完全に不必要とされ、内面的に無価値であり、神に裏切られたという感覚です。あなたが絶望的に恵まれない境遇にいる時、悲惨さと絶対的貧困のなかで生活している時、それはあなたを魂のない人間であるかのように感じさせます。そしてそれが、私たちのなかの最も不幸な人々の苦しみに対する人間の無関心の有害な効果なのです。あなたには人生になんの目的も見ることができません。あなたは自分自身を好きでも嫌いでもありません。そして、感じることのできる唯一の感情は、決してやってくることのない助けのために泣き叫ぶあなたの心のそれなのです。

それが、世界中の多くの未発達地域の極貧の村や都市のスラムにおける何百万もの人々にとっての日常の心理的現実なのです。私たち自身は親切で物惜みなく善意と高潔な意図で満たされているかもしれませんが、今までにもしそのような種類の貧困を経験したことがないなら、政府の福祉や公的支援の希望がなくこの先2週間の食べ物もないということがどう感じられるか私たちには及びもつきません。私たちの自己満足的無頓着さと無関心の影響は想像を超え遥かに深刻であり、そして自分たちの文化的態度および社会倫理におけるその本当の意味合いをまだ把握していないのです。不必要に飢え貧窮したそれらの人々に背を向けることは、彼らの魂の神聖な目的の不可侵権を実際に拒むことであり、そして神から授かった進化の権利を彼らから剥奪することです – それは筆者が以前から繰り返し主張してきたように、私たち全員が犯しているすべての罪のなかで最も重い罪なのです。

どうか今ここで述べられたことを熟考し、ひいては私たちの話し合い、抗議、コミュニケーションおよびその他諸々のなかで今なにがなされるべきか自身で直感するために、第25条の内容について再び真剣に考えてください。どのような経歴であろうとすべての人が、経済的、社会的、芸術的、そして化学的な手段さえを通して、飢餓と貧困の古来からの誤ちを緊急に正すためのこの偉大な文明的試みにおいて役を担うことができるのです。私たちの考えと行動のなかで最も優先されるべきことは、自分たちの家庭に影響を及ぼすかもしれない環境問題だけでなく、むしろ世界資源を分かち合うことが全レベルで人類の問題の解決策だという理解に私たちを導くであろう、世界的な環境危機と貧困危機の間の相互関係に対する認識なのです。

街頭にでて気候変動に取り組むよう政府に対して抗議デモをすることは、世界の貧困者に食べ物を提供し保護するよう要求することとは大変異なります。なぜなら、後者は私たち自身より恵まれない人々への慈悲心に基づいた、私たちの意識的認識のなかでの変革の始まりを象徴するからです。それは、心のこもった共感的懸念を通して「他の人はどうなるのか」と考えることであり、一時的に自分自身の生活と自己本位な懸念を忘れることなのです。それは、すべての世界の問題の全体的な関連性を感知することであり、そしてその理解を通して、願わくば社会正義や気候正義のためのすべてのデモンストレーションにいつでも私たちは参加すべきなのです。最終的にそれは、人類はひとつであり、そして正義自体は不可分だと知ることであり、よって気候混乱や非常に病んだ地球の見地からでさえ、飢餓は世界全体に悪影響を及ぼすことから、それを不正義そのものとして認識するということなのです。

世界問題の相互関連性を理解するということは、善意、良識、そして正しい人間関係についての拡大する認識を私たちがすでに身につけていることを前提として、人類のための大使として話し行動する責任を認識するということをも意味します。誤用された人間の知性がそのような言葉の簡単な意味を数千年間曖昧にしてきたため、唯一私たちのハートだけがこれらの不十分な言葉の重要性を真に説明できるのです。もし私たちが国際的分かち合いと協力を通して人間の命をリサイクルする重要さについても子供たちを教育しないなら、例えば、環境保護のために家庭の廃棄物をリサイクルする重要性を彼らに教育するだけでは十分ではないのです。そうしないなら、私たちは彼らの意識的な認識をそのリサイクルの箱だけに制限しているのであり、その箱がまるで他のすべての世界問題に繋がるパンドラの箱であるかのように環境問題が最初にどのように起こったのかをも彼らに教えない限り、その箱は私たちの惑星を救うこととは余り関係ないのです。これはまた、商業化が環境に対してなにをしているのか、そして政府が世界に対してなにをしているのかについて親が自己を教育せねばならず、それよって彼らのように人類の大使となるための指針を与えるなかで手本となり子供たちを導けることをも意味します。

従って、今日の学校教育のプログラムの中心に、すべての国ですべての人の基本的ニーズを確保する必要性についての理解があるべきであり、そしてそれは食糧、医療、住居および社会保証への普遍的権利だけに関するものではないのです。第25条を定義する2、3の文章に私たちの理解を制限するのでなくその行間を読むために直感を使いましょう。なぜなら、不断の抗議デモのなかで世界人権宣言第25条を布告することは、道徳的責任についての新認識とひとつの世界へのビジョンをも暗示するからです。世界的な環境のためのデモンストレーションを通して起こっていることは事実、人類はひとつだという浮上する認識の象徴であり、そしてそれは世界意識の始まりと私たちの長い分割的な過去の棄却の到来を象徴するのです。この点において気候変動は、私たちが最終的に自分たちの霊的一体性および相互関係の意義を理解するように、惑星規模の共通目標のために世界の人々をひとつに結ぼうと試みている偉大な教師です。しかし、飢餓および貧困根絶のための世界規模の大衆デモンストレーションが行われていないという事実はまた、私たちがいまだ誤った方向へ進んでいること、そして世界資源の分かち合いがどのように、環境破壊を覆し、より簡素な生活を開始させ、万人の共益に基づいた持続可能な経済を確立する唯一の道であるかをまだ集団で理解していないということなのです。

 


 

パート4:ハートを従事させる

私たちはこれまで第25条の実現がこの先何年かの危機的期間においてなぜ最も重要なのか、そして世界変革への責任がなぜ積極的に活動する一般人の結束した声にかかっているのかということに対する重要な理由のいくつかを探求してきました。今日私たちが直面する貧困、環境および安全保障危機の規模の深刻さを考慮すると、政府が突然現実に目覚めより安定した軌道へ世界を導き始めるだろうと信じるのは世間知らずかまたは馬鹿げたことでしょう。殆どの国家のリーダーの政策が公有財産の残りのすべてをさらに商業化する一方で、返済不可能な国の債務や激化する不平等にもかかわらず、何百億ドルもが無分別な戦争と破壊的な地政学的計略へと注ぎ込まれ続けています。

世界経済に深刻なダメージを与え、民間金融機関への国民による経済救済措置を必要とした世界金融危機後でさえ、社会および地球再生の共通目標に向けた国際的結束というレッスンがいまだ習得されていません。各国家は真の協力および経済を分かち合う精神をもって最終的にお互いに助け合い取り組む代わりに、他の部分には再び背を向け地球の苦しみに真の懸念をまったく示していません。パレスチナの人々に対するイスラエル政府の行為から例えを引くと、利益主導型の暴虐を振るう多国籍企業と並んで、残忍な外交政策を行使する大国によって全世界に押しつけられた服従を、隣国イスラエルによるパレスチナの人々に対する抑圧と比較できるかもしれません。彼らが弱者と発展途上国に強いる苦しみに対して彼らの目を開くのはなんでしょうか。そして、良識、優しさおよび愛情をもって哀れな同胞を扱うというシンプルなレッスンを彼らはいつ習得するのでしょうか。

あの「平和プロセス」という二枚舌のフレーズのカバーのもと断続する侵略をイスラエル政府が止めるだろうと信じるなら、まさにそれは私たちが騙されやすいということであるように、もし利益団体が突然ロビー活動を中止し、利益のために世界資源を盗むことを止めるであろうと信じるなら、悲しいかな私たちは欺かれているのです。世界情勢の悪化するこの永続的行き詰まりに終止符を打つには唯一ふたつの希望があるのみです。それは、聖なる神の介入への願望的、受動的懇願、あるいは、「いい加減にしてくれ!もうこれ以上絶対にごめんだ!」と言う何百万人という数で結束した一般人の協奏的な目覚めです。

前者の可能性にかかわらず、結束した人々の声が政府の決定に影響を及ぼし現在破壊的な世界の方向性を改められるよう十分な力と尊厳をもって拡大し続けていくためには特定の前提条件があります。それはまず第一に、第25条の人権を圧倒的に支持する何百万もの人々が絶え間なく世界の街頭にあらねばならず、そしてそれは日夜を通して際限なく繰り返し断続せねばなりません。実に、もしあなたの肉体が深刻に病んでいるとしたら一日だけではなく自然の流れに沿って治癒過程が終了するまでかなりの期間あなたは入院するでしょう。同様に、人類の身体は余りの重体で、唯一の治療法は無数の善意の人々が街頭に集まり、まるで世界の未来がそれにかかっているかのごとく – 文字通りそうなのですが − 政府の優先項目の転換のために平和的に抗議することです。その時がきてすべての大陸のすべての国々で同じ目標を一般市民が受け入れる時、くる日もくる日も毎週増え続ける数のなか各都市で一斉に集まる何百万という人々を恐らく私たちは真剣に思い描くことができるでしょう。

この点で、セントラル・スクエアでキャンプを張っているかもしれない様々なオキュパイ参加者に私たちは敬服せねばなりません。これらの断固とした活動家は今のところ人口のほんの僅かな割合を占めるに過ぎず、警察が強制的に彼らを立ち退かせているかもしれないのですが。従って、権威者が彼らの希望と熱望をもみ消すことは比較的容易であり、彼らは全同胞市民の役割を勇敢に果たそうとした不満をもつ寂しいグループとなってしまいました。しかし、もし人口の絶対多数がここに至って第25条の実現に基づいた、これらの止むことのない抗議デモに加わることにより参加者数が断続して増え続け、余りの莫大数に膨れ上がって警察も彼らを制圧し阻止できないとしたら政府はどうするでしょうか。

権力層の政治家、警察や裕福なエリートは新たな抗議運動が現れる度にそれを注意深く見守っており、そして次のように言うことによって自分たちを安心させ続けていることは間違いありません:「彼らは前回のように確実に鎮まって結局は引き上げていき、また業務平常通りとなるだろう」。従って、児童や公共部門労働者だけでなく以前抗議デモをしたことのない家族なども含んだ、あらゆる経歴をもつ一般の人々がこの非暴力的抗議デモの再開に参加する段階に至らねばなりません。その時点で警察さえが政府に向かって言うかもしれません。「我々はあなた方ではなく、人々と共にあります!」

政府からなにを要求すべきか現在までに私たちは明確であるべきです。それは、自国での最低賃金引き上げまたは発展途上国への拡大された援助の寄付などよりさらに大きなことなのです。微々たる「最低」賃金のための永続する戦いは、人間からの搾取、企業による着服および公衆の無関心の長く暗い歴史を反映し、そしてそれは、最も幅広い意味での − 公平で適切な生活水準への万人の権利を保障する、一連の遥かに包括的な法律のなかで最終的に具体化されねばならない − 第25条と本当の関係はなにもないのです。富のすべてを不平等に分配する社会のなかで私たちはどのように動くことができ、さらには、必死に生活する貧しい大多数派のためになぜかろうじて最低限の生活水準しか要求できないのでしょうか。

先に示されたように行間を読むなら、第25条は、自己本位、強欲、盗みに基づいた古いやり方の終焉を本当は意味し、そして善意、分かち合い、正義、ついでそこから生まれる正しい人間関係に基づいた良識と新たな生き方の始まりを本当は意味しているのです。それは、イデオロギーでなく基本的道徳と尊厳の視点から、国家および世界双方で貧困の全形態を廃絶するという公衆の決意に従うことなくして、選出されたリーダーは在任し続けられないことを意味します。そしてこれまで私たちが手短に理論づけてきたように、一度第25条の人権が全政府によって確固として保障されるなら、増大する商業化による締めつけ、多国籍企業による理不尽な略奪と破壊、そして侵略と権力政治を前提とした外交政策の狂気への対抗手段をそれは象徴するでしょう。それらの商業化の物質勢力をもし人格化できるなら、世界中で第25条を要求する何百万という人々の真っ只中で頭を掻く彼らを私たちは思い浮かべるかもしれません。彼らはお互いに囁き合います。「今回我々は本当に危ういようだ」。

従って、人々のナンバーワン目標として第25条を布告することは抵抗最小限の道であり、そしてそれは迅速に多くの良い結果や現在予測できない新たな社会的解決をもたらすかもしれません。前章ですでに検討したように、環境正義の視点からでさえ万人のための第25条のシンプルな要求のなかには大昔からの革新的運動家の要求のすべてが埋め込まれています。政府が同意すべき長い要求リストを編纂する時間はもはやなく、分極化した社会の不安定な状況でそのような要求がもし無理やり追求され多くの革命をもたらすならそれは世界を変革する方法ではないのです。世界中で共通目標のなか集まる一般大衆を通して私たちが「システム」と呼ぶもののパワーを弱める代わりに今日の多くの若い活動家はあたかもシステムをそのまま真似しその難解なプロセスに従事しようとしているかのようであり、政治経済の転換のためのマニフェストを持つことによって事を複雑化しています。私たちが生まれる以前から常にそうであったように、システムの分割的な複雑さは極度に古く有害であるため、システムの代表者の都合の良いように操作された交渉を彼らとしようと試みるのは無益かつキリがないことを忘れないようにしましょう。それは正に、政府を内部から改革しようと試みる善意の政治家が逆に彼の内部から改革されがちであるように、システムを変革しようと試みる寂しい活動家はシステムが最終的に彼らを変革してしまったことを発見するのです。

従って抵抗最小限の道を選び、それが、資源を再分配しグローバル経済を再構築するよう政府を駆り立てるための最も確かな経路であることを認識しながら、共に第25条を迎え入れましょう。私たちが探す答えのすべてがそこにあることを知る安心感のなかで、そのような要求は私たち自身の創造的方法で表現され得ます。ひいては、分かち合いへの呼びかけが現在初期形態で表わされている富裕国などでも、自分たちの既存の要求の多くがすでに世界人権宣言に具現化されていることを私たちは認識するかもしれません。この点で、アクセシブルな社会住宅、施設と交通機関の公的管理、医療と高等教育の無料提供、または公平な課税を通してのより平等な再分配的社会のための多様な運動を観察してください。分かち合いの原理がこれらの準備的な線に沿って各国内で制度化されるべきことは疑いなく、そして従事する市民が各自の社会で当然のことこれらの課題の推進に熱中することは間違いありません。しかし、私たちの問題は根本的に他国のそれと同じであることをもまた認識せねばなりません。なぜならそれが私たちをひとつにし、(平和的ではあるものの)抑えられない国際勢力にするだろうからです。

これは第25条を布告するための市民の戦略のエッセンスです。なぜならそれは一国だけでなく常に多くの異なった国で同時に実践されるべきだからです。経済成長および社会繁栄についての問題の点から先に考察されてきたようにこの惑星はひとつの相互関係した身体であり、何世紀にも渡る誤った集団行為の結果その範囲は明確に世界規模となっていることから、厳密に国家的または一方的基盤では取り組みが不可能な人類の問題を解決するために惑星規模でのグループワークが必要な時点に私たちは到達したのです。これがなぜ、第25条の意味について第一に行間を読むこと、そしてひいてはその認識から先例に倣うよう他国へ呼びかける明確な意図のなか自国全体で人員動員することが従事する市民の責任であるのかということです。

私たちの全体的目的が第25条を統轄する法として各国で制定することだという事実を引き続き認識するにあたり、それは、そのような法律がどのような方法で法制化されようと世界の全政府がこれらの法を支持することを保証するために私たちが国連に権限を与えたいという意味です。社会保護の保証が解体され、多くの人々の不可欠なニーズの充足を犠牲にする有害な政策を政府が追求し続ける殆どの国の現状が、明らかにどう反対であるかを私たちは指摘してきました。しかしもし第25条がすべての国で不可侵性の不変の法として制定されたなら、警察は一般人の平和的抗議デモを抑え込む代わりに恐らく政治家を逮捕せねばならないでしょう。多くの人々は国連によって遥か昔に保護されているべきであった基本的人権を守るために戦っているのですから。

この理解から世界転換のための正しい戦略が、全国民のための公共の福祉を保護することに大部分失敗していると私たちが知る自国の政府だけに呼びかけることではないと私たちは悟るかもしれません。それと同時にまた、国連が真に世界の人々を代表するよう要求すべきであり、それをもし断続して効果的に行うつもりならその呼びかけは大陸間規模で声を発せられねばなりません。結局のところ、ある政府が他国によって圧力をかけられる時、国際司法裁判所の面前においてその申し立てを提起する機会がありますが、世界の極貧家族や個人にとってどこにそのような機会があるのでしょうか。グローバル経済の国際的崩壊に続いて政府が裕福な金融機関に救済措置を施している時、自分たちの貧困の不正義のために援助を求めて彼らがいけるところは当然ながらどこにもないのです。

従って、世界の人々のハートとマインドを代表し、忘れ去られ死にいく貧困者のニーズに最優先権を与える国連が必要です。私たちの生活と自由のための歴史的人権と基本的権利に対して乏しい配慮しかもたず、私たちの最も貴重な公共機関と社会福祉を政府が攻撃する時、私たち自身は誰に文句を言うつもりでしょうか。私たちは生活の全側面をさらに商業化している自由貿易協定や民営化に情熱的に異議を唱えるかもしれませんが、政府が私たちの最も基本的な社会的懸念を優先する代わりに企業を代表して機能している時、私たちは誰に文句を言うつもりでしょうか。

これがなぜ私たちが世界人権宣言の条項をもって取り組む必要があるのかというもうひとつの理由です。なぜなら、大規模な大衆の動員を通して世界の人々がそれらの人権宣言を絶えず提唱しない限り、すべての国のためにこれらの共同合意された達成基準は決して実現されることはないからです。そして、そのプロセスを通して国家のリーダーが最終的に選挙区民を聞き入れ始め、それに応じて忠実に行動し始めるかもしれません。しかしながら既存の政権をもつリーダーの一人がそうするだろう可能性は低いことから国連を全人類の真の大統領として、そして世界の貧困者に救済処置を施すための最高の希望として見なすべきです。国際社会の明白な意志を代表することにおいて国連の駐留がどのように無力であったとしても、世界のある地域内で紛争があって即時の解決策が見つからない場合、平和維持勢力として国連の青いヘルメットが起こっていることを監視し、解決を模索するために入り込みます。さて、国連が世界の全市民の明白な意志を代表し始め、それにより第25条を実現するという、人々からの使命のもと行動するために、溢れでる世界の支持を通してそれが権限を与えられると想像してください。確実に、国連がワシントン、ブリュッセル、クレムリン、そして他のすべての政府本部へ次のように言うために使者を送るまでそれほど長くはかからないでしょう:「長い間待ちました − 世界の餓えて貧窮した人々を食べさせ保護する時です」。

若者は、この一連の行動に耳を傾けることは世界中で驚くべき音を立てるであろうことと、私たちがかつて見たことも聞いたこともない社会的空気のなかで起こる例外的結果をもたらすだろうことに間もなく気がつくかもしれません。国連に新たな命を吹き込むことを熱望し、もし何百万もの人々が止むことなく第25条実現の厖大な目標のために日夜何ヶ月でも、そして例え何年でも絶えることなくデモを続けるなら、国連連合総会への大幅な権限委譲と安全保安理事会の漸次の弱体化を私たちは遂に目撃するかもしれません。以前論じたように、改革された完全に民主的な国連システムは、再構築されたグローバル経済管理の監督において主要な役割をもちます。しかしながら国連憲法の第55条に明白に説明されるように、その役割のなかで意図された国連システムの機能は安全保安理事会の拒否権の束縛から自由となるまで、企業の支配下にあるブレトン・ウッズ制度の影響から自由となるまで、そしてより大きくより安定した収入源を通してその基金調達の制限から自由となるまで果たされ得ません。国連は、アメリカ、中国、フランス、ロシア、または英国の政治的所有物、あるいは企業関係者の所有物でなく − 私たち万人のものです。それが、「すべての人の経済的および社会的進歩」の促進におけるその存在の想定された目的です。

これを心に留め、アメリカの若者は、国連本部の周辺に集まり第25条を布告する代わりになぜウォール街周辺で抗議デモをし「99%」の権利を宣言しているのか自問すべきです。「我々は99%」を宣言することは最終的になんの結果をもたらしませんが、もし私たちが第25条を要求するならひいては最終的に貧困者がそれを聞きつけ参加するでしょう。そして、そこに解決策があるのです!サブサハラアフリカ、中国農村部およびインドのような地域の極貧者にオキュパイ・ウォール・ストリートについてあなたが話すことを想像してください。彼らがあなたの国家的懸念にどう反応すると思いますか?グローバル経済がどう機能するか彼らに説明してください。恐らく彼らにはあなたがなにを言っているのかわからないでしょう。クレジット・デフォルト・スワップまたは量的金融緩和政策の意味について彼らに説明してください。多分彼らは一言も理解しないでしょう。極貧のスラムや村では「資本主義」という言葉さえ聞いたことのない多くの人々がいます。しかしもしあなたが第25条の内容を彼らに読み上げるならその時彼らの目が輝きすぐに理解するであろうことは確実です。なぜなら、その時あなたはあなた自身の生活だけでなく彼らの生活についても話しているからです。

知識人によって私物化され過度に複雑化される以前は、不平等や不正は常に貧困者の問題でした。世界の複雑な問題は貧困者の問題でもあります。従って、彼らを代表して私たちは話をするつもりなのか、それとも彼らが自分たちのために話しをするために私たちは彼らを招くつもりでしょうか?なぜなら大変貧しい人々は、前述のように、薄汚さと惨めさのなかで暗黙の死に至るまでその境遇がどのように困難で不当であろうと口を閉ざして生きることに慣れているからです。しかし、自分たちの貧困の無意味さを非難する何百万という人々を通して表現される変革への要求を彼らが耳にする時、すでに知っていたかのように彼らは頭のなかにその代替を見ることでしょう。なぜなら、彼らに関する限り第25条は遥か昔に実行されているべきだったからです。

各々でこれを理解するために、私たちは貧困の現実を知性や自己満足的無頓着さを通してでなく内面的および心理的に考察せねばなりません。それは、第25条がそれ自体のなかでどのように代替策となるのかを理解するために、私たちは霊的および感情的に貧困者と「共にならねば」ならないことを意味します。善意の一般人が連続する世界的デモンストレーションのなか貧困の根絶を要求する時初めて、その代替策が生命を宿しやってきて声を発するのです。それに続く政治経済改革は余りの高速ペースで起こるだろうため、拡大する富とパワーの集中が原因で豊かになり続ける富裕者など多くの良くない世界の動向が覆され始めるでしょう。それは、世界の極貧地域への不可欠な資源の再分配において国々が協力し始める時、少なくとも人類に暫く一息させることでしょう。

赤十字社やオックスファムなど無政府組織の活動や他の違った方法を通して、第25条が世界規模で実施されることを人類は長い間要求してきました。しかしこれらの惜しみのない断片的努力は、豊富な資源を完全に活用し、割り当てられた役割を断固として果たすよう政府に義務づけるために世界の大衆がそれらを確固として支持しない限り、決して十分でないでしょう。だから、貧困者を参加させましょう!他の国々を参加させましょう!良識を参加させましょう!正当な目標をもった僅か2、3千人が従事するデモンストレーションで無駄に抗議することに私たちはうんざりしているのではないのでしょうか。では、一緒に第25条を支持し、なにが起こるか見てみましょう。なぜなら、もしあなたが飢餓と貧困の根絶のために街頭に立つなら、何人であろうとどこに住んでいようと関係なく、やがて近いうちに何百万という人々が参加するだろうからです。もしその時が遂にきたなら、恐らく全主要都市にいる観光客も彼らのガイドブックを投げだしてあなたの横に立つでしょう。世界のどこであろうと貧困は貧困であり、あなたの社会的地位または出身国がどこであろうと不正義は不正義です。

 従って、富裕国の「99%」を賞賛することは誤った行為であり、誤った戦略です。なぜならそれは不正義が西洋化され残りの人類には属さないことを暗示しているかもしれないからです。2011年と2012年に多くの国を呑み込んだオキュパイ抗議デモについて大多数の極貧者自身はいまだ聞いたことがなく、そして例え彼らがそれらの国々の様々な運動に同情したとしてもそれに関与する立場にありませんでした。しかし、貧困自体を根絶するための抗議デモは万人が役割を担う世界的呼びかけです。だから第25条を布告することにより貧困者にアピールし、それによって壮大なアーミーを築きましょう。自国だけで社会正義の必要性について話すのでなく、万人の基本的ニーズの即急な充足を保証することについて国際規模でお互いにコミュニケーションをとり合いましょう。私たちが知るようにそれは、すべての場所にいき渡ることができる十二分の資源があるのですから確実に達成が可能なのです。

例えば、各国で食糧の余剰がどれだけあるかまたは無駄にされているかを明確にする常識的な統計調査を通してなど、この簡単な事実を様々なキャンペーンのための試みのなかで独創的に説明できます。あるいは、利益の追求に妨げられることなく余剰資源を貯蓄し再分配する新グローバル経済の取り決めを通して、どれだけ簡単に政府と市民社会が無条件で生活必需品を各人に届けることが可能かを明示できます。ブラント報告に含まれる中心的提案が交渉の場に戻るまで、革新的考えや無数の直接的行動を通して「私たち国際連合人」に政府が敬意を払い耳を傾けるよう要求しましょう:すべての優先項目を越えた世界的優先事項として、絶対的貧困の根絶により飢餓と栄養失調を消滅させるための緊急プログラムを目指して。

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しかしながら「資本主義」または「システム」と戦い続けることによって世界を変革するのは不可能であることもまた認識しましょう。それは、多くの無教育な貧困者がそのような複雑で好戦的な主張を理解しそうでないからというだけではありません。「資本主義」という言葉自体が誤解を招き分割的です。そして、私たちが積極的に対立できる「システム」と呼ばれる実体のようなものは事実存在しないのです − 世界には、アイデアの背後に隠れるか、または非道徳的な意図をもち主義を乱用する人々が存在するだけです。資本主義は、裕福な政治的エリートが理解しない、そしてしばしば彼らとはなんの関係もない「民主主義」や「自由」の名の下で自己利益に仕える法や政策を巧みに操作する彼らによって4、5百年間乗っ取られてきたただのアイデアであり原理です。

だから世界問題について他が資本主義を指差しシステムを責める時、騙されないようにしましょう。なぜなら、資本主義原理自体が不正義、不平等またはスーパーリッチを意味することはあり得ないからです。私たちがシステムと呼ぶものは、それを作りだし維持してきた人間の意図以外のなにものでもなく、その大黒柱は野望、貪欲、利己主義、そして残酷でさえあります。従って、その全体としてのシステムは大部分が不公平、自己中心的、無関心、そしてしばしば残酷です。世界の財政混乱と不正義を見る時、私たちが目にするものは資本主義でなく、人生の霊的目的に対して無知で、常識のみならず自己愛さえが欠落した特定の個人の動機の結果です。お金、パワー、そして名声を追いかける人が過度に目につきますが、大勢の人々、そして人類に仕え、他人の福利を守ることに真に関心のある人は僅かです。

これは、筆者が資本主義をかばっているということではありません。それはその逆であり、同じことが社会主義や共産主義の原理についても言えます。本質的に、原理としての資本主義のどこが悪いのでしょうか。どこも悪くないのです。本質的に、原理としての共産主義のどこが悪いのでしょうか。独裁政権や権力欲の強い指導者によってこの本質的に霊的な理念がどう頽廃させられ歪曲されたにせよそれに悪いところはなにもないのです。資本主義および社会主義の原理のどちらもがそれらの社会組織の真の形態に近いものがいまだなにも実証されておらず、そして、分かち合いの原理が正しい人間関係を基盤に世界情勢で実現されるまで、それが起こることは決してあり得ないのです。これが一般人にとってなにを意味するかは、世界問題について責められるべきは原理でなく唯一人間自身であることから、これらの誤解された言葉や肩書きに自己を投影することは無駄だということです。従って、資本主義やシステムでなく唯一人間が変わるしかないのです。なぜなら、システムは人間の考えと行為の産物に過ぎないからです。システム自体は存在しません − ただ人があるだけです。そしてそれにもかかわらず私たちが作りだした社会は余りに分割され不条理なため、私たちは自分たちの不満や不幸を奇妙にも「システム」のせいにします。それは、辿り着くには誤った潜在的に危険な結論です。

私たちは派閥政治や永遠の不和に基づいた人類の古いやり方に従うのでなく、違った角度から、そしてさらなる霊的理解をもって社会主義の下地となる原理を見る必要があります。権力層へ「対立」し、そしてそれを他の「主義」に置き換えたいとする政治的運動は万人の共益を促進することに決して成功しないであろうし、社会主義者、共産主義者、自由主義者、またはその他の何者かになることにまったく興味のない極貧者を包括することは決してないでしょう;彼らは家族を養い、確実な平和的生活様式に恵まれたいと欲するだけです。従って私たちは資本主義または頽廃したシステムに対立した立場に立つことにより、何百年もの間、何度も繰り返し階級紛争や社会的排除の原因となったそれらの古い分割的プロセスに携わっているのです。

それは、現実には決して学説や原理を殺すことができない時に、活動家が頭のなかでおよそ資本主義を人格化し、それをナイフで殺そうとしているかのようです:私たちには起こっていることの真実を理解できるだけです。それは本当は「資本主義」とはまったく関係のない商業化によってもたらされた戦争なのです。従ってあなたが資本主義と戦おうとする時、現状を維持するエリートに効果的に挑戦するかまたは取り組む代わりにあなたは理念と戦っているのです。権威者は自分たちを「反資本主義者」と呼ぶそれらの抗議者をせいぜい一目見やって考えることなく彼らを一掃するでしょう。なぜならそのような行動主義は人口の少数派、そしてしばしば好戦派からのみ成るからです。しかしながら最悪の場合、既存の社会秩序に「対立」するどのような大衆運動も最終的には暴動、混乱、そして暴力的な蜂起というさらに極端な社会的および政治的結果に繋がり得るのです。

従って、私たちの分極化した現代社会で「私たちには革命が必要だ」と主張することは気狂いじみた無謀な提案です。なぜなら革命という言葉は敵という言葉を肥やし、その敵という言葉は対立という言葉を肥やします;そして「対立」する内なる態度はついで精神的盲目と利己主義を肥やします。「私はあなたに対立する」という考えの心理的片われは頑固、傲慢、暴力であり(内なる表現であろうと外なる表現であろうと)、それは必ず人々のハートを荒ませ、個人的レベルおよび社会的レベルで分裂と対立へ導きます。革命という言葉はすべての面で時代遅れであり、そして今、多くの常識は勿論のこと、協力、善意、分かち合いおよび世界的結束に基づいた新たな摂理の時がきているのです。

私たちがこれを聞き入れ、社会の原理として資本主義の代替となるものを要求することの無意味さを理解し、代わりに世界問題の根本原因である現在の教育方法の代替となるものを提唱することになれば良いのですが。私たちが世界のどこに住もうと、どの言葉を話そうと、そして社会組織の外観がどのように違って見えようと、私たちは万人のニーズが基本的に同じであるひとつの相互依存した家族なのだという教養ある認識をもって、正しい人間関係の視点からすべての子どもたちが誕生当初から教育される必要があります。正しい教育はまた、根強い社会的分裂の解決やイデオロギー的考えの対立的様式の消失への第一ステップを象徴する分かち合いの原理が経済構造および実践の基礎とならねばならないという基本的な理解を要します。

もし十分な数の人々が彼ら自身を再教育し、「左翼」や「右翼」などの無分別な言葉によってしばしば特徴づけられた政治的「主義」の広くいき渡った条件づけを彼らの意識から抹消するなら即時に新時代が開始され得るでしょう。新教育への必要性は多くの熟考とさらなる考察を必要とする広大なテーマです。なぜなら、人間の創造性と自由への膨大な破壊的波紋をもたらしてきた間違った考えとすべての多様な形態の主義への自己投影を通して、何世紀もの間私たちがマインドを条件づけてきたからです。主に、世界情勢においていまだ優勢性を奪い合う主要な宗教的および政治的イデオロギーから強制され、何世紀も通して人間の自由意志の甚だしい侵害の最も有害な結果を被ったのは一般の人々です。

資本主義や社会主義、またはその他の察知され得るイデオロギー上の敵に「対立」する一般の心理的態度を深く考えることによってのみ、問題の巨大さを私たちは理解し始めることができます。それでもそれは、今後数年間において人間関係を促進すべき新しい認識を自己で理解するために有益な出発点です。「対立」という言葉が私たちの語彙と思考のなかで「同意しない」という言葉に決定的に置き換えられるべきである一方、「左翼」「右翼」「資本主義」「社会主義」「無政府主義」「自由主義」そしてその他すべての言葉へのどのような自己投影も私たちは真っ先にマインドから放棄すべきです。「私はあなたに対立する」と考えることは敵意や暴力をもたらすかもしれませんが、「私はあなたに同意しません」と考えることは不必要な対立なしで対話や解決の可能性を暗示します。さらに意義深いのは、包括性および結束の思考形態はあなたと私の間に真の心理的分裂がないことを理解しており、それは、例え私たちが社会的態度や観念化においてお互いに異なっているとしても、人間として私たちがどう霊的に繋がっているかを認識することに役立つかもしれません。物質界において私たちがどれだけ分割されているように見えようと、人類はその本質において永遠にひとつであり、最も高い霊的意味で私たちの間に分裂はあり得ません。従って、対立する政治的イデオロギー間の和解できない衝突があるかもしれない時、永続的な解決策は、ひとつの「主義」に対するもうひとつの「主義」の勝利にあるのでなく、私たち共通の人間らしさを万人が受け入れることを通してそれらすべてを結束できるもののなかに見いだされねばならないのです – それは、内なる自己の真の性質のなかに入り込んだ新しい教育を最終的に必要とします。

人口の大部分がハートを通してより霊的かつ包括的に思考し、意識的になるよう教育されるなら、人間関係へのそのような態度が社会転換の可能性をもたらすことからこれらの提言は感傷的でも世間知らずでもないのです。「唯一ひとつの人類がある」でなく今日の資本主義は「唯一私がある」という態度の裕福なエリートによって大部分が維持されていることがまもなく明らかになるでしょう。私たちの今日の資本主義についての理解に心理的に近づくには、その多様な社会組織形態がどのように貪欲や愛の欠如によって特徴づけられているかを実際に観察することです。人間がそのことに対して意識的になると同時に意図することを変える時、まったく同じように資本主義もその外なる表現を変えるでしょう。国家内および国家間双方での資源の分かち合いの制度化されたプロセスを通して、資本主義と呼ばれるそれが最終的に市場勢力の歯止めの利かない法則の代わりにイノベーションの分かち合いに基づくようになるまで、必需品や不可欠なサービスの普遍的提供を優先する、社会的に管理された経済状況のなかで資本主義が次第に支配力を弱め純粋な表現形態をとるようになることは必然的でしょう。

私たちの意識内と社会全体でこれらの変革を始める唯一の方法は恐らく、資本主義および社会主義双方を、分かち合い、正義、そしてグローバル協力のために適切な各々の形態に変換するためのドアを最終的に開くことのできる、大規模なデモンストレーションと平和的集まりのなかで第25条を布告することでしょう。しかしながら第25条が社会主義や資本主義自体とはまったく関係がないという事実を自身でさらに熟考することは価値があります。なぜなら、この地球のすべての人が尊厳と自由のなか進化することを可能にするという意味で、それは単に正しい人間関係の原理に関連しているからです。

私たちのイデオロギー的傾向や好みがなんであろうと、資本主義に対立することは理念と戦う理念におよぶ不条理であることを認識しましょう。そして代わりに、最も包括的な方法で政治的違いを超越したひとつの要求を布告することにより実際的になりましょう。私たちには何万という異なった孤立する理念でなくひとつの統一した要求が必要です。さらに、第25条を布告することは人類を全体としてひとつに結び、リーダーとして未開発の潜在的能力を実現するようすべての人を招く一方で、資本主義と戦うことは非政治的な公衆を遠ざけ、広範囲にわたる大衆の参加を制約します。何百万もの人々が「対立」のエネルギーなしで結束する時なにが起こるかを発見して私たちは驚くかもしれません。なぜなら、それは大変なインスピレーションと歓びを傍観人にもたらし、すぐさま何百万もの人々がさらに参加するだろうからです。世界問題の複雑な現れのすべてとそれについて執筆され続ける本のすべてにもかかわらず、実に、世界問題の解決がいかに簡単かを私たちは最終的に発見するかもしれません。

解決策は、知的産物や複雑な学術理論にあるのでなく、第25条の人権を中心に展開する信じられないほど大規模な、自発的で止むことのない平和的なデモンストレーションに一般人のハートが参加することを唯一必要とするだけです。献身的な活動家はあの「革命」という脅威的な言葉を完全に避け、代わりに世界中の人々の前例のない結束のための確実な手段であるハート軍形成の視点から考えるべきです。古いイデオロギーや主義を通してでなくハートを通して話す時がきました。「不服従」「対立」または「反」などの言葉を通して私たちは世界を変革することはできません。しかし、新たな制度のためにハートからハートへコミュニケーションをとることにより想像を越えて世界を変革することができるのです。各社会の大部分がこの集団的試みに参加し、そして根気強く第25条を要求する時、それらの平和的デモンストレーションのエネルギーは主に無意識的であるにもかかわらず、現在人類が準備している新たな地球の啓示をもたらすでしょう。ハートが従事するそれらの世界的抗議デモの集まりの響きを通して、そして日々断続してデモをする何百万もの人々の献身をもって「どのように」世界を変革するのかという問いは自然に明らかとなり、それらの変革を止めるものはなにもないでしょう。

私たちの腐り切って頽廃したシステムの最大の敵は人間のハートであると正確に言えるでしょう。なぜなら、ハートの特質は大変簡素でありながらも共通の目標のなかでハート同士が共鳴する時、驚くほどパワフルになるからです。私たちが子供たちの面倒を見ること、あるいは家族を守ることにハートを従事させるのと同じように、何百万という家族と極貧者が遭遇している酷い貧困、そしてそのなかの多くの人々が飢餓や予防可能な病気から死ぬ危険にさらされていることへの認識と確固とした懸念を大衆デモンストレーションに融合させる必要があります。これは、殆どの活動家と革新的な思想家が世界変革のための必須条件として認識できていない要素です。なぜなら、一般人のハートを目覚めさすことなくして、世界をより良い場所にするためのどのような試みにおいても大衆を参加させる希望はないからです。

もし革命について話されねばならないのなら、それをハートの革命と呼んでも良いでしょう。しかしそれは、アラブの春のそれに伴う蜂起についての政治演説にいまだ見られる主義の古い条件づけからは程遠いものです。私たちがここで考察している世界再生のための戦略は、腐敗した独裁政治体制の統治を終わらせることに主に関係した、エジプトや他の中東の国々で起こったものとは違うのです。抑圧的なリーダーに対するそのような抵抗は特定の国の人々の大義です;私は同情するかもしれないが、それが自国で起こっていない限り、私が参加することは恐らくない。しかし世界の貧困の根絶を布告することは、もしそれを絶対に成功させることを望むなら、世界規模のハートの革命を必要とするすべての国および世界の人々の大義です。

この発想は、活動家が熟考し理解することを試みるべき主なジレンマを浮き彫りにします。変革と正義のために戦うことは間違いなく必要であるし賞賛に値いしますが、主義とイデオロギーによって条件づけられたマインドと戦うことは状況をさらに悪化させ得ます。その条件づけのメカニズムに宿るのは幾度にもおよぶ人類の過去の間違いの繰り返しであり、それがなぜ、私たちが「対立」する態度をもつことなくしてハートの特質を通して正義と新生活のあり方を要求せねばならないのかということです。

しかしながら、新形態のグローバルな積極行動主義へのこれらのシンプルなガイドラインは漠然としたユートピア的考えとしてでなく、どう戦いそして実際勝利すべきかについての現実的な戦略として理解されるべきです。その戦略とは、人間の苦しみの即時の根絶に携わる平和的大衆デモを通して、すべての国で無数の人々のハートを従事させることによるものであり、それはその完全な開花においてこの惑星がかつて経験しことのない、深い感動と歓喜に満たされた壮観となるでしょう。多くの活動家はより良い世界を創造する可能性を現在断言していますが、そのような世界は、調和したハートおよびマインドの特質を従事させない限り決して実現され得ません。そうすることによって、もはや利益、イデオロギーあるいは自己利益でなく、私たちのなかの極貧者への第一の考慮を通して、万人の公益のために人間の知性がついに正しい方向へ動き始めるのです。

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今日、最も必要とされるものは革命でなく、日常の思考や行動のなかで明示すべき良識であり、簡素さであり、知恵です。第25条を布告することはこれらの資質を抗議活動にもたらす直接的な方法であり、それは象徴的および文字通り双方の点で、富裕者と貧困者の間の緊迫を和らげ両者を話し合いへと導く程でしょう。今日、正しい考えに沿ったように見える「霊的革命」さえを呼びかけている人々がいますが、人間関係が欲望、混乱、無知、ならびに主義やイデオロギーへの自己投影に基づいている時、私たちの集団意識の突然の啓蒙を要求することは無駄であり非現実的です。

西洋でヨガの教えの導入によってすでに起こった「商業化された霊的革命」でないなら、私たちのこのように分割された物質的な社会でどのような種類の霊的革命を私たちは起こせるのでしょうか。社会全体で最初に心理的革命を経験せずして霊的革命をもたらそうとすることは絶望的です。それをするなら、ハートが従事した大衆抗議のなかで共通のつながりを通して自己の真の姿を私たちは知り始めるかもしれません。地球上のすべての人が、尊厳、信用、自由をもって生きるために必要なものを一度手にするなら、霊的革命を要求することができます。そうでなければ、その革命をもし人格化できたならそれは言うでしょう。「あなた方万人のもとにきたいのはやまやまですが、あなた方が、あなた方自身の問題を片づけるまで私にはそうすることはできないのです」

激化する不平等、壊滅的な紛争および気候の激変によって破壊される世界で自己の霊的革命を達成しようといまだ奮闘する多くの人々がいます。そのような状況下ではこの時代のより深淵な霊的危機に頑固に気づかない個人としてのみ救いを得ることができます。彼らはアシュラムや修道院に避難し何年も孤立して瞑想に耽るかもしれませんが、世界が劇的に方向を転換しない限り果てしなく続く社会的混乱や環境の激変の時代が差し迫っている今、彼らはなんのために瞑想しているのでしょうか。その上、飢餓者を食べさせ、私たちの最も貧しい同胞に仕えることもまた霊的救いへの道ではないのでしょうか。筆者に関して言えば、21世紀において豊かさの真っ只なかで飢餓の犯罪が続く限り、そして少なくとも「他の人々はどうなるのか?」という態度をもって第25条布告へと導く惑星規模の心理的革命を私たちが自ら起こすまでは、霊的革命に関するどのような話もされるべきではないのです。

このように世界中でデモをする人々の事実自体が、人類はひとつなのだという歓喜に溢れた認識を通して実現されるだろう心理的革命であり、それらのデモンストレーションの声は事実、この地球で霊的革命の始まりそのものを構成するような方法で磁化されるでしょう。上記に示されるような絶え間ない世界規模のデモンストレーションの新たな蜂起は、大変な尊厳と力を人々に与えるだろうため、まるで私たちが常に兄弟姉妹であったかのように、そしてそうすることを選択していたならまるで信用がいつでもそこに存在したかのように、言葉、人種、階級の障壁なくしてお互いを見ることでしょう。新法律および世界的な経済的取り決めを通して第25条が一度実現され始めるならその時、自己を人類の外交官と呼ぶことの意味を私たちは知るでしょう。同時に、他人、新たに発見された尊敬と信用、そして勿論、私たちが愛と呼ぶエネルギーへの認識から生じるこれまで未知の性質だった不思議な驚異が男女のマインドに生じるでしょう。

同じ統一した要求のもと多くの国が蜂起するというビジョンに比べ、2011年以来多くの抗議野営のなかで私たちがすでに目撃してきたことが色あせるだろうにもかかわらず、それはこの浮上する意識の小さな兆候なのです。それが例え臨時ライブラリーで本を共有することや無料で食べ物を分配するだけのことであっても、皆で一緒に「わたし」という考えなしで他人へ仕えることに喜びを見いだす、最近の平和的大衆デモンストレーションで彼らがグループとしてやり取りする時、人々がどう振る舞うかをあなたは観察したことがありますか。これらの運動家は典型的におよそすべてを分かち合い、その表現において感動的、創造的および治癒的な生きる喜びと連帯感を体験します。従って、筆者は読者に尋ねたいのです:これはただの「ヒッピーじみた」態度とみなすべきなのか、それともそれは、恐らくあなた自身が感じた正しい人間関係に基づいた新しい時代の始まりを意味しているのでしょうか。

これまで私たちが目撃してきたことは、新たな生活様式の実現をもたらすための無意識的訴えかけであり、それはこれまで起こったことのない、惑星的規模で起こるであろうできごとの徴なのです。デモンストレーションがある度に世界のすべての国で何ヶ月にも渡って何億という人々が経験し表現する、このハートを呼び起こす驚異の完全な解放をどうか想像してください。最近起こった大衆抗議の散発的な波は「私たちはより良い世界を望んでいる」と実際には言っているわけですが、あらゆるところで人々が直感的に掴もうとしているこのより良い世界をどう開始するかについての指導が与えられていません。

第25条を布告することはまた、世界資源の分かち合いが本当にこの文明危機の解決策なのだという普遍的認識をもたらすことをも促進するかもしれません。なぜなら、従事するハートと大衆の善意をもって断続する世界規模のデモンストレーションを通して実現されるだろうこれらふたつの概念の間に相互依存の関係があるからです。それは常にシンプルな関係だったのですが、現在は寓話的に語られるだけです。それは、人間が深い眠りから目覚め、彼の神聖な可能性の純然たる真実を理解し始めるまで数え切れない人生を経て、自己が誰なのか認識するための長い旅であるからです。無知、貪欲および主義への執着によって人間だけがすべてを複雑にするかたわら、の愛や生命のなかではすべてがシンプルです。

従って、分かち合いの原理である母艦へ行方不明の一行、すなわち人類を導くために捜索へ出発する円盤として象徴的に第25条を考えてみましょう。それはそういった意味で、第25条がそれ自体のなかに答えと代替となるものを秘めており、そして人類がひとつとなり世界規模の心理的革命の真っ只なか大声で要求する時それは明らかになるでしょう。その時、多くのテストチューブのコルク栓が一気にすべて抜け泡が溢れでるように、最も予想外の啓示を私たちが体験するまで化学反応が起こるのです:それは、人類はひとつであり、それゆえ人生は貴重な贈り物であり、真に生きるに価するということです。ひいては第25条が分かち合いの原理への帰途へ私たちを導き、そして世界の再建設を開始できる時が間も無くやってくるでしょう。

 


 

パート5:新たな地球のための教育

もうひとつの世界が可能であるともし断言し本当に信じるなら、ついで盲目的な政治家、集団的無関心と自己満足的無頓着さ、そして真実と自由への道を見つけることから自己を妨げているすべての主義について、私たちはどうするつもりでしょうか。批判や恐怖、あるいは非難でなく、歓びと善意をもって私たちはいつお互いを見るつもりなのでしょうか。短い人生のなかで例え一度でも、いつ私たちは通常と違った日々を経験するつもりでしょうか。もう一度繰り返します。答えは、私たちがどれだけの間否定しようと、地球に自由をもたらす生命の真実、人類はひとつだという啓示から始まる愛と知恵を通しての自己知識に基づいた新しい種類の教育なのです。従って、今日私たちは革命でなく正しい教育を必要とします。なぜなら、万人でわかち合わねばならないひとつの惑星の資源の限界内でより簡素に、そして平等に生きることを私たちが学ばないなら第25条の実現への希望は永久にないからです。

主義や何世紀もの人間の本質についての誤った考えによって人類は余りに条件づけられているため、世界中で第25条の完全な実現を保証する法を持続するために新しい教育方法が即急に必要とされます。それなくしてどのような法も長続きしないでしょう。「良い教育」と称されるものが、パーソナリティーの投影や認められた成功の尺度を達成するというグラマー(幻惑)に基づいた機能不全社会では、正しい教育がなにを意味するのか一般的に私たちにはまったく考えがおよびません。その結果として、私たちの学校や大学は、この惑星と他の人間を徹底的に破壊することに卓越した、権力の座につく多くの「高学歴」者をつくりあげてきました。これは、極端な貧富格差が余りの割合に達し、それ自体のなかに第3次大戦の種を秘めるかたわら、生命自体を維持する天然資源基盤を迅速に消費する社会に関連して認識されるべき否定できない事実です。首相、大統領またはチーフエグゼクティブの全員がいわゆる良い教育と呼ばれるものを受けたにもかかわらず、彼ら全員が相も変わらずこれらの悲惨な動向を永続させています。

特権階級の子供が学校にいく時、彼が正しい人間関係の点から教育されることは決してなく、むしろ人生の意味と目的についての何世紀にもわたる間違った理解によって洗脳される一方、最近では商業化勢力によって彼は悲惨にも汚染されます。世界をより良い場所とすることに高い熱望をもつ幼い子供や十代の若者は、例えその若者が社会へ「お返しする」かまたは公共心に富んだ使命を追求するくじけることのない大望をもち続けたとしても教育を終えた後、これらの勢力に条件づけられているだけでなく完全に汚染されたマインドをもって戻ってくる運命にあるのです。

私たちは皆、どう考えるべきかを私たちに命令し、成功するように私たちを洗脳し、野心家になるよう私たちを培養し、そしてその結果として私たちを分割し、究極的に自己の破壊および乱用をもたらす教育の子供なのです。私たちが今日知るところの教育は、多くのオルタナティブ・スクールや霊性主導型の学校やカレッジにおいてでさえ、成功した「偉い人」となるようプログラムされたロボットを大量生産する工場のようにますますなりつつあります。従って、私たちを誤り導いて操作する、自己の存在の本質について意識的認識を拡大することのできない教育に私たちは皆さらされており、それは代わりに貪欲、利己主義、そして最終的に他人と地球の苦しみへの無関心の原因となる、個人主義的感覚の野心を私たちに植えつけるのです。

人類はこのひとつの進化のなかで不滅であり、分割され得ません。それにもかかわらず、物質性、誤った考え、そして誤った教育方法への誤った自己投影の結果として、無数の人々は自己があたかも社会の一部でないか、またはなぜか世界が自己の敵であるかのように感じる程沈んでしまっているのです。活動家がシステムが彼らに対立しているとしばしば思い込むのと同じように、極貧者は自分たちが人間の文明の一部でないとしばしば思い込んでいるのです。その一方で、「良い教育」を成し遂げ、商業化の利己的術に従うことにより高い社会的地位を成就した個人は、「私は成功した一握りの特別で値打ちのある人間だ」と書かれた旗を自己の潜在意識へ打ち立てるよう条件づけられるのです。

人類はひとつであるという霊的理解を通して世界情勢を包括的に見る時、どのような学校や一流ステイタスをもつ大学においても適切に教育されている人は誰一人いないと私たちは結論づけるかもしれません。それ自体の中核として商業化を選んだ機能不全社会で子供を霊的および心理的に健全な方法で教育することは不可能です。私たちがつくっているのは内なる自己の教養ある認識を通しての「良い教育」でなく、本当は組み立てラインにのった「良い消費者」だからです。無限の商品化された製品およびサービスの消費者となるよう私たちは飼育されているだけでなく、私たち自身の人生の不注意な乱用を通して自己を消費するよう養成されているのです。自分自身で考えず、自己知識をもたず、愛情のある認識のなかで生き行動するよう教えられておらず、外に向かって商品を消費し、内に向かって自己を消費するであろう人、それは彼が自由で悦びのある人間でなく、「自己が商品」としてより良く述べられるという意味です。自分たちに授けられたすべてのエネルギーや美をもって創造的となる代わりに、内なる認識の欠如を通して睡眠状態および自己満足的に無頓着で居続けることを私たちは好むのです。それゆえ、私たちは最も貴重な人間の特質を「消費」し、消散し、知らない間にじわじわと霊的飢えに苦しんでいるのです。

持続不可能な大衆消費パターンを通しての認識のない自然界の乱用から、貪欲、自己憐憫、鬱病、寂しさ、そして薬物中毒に続く心理的自己破壊に至るまでのすべてにおいて、政治的、経済的、社会的、環境的、そして感情的に – 思いつく限りのすべての方法で私たちは自己を消費しています。自己の内外両面で起こっているすべての苦しみへの無関心を通してでさえ私たちは「自己消費」しています。これがなぜ毎日がその疲労と混乱において変わることなく他の日々と同じように感じられるのかという理由です。なぜなら、それに気づいていようといまいと私たちは皆、ある程度自己の人間性を消費しているからです。この社会的混乱と自らに課した暴力の真っ只なかで、それでも私たちは多くの場合余りにも頑固に、絶えることなく良い健康と捉えどころのない幸福を探求することから、自らの人生を犠牲にする必要があると信じるようになるまで哀しみと痛みに圧倒されるのです。それは、自殺行為を通して自己を破壊する最後の悲しい試みとして理解され得ます。

一般的に政治的リーダーは、信念、主義、無知の世界に生きるよう自己を誘導した私たちのように、正しい人間関係の意味について混乱し歪んだ見解をもっています。不平等と惨めさで充ちた現代社会のなかで政党のリーダーになるということは実際、子供の人生のなかで愛ある認識を持続し、そして青年期を越えて内なる無執着と知恵へと導く自己知識に基づいた教育の欠如を通して、人類がそれ自体をどのように分割したかということを象徴しています。この意味での正しい教育は、上位と下位を示唆する恥ずべき意味をもったリーダーシップという言葉の今日の私たちの理解の対極です。なぜなら、他に追従するそのプロセスのなかで自己の霊性、創造性および生来の聡明さを否定することにより自己満足と無関心の状態へと人間は沈んでしまっているからです。率いる者と追従せねばならない多くの者。物質的豊かさや権力の利己的な蓄積を崇拝する道徳的に退廃した機能不全の社会において、政治的リーダーシップは常にさらなる混乱と社会的分裂をもたらす一方であり、常にさらなる抑圧、暴力および広範囲な苦しみの原因となり続ける他ないのです。

使い古された主義を私たちの疲労した人生と子供たちへ授けるためにすべての政治的候補者がどこからともなく現れるところの、ひとつの人類の存在のアイデアそのものを否定する低俗なゲームに政治がどう化してしまったかを日常生活のなかで明白に目撃する一方で、一体どのような種類の民主主義について私たちは話しているのでしょうか。主義に追従することはそれ自体が低俗な行為であることから、権力の座に飢えた政治家について考えることをやめ、代わりに「ああ、政治か。その言葉さえ聞きたくない!」と言う多くの人々を誰が責めることができるでしょうか。右あるいは左の政党に密着して追従する他の多くの人々もまた、一般的に正しい人間関係と私たちの内在する霊的結束の視点から考えられず、最近の政権争いで彼らの選んだ政党が他のすべての政党に勝つことに最も関心をもっています。とりわけ、もし新しいリーダーが税金を下げるとか恐らく家のローンを減らすとかいう希望のなか彼らが主義に忠誠を誓い、それによって自己満足と偏狭な人生のあり方を強化するなら、彼らもまた政治家と同じように低俗なゲームの一部なのです。人生と自己知識は、私たちが「私の人生」または「私の権利」と呼ぶそれらの自己中心的な箱のなかだけに制限された私たちの意識でなく、常に人間関係を通して私たちの認識の成長に基づいてきました。この現実を理解することを生涯を通して拒否し、ひとつの政治的主義を他の主義に置き換えることにより、私たちは繰り返し自己と他人を騙しているのです。

この混乱の時代において大きな選挙戦は国内でさらに多くのストレスと分裂をつくり、そして心理的レベルで投票の行為はその社会の拡大する不和と霊的断片化を象徴します。これは、普遍的な選挙権とより良い民主的表現のための多くの歴史的な苦闘をはねつけるためのものでなく、より包括的で霊的な知覚能力をもってこれらの民主主義とリーダーシップについての疑問を考察するためのものです。経済が崩壊している時、商業化による人間と自然の乱用が蔓延している時、環境が余りに急速に劣化して最後にはこの惑星に住めなくなるかもしれない時、私たちは誰に、そしてなんのために投票しているのでしょうか。

右または左の主義にただ投票するだけの行為は、唯一さらなる痛みと分裂をこの大混乱のなかからもたらすだけです。なぜなら私たちは、自己満足的無頓着さを放棄し、意識的認識を広げ、自分たち自身で世界情勢を変える責任を負うことをいまだ拒否しているからです。もし私たちがもともと彼らを当選させること以外なにもしなかったのなら、その場合、政府が私たち自身を反映しているだけでなく、それがまた私たちにとって身分相応だということであり、これらの問題を彼らのせいにできないのです。選挙運動の贅沢で不穏な空騒ぎへの参加を拒む、無関心で疎外された無投票者も含み、政府と投票者は完全に同じなのです。本当に長い間私たちは不適切な教育に捉えられてきたため、これが社会が機能できる唯一のあり方だと考えているようです。そして私たちが想像することのできない、違った生き方の基礎となる正しい人間関係なくして、実際には世界情勢に調和や平和はあり得ないのです。

私たちが今日理解するところの競争心の激しい権力に飢えたリーダーがいる限り、対立と社会的分裂が絶えることはないでしょう。そしてこれらのいわゆるリーダーに追従し続ける人々がいる限り、私たちの生来の霊性、創造性および知恵に対する無意識的な否定が絶えることはないでしょう。しかし愛があり、自由があり、主義に条件づけられたマインドなくして敬意と信用があるところには、権威もリーダーシップもないのです。そこには指針があるだけです。現在の形態のリーダーシップがさらなる追従者をつくり私たちのすべての問題の根源となる一方で、真のリーダーシップは指針を与えます。しかし正しい教育を通してすべての人が一度自己知識をもつなら – 私たちの断続的進化に必要なこの段階に達するために人類が文明的(またはむしろ霊的)危機を乗り越えられると仮定して – その結果リーダーを選ぶための投票はおよそ不可能となるでしょう。そしてもはや政党の必要はなくなるでしょう。投票を通してでなく、公益の代表者として彼らの知恵と包括的態度に対する公衆の認識によって選ばれた、官職で仕える人々の一団があるだけとなるでしょう。そしてそのような代表者の第一の義務は、必需品の常時確保をすべての人に保証するかたわら、彼らが魂の認識のなかで成長し、人類への奉仕を通して彼ら自身の霊的進化のなかで自己を誘導するよう備えさせる教育もまた保証することとなるでしょう。

草の根の社会運動において団結する若者たちは、到来する時代を定義づけるだろうこの新しいあり方を感じ始めており、明確なリーダーシップの構造または集中型の権威なくして自然発生しています。なぜなら、彼らは主義に基づいてでなく従事するハートを通して良識の視点から考え始めているからです。大衆のエンパワーメントや参加民主主義の多くの実験を通してもしすべての人の意識が大多数派の最大利益のための協力へと誘導され、それによって社会正義と正しい人間関係の追求のなかで自己のリーダーシップの可能性を実現するためにすべての人を備えるなら、社会統治においてリーダーが必要ないことを彼らはすでに発見しているのです。

しかしながらこの新意識もまた、それが挑戦するシステムの性質ゆえに大きな問題に直面しています。それは、少数派である特権階級の裕福層と権力的な受益階層を含んだ各国の何百万という追従者に支持される自己利益、競争および派閥政治の古いやり方に基づいたシステムです。では抗議者は、彼らの理念や活動を指揮するリーダーを外部に探すことなくどのように世界中の無数の人々の支持を得ることができるのでしょうか。この莫大数の市民参加開始への正しいアプローチについてはこれ以上の繰り返しを必要としないはずです:それは、私たちのハートを起動させ、絶え間ない平和的デモンストレーションを通して第25条を布告することによりさらに幅広い公衆に訴えかけることです。一体となって動く大規模な抗議デモを私たち自身がオーガナイズしない限り、もしより良い世界が投票箱を通してもたらされると信じるなら悲しいかな私たちは間違っているのです。なぜなら、例え私たちのために努力しても正しく仕事をできるリーダーは存在しないからです。そして、自国および海外双方で私たちより恵まれない人々のことを考えるよう国を教育しようとしない政治家になぜ投票すべきなのでしょうか。特にそれが、私たちが政党に自分たちの人生を支配する権威を与えていることを意味するのなら。

これらの心情が、主流の民主的プロセスへの支持をとりやめるべき指示として理解されるべきではありませんが、あなた自身も国内選挙が危機的な世界情勢へなんら違いをもたらすのか自問したことがあるのではないでしょうか。政治家への投票と家庭のゴミのリサイクルを比較することができます。両方の行為が必要で賞賛すべきですが、どちらの行為自体も悲惨な世界的動向を巻き返すために余り効果はないのです。プラスチックをリサイクルすることは地球温暖化の効果を緩和するために十分なのでしょうか。そしてあなたの投票は世界中の飢餓と貧困を根絶するために十分なのでしょうか。明らかに、そうではないのです。従って、これらの難題を解決し始める唯一の方法は、前述のガイドラインで提案されているように街頭へでて大規模な集まりのなか絶えることなくデモンストレーションをすることなのです。

私たちが自分たちに問うべき本当の問いは、なぜ政府が世界を救うことに失敗しているのかということではなく、私たちがなぜ自分たちが当選させた代表者が適切な行動をとるよう彼らを駆り立てることができないのかということです。今日の世界のどのリーダーであろうと真剣に人類全体の最も高尚な利益を促進する傾向があると仮定すると、頽廃した不道徳なシステムの支配を一人で乗り越えられる政治家がいないことは本当かもしれません。しかし私たちが投票する男女に第一の懸念として飢餓と貧困を優先すべきだと私たちは何度要求したのでしょうか。第25条の展望から唯一真の大統領または首相とは、政府が医療、住居、食糧およびその他の必需品の提供を疎かにする一方で、この重要な役割を満たすために最大限の努力を投じて最善をつくす何万人という無政府組織のワーカーなど、貧困者自身に仕えるために投票箱でなく人間のハートによって当選された人々なのです。

さらに、1日1ドル以下で生活する人の視点から民主主義の意味を考察すること、そしてひいては生存のための日々の奮闘のなかで投票がどのような成果を生むのか自問することは有益です。「私の投票は私のパワーであり私の権利です」とあなたは言うのか、それとも「民主主義などどうでも良い。私は食べたいだけだ」と答えるのでしょうか。富裕国の国民として、税金削減についての自己利益的懸念、私の年金の増加、移民抑制およびその他のことにおいて私が余りにいき詰まっているかもしれないため、ビジネススーツ姿の狡い政治家から授けられた私の唯一の自由は私が選んだ政治的主義に投票することなのです – もしそれが、あなたが意味するところの民主主義と自由であるのなら。しかし遠方の村またはスラム街の絶望的な貧困者として二枚舌の政党の候補者によって賄賂を渡されるか強要されるかしない限り私が投票を頼まれることはまったくありそうもないのです。例えば、もし私がインドに住んでいるなら、国が毎年兵器に400億ドル以上を使うかたわら最大の栄養不足人口を抱えるにもかかわらず、私は自国を世界の最も偉大な民主国家と呼ぶことになっているのです。あるいは恐らく、私が裕福な政治家から授かった唯一の自由が、政府の助けなくして貧困のなか死ぬことであるところのアフリカのどこかの隔離された紛争だらけのコミュニティでは民主主義という言葉を聞いたことがありません。

従って、ひとつの人類に対する霊的理解をもって真にグローバルで包括的な展望からこの問題を考察するなら、どのような種類の民主主義について私たちは話しているのでしょうか。資本主義者が民主主義について話しており、社会主義者が民主主義について話しており、今日、ファシストが民主主義について話しています。しかし栄養失調で死にかけている人に投票する自由を誰が与えるのでしょうか – 他の政党を当選させるための票でなく生きるための票を?これは、国内で正義や「私の権利」だけに焦点を合わせる代わりに、私たち全員によってその人に与えられているべき票だったのです。これまで私たちが明らかにしてきたように、世界の飢餓者が生きるための票が政治家によって与えられることはないでしょう;それは、第25条の実現への一致した要求を通して、唯一街頭に立つ一般人によってのみもたらせ得るのです。そしてそのような票が、私たちのやる気のなさや無関心を通して与えられることは決してないのです;それは、私たちのハート、慈悲および常識の参加を通してのみ授けられるのです。しかし命を脅かす貧困の恐ろしい現実が何十年にもわたって存続してきたにも関わらず、私たちがこれまで行動できずにいたのは真実ではないでしょうか。そうであるなら私たちは恥を知るべきです!

自分たちが立ち上がり行動すべきだと考える代わりに「行動しない政府のせいです」と言う人を注意して観察しましょう。私たちの霊的結束と相互連結の観点からこの心理的傾向を再び理解するなら、資源が有り余る世界でこの不必要な極貧の犯罪を根絶することに携わらない限り、人が貧困のなか死んでいる時に政治家を非難するその行為自体が内部で自己を人類から切り離しているということなのです。私たちの集団的無頓着さは、私たちが「貧困者の病気」としてあるウィルスを述べる言葉を用いる時それとなく暴かれている程です。それは、貧困者はどこかしら私たちと異なり、彼ら自身の軽率さによって生みだされたそれらの致命的な病気への責任があたかも彼らにあるかのようです。大部分が治療可能な病気の集団発生は本当に貧困者のせいなのでしょうか。それともそれは政治家のせいなのか、あるいは私たちが知ることのないそれらの人々の回避可能な苦しみに対する自分たちの無頓着な態度を通して本当は私たち全員が咎められるべきなのでしょうか。実に、第25条がすべての国の法として実現されるようもし皆で要求していたなら、私たちは遥か昔に発展途上国での病気の根本原因や健康格差に取り組めていたでしょう。私たちのすべての兄弟姉妹のための適切な住居、医療、衛生および十分な栄養摂取をもって、多くの致命的な疾患は過去数十年において復活する代わりにすでに過去の歴史となっていたかもしれません。

このような内省は、常識の点から考えることがどういうことなのか、そして世界的な経済情勢を統制するために分かち合いの原理を提唱することが – それは、単純な理念や理想郷的提案でなく本当の人生が存在するところなのです – どういうことなのかをさらに示唆するのに役立つかもしれません。第25条を布告するという常識的戦略に続く同情心にあふれた世界規模のデモンストレーションによって、彼らの努力が強化されるまで、貧困者を支援しようと試みる多くの援助組織は常に仕事に圧倒され、最終的に彼らの取り組みに対してやる気を失ってしまうでしょう。絶え間ない苦闘と貧窮状態のなか生きる何百万人という貧困者が世界中にいます。その多くが、もし招かれ、彼らの状況が変わり得るという希望が与えられるなら、いつでも外にでて長期間抗議する用意があるのです。

だから、街頭にでてどのような行動をとるべきかこれ以上問うのは止めましょう。そして、あらゆる国家と人々の利益のために、話し合いの場で全政党と協力することを誓うと共に、飢餓と貧困の根絶が彼らの最重要な議題でない限り、どの政治家に投票するのも止めましょう。このような極端な手段が政治情勢のなかで正常さを目覚めさすために必要なこの時、私たちがこの段階にまで至ってしまったことがどのように妙で悲しいことであるにもかかわらず、これが世界変革への一連の常識的行動なのです。人類がひとつの大きな機能不全の家族のようであり、その多くの子供たちが不当な扱いを受け、また愛情を受けることなく、最後には路上に立ち両親に抗議することを止む無くさせられることをただ想像してください。その壊れた家庭に対するなんと悲しく衝撃的な訴えであり、そして最も包括的で霊的な観点から、この惑星で起こっていることについてのなんと悲しい例えでしょう。

豊かさのなかの飢餓の惨劇など想像もできないほど進化した大変平和な惑星に私たちが住んでいると想定するなら、ついで地球の生活を特徴づける大変大きな分裂、繰り返す紛争、そして不必要な苦しみを私たちはどう説明するつもりでしょうか。人々が遥か下方でお互いにどうやり取りしているかを観察するのに私たちは巨大な双眼鏡を覗き込むだけで十分であり、この美しく豊かな世界に宇宙船を着陸させる必要さえありません。もし私たちが道で暴力的な抗議デモを見たとしたら、地球全体に浸透した霊的不均等さと同様にそれは政府と人々の間に存在する亀裂を象徴し、従って「そこへ行くのは止めなさい!」ということを意味するでしょう。しかしもし分かち合い、歓喜、善意を表現する平和的デモンストレーションのなか何百万もの人々が集まるのが見えたなら、その時それは、もはや分裂したままでいることを望まず、疎かにされた同胞の人間のために立ち上がる人口の大部分によって明らかにされるように、結束した群衆は惑星的進化を象徴し、従って「注意深く見続けなさい!」ということを意味するのです。ひいては地球がその家族関係の性質と目標を完全に見直し、そしてその世界情勢および経済的取り決めのなかに分かち合いの原理を最終的に実現するのは唯一時間の問題でしょう。

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要約すると、一点集中する世界の危機を解決するために主にふたつの解決策あると私たちは見定めるかもしれません。第一に、もはや利益、競争および自己利益によって動機づけられていない世界的交流の新たな形態を通して、国々の間で不可欠な資源を分かち合うことです。そして二番目に、さらに協力的、慈悲的、そしてより簡素な生活様式を維持するために介在年に、必要な認識をもたらせ得る新しい教育を開始することです。21世紀に人類は、商品やサービスのグローバル化した貿易を通して(現在の形態においてそれがどのように不均等で不平等であろうと)、あるいは私たちの世界的融合や関心の共通性を明らかにする世界的コミュニケーションおよびスポーツイベントを通して、そして莫大な犠牲者を伴った自然災害についでほとばしる同情と寄付を通してなど、自分たちの相互連結と結束をすでに数多くのかたちで証明しています。各国の各人が正義、平和、正しい人間関係を成就することに関連して世界資源の分かち合いの意味と重要さを理解する時点に至るまで、新しい教育が私たちの惑星規模の相互依存についての初期段階の理解の上に積み立てられねばなりません。  

常にひとつの人類の視点から考えることを確かにする学校のカリキュラムの一部として、これらの方向に沿って子供たちは教育されねばならず、それは彼らが、全体への各国特有の貢献と各個人の生来の平等性と創造的可能性を理解するということなのです。社会科学、自然科学、人文学、美術およびその他のことを理解する上でまさに学校教育が必要なように、「この世界において私は誰なのか」ということについての理解において若者を助力できる、愛と知恵に基づいた種類の教育もあるのです。そのような教育があるべき特定の形態の正確な詳細を筆者が述べることが適切でないにしても、そのようにして自己認識を通して人間関係のなかでマインドを平穏に、そしてハートを常に目覚めた状態に保つよう子供を訓練することは可能です。あえて言うなら、どのような種類の宗教的信念、政治的イデオロギーまたは「主義」であっても、学習と発達の形成の段階で子供のマインドに強制されるべきでなく、そして自己中心的になることなく他人のことをどう考え、そして利益追求および個人主義的競争の優位性が過去の産物となった世界でどう公益に仕えるべきかを若者に教える、特別教科または補足的教科がすべての学校で導入されるべきです。

この新しい教育がどのような速度で導入されるかは、世界規模で起らねばならない経済と政治の同時改革に決定的に依存しています。それはなぜなら、学校の授業が始めに、分かち合いと協力の原理が持続可能なグローバル経済システムの基盤をどのようになすのかということについての基本的な教えを含むべきだからです。すべての子供たちは人間同士の、および人間と自然環境の主観的相互関係、ならびに世界の蓄積された富、資源、テクノロジーおよび知識をさ平等かつ自由に国家間で分かち合うことの結果的重要性を理解するよう手引きされるべきです。家族内で自然にお互いのものを分かち合うように、信用のなか世界的貯蓄のなんらかの形態に余剰資源が託され、そして利益や貪欲よりむしろ分かち合いを基盤として必要に応じて再分配されるというような方法で国々という家族も彼らの行政を整えねばなりません。このような率直な概念はこれ以上シンプルであり得ず、それはいつの日か世界の人々の間の正しい関係、および国家間の正しい関係の意味についての最も初歩的な紹介を象徴するかもしれません。近い将来分かち合いの原理の最も真の表現が国際経済システムの基礎になるともし私たちが信じることができるなら、時代遅れのイデオロギーや主義にもはや条件づけられていない最も若い世代が学校を卒業する時、恐らく彼らがトップの政治家になる野心を募らせることは皆無でしょう。もしそのなかから一人の子供が大統領または首相になったとしても、自国と他のすべての国との平和的共存をどう保証するか彼は正確にわかっていることでしょう。

前述の考察を全体的に熟考することにより、再び私たちは、世界問題は非常に複雑であると同時にその解決は非常に簡単であると推定します。社会と国際情勢のなかに分かち合いの原理を組織的に実現することにより、ついでそれはグローバル経済の骨組みの再建築を必要とし、そしてそれに続いてこのより啓蒙された社会秩序を維持するために正しい人間関係に基づいた、新しい教育の開始を必要とするでしょう。このすべては、第25条を理解することが「人権」の実現への要求からでなく、この地球での正しい人間関係の真の始まりに緊急に続くべき政治的、経済的転換のために必要な基礎となる第25条集団で布告することから始まります。これらの基本的条件が多世代にわたって万人のために確固として確立される時、もはや第25条について言及されることもなく、「常識の項目」として歴史家によって思いだされるようになるだけかもしれません。

象徴的な意味で人類は分離と呼ばれる潜在的に致命的な病気にかかって苦しんでおり、唯一の治療薬は時間を超越した分かち合いの原理なのです。なににもましてその理由は、この世界が一度その資源を分かち合うなら、すべての人の基本的ニーズが恒久的に確保され、ひいては現在の教育方法は必然的に、そして恐らくは劇的に、その形態と全体の方向性を転換し始めるだろうからです。私たちが先ほど論じた消費の内なる意味および外なる意味に従い、自己を尊敬し、そして自己破壊のパターンと振る舞いによって自己の人間性をもはや消費しないよう個人を導くことのできる、私たち全員のなかの沈黙の教育者を呼び起こしさえするなら、社会的、心理的、政治的混乱の真っ只なかで分かち合いの原理は言葉では言い尽くせない変革の波をもたらすことができるのです。言い争っている近所の人同士が、彼らの間で分かち合うことによって内なる平和と変革を達成できるように、地球規模で資源を分かち合うプロセスは、現在、想像を絶する方法で人類の集合意識を変革する可能性を秘めているのです。マイクロレベルからマクロレベルまで、分かち合いは、利己的競争を協力に、社会的分裂を公衆の調和に、無秩序をバランスに、そして憎しみを愛に変換することによってコインを裏返す力をもっているのです。

社会全体で外と内において、そして心理的にこのような変革が世界を席巻する時、正しい人間関係に基づいた教育の新時代を開始するよう制限なしに人類は鼓舞されるでしょう。従って、個人やその個人の社会環境に関して私たちが考察すべきふたつの正しい関係の形態があります。なぜなら、人が自己と正しい関係をもつ時、彼は他の人との正しい関係へと自然に導かれるからです。内なる熟考と外なる観察を通してこの事実上の現実を確かめることにより、さらに私たちは第25条を実現することの計り知れない重要性を再確認するかもしれません。なぜならそれは、以前定義づけられたように、破壊的な自己消費の騒乱に最終的にバランスをもたらすであろう分かち合いの原理の影となり、それによってお互いと自然界との関係のなかでより簡素で持続可能な平和的生活へのドアを開くからです。

正しい人間関係の意味を思案する時、偉大な社会的医師あるいは惑星規模の精神療法家として分かち合いの原理を想像することは有益です – それは、飢餓者に食糧を与え、病人を癒し、破損した家族を修復し、精神的健康を回復させ、コミュニティを再構築し、個人が彼らの自信と創造力を取り戻すよう養成することなどを通して、無限におよそすべての可能な方法で治癒力をもつ治療者です。従って、もしあなたが個人またはグループとして自己を癒したいなら、世界情勢に分かち合いの原理を実現することを提唱し、そしてあなたの全エネルギーをもって第25条を布告することにより人類に仕えてください。そのようにして、あなたは分裂と呼ばれる病の集中を自己から反らせ、正しい人間関係に基づいて新しい地球を確立するための役割を担うのです。

 

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ここで提案されたやり方で何百万という人々に街頭に集まることをどのように納得させることができるのかとそれでも読者は問うかもしれません。その問いに対して筆者は、それに答える責任は読者自身にかかっているとしか言えません。「どのように」これらの平和的大衆抗議デモをもたらすかについては、世界変革のための実行可能な戦略として第25条を布告することの意味と可能性を全側面から読者が個人的に考察することを勧告する以外、これ以上の指針を与えることはできないのです。時宜を得た瞬間、一個人が、「99%」のパワーを宣言するというアイデアの火つけ役となったように、口火を切ることがすべてです。そしてその時は近しです – いえ、もうすでにきているのです – 世界中でデモンストレーションをすることにより、まさに国連内で第25条を蘇生させる時が。

しかしながら、「どのようにして」というこの疑問にもまた大変簡単に答えることができます;一般の人々のハートを目覚めさすことが唯一必要とされるのです。そしてそれがすべてです。なぜなら、各人そしてすべての人のハートには全人類の愛と知恵が埋め込まれているからです。「なんてことだろう。あらゆるところに沢山のお金と富があるにもかかわらず、多くの人が貧困のなか死んでいる!」ともし富裕者が世界を改めて見やって内部で観察するなら、その時そのありふれた観察自体が、従事するハートを通して実現された知恵の始まりを象徴するのです。そしてもし、人々の苦しみを和らげるために彼が富を分かち合うことに専心するならその時、その行為自体がこの世界の愛と知恵の小さな表れを象徴するのです。ハートの特質は常に簡素ながらも非常に賢明です。なぜなら、私たちの自己満足的無頓着さ、無関心およびマインドの条件づけのすべてにかかわらず、それは、人間としての自己の真の姿を認識するよう私たちを導くことができるからです。

何百万もの人々のハートを他人のニーズに対して目覚めさせるために信用、インスピレーション、歓喜が必要とされ、それらは、飢餓と生命を脅かす貧困を根絶するという同じ私心のない懸念をもって十分な数の国々が協力し合う時もたらせられるであろうすべての資質です。援助機関、市民社会組織および革新的な政治団体の様々なネットワークのなかで取り組む人々など – 今日、正義のために戦っている多くの活動家が、第25条の実現を通して分かち合いを無意識的に要求しているのだということをその時私たちは知るでしょう。従って、人間のハートの特質(すなわち、慈悲、共感、寛大さ、分かち合いおよびその他を通して表現される愛と知恵)を目覚めさすためにきっかけが必要とされるのなら、ひいては「飢餓と貧困をこれを限りに根絶しましょう。なぜなら今その時が遂にきており、もし十分な人々が参加するなら私たちは本当にそうできるからです!」と話すそれは、条件づけから自由になった聡明さの輝きです。

人間の剥奪の圧倒的範囲を知りながらなにもしないことさえ残念ながら私たちの条件づけの一部であるとしても、殆どの一般市民は強く条件づけられ危機的な世界情勢について認識がないことは事実です。従って、「どのようにこれが始まるのか?」という問いへの答えとして、「あなたの直感と常識、そしてもっとたくさんの常識を使うことによってです!」と言う以外、他になにが言えるでしょうか。現在人類の大部分にその呼びかけを聞く準備ができています。従って、私たちは皆同じ目標のために戦っているのだということを認識し、ハートを従事させ結束しましょう。そして生きる喜び、創造の喜び、人類はひとつだということを遂に認識する喜びを第25条が再びもたらせるようにしましょう。

あまりに混乱した局面に私たちは達していると思われ、政治的分派や数え切れない推論的学説からの無数の相反する答えのなかにこの「どのように」という問いは失われています。惑星規模の変革のための包括的で実行可能な戦略をもたらすことにおいて、このすべての分割的な考えの舵をとる能力が「もうひとつの世界は可能」だと宣言する活動家には欠けているのです。従って、もうひとつの世界が可能なのは本当かもしれませんが、膨大な数の他の人々の(主義やイデオロギーから自由となった)良識と従事するハートなくしてその実現は不可能です。それにもかかわらず、あまりに長い間、私たちは自分たちのハートに耳を傾けることを拒んできたため、世界情勢は破局の絶頂へ急速に近づいており、気候さえがおよそ修復不可能な段階に至るまで傲慢さと無謀さを通して人間が作りだした窮地を考慮すると、私たちを救えるのは実に唯一神の介入しかないのかもしれません。

世界の無数の教会、シナゴーグ、モスクおよび寺院の宗教的長老たちは、やや不適切にも群れを集結したり神聖な主義へ避難したりすることにすべての時間を費やす代わりに、私たちのハートを従事させ、死にいく貧困者を救うためにこの緊急のメッセージを広めることがいつでもできたはずです。例えば、マリアとイエスを排他的に崇拝する代わりに、豊かな世界のなかの飢餓の不正義について話し続けることによって世界を癒すために彼らの集まりを教育し、それによってキリストの簡素な教えの現代への関連性に注意を払うことが教会にとってなぜそんなに難しいことなのか私たちは問うかもしれません。[xi] どのようにハートを従事させ、他人に奉仕するかを、教会は初めから常に人類を教育すべきだったと議論できます。それは、その恥ずべき歴史のすべてのドグマ、教派分裂および偽善的スキャンダルの真っ只なかで、教会が大部分放棄した役割です。現在、そして昔からそうであったように、神の目から見て「選ばれた者」となることを神父が切望する一方で歴史に名を残すことを政治家が切望するに至るまで双方が権力や個人的特権への思いによって動機づけられている時、彼らの間になんら心理的違いはないのです。今日、不必要に存在する人間の剥奪のただならぬ規模に関する私たちの全知識をもって、コミュニティ、国、そして最も重要なことに、世界規模で分かち合いの原理を実現する試みに彼らの毎日毎秒が費やされていない限り、どの政治家であろうと神父であろうと、真の公共サービスについてもイエスの名のもとで慈悲心についてもなにもわかっていないと言えるでしょう。

実際にキリストが現在に戻り、テレビのスクリーンで自らの臨在を宣言すると想像できるなら、政府と全人類への彼の神聖な助言がどのようなものになるか熟考するのは興味深いことです。資本主義を解体し、社会主義的代替をつくることについて複雑な学術用語で彼は話すのか、それとも、あなたのハートが他人のことを思い飢える人々を即刻救うようあなたたちに要求するのでしょうか。私たちが近所の人と自分たちのコミュニティだけで分かち合うよう彼は助言するのか、それとも正義、慈悲、正しい人間関係に基づいて世界資源を分かち合うよう助言するのでしょうか。第25条を実現することは、対立する「主義」と商業化勢力に捕らわれ分割された世界への対抗手段であることを彼が賢明に理解しているだろうように、人類の問題についての完璧な知識にもかかわらず、彼の助言は恐らく非常にシンプルであるでしょう。

しかし、どれだけ多くの人々が彼の助言に従うと私たちは考えるのでしょうか。どれだけの人が、彼の分かち合い世界を救出するための謙虚な指針に対して憤慨するのでしょうか。そして、ペンテコステの普遍的経験のなかで例えキリストの愛に包まれたとしても、どれだけの人が胸が張り裂けるような彼の言葉に無関心で居続けるのでしょうか。これらすべての3つの反応のなかで私たちが最も懸念すべきは3番目です。なぜなら、意義を唱える人は少なくとも自己で考えており、考えを変える可能性があるからです。第3のグループがもっと気がかりな理由は、それは彼らが、社会に浸透し何千年も人間の進化を妨げ深く根をはった無関心を象徴するからです。神々は遥か昔に人間の人間に対する残酷さには慣れましたが、血にまみれた紛争や目に余る不正義が各年代から受け継がれ永続するところの、歴史が何度も同じことを繰り返すことを可能にする私たちの自己満足的無頓着さと無関心に彼らが慣れることは決してありませんでした。

残念なことに、大義のために社会同士が結束するという2、3の主要な前例が、近年、特定の国の経済崩壊に続いて目撃されているように戦争や社会的崩壊を通してである時、上記の想定は私たちを不吉な結論へと導きます。世界を変革するためには第一に、同じ統一された目標に無数の人々のハートを従事させねばならないことを受け入れるなら、ひいてはこの大規模な任務を開始できるかもしれない救世主が二人いることを歴史は暗示しています。多くの霊的な傾向のある人々がキリスト、弥勒菩薩、イマム・マーディまたはクリシュナの再来を期待しているであろう一方で、他の人々は過去の古い利己的および競争的やり方の断続がもはや不可能な程のグローバル経済の最終的破綻が必要なのだと合理的に結論づけるかもしれません。お互いに助け合い、もっているものを分かち合うことによって人々が生き残ることを強いられる時、社会的関係のなかで心理的に分裂し分割されたまま居続けることとは違った生き方が可能だと悟るのは簡単です。例え私たちが困っている誰かとただニシンの缶詰を分かち合うだけでも、そのギブアンドテイクの質素な行為のなかに歓喜の動きがあるのです。さらにボーナスとして、必要に迫られ選択の余地のないことから分かち合うそれらの人々は、その必然的結果がどう短命であろうと、またはどう小規模であろうと、予想外に彼らのコミュニティ内で平和の香りを感じとるかもしれません。なぜなら、分かち合いの原理はそれがどのような状況下で適応されようが、コミュニティ・レベルから国際レベルに至るまで上方へ向かって常に歓喜と平和に関連しているからです。

従って私たちは自己の条件づけを振り払い、恵まれない人々の苦しみへの無関心を克服し、そして不可欠な資源へのアクセスを絶え間なく剥奪されている何百万という人々の苦悩に対して自己のハートを目覚めさすために、世界の広範囲に渡る経済の崩壊を必要とするのかもしれません。結束して立ち上がり正しい道を歩み始める前に、私たちは共に故意にノックアウトされねばならないのかもしれません。なぜなら、道理と慈悲心への常識的な訴えかけへの反応としてでなく、劇的な要因と大惨事を通して、常に私たちは行動するよう駆り立てられるからです。別の言い方をすると、人類が必要とするものは愛でなく、周りの世界が崩れ落ちていっている時でさえどのような犠牲を払ってでも個人的幸福と保証を求めるよう私たちが条件づけられてきたところの、長年の自己満足と無関心が合わさった結果としての深刻な状況が原因となった途方もない危機かもしれません。

それにもかかわらず、古い考え方によって私たちはいまだ非常に強く条件づけられており、以前の成長と見せ掛けの安定状態に経済が戻ることができると仮定し、自分たちの物質主義的で偏狭な生活様式の追求へ再び舞い戻るかもしれません。今日でさえ、富裕国の抗議デモや社会運動の多くは、万人の利益のために世界変革を求めるものでないうえ、裕福者と貧困者の間の生活水準の痛切な格差を維持する全体におよんだ不正義についての考えは皆無であり、むしろ彼らの以前の生活様式を政府に取り戻させるために戦っているのです。これは再び、どれだけ一般市民が政治家と同じくらい社会問題について責められるべきであるかを明らかにしています。なぜなら、公衆意識全体の幅広い部分に浸透する同じメンタリティを政府が少なくともある種反映しているからです。どのようなイデオロギーを促進していようと、政治家が一般的に誠実な意図をもち続けるただの人間であることを忘れないようにしましょう。そして対立する何種類かの政治的主義への部族的固守を通して分極化した考え方を維持するのは一般大衆です。

この事実のなかにだけでも私たちの時代の最大の危険が横たわっています。なぜなら、もしある社会で異なる分派が、権力の座に居座り続ける者を退けることを求めるなら、グローバル経済の大きな崩壊が最終的に暴力と革命をもたらせ得るからです。主要な政治家と支配的な経済勢力の大規模な支持のなか、グローバル・ノースおよびサウス双方の国々で、この予期された出来事に対して巨大な国家機構が事前に準備されていることから、公衆の暴動的蜂起は極度に危険だということも忘れないようにしましょう。従って、もし国際的経済システムの次の崩壊に続いて多くの人々が政府に対して暴力的に抗議するなら、独裁的リーダーシップに反対した様々な分派や「主義」がお互いに戦い始めた2011年以来の中東に痛々しく私たちが見てきたように、社会的動乱またはさらに多くの内乱の勃発を予期できるのです。

不安定な世界情勢に新たな方向を与える唯一の平和的方法は非常にシンプルであるがゆえ、今一度繰り返されねばなりません:それは、イデオロギーや自己利益の考えなしで大規模な世界的抗議デモにハートの特質を従事させることです。なぜなら、人間のハートが作動する時、それはどこまでも賢明で「対立」することができないからです。先駆的な若者は、世界に氾濫しているこの新しいエネルギーにすでに同調しており、「これは私のもので、あなたのものではない」、「あなたは黒人で私は白人」、「それは私の国の利益にならない」または「あなたは毎日を同じように生きねばならない」と言う、古い意識から離れる時がきていることを知っているのです。私たちの長く恥ずべき過去を代表する人々が認識し大変注意深く耳を傾けないなら、多くの若い活動家の激しく革新的な見解が社会にさらなる危険を突きつけるだろうにもかかわらず、この迅速に浮上し結束する意識は、未来に希望をもつべき多くの理由を私たちに与えてくれます。

決算の日は近しです。従って、私たちはこのより良い新しい世界をどう開始するつもりでしょうか。社会主義を用いるつもりでしょうか。あるいは無政府主義を用いるつもりなのか、または宗教を用いるつもりでしょうか。それとも、政府が世界資源を分かち合うことに全力を傾けるまで、数え切れない人数で平和的に結束するつもりなのでしょうか。一度のデモンストレーションでは決して成功しないでしょう。別々の日に千のデモンストレーションをしても恐らくそんなに多くは達成しないでしょう。しかし、第25条の実現を着実な基盤として世界中で同時に起こる何百万という無数のデモンストレーションを毎日止むことなく続けたなら?それで、十分かもしれません。

 

注釈

[i] 注釈2を参照。  

[ii] cf. モハメッド・ソフィアン・メスバヒ「主義についての講話op cit.

[iii] cf. モハメッド・ソフィアン・メスバヒ「商業化:分かち合いの対極」、シェア・ザ・ワールズ・リゾースィズ、2014年4月。

[iv] モハメッド・ソフィアン・メスバヒ「奮い立て、アメリカよ、奮い立て!」、シェア・ザ・ワールズ・リゾースィズ、2014年10月。

[v] 例として次を参照:モハメッド・ソフィアン・メスバヒ「世界の人々をひとつに結ぶ」、シェア・ザ・ワールズ・リゾースィズ、2014年5月。

[vi] Willy Brandt, North-South: A Program for Survival (The Brandt Report), MIT Press, 1980; Willy Brandt, Common Crisis, North - South: Co-Operation for World Recovery, The Brandt Commission 1983. London: Pan 1983. 

[vii] 世界資源を分かち合う、グローバルな分かち合いの経済に融資する、2010年10月。

[viii] ウイリー・ブラント、 op cit.

[ix]  編集者の注釈:ブラント委員会の提言に続き1981年10月、先進8カ国および発展途上14カ国のリーダーが、世界の貧困問題に関する長年の交渉のいき詰まりの打開を狙ったサミットのためにメキシコのカンクンに集まった。国家代表者が2日間インフォーマルなセッティングで会合することによって、世界的交渉を進展させる勢いと善意が期待された。しかしながら最終的に、提言は確固として実現されず、資源の世界的再分配へのサウスの国々の要求は充たされないままとなった。アメリカ大統領ロナルド・レーガンは、少数派の先進諸国と大多数派の貧困諸国の間の経済格差の溝を埋めるというサミットの狙いを顕著にはねつけた。今日、ブラント委員会の勧告のすべてが適切ではないにせよ(環境的限界に迅速に近づくこの時代に、増大する貿易自由化と世界的なケインジアン経済政策を特に強調している点で)、政策策定者と市民社会運動家がその「優先プログラム」およびさらに公平な世界へのそのビジョンから引きだせるものはまだ多くある。なによりもこれは、発展途上国および遠大な農業改革への大規模な資源の移動を必要とするだろう5年間の緊急プログラムの提案を含む。委員会はまた、新しい世界的貨幣制度、開発金融への新アプローチ、軍備縮小の同調されたプロセス、および非再生可能エネルギー源への依存からの世界的移行をも呼びかけていた。現在に至って政府らは、「関連のある国際機関の支持と協力を通してすべての国の間で南北問題の全範囲について話し合う」ための多国間プロセスであるブラントのビジョンをまだ実現していない (Common Crisis, 1983)。

[x] モハメッド・ソフィアン・メスバヒ「奮い立て、アメリカよ、奮い立て」 op cit.

[xi] cf. モハメッド・ソフィアン・メスバヒ「クリスマスとシステムと私」、シェア・ザ・ワールズ・リゾースィズ、2013年12月。


モハメッド・ソフィアン・メスバヒはSTWRの創始者である

編集協力:アダム・パーソンズ

翻訳:村田穂高

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