人類のコモンズ

人類全体の共益を迎え入れるためには、平均的人間の認識を拡大する心理的意識改革の必要性を第一に考察しない限り、地球の共有資源管理のための新経済パラダイムを真剣に見通すことはできないでしょう。なぜなら、人類もまた、惑星的・霊的視点からコモンズの不可欠な部分であるからです - それは、豊かな世界の中で飢餓から死んでいく人々が、私たちのコモンズが悲惨にも冒涜されているという、最もあからさまな例のひとつであることを意味します - モハメッド・メスバヒ、STWR創始者。

コンテンツ:

イントロダクション:より広い知覚のレンズ
認識の障害
世界人権宣言第25条のために立ち上がる
歓喜の霊的特質を解放する
一覧図:世界変革の内部及び外部の側面
「主義」と知性の危険性
コモンズ主導型教育
内部のコモンズを探求する
結論
注釈


イントロダクション:より広い知覚のレンズ

「コモンズは、人間の意識の中で非常に古い過去を持ち、それは、ひとつの生命への初期の認識、霊的進化のビジョン、そして何よりも万物への慈悲心から生まれました… 従って、実際の問題は、外部のコモンズを維持出来る新たな経済的、社会的取り決めをどうもたらすかでなく;問題はむしろ、永存するコモンズについての内部の知覚をどうもたらすかということであり、そのためには、私たちが自己を知ることを学ばなねばならないということなのです」。

コモンズについての伝統的考えは、共有の牧草地などの古い概念を遥かに超える、新たに見いだされた意味を持ってこの21世紀に大きな復活を遂げています。今日、コモンズは、環境、社会、文化、知識、デジタルの各分野に渡ってあらゆる側面と現代生活を網羅する、資源の分かち合いの新たな理論及び実践として一般的に促進されています。市場と国家の双方を超越する社会での「第3部門」として、そしてレッセ・フェール(自由放任主義経済)の支配的イデオロギーに挑戦する代替的政治哲学として、さらには自己組織化したガバナンスの形態に基づく大規模な制度変革へのアプローチとして、コモンズについての多くの話し合いが現在革新的思想家の間で行われています。これらの会話や提案のすべては重大な局面に立っており、持続可能な未来をどのように共同でもたらすべきかについての答えを求める人々によって最大限に考慮されるに値します。

しかしコモンズの意味と重要性の理解を試みるためには、この分野の学術文献研究における従来の分析が無益な、内部への調査を必要とするもうひとつの方法があります。コモンズが、不朽の分かち合いの原理に密接に関係する崇高な起源を持つという基本的な真実を理解することは、従来の思考及び行動様式を遥かに超えたより広範な知覚のレンズを必要としますが、これを事実として仮定することから始めましょう。信念への信念を通してでなく、むしろ内部の認識と内省を通して、コモンズのより大きな重要性を私たちは自己で知覚せねばなりません。なぜなら、コモンズの存在は単に物質的であるだけでなく、その性質は霊的でもあるからです − それは、社会及び自然環境双方への畏敬の念を伴った包括的態度を持って奉仕するよう、個人が動機付けられる分割のない公正な社会へ向けての成熟さ、ビジョン、良識を基盤として人類を結束させる傾向のある性質です。 

本質的に自己知識に繋がりがあるものとして、コモンズの永遠の現実をもまた私たちは知覚するかもしれず、その最高の意味は全体の共益を包含する天与の霊的教育であると見なすことが出来ます。従って、これらのより包括的な言葉でコモンズを理解するかどうかは、それが個々から全体へ、そして全体から個々への愛情のある認識から生じた善意の表れに関係するため、意識の問題です。この定義によって、コモンズを支持することのチャレンジは、私たちの個人及び集団意識の問題として本当は考慮されるべきです。なぜなら、誰かの所有物というものは存在せず、地球のすべての生産物は、万人によって協力的に分かち合われ保護されるべきだと理解することから人類は程遠いように見えるからです。誠に、コモンズは私たちが分かち合うすべてのものとしてしばしば述べられますが、今日、人類が分かち合わないすべてのものとしてそれを定義付ける方がよほど正確かもしれません。なぜなら、実のところコモンズの重要性は、共通の財産を管理することや共通の遺産を保護すること、共益を促進することより遥かに重要だからです;それは、究極的にすべての国家の主権の中で人類が進歩、進化するための門戸であり、そして自然のすべての王国の運命と同調しています。この地球でコモンズを真に支持、賛美することは、つまるところひとつの目標のために人類が存在することを意味するでしょう。そして、その目標とは、霊的進化です。
 

今後、私たちの探求の目的は、この絶対不可欠なコモンズへの霊的認識を妨げるものが何かを発見することであり、そして何がそのような認識を惑星規模でもたらせ得るかを自己で知覚するよう試みることです。私たちはまた、コモンズと分かち合いの原理の意味の間にある関係をも多くの角度から詳細に見る必要があります。なぜなら、双方は非常に多様性に満ち相互接続しているため、それらは容易に取り違えられるか同一であるかに見えるからです。私たちの教育には多くの問題があります。私たちは幼少から、個々から全体の観点、またそれとは逆の観点から人生を見ることを教えられません。例えば、ヨーロッパの子供がアジアやアフリカの国々について学ぶ時、彼らはそれらの大陸の人々と世界全体との間に存在する心理的関係について学びません。その代わり人文社会科学は、典型的に自己の国、血統または特定の文化に関連した個々の点からのみ研究されます。そのような学校教育とそれに続く成人生活の過程を通して、私たちの社会環境は、自己の現実と世界中の人々、特に自分より恵まれない人々の生活との間の心理的関係を取り入れるよう助長しません。これは、相互依存し霊的に分割のない本質的に平等な人類の観点から世界の出来事に対応することは滅多にない、公の論議や政治的談話にあからさまに反映されています。

私たちの社会的条件付けと不適切な教育様式の結果として、遠方の国々で絶望的な貧困の中生活する人々のことを耳にする時、私たちには慈悲心を持って反応する傾向がありません。それでも、人類もまた、土地、海、森、大気と同じようにコモンズなのです。従って、人を餓死させるということは、私たちのコモンズの一部を粗末に扱い悲惨にも失なわせることなのです。最も高い霊的観点から、人類は神のコモンズだとさえ言えます。その場合、永存する人類への犯罪もまた、コモンズへの犯罪です。明らかに、豊かな世界の中の貧困の存在自体が、私たちの共通財産への義務における悲惨な過失を表します。このような理解は常識的であり、それは、外部に向けられた完全に知的な理解からだけでなく、心理的、内省的に自己の内からも詳細にこの分野を考察することを再び私たちに要求します。もし私たちの認識が自己の家族、コミュニティ、文化、信仰、国家との心理的関係だけに限られるなら、どのようにして私たちは善意と共感的懸念を持ってひとつの人類の共益を支持出来るのでしょうか。

無限の霊的進化の観点から考慮される時、もしコモンズが、肌の色や地位または出身国に関係なくあなたと私が共にあるということを意味し、そして環境だけでなくお互いを自然に包括する畏敬と愛の中存在するものすべてに配慮を配り大切にするなら、それは意味深い発想であり得るのです。従って、コモンズは分かち合いの原理と協力のみに関係しているのではありません;それはまた、活力に満ちた超越的愛の表現なのです。そしてその愛は、驚異的な宇宙の中で「あるがままのすべて」と一体化するために、人間の意識が拡大するまですべての人、すべての地域、そして自然界のすべての生きとし生けるものを包括するために国境を越えねばならないのです。これによって私たちは、人類の霊的発展の中でコモンズがそのすべての栄光を顕現するまでどれだけかかるのか、予感出来るでしょうか。
 

従って基本的な心理的観点からコモンズは、無害性、愛のある配慮、そして全体への認識として定義付けられることが出来ます。そして最高の霊的観点からコモンズは、進化し生きとし生けるものすべてとの一体感、または自然の全存在との一体感を意味します。それは、一本の木を見ることはその木になるということであり、よって、単なる便利さや完全な物質的利益のためだけにその木を破壊することが、冒涜行為になるということです。それはまた、そのような意識及び自己投影を持って一枚の葉を見るということは、創造の中の全生命の神聖さをその一枚の単独の葉がどのように象徴しているかを知覚することです。明らかにそれは、多くの場合、人々が環境的懸念の範囲だと信じる、残飯や製品包装の単なるリサイクルによってコモンズが守られるという意味ではありません。ひとつの人類の共益とその霊的進化あるいは気候変動や地球の生態学的問題を取り巻く多くの運動に弱々しく反映されるように、比較的少数の人々だけが全人類のものであるコモンズの点から考えるのみです。それでも、例え大多数の人々がコモンズ関連の問題を考えたとしても、その認識は世帯レベルに限られています。この点でも人間の意識が、自己の小さな出来事をさらに大きな全体に関連させるよう劇的に拡張するまで、決してコモンズが世界規模基盤で支持され得ないと理解することを再度やむなくされるのです。

従ってコモンズは、私たちの集団的アイデンティンティと相互依存の広がる感覚を人々に与える正しい教育からもたらされる時のみ栄えることが出来ます。そしてこの理由から、権力、階級、特権のレンズを通して社会的プログレスを詳しく分析する文化や歴史の国家中心的な見解によって制限されることのない、あるいは記憶力や知性に頼るだけでない、完全に新しいタイプの教育が必要とされます。今日一般的に存在するものより遥かに包括的な学習形態が必要とされます。それは、内部の自己の認識を子供に植え付け、そして競争、服従、個人主義的富及び社会的成功追求を基盤とした現代社会の優勢的な価値観から外れたものです。このようにして、未来文明の土台としてのコモンズのどのようなビジョンも、私たちの惑星の進化が何を必要とするのかということに関する、現代のどのような科学的理解からもかけ離れた人類の霊的進化に基づく教育を包括せねばなりません。私たちがこれからより詳しく探求して行くとともに、これらの方向に沿った新教育の緊急の必要性は、公正で持続可能な社会をもたらすことにおいて極めて重要です。なぜならそれが、無害性、簡素さ、正しい関係の中で、そして「あるがままのすべてのもの」との一体感に基づいた前述の自然への畏敬を持って、皆と共存することの利益を人類が理解出来る唯一の方法だからです。

私たちの追求が終わるまでに、コモンズが専門的、学術的分野としてだけでなく、第一に個人を知恵に近づけることの出来る神聖な概念としても取り組まれるべきだと読者が確信することが望まれます。コモンズについて惑星的、霊的観点から考え始めることは瞬時に知恵の現れです。なぜなら、どのような特定の人種、文化及び国家への条件付けされた偏見をも放棄し始めないことには、全体のためになることを思い描くことは出来ないからです。コモンズの最高の意味を真に理解するためには、鉱物、植物、動物及び人間王国だけではなく、霊王国をも含んだ自然のすべての王国と人間の間の関係を良く理解することもまた必要です。[1] この総体的、包括的境地からのみコモンズは天与の教育として表現され得ます。なぜなら、その意味を理解することはそれ自体、自己知識と知恵の真の定義である自然及び進化との一体感に対して意識的になるということだからです。
 

認識の障害

コモンズを取り戻し守るという展望についてどれだけ情熱的であろうと、間も無く私たちは、そのような意識を他の人々に拡げるための道に立ち塞がる多くの障害の迷路に直面するのです。私たちの問題は、財産権や自己権益に基づいた社会の深く定着した分割的考えに根を張っています。それはコモンズの霊的または神聖な概念の実現への最大の障害として理解され得ます − 実に、総体的に理解されるように、「利益」という言葉自体がコモンズにとってまったく受け入れがたいものです。利益基盤の経済システムがどのようにずる賢くその目的を成就して来たか、そしてどのようにそれが生まれ何世紀にも渡って拡散して来たかを観察して下さい。それ程昔ではありませんが、まだ自然に存在していたコモンズを分割するために、裕福な貴族が、租税と法律上の決定という名目のもと以前の居住者から盗んだという実際上の事実にもかかわらず、それ以後、特定の土地を私有財産として宣言して来ました。世界の他の場所では多くの先住民族が自然と生命体のすべてと調和の中生活していましたが、その後いわゆる開拓者が現れ、以前の境界のなかった土地をこれらの先住民から取り上げ、支配し、分割しました。人間の歴史を通しておおよそすべての文化と世界の全地域において、個人やグループの利己主義、暴力的取り押さえや合法化された窃盗、そして何よりも、物質的利益及び商業的利益の追求によってコモンズは打ちひしがれて来ました。

それでも今日まだ、同じ分割が合法的窃盗や不法占領を通して永続し続けます。個人やグループまたは国家が、特定の土地や資源が彼らのものだと宣言し、邪魔をする現住者は駆逐しようとします。例え聖書が、ある土地がある特定の人種のものだと述べているとしても、その人々は、どのように衝突や血まみれの暴力を避けそれを自分たちのものだと主張するつもりでしょうか。何世紀もの社会的条件付けと不十分な教育を通してどれだけ深く真実が抑圧されて来たとしても、私たちは皆心の中で知っています: 全人類が協力的に分かち合い保護するために、自然の摂理によって奔放に与えられた石油やその他の天然資源を含むすべては誰の所有物でもないのです。従って、傲慢な一団が出現し、「これは、我々の私有財産であり我々が所有すべき法的権利だ」と宣言することが出来るのでしょうか。彼らが所有する莫大な富は、によって独占的に彼らに委ねられたのであり、母なる自然や先住民から暴力や法令によって一度も取り押さえられたことはないと証明出来る一族や組織があるのでしょうか。

更に、物質的豊かさが神の法令によって起こるべきして起こったか、賜ったかして、遠方の土地の資源の強奪や搾取なしで獲得したのではないと証明出来る発展国はあるでしょうか。少なくともここで私たちが探求しようとしている霊的、包括的展望から観察する時、植民地での獲得というまさにその考え方が、領域主権の概念と同様に、コモンズの存在からかけ離れたものなのです。可能な限り広範な意味で捉えられる場合、例えば、国際水域の意味を国連が概念化せねばならないということでさえ、人類全体への的確な考慮なしに一国がその国境内の水を乱用できるという意味で馬鹿げています。何も誰のものではないということは、利益と身勝手な物質的関心の追求の中、自然(と勿論お互い)を所有、支配、搾取するために人類が誤った方向に進んでしまったことを認識しない限り、最も深遠な霊的意味に沿ってコモンズを理解することは不可能です。すべての歴史の本がこの長く悲しい人類の自虐的分割と破壊の歴史を証言するでしょう。そしてそれは、グローバル・コモンズの現代型対極として考えられるべき攻撃的外交政策を装いながら宿命的に断続するのです。これら帝国構築及び資源強奪のパワーゲームが世界情勢の軌道を決定し続ける限り、地球の霊的進化に沿って顕現するコモンズの展望が皆無であるのは明らかです。

商業化は、ここ数十年間に渡って、最後の一息まで全力を持ってコモンズの発展に抵抗するだろう有害なエレメントであり闇の勢力です。すべてを貫く商業化勢力は、多くの法律や規則が特権的エリートの利益のために複雑に施されるところの窃盗と不正義のもと築かれた古めかしい経済システムに大変よく適合しています。それにもかかわらず、コモンズが拡大することを阻止する大規模な防衛体制を持つ分割的社会の規則に私たち全員が追従せねばならないと同時に、多くの面で私たち全員が商業化の子供なのです。今日、無数の古めかしい法律と何倍にも膨れ上がり続ける所有権の数によって権限を与えられ、あらゆる場所を商業化は徘徊し、コモンズが存在するところではどこでもそれを滅ぼす操縦者のいないタンクのようです。観察可能なこの事実を説明するために、不動産開発者が高家賃の高層マンション建築のためにそれを破壊する権利を与えられるまで、何百年もの間コミュニティによって自由に使用及び管理されてきた美しい土地を想像するだけで十分です。

利益追求の思考設定に心酔する社会状況において、横行する商業化が象徴する危険に比較的少数の人々しか気づいていない時、どのようにしてコモンズを取り戻すことが出来るのでしょうか。利益的及び商業的価値観が、社会の全側面に浸透し、グローバル化された市場を通して、無限の生産品とサービスを消費するよう私たちを押している間は間違いなく、私たちが成功を収めることはありません。コモンズは、より広範な大衆の教育及び認識の欠如によって抑圧されているだけでなく、どのような手段を用いても地球の天然資源のわずかに残された最後の部分から利益を抽出するであろう多国籍企業の活動によっても徐々にすべてを抹消されています。その結果、環境を守るための戦いは、自己破壊への聖戦を激化させている全体のプロセスに人類の大部分が進んで参加している限り、矛盾の混乱として残ります。

この危険で盲目的な道を4、50年間進んで来た後、自然と生きとし生けるものすべてに愛のある配慮を持って霊的に進化することから人類を妨げる毒のコンビネーションのようなふたつの要因 – すなわち、私たちの集団的な自己満足的無頓着さと商業化勢力 – のコンビネーションを通して、私たちは自己を罠に嵌めてきました。支配的な国々の自己利益と特権的エリートの貪欲さに起因して、伝統的なコモンズは本来消滅したかもしれませんが、商業化勢力が、一般大衆の意図しない共犯によって促進されて来た現在、コモンズを基盤とした社会組織様式を新規に確立する展望はかつてないほど困難です。私たち全員が、種々の自然王国に対して犯されて来た破壊に関与しており、そしてあらゆるところで豊かな社会によってあからさまに誇示された途方もない富と贅沢とは関係なく、私たちの広範な無関心が、毎年何百万人もの極貧者が不必要に死んでいく状況をもたらして来たことを忘れないでおきましょう。

世界問題の内部及び心理的原因を観察する時、偉い人(成功者)」となり社会的認識を達成するという根底にある動機に、利益、権力、富への外的追求と同じくらいコモンズの荒廃に対して責任があるのです。この極めて重要な転換期に人類が苦しむ霊的危機への認識を多くの場合持たずして、私たちの不十分な教育様式と無数の商業化形態からの影響の受け易さを通して、個人としての自己と物質主義的欲望だけを考えるよう私たちは簡単に条件付けられます。すなわち、生活と社会の組織化の新たな方法としてコモンズを復活させる展望はもとより、万人及び国家間での正しい関係を確立することに対する自己満足的な無頓着さや純然たる無関心が結果的にもたらされるのです。この高次の思考の概念によってどのように動機付けられ鼓舞されようと、その正当性を無反応の社会に提示することは出来ないのです − 彼らの世界だけでなく、来るべき彼らの孫の生活についてもまた話しているにもかかわらずです。

自由主義の批評家の多くは、現世代の暮らし向きが経済的にこれ程良かったことは今までなかったと意義を唱えるかもしれませんが、商業化が世界全体を通して既に引き起こした被害を観察すると、これは無知で危険な発言です。現実には、何百万人という人々の富と物質的快適さを拡大したのは、政府の善意でなく、むしろ生活の全領域で利益と競争の優勢性をもたらした市場勢力の解放です。そして、明らかに破壊的、持続不可能であるにもかかわらず、伸び続ける各国の経済のためにさらに促進され続ける無駄な世界的消費パターンを観察する誰もが認めることが出来るように、利益主導型の商業的価値観が1970年以降の急激な環境劣化の原因でした。現在、人類の歴史上これほど物資へのアクセスがあることはなかったかもしれませんが、もし私たちが最終的に地球の天然資源の限界を超えたなら、これらの無数の生産品がどのような長期的利益をもたらしてくれるのでしょうか。過度に商業化された人口過剰の社会において、今日の暮らしは良いかもしれませんが、明日の暮らしは確実に悪化しているでしょう。なぜなら、お金儲けで忙しく贅沢な生活様式を追求する人が世界にいればいるほど、差し迫る社会及び環境の悲運に対するさらなる無関心があるだろうからです。そして現在の社会経済システムを維持することに私たち全員が一役買っているために、この致命的なコンビネーションが人類への喰いつきを強め続ける限り、グローバル・コモンズのすべての力と美のビジョンを支持することは不可能なままとなるでしょう。最終的に、地球を救うための協力的努力の中、国々が一体となることはただのファンタジーとなり、そして人類の進化の悲劇的結末を回避することは不可能となるでしょう。

従って例え私たち自身が、人類の未来の生存を保証するために再びコモンズが繁栄すべきだということを理解したとしても、どのようにこの遠大なビジョンを一般大衆に伝えることが出来るのかという疑問が残ります。古めかしい法律、破壊的商業化勢力、そして私たちの発言などに興味のない何百万人という人々の無気力さが複雑に入り組んだ制度とどのように戦い始めることが出来るのでしょうか。一般大衆が最大の障害及び挑戦の代表者である時、多国間企業と戦い偏った政策を持つ政府に影響を与えようとする試みによって私たちは取り組みをさらに複雑化するだけです。特定の市場本位の法律や企業を支持する政策を改革するようコモンズの提唱者が政府を取り囲み、圧力をかけることは理論上可能かもしれませんが、より広範な人口の自己満足的な無頓着さと無関心を誰が取り囲むのでしょうか。環境グループは、悪化する気候及び生態学的危機についての認識を地球規模でもたらすことにおいて賞賛に値する仕事を既に成し遂げましたが、コモンズの概念は、見たところ既存の低質政府が理解出来ない、私たちのお互いと、そして自然界との関係について全く新しい考え方を必要とするより高度な性質を備えているので す。

従って私たちは、人類全体の共益を受け入れるために平均的人間の認識が拡大される、心理的及び社会的な意識変革への必要性について第一に熟考しない限り、地球の共有資源を管理するための新パラダイムを真剣に見通せません。さもなければコモンズを促進するための取り組みは、利益主導型思考設定と服従的な公衆の暗黙の同意の中で今日政治家によって課された、企業法と商業化政策の突き抜けられない壁にぶつかり続けるかもしれません。私たちはいくつもの論説を書き続け、賞賛されるべき提案をさらに知的化するかもしれませんが、最終的にコモンズが風変わりな学者にしか研究されない古めかしい言語のようになるまで、改宗された支持者たちの小さな聴衆に話しをしているにすぎないでしょう。

 

世界人権宣言第25条のために立ち上がる

従って私たちの第一の疑問は、コモンズへの認識が、全世界によって維持されるようにこの意識の心理的変革をどうもたらすかということです。ここで私たちが論議したように、現在、政治家やビジネスの先導者によってコモンズが理解されるどころか促進されることは決してないでしょう;その上、例えそのようなビジョンを受け入れるよう彼らが鼓舞されたとしても、20世紀の共産主義を確立するという、展望のない試みのごとく、もし疑うことを知らない市民に対して強制されるなら、それが機能することは決してないでしょう。その最も幅広い定義においてのコモンズは、共有の天然資源や世界遺産を遥かに超えるものです。なぜなら、人類もまた、惑星的及び霊的意味においてコモンズの不可欠な部分であるからです − それは、豊かな世界で飢餓から死んでいく人々が、私たちのコモンズが悲惨にも冒涜されている最も酷いひとつの例だからです。従って私たちの意識的認識の完全な変革は、人間のハートから始まらねばなりません。そして世界のどこであろうと、命を脅かす剥奪の危機への集団的目覚めから生じねばなりません。イデオロギーに対する革命を通して、人類のコモンズを永久に維持することは出来ないのです。とりわけ、もしそれが政府とその歪曲した優先項目に対する特定の社会階層の暴動を示唆するならです。人類として意識を拡大出来る唯一の種類の革命は、貧困及び飢餓の即刻廃絶のための大規模な自発的抗議デモを通して動員する何千万人もの人々によって表されるように、ハートから始まる意識革命に繋がりがあるのです。

この浮上する、コモンズとしての人類の表現を、街頭での自由と正義のためのデモンストレーションの中に私たちは既に見ています。そのような抗議デモ活動を、全体への善意が動機となっているものとしてもし理解するならですが。同時に近年、比較的小さな割合の世界人口の認識を通して表現されているように、環境を救うための国際的なデモンストレーションもまた、明らかに地球のコモンズを守るという思想に繋がりがあるのです。しかし人類の大部分がコモンズ自体の知的概念を中心として結束することはないでしょう。そしてそれは、無数の人々が適切な教育や適切な生活水準を持たず、生存のために苦闘していることから明らかなはずです。大衆抗議デモ活動に欠落し続けるのは、絶対的貧困の不正義を永久に根絶させるという思想の中での結束です。それはあたかも神が静止状態にある私たちのハートに話しかけ、私たち共通の運命に私たち全員を目覚めさせているかのようです。これらの目標に向かってのハートの世界的な結束以外に、人類のコモンズの真の復活の前兆となり得るものはありません。そのような驚異の中心で、政府は間も無く国連とその関連機関によって調整される大規模な世界的救援活動に全力を投球せねばならないでしょう。 それは、「コモンズ」の意味がどのように解釈されようと、それを救出するための必要条件として理解され得ます。

このすべては、世界人権宣言第25条に長い間謳われてきたように、万人の基本的ニーズを充足するための十分な食糧、資金、物資があるという理解に基づき、一般公衆からの善意と認識の爆発にかかっています。[2] しかしながらその認識は、文明危機に基づいて第25条がすべての国で緊急に実現されない限りこの先人類は生存出来ないという理解から起こらねばならず、さらなる外国援助の要求に制限されるべきではありません。どのように直感的、無意識的にそれが感じられ実行されようと、すべてのコモンズの中で人類が最も貴重なコモンズなのだという認識を通してグローバル・パブリックは結束せねばならないと言えます。尊厳と自由の中で生活するための十分な手立てを一人残らず与えられるまで、コモンズが全世界によって認識され支持されることは決してないでしょう。従ってコモンズに関する限り、間も無く第25条の最終的達成は既成事実となるでしょう。

グローバル・コモンズがこの地球で形成している最初の徴として、そしてそれが真の霊的コモンズの意識が遂に万人に認識されている最初の徴として、飢餓緩和のための緊急プログラムがいつの日か見られるようになるかもしれません。従って、国際経済の大規模な再構築を通してのもっと公平な世界秩序のための提案に具体的に表されたようにウイリー・ブラントが実際に人類のコモンズの偉大な霊的ビジョンを開拓した時、1980年のブラント委員会報告がノースとサウスの間の単なる援助だけに関するものであったと考えるのは深刻な間違いです。それにもかかわらず、ブラント報告の霊的エッセンスは今日まで、最も洗練された経済学者にでさえいまだ誤解されているのです。悲しいかな、ブラントのビジョンに欠落していた唯一のものは、何百万人という人々のハートの認識でした − なぜなら、一個人のビジョンでなく唯一キリスト原理の膨大な放出だけが、世界資源を分かち合うための緊急プログラムをもたらせ得るからです。.[3] 一人のウイリー・ブラントでは十分でありませんでした:この私たちの人生の決戦に参加する何百万、何千万というウイリー・ブラントが必要とされるのです。

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分かち合いの原理とコモンズの復活との間には深い繋がりが存在します。それは、上記に要約されるように、大規模な市民参加のビジョンに基づき人類の大部分が蜂起しないことには実現不可能な繋がりです。私たちは、コモンズについて書くことが出来ます。私たちは、コモンズのために戦い、そして死ぬことさえ出来ますが、これから多くの角度から考察していくように、世界規模の心理的変革を通して第一に第25条が布告されない限り、それが主流の社会によって受け入れられることは決してないでしょう。まず、コモンズを十分に大きな規模で持続的に管理しようとするどのような試みも、個人の商業活動を守る法律と衝突することは避けられません – 既存の政府が、常に守り、公布している法律です。しかし一度、飢餓と大規模な極貧を緩和するための緊急プログラムを通して、国際レベルで分かち合いの原理が実現されるなら、ついで栄養価の高い食糧、きれいな水、高質の医療、適切な住居、社会保障、そしてその他すべての必需品を充足するために、これらの多くの法律が覆されねばならないでしょう。

世界人権宣言第25条を布告するのために私たちが提起した論議の中で探求されたように、万人の必需品を確保することは、特に多くの自由貿易協定や知的財産権における多国籍企業の遠大なパワーを削減するために無数の法律を改革することにかかっています。.[4] これらの巨大企業が、政府はもとより国連までをも支配する限り、何十億ドルに相等するビジネス契約を常に危機にさらすであろう、明白に実証済みの「商業化の法律」を覆すことに関して話すことは余りに単純で、実際的ではありません。従って、絶対的な貧困根絶を目指して資源を分かち合うためにハートが従事する大衆蜂起は、グローバル・コモンズの最大の前触れとなります。なぜならそれは、主に、資源を掴み取る搾取活動によって第25条の普遍的実現を妨げる企業に対して深遠な影響を持つであろうからです。それは、自己利益と合法化された窃盗の法律を根こそぎにする巨大地震のようであり、各個人の基本的な社会経済権利を保障するために(国内であろうと世界規模であろうと関係なく)公的資金を再分配する政府の行動を侵害する法律を無力にするでしょう。

ひとつの善意あるシンプルな目標のために膨大なデモンストレーションの中絶えず増大する、世界中で何千万人という人々が集まる事を想像してみて下さい。もしそれが、数週間、数ヶ月間、または数年間続くなら、大企業のロビー活動力など、強力な商業的利益を防御する分割的法律に永続的変革をもたらすことは確かです。政府が人々の声を援助するしか選択がなくなるであろうと同時に、商業化の遂行人と彼らの政治的会計士は、従事する市民の同調したパワーには完全にかなわないでしょう。同時に、自由と正義を支持する革新的ムーブメントは、自然環境を防御するために戦う多くのキャンペーナーや活動家とともに、かなりの援助を受けるでしょう。現時点で、生態学的に破壊的な多国間企業の活動に対する第一線の抗議デモにおいて明白に目撃されるように、これらすべてのムーブメントが商業化の法律と効果的に戦っています。環境的コモンズは、比喩的な意味で、抑制されない市場勢力の圧力による多大な痛みの中で徐々に窒息死させられており、そして、毎回の抗議デモの参加者が2、3千人に限られる限り、それは絶滅の時まで苦しみ続けるでしょう。[5]

しかしもし私たちが、政府を取り囲み街頭に戻り続ける無数の市民を心に描けるなら、その結果、経済変革が起こるだろうことを否定する余地はありません − 例えそのような断続的デモンストレーションが飢餓の道徳的屈辱を廃絶させることに主に基づいているとしてでもです。貧困が原因のさらなる無駄な死を防止する国際緊急援助プログラムに政府が全力を投球するそのプロセスにおいて、より良い世界創造への道に立ちはだかる勢力についての真実は、間も無く一般人にも明らかになるでしょう。多くの人々が問うでしょう:「それがもたらす素晴らしい変革のすべてを考慮すると、世界の富裕国はなぜ彼らの資源を遥か昔に分かち合わなかったのか?」そしてその答えは、政府が、優先項目を再調整してすべてが順当に運び、全経済部門で企業の力の威圧的影響を制限するようやむなくされるなら、今までにないほど一層明白になるでしょう。

第25条実現のためにすべての国で商業化の法律が徐々に改革される時、大企業が自然環境を汚染し破壊することを防止する新法律を作ることはより簡単になるでしょう。間も無くまた私たちは、まったく新しい種類の国家統治の出現をも目撃し始めるかもしれません。それは、主流派政治の暗黙のルールに従い企業利益や党派心に基づいた利益を守る代わりに、全市民の共通の福利に仕えるために政治領域に入る一般人によって必然的に特徴付けられます。人間の活動の全分野において商業化を促進する法律が分かち合いの原理を上回ることを考慮すると、政府間の経済的分かち合いのプロセスの融合から結果としてもたらされるであろう無限の可能性についてはどうかという疑問が残されます。以前の探求で詳しく考察したように、旧法が貪欲、分割、破壊を促進する機能を果たすこととは対照的に、分かち合いの原理に関連する姿勢や行動は全側面において結束、無害性、バランスを拡散する役割を果たします。[6]
 

従って、もし分かち合いの原理が商業化勢力と並行して正真正銘どうしても顕現され得ないなら、当然、コモンズの新法律が現れる前に社会の不公平な法律が変革されねばならないということになります。これら多くの法律が、より公平なグローバル経済システムが可能となる前に世界銀行及び国際通貨基金が変革または廃止されねばならないように、変革されるだけでなく完全に抹消されねばなりません。もしこの推論の方向性を最終結論まで追跡するなら、アメリカ合衆国を維持する大企業の根本的改革を、最終的に社会全体の心理的意識変革がどのようにもたらすであろうかを理解することさえ可能です。万人の最高の利益を守る新たな多国間システムを通して管理されたグローバル・コモンズを見通せる前に、「人類への愛と奉仕の帝国」へと変革されるべきアメリカ帝国の迫り来る解体の最初の徴をそれは確実に象徴するでしょう。そのような考えが現在のアメリカの外交政策及び反動主義的政権の中心に出現するかもしれないことがどのように突飛であろうと、あの偉大な国は十分な発達段階に達しており、正しい人間関係に基づいた、グローバル・コモンズのための新法律を開拓することによって、他国に道を示す最大の可能性を秘めているのです。

私たちは、第25条がこれらの新法律の前任者であり、人類の相互依存性及び一体性の意識をもたらすだろうグローバル・コモンズの最初の法律の一つだと考慮するかもしれません。象徴的に第25条の実現は、自己利益や分割を支持する「私」や「私のもの」への制限された意識に基づく古い法律の廃止の始まりの前兆となります。しかしコモンズの新法律は、「私たちのもの」または私たち全員のものに基づき、「個々から全体へ、そして全体から個々への愛情ある認識」から生じたものでなければなりません。そして現在の経済システムを維持する古い法律は、実際にはコモンズの存在を否定しているのです。古い法律と新法律の両方は共存出来ません。そしてそれは、コモンズの存在が私たちの意識の中で開花し始めるまで − 例え第25条完全な実現後何年かかろうと − 必然的に二者の間に摩擦をもたらすでしょう。

しかしながら、法廷で警察や裁判官によって施行されるような法律についてのみここで話しているのでなく、そのため、コモンズの新法律を定義付ける試みには幾分かの困難さがあります。意識的認識の拡大のための手引きまたは「ハートの法則」としてより良く述べられる、「法律」全体についての新しい理解が必要とされる、霊的革命に向かう社会の動きを心に描くよう努めることを常に思い出してください。処罰と償いに基づいた古い法律は、この先何代にも渡って必要とされ続けることは疑いありませんが、何百万というそれらの法律は、分かち合いの原理が人類の事柄の中で極めて重要な要素になると同時に自然に消滅するでしょう。それが個人の間で自由に定められたものであろうと、または公共及び民間部門を媒体として体系化されたプロセスであろうと、社会には分かち合いの表現への多くの段階があります。そして一定の期間後、それらの分かち合いの異なった表現方法の推進はコモンズの新法律が存在に至るまで妨げられるでしょう。

分かち合いの原理は全体的に統一性のある聡明な原理であるため、社会におけるその表現は明らかに、政府が社会を代表して定めることの出来ない、コモンズの法律を実現すべき公衆自体の統一した聡明な対応にかかっています − それは明らかに、「私の権利」や「これは私のもの」という思考設定を反映する、古い法律によって非常に条件付けられている今日政権の座にある政府が定めることは出来ません。従って、国々に対して普遍的に適応され上位から押し付けられた懲罰的措置としてでなく、霊的進化への人間の認識に基づいた本質的な法律として徐々に進化するコモンズの法律に従い始める前に、分かち合いの原理を通して必要とされる私たちの集団意識の拡大を想像して下さい。その結果、もはや人類は物質的な利益追求の中で自然環境を破壊することはなく、その不必要性は、平和で調和のとれた文明で生活するどのような市民にとっても目に見えて明らかでしょう。

明白であるべきことは、コモンズの新法律は、地球の資源がより公平に分配され第25条の達成及び永続がもたらされるまで、暗黙の同意を通して起こり得ないということです。これは、人間の自由意志が神聖不可侵な、そして多様性と平等が個々の社会の特徴であり国際的衝突がほぼ終結した、実に、人権や国家安全保証の概念さえが集団意識の中で正しい人間関係への拡大する認識に置き換えられた、誰一人飢えたまま置き去りにされることのない新しい世界秩序を心に描くことに努めねばならないことを意味します。最終的に、国連の庇護のもと不可欠な資源を分かち合う政府間のプロセスによって取って代わられねばならない − チャリティと外国援助の緩和策によって、もはや競争の激しい貿易と商業的自己利益に基づくことのないグローバル経済システムをもまた心に描かねばなりません。それは、未来の地球の生存を保証するために、分かち合い及び協力の必要性に国々が遂に目覚める時、この地球で初めての真のグローバル・コモンズの顕現として考慮されるかもしれません。

別の言い方をすると、分かち合いの原理を実現することによってのみ、より簡略化されバランスのとれた持続可能な経済システムを通して余剰資源を共同で蓄え再分配することをすべての政府が同意する、相互依存体としての人類の完全なビジョンを実現出来るのです。世界の共有資産の管理と再分配への決定的な権限を保持する新たな国連機関に主権の一部を移行する、国民国家のグローバル連合のある形態によって代表されるコモンズの最高法則として、これらの新しい経済的取り決めは考えられるかもしれません。世界政府の創設をここで思い描いているのではないので安心してください。しかしながら、地政学上の出来事の新パラダイムが各国独特の文化、伝統、そして自己決定への権利を本質的に尊重することは、例外的に必要不可欠です。天然資源の管理人として地球を分かち合うことに関しては、競争する左右の政党やイデオロギー的な分極化のない、グローバル政治をもまた心に描く必要があります。社会主義の教義は、人間の欲と分裂化の長年の危機から出現したかもしれませんが、その起源においてどれだけ意識が高潔であろうと下劣であろうと、もしすべての国が環境的限界内で万人の共通ニーズを充足するために協力するなら、そのような政治的主義へのどのような必要性があるというのでしょうか。

従って、分かち合いの原理は、特に世界の問題の内部の霊的側面を考慮する時、どの角度から見てもコモンズの救い主だということは事実上正しいと証明されるかもしれません。この論拠を要約すると、信託統治と協力に基づき経済的交換の新しいシステムを維持するために必要なグローバル意識を徐々にもたらすであろうものは、国内及び国家間での資源の分かち合いの初期プロセスです。世界資源の分かち合いを通して万人の利益のために多国が協力すればする程、さらなるコモンズへの認識が世界の一般市民の間で自然に拡大するでしょう。そしてそれは、コモンズの新たな法を最終的に支持するだろう拡大するその認識なのです − 権威的命令にむやみに追従するのではなく、人類の意識内の愛及び知恵の自然な表現なのです。

従って、コモンズの法則は実に「ハートの法則」として象徴的に理解出来ます:なぜならそれは、愛、知恵、そしてひとつの人類の意識を通してのみ、未来の再分配的な経済を支える新たな規則や機関を維持出来るからです。この点からグローバル・コモンズが、国連を通して協力的に取り組む国民国家の連合によって究極的に維持されると信じることは、霊的に正確ではありません。なぜなら、「国々の結束」の真の可能性は、万人のハートに宿っているからです。実際的思考でなく唯一直感的マインドだけが、ここにおいて私たちの助けになることが出来るのです。なぜなら私たちは皆、イデオロギーや主義に余りに条件付けられ誤り導かれているため、善意、信用、結束、慈悲心及びその他のハートの特質によって維持される社会での新たな生き方を理解することは極端に難しいからです。新たな経済秩序の基盤は、「道理」や「知性」として現在理解されているものによってでさえ維持されないでしょう:目覚めたハートはそれ自身の絶対的に信頼出来る論拠と聡明さを持ち、ハートの愛情ある認識によってそれは維持されねばならないと簡略に言えるでしょう。そしてハートの無限の聡明さは、この霊的に暗愚の時代を特徴付ける物質性及び分裂が原因で、その膨大さを殆どの人がまだ感知していない、すべての法則の中の法則である慈悲の法則に深く埋め込まれているのです。

この追求の方向性は、来るべき時代を特徴付けるかもしれない異なった種類の法及びグローバルガバナンスの様式について、この段階では過度に関心を持つ必要はないにしても、再生したコモンズの概念を促進することに人生を捧げる思想家にとって熱心な関心事であるべきです。もしこれまでに追求された論理的根拠に同意するなら、緊急の優先事項がどこにあるべきか、それによって将来どのように私たちの時間とエネルギーを使うべきかということが明らかになるでしょう。既に論じたように、一度何百万人という人々が、第25条に謳われた普遍的権利を中心とした終わりのない平和的デモンストレーションの中蜂起するなら、新たな形態の経済交流とコモンズの協力を支持するよう社会の全法律が必然的に発展するでしょう。

 

歓喜の霊的特質を解放する

考慮すべきもうひとつの重要な問題があります。それは、現代の理知的支持者が滅多に問うことのないように見えるコモンズの内部の側面についてさらに指摘します。それは、地球の住人の半分以上が十分な収入及び不可欠な資源へのアクセスのない生活に苦闘している時、環境的コモンズの維持という非常に重要な課題について大衆をどう教育すべきかということに関係します。尊厳、希望だけでなく自尊心までも剥奪されている人々に、自然環境を尊重することを期待するのは明らかに不可能ではないでしょうか。子供を養うのに必死な無学の男が、地球を救うことに関心を持つことはありません。特に、彼の乏しい生活の糧が地元のコモンズを略奪することに依存するなら。天然資源の枯渇や生態学的限界の超過など、この時代の大きなコモンズ関連の問題に無関心であり続ける比較的豊かな市民の大部分でさえ、社会の物質主義的条件付けによってマインドが拘置され続ける間は、世界変革の緊急性に目覚めることはないでしょう。実に、社会全体における条件付けは現在、商業化勢力によって操作され、コモンズの思想及び存在そのものに対して沈黙の戦争をもたらしています − 集団欲、無関心、そして現状に追従することを通して、私たち全員がその中で一役買っている戦争です。[7]

従って私たちは、上記と同じ方向性の追求に戻り、認識、ビジョン、愛を通して人類がコモンズを維持出来る方法を認めるべきでしょう。そしてここで再び、人類家族の最も貧しいメンバーへの公衆の認識が劇的に方向転換することの重要性を予知出来ます。なぜなら、唯一この方法によってのみ、全世界統一のために必要とされる内部の変革を開始出来るからです。利益と欲に推進される社会から生じた、蔓延するストレスや無関心を考慮すると、各国の何百万人という人々が今日、コモンズの抽象的、理論的概念を中心にして結束することは決してないと一層明確に言えるでしょう。しかしもし、結束した人々の声が第25条の到来を宣告し始めるなら、貧困者の群衆さえが参加するために集まるだろうあらゆる可能性があるのです。そして、すべてのコモンズの中で最も偉大なコモンズである人類について認識をもたらすだろうものが、これらの断続した世界的デモンストレーションの響きとエネルギーそのものなのです。そしてそれは、知的理解を通してだけでなく、歓喜に関連した霊的特質を通しても内部で経験出来る認識です。従って、全世界での止むことのない集まりの中、ハート経由で私心なしに動機付けられた抗議デモ活動の新形態を通して第一に実現されるように、パーソナリティが徐々に自己と他をコモンズとして理解することを学べる、この来るべき時代におけるグロープ・ワークが大変重要なのです。なぜなら、世界中の予防可能な人間の苦しみへの認識の中心において、この地球の一般市民の大部分の間でまだ目撃されたことのない種類の歓喜から生じる愛、創造性、ビジョンが、この主観的に結束したグループの全参加者によって感じられるだろうからです。

全人類にコモンズの認識を最終的にもたらすだろうは生きる歓喜です。それなくして地球の環境及び気候危機を回避する希望はありません。私たちはここで、一層捉えどころのない幸せを求める自己本位なパーソナリティの一時的な歓びのことでなく、個々の魂とのコンタクトから生じる、そして愛ある奉仕及び他人との霊的結束にその表現が見出される、歓喜の非二元論的な体験のことを言っているのです。けれども、尊厳ある生活のための必需品が欠如した無数の家族が、歓喜の霊的特質を感じ表現することは出来ません。それは、人類としてのコモンズの高度な意味を実現し始める以前に第25条を実現する第一の重要性を、再び是認します。国際資源の再分配の緊急プログラムを通して飢餓者と極貧者の世話をすることはそれ自体が、最も基本的な霊的定義の中でグローバル・コモンズを保護するまさに第一のムーブメントなのです。それはまた、ひとつの人類の認識へ向かっての集団意識拡大への第一ステップそのものでもあります。その意味で、国連を通して飢餓を根絶するための前例を見ない救援活動は、全人類のための新教育の始まりを象徴するでしょう。これは確実性を持って予測出来る事実です。なぜなら、私たちが世界資源を分かち合いあらゆるところに蔓延する絶対的貧困を遂に根絶する時、自動的に国家間に信用をもたらし、多種多様な方法、特に、ストレス削減と社会的分割の治癒を通して、驚くほど凄まじい歓喜を全世界に拡散するでしょう。そして、主に他人への適切な自己投影のやり方を通して世界的認識をコモンズへ開けるための鍵を握るのは、各社会への信用と歓喜の拡大です。

これを簡単な言葉で理解するために、短い休暇に行く時に人々が経験する楽しみ、そして個人の中にしばしば生じる周りへの善意と気配りの効果を良く考えて下さい。例えば、幸せや歓喜を感じていない人は、道にゴミを捨てないよう他に言うことはなさそうですが;歓喜を内部で感じている人はその道全体をコモンズと見なし、従ってそれを大切にする傾向にあります。これはつまらない例えであるかもしれませんが、私たちの周りのコモンズへの認識と愛のある配慮をもたらす、生きる喜びと理由そのものの間に存在する本質的繋がりを指し示すだけで十分でしょう。もし私たちが、直感を使ってこの日常の例をさらに拡張させるなら、それは、内部と外部のコモンズの間に存在する分離不可能な繋がりを指し示してさえいるため、歓喜を体験すること自体がなぜ意識拡大によるコモンズの教育形態なのかという理由を、指し示しているかもしれません。歓喜に溢れる人がどのようにより良くアイデアを理解、吸収することが出来、それゆえ外部のコモンズを分かち合い守ることの理論的正当性に注意を払うかもしれないことを、良く観察して下さい。しかし内部で絶望し、沈み込んでいる人は多くを理解出来ません。それは、私たちのような断片化された物質主義的社会では、人々がますます頑固になり危機的な世界情勢に対して無関心で無頓着になる傾向があることを意味します。ここに、環境危機のより深い原因があります。それは、コモンズが存在する事実に対してでさえの広範な無関心に根を張っています – それは、内部の観点から愛の欠如が原因であること以外何ものでもない古い心理的問題です。

従って、そのグローバル構造と資源分配の方法がもはや利益に基づくのでなくむしろ「愛に基づいた」または「常識に基づいた」新経済秩序を築く必要性を認識するという同じ点に、私たちのすべての追求は戻るのです。別の言い方をすると、内部の変革は外部の表現の新形態を支えねばなりません。それがなぜ私たちが、外部の環境コモンズの中で目撃される極端な不平等の悪化が破壊の根本的原因だと理解することから始めるべきなのかということです。実に、今まで説明されて来たように、世界再生の完全なプロセスをもし詳しく再考察するなら、人類を内部から外部へと変革するための答えを(聖なる原理としての)分かち合いがどのように握っていのるかということを、私たちはもっと明確に理解するかもしれません。何にもまして、世界市民の間に生きる喜びを生じさせるフォーミュラを明かし、最終的にさらなる無執着性を個々人にある程度までもたらすことの出来るのが、分かち合いの原則なのです。

このことについて注意深く考えてください。なぜなら、今日の殆どのコモンズ支持者が見過ごしているように見える、内的及び霊的無執着性の性質に計り知れない重要性があるからです。別の例を挙げると、企業のエグゼクティブまたは株主として、お金への内部の執着や、高い社会的地位を達成することへの利己主義的動機、そしてその他諸々が原因で、大きな利益をもたらす商業的活動を通して環境を破壊することに私は加担しているかもしれません。しかし、飢餓及び貧困からの不必要な苦しみを緩和する方向へと社会全体で人々のハートが大規模な心理社会的変革に従事する時、ついで億万長者でさえが飢えて貧困にあえぐ何百万人という人々に資源を再分配することに従事することが可能であり、そしてそれは富とその他の物質主義的利益の個人的追求からの解脱への予備段階をもたらすでしょう。最終的に、一度個人が物質的利益及び権力追求の全形態に対して感情的、霊的に無執着になるなら、ひいては彼を取り巻くすべてがコモンズとして無意識的に認識され、適切な方法で取り扱われるでしょう。

長期的展望におけるその影響は無限でしょう。なぜなら、もし私たちがコモンズの存在を人格化出来たなら、それは、もっと簡素に生活し持続不可能な大衆消費パターンを通して人間が地球に課している破壊への認識を持つよう、人類に乞うているだろうからです。分割され堕落した、商業化された現代社会の中で生活が複雑になればなるほど、一般的に、環境状態やコモンズについて人々が考えることは恐らくますますなくなるでしょう。従って、過度な欲や物質的必要性を持たず簡素に生きることは、世界規模でのハートの目覚めを必要とします。なぜなら、従事するハートはいつでも、歓喜、無執着性、無害性、そして正しい人間関係を通して簡素さを必要とするからです。これらの小さな発見において、無執着性がどのように全形態におけるコモンズの偉大な同盟者であるかということ、そして分かち合いの原理が、最も裕福な個人から最も恵まれない個人まで万人に影響を与えるだろう新しく発見された生きる歓びを通して、あの内部の無執着性をどのように集団にもたらすかということを、私たちには知覚し始めることが出来るだけです。

 

 

 

上記の一覧図に要約された世界変革の進展段階について熟考する時、生きている歓びを与える、何百万人もの人々の解放から生じる大変違った種類の教育が、世界資源の分かち合いの結果もたらされるだろうことが明確であるべきです。さらにそれは、国籍、経歴または社会的地位に関係なく、万人の利益になるであろう教育です。なぜなら、その源泉は人間のハートへの認識にあるからです − つまるところ、ひとつのハート、ひとつの人類があるのみです。そして歓喜、包括的意識及び愛を通して、人は対人関係と日常の活動の中で無害であるよう導かれます。他人への私心のない奉仕、そして顕現された世界の中及びそれを超越したところで生き進化する万物への敬愛を通して表現される無害性。個人に関する限り、この意識状態を実現するまで何世代をも経て生涯から生涯へと、どれだけ長くかかるかもしれなくとも、最も幅広い表れにおけるコモンズとの融和性によってもまた特徴付けられる無害性。そして、人生の全分野のすべての人によって共同で表された無害を通して、コモンズの法が社会経済情勢を統制し始めるまで意識は拡大し得るのです。恐らくそれが、国家間の戦争の勃発が、そして戦争の概念自体さえが − そのような時代をもし敢えて予測するなら、自然になくなろう時なのです。

普遍的意味における分かち合いのさらに高度な解釈から、この永遠の神聖なる原理は、歓喜と密接に関連した振動を持つと言えるかもしれません。そしてそれが、人間のこの危険な進化段階において、国際レベルから下方に向かって資源を分かち合うことによる効果です。生きる喜びが、後に活気ある世界の奉仕に従事する何百万人もの人々のパーソナリティを通して、魂がその目的をさらに容易に遂行出来るようにするでしょう。キリスト原理は、正しい関係において個人のハートを通して表現されるように、神聖な分かち合いの原理が地球の生活の経済的基盤とならない限り、最大限に機能出来ないのです。それまでは、全体としての人類の意識は、無知とビジョンの欠落を通して事実上阻害されたままなのです。結果としてコモンズが、現代を特徴付ける貪欲、利己主義、分割のど真ん中で認識され受け入れられる希望はありません。しかし世界の資源がすべての国の間で公平に分かち合われる時、その結果、コモンズがどのように人類の意識内で育ち始め、人間の意識の拡大に構造と安定を与えるかを私たちは目撃するでしょう。それが、コモンズのより高次の意味が私たちのマインド内で徐々に発達し始め、そして美に結びついたそのより霊的な重要性を私たちが再発見することを可能にするだろう時なのです – それは、生きる歓びが惑星規模で万人の中に表現される時にのみ見出され、真に理解され得る美なのです。従って私たちは、出発地点における前提に再び戻っていることを発見するのです。なぜなら真実は常に、それ自体に帰るからです。

 

「主義」と知性の危険性

分かち合いと歓喜が既に人間の活動の主眼でない限り、なぜ全世界の人々に向けてコモンズの意識を広げられないのか私たちが把握することを、これらの考察が可能にするかもしれません。そのような終局の可能性なくして、コモンズの変革的ビジョンの促進は学術的訓練として残り得るだけであり、人類そのものと同じくらい古いこの概念の現代の支持者に、さらなる挑戦だけでなく危険さえもたらすでしょう。今日、コモンズについての執筆を通して、自由を事実上知的化しようとする学術的思想家がいますが、真実を司るよう人間を導いた悪魔についての格言を忘れないようにしましょう。[8]この意味で、物質的または霊的側面のどちらもにおいてもコモンズの専門家などというものはあり得ません。なぜなら、唯一人間のハートだけが、私たち全員に沈黙して宿る、そのような「専門家」または権威者だからです。実に、ハートを従事させずに知的化するということは、言葉では言い表すことの出来ない、無限の霊的存在であるコモンズを常に誤解しているということです。そしてコモンズは人生の霊的現実の最高の表現であり、そしてそれがなぜ、知的化された概念や唯のアイデアとしてコモンズを要約出来ないのかということなのです。

すなわち、コモンズを唯一学術用語で概念化するということは、私たちが表現しようとしている意識が人類の内部結束に関係していることを考慮すると、誤り導かれているというだけでなく誤解をも招くことです。結局のところ、街頭でゴミを掃く男は1日の終わりに家へ帰ります。それは、家族という彼のコモンズの形態です。そして彼自身が、コモンズの総体的意味について教えるべき人なのです。なぜなら彼もまた、全体の、あるいは間もなく人口100億人を突破するかもしれない人類という、より大きなコモンズの不可欠な一部だからです。[9] 意識の心理的変革への事前の必要性について先に考察されたことがもし同様に真実なら、ひいてはコモンズが必要とするものについての普遍的理解は、最終的に予期不可能な形で表現されるでしょう。その表現は、以前のように現代の主唱者の知的思想及び学説通りに正面玄関からやって来ることはないでしょう。むしろそれは、世界資源の分かち合いに賛同する結束した人々の声によって表現された、違った種類のエネルギーと知覚を持って裏口から現れるでしょう。

社会の外部のコモンズと環境がどのように保護され再活性化されるべきかについて多くを示唆する、人類が最も偉大なコモンズであるという本質的な前提を、残念ながら今日多くのコモンズ提唱者が見過ごしています。コモンズを知的化する人々もいるほどで、ファッショナブルなクラブメンバーとして自己をみなす新しい従者の群れが生まれ出たかのように、共有資源生産及び管理の代替的形態に参加する人々を指名するために、「コモナー」というフレーズを作り出したくらいです。同じ排他性の問題が、今日の分かち合い経済の限られた概念に当てはまります。企業家的考えの利益でなく生きとし生けるものすべての利益が思考の基盤とならない限り、それはビジョンとして霊的に無意味なのです。[10] コモンズに関するアイデアや理論は、その学術的解釈において高度な知的優秀性を有するものですが、それらはなお、通常のマインドの条件付けの問題、大部分が人生への感情的姿勢や霊的意識の欠乏にさらされやすい傾向にあります。その結果、コモンズのすべての美と真実に新たなレッテルが貼られ、また別の「主義」にされがちなのです。

この現在の進化段階においてどのように人類が主義の工場のようになってしまったか、そして観念を主義に変換するのを好む人は、人類そのものを観念として見ることに長けているという所見を以前私たちは述べました。明らかに、飢えから死にかけている人は観念ではありません;しかしながらもし私たちが自己をコモナー(コモンズ主義者)と呼ぶなら、ついで無数の貧困者が「ハンガラー(飢餓主義者)」として分類され得ると知的化するのも当然かもしれません。[11] オーストラリアのアボリジニやアメリカの多くの先住民のような、歴史家に知られたいわゆる原始的な人間文化でさえ、より偉大な人類のコモンズについて明瞭な理解を持っていましたが、それでもなお、「あるがままのすべて」についての共有意識を知的化する必要を持ちませんでした。内部と外部の現実の間の関係についての彼らの理解は、人々と自然を「主義-化」することが余りに普通になっているため自己に対しても主義を押し付けている今日のコモナーからかけ離れていました。それがどのように霊的に無意味で誤り導かれているか、そしてその結果、何にレッテルを貼っているのかということについての意識がなく、知的概念化を通して自己を制限しているのだということを、私たちには知覚出来るでしょうか。

従って、コモンズを理論化する時、私たちの考えは、マインドの条件付けと幻惑的な信念の問題を含んだ、人類を苦しめる、霊的により深い実存的危機から切り離されるべきでありません。なぜなら、世界中のイデオロギー的宗教団体もまた、結果の良し悪しに関係なく、コモンズや彼らが信じるもののために戦っているからです。コモンズの初期の印象は万人のマインドに無意識的に埋め込まれており、多くの人々は、「私の権利」、「私の信念」、「私の人々(マイ・ピープル)」などの言葉で彼らが理解するそのコモンズの表現を、すべての種類の「主義」を通して歪曲した熱狂的やり方で求めています。例えば、もし私が神を愛しているなら、私の神への愛は私のコモンズへの認識の一部です。しかしもし私が独断的に考え、あなたにキリスト教、ヒンズー教、ユダヤ教、またはイスラム教的神についての概念を崇拝しているかと尋ねるなら、私の神への愛または内部のコモンズは根本的に排他的で歪曲しているのです。ここで再度繰り返すと、学術的分析においてコモンズは宗教とは大変異なった性質を持つかもしれませんが、いくら動機となる考えが高貴で善意的であろうと、この昔ながらの分割思考の泥沼の一部としてコモナーは残るのです。これは、「相変わらずまたか」のシナリオです。なぜなら人間は、彼の考え方と霊的現実への限られた知覚の中に常に自己を拘置しているからです。まさに自己をコモナーと呼ぶことにより、マインドがつくった牢獄に自己を拘束しその中にコモンズの最高の霊的理解を自己と一緒に閉じ込めているのです。従って私たちは他を誤り導くだけでなく、愛情溢れる霊的認識の概念を「コモンズ主義」などと称されるかもしれない罠に嵌めることによって自己をも誤り導いているのです。

このどれもが今日私たちの共通遺産を分かち合うための政策及び実践についての貴重な理論的洞察を提供した、今は亡きエリノア・オストロムやその他多数の銘記されるべきコモンズの学者による取り組みの研究成果を過小評価しているのではありません。それにもかかわらず、今言及したように、マインドの条件付けの問題がこの包括的分野を途方もなく複雑な問題にしていますが、それは以下の要因によってさらに複雑化されます:

  • 世界資源を分かち合い外部のコモンズを保護するために協力することの必要性に対する一般的な無知を大衆にもたらす、霊的認識及び正しい人間関係に基づいた教育の欠如。
  • 何千年もの間、正しい人間関係の表現を阻害して来たという以外説明は不要な、あらゆるところに蔓延る振る舞いの動機となる貪欲。
  • 主に自己との関係における愛の欠如。なぜなら、唯一「内部」への愛がある時のみ、私たちは愛し「外部」を崇敬出来るからです。
  • ビジョンの欠如、無関心、混乱をもたらす愛の欠如。危険な世界情勢と外部のコモンズ劣化の全問題は、政治的、宗教的、文化的信条に関係なく、皆を苦しめる混乱によって特徴付けられます。

これらのより心理的な「内部へ」の考慮は、コモンズの現在の概念がもし、人間と自然の間に霊的進化があたかも存在しないかのごとく「外部の」環境問題に過度に固執したままでいるとしたら、それがどのように極端に制限されるかということを強調するのに役立つかもしれません。美しい空を見上げる時、それは私の内面に作用します;従って明らかに、外部の世界と関係のある内部のコモンズが存在します。双方が相互依存しており、そしてもし人類が現在の愛を欠いた貪欲と精神的盲目の道を進み続けるなら、明らかにその結果、自然環境及び大気に大惨事的影響をもたらすでしょう。従ってコモンズの提唱者は、展望ある思考過程においてより包括的であること、少なくとも極度の飢餓と貧困が、深まる環境危機の中心でありその解決において不可欠な要素として残ることを認識するよう求められます。[12] この理解なくしては、環境の回復及び維持のためのどのような提案も、手順が逆だということです。それはまるで、家族が家で待っているにもかかわらず、その家族をコモナーが探し回っているかのようです;この場合、それは人類の内部と外部の問題はお互いが決して分離したものではなかったことを意味します。まさに環境運動家が、多くの場合、分析や提案において「貧困」や「飢餓」という言葉に言及することを怠るように、コモナーもしばしば内部の自己の不可欠な重要性に言及するどころか想像することさえ出来ないのです。

勿論、外部のみに集中することに何も悪いところはありませんが、人類の平和で持続可能な暮らしのために必要なすべてを正しく分かち合う、より良い世界をどうもたらすかということへの答えをそれは決して提供しないでしょう。私たちのあからさまに不平等な社会状況の下で、コモンズを管理する真に民主的方法を組織立て出来ると仮定したとしても、私たちの提案を無視し、私たちが献身的に築いて来たものを台無しにしようとする何百万人という人々がいます。それが、左翼と右翼、革新派と保守派の思考設定の間の戦いの性質であり、その歴史は限りなく繰り返し続けるのです。そしてそれが、大衆を通して社会的分割と混乱を永続させ、不変の結果をもたらし衝突し続けるイデオロギーを持つ、政治家の間での不変の戦いなのです。実に、自称コモナーには、生涯から生涯へと私たち全員を条件付ける分極した思考と主義を維持することにおいて平等に責任があります。なぜなら、コモナーもまたこの時代の混乱によって盲目にされ、人生の理解において真の霊的基盤のない社会で私たちのように生活しているからです。従って、社会的組織化の外部様式の中で目標の統一性がないのです。

おおよそすべての政治的思想家と活動家は、外部または唯一外部のみに集中し続けています。それは集団錯覚を通して私たちを断片化し混乱させます。それにもかかわらず、近代史における内部のコモンズの最も偉大な主唱者の中の一民族、すなわち、ネイティブ・アメリカン・インディアンと直接的関連を持つコモンズの学識分野にアイロニーがあるのです。それでもなお、私たちはこの二者の間の繋がりを見い出せず、外部のコモンズへの崇敬が、霊的進化におけるひとつの生命への内部の認識、何よりも万物への慈悲心にどう関係しているかを観察しないのです。とはいえ、私たち全員が観念に追従し、他者に追従し、そして社会的認識と外部からの受容を欲している時、世界問題の内部の側面を見過ごしているとコモナーだけを責めることは出来ません。私たち全員が、知的議論の一般に認められた限界に従うよう条件付けられています。特に、何年もの従来の学術的訓練を通して、それらの議論の暗黙のルールの中で訓練された後は。従って、私たちは内部のコモンズを経験から自覚的に理解しているのでなく、知的に頭で理解しているのです。そして、何千年もの間社会を分割されたままにして来た主義を、定着した考えに服従することによって維持している責任が幾分私たち全員にあるのです。そうして私たちはコモナーでなく追従者となるのです。なぜなら、霊的認識の中で生き動く真のコモナーは − もし彼らをそのように定義付けることが出来るなら − 元来、自己をコモナーとして装うことは決してないだろうからです。

明確にすると、コモンズの分野での拡大する研究や行動主義はこの時代の最も希望ある発展であり、代替的な社会経済パラダイムに分かち合いの原理をどのように融合させるかという主導的な政治的議論を構成することは、おおよそ間違いありません。この点で、コモンズ学者の研究は価値があり強い励みになりますが、私たちが探求しようとしているのは、愛のある配慮と「あるがままのもの」への霊的知覚を持って、この地球でどう生きるべきかを理解することの知恵に関するものであり、それが彼らの分析と提案に欠如した部分なのです。なぜなら、この地球で愛され、育まれ、保護されるべきすべてについての概念化の中に全人類が包括されない限り、霊的観点から「あるがままのもの」への総体的な理解はあらず、そして永遠の聖なる現実及び生命そのもののエッセンスとしてのコモンズへの理解はないからです。これは、私たちが何度も繰り返す単純な見解のように聞こえるかもしれませんが、実際には、もし誰かがコモンズのより深遠な霊的意味や重要性を把握するつもりなら、その個人の中で相当な無執着性が表現される必要があります。すなわち、世界資源を分かち合うことが、どのように地球のコモンズの全形態を維持するための唯一の解決策であるかを把握するために、それは、私たちの個人主義的追求や物質主義的欲望に対する無執着性だけでなく、信念、イデオロギー及び社会的条件付けに対しての無執着性をも必要とします。実に、追求の始めから私たちが主張して来たように、コモンズと分かち合いの原理の間には意味深い類似性がありますが、それでもこの真実への理解が、どのような信念のシステムにもマインドが作り出した主義の中にも見出されることはありません。従って、どのように矛盾して見えようと、コモンズの存在を二種類の異なった方法で考える必要があります:第一は、外部の世界で促進し守るべき現代的概念として。第二は、イデオロギー及び主義そのものに対しての相当な無執着なくしては理解され得ない永遠の霊的現実として。

私たちの社会にはストレスとイデオロギー的分裂が蔓延しているため、コモンズ・ムーブメントの参加者が彼らのアイデアをしばしば「主義化」するよう導かれるのはある程度理解出来ます。しかしコモンズを主義化することさえが、風土病的衝突とこの時代の混乱の中でイデオロギー的思考の派閥を生み出す、主義の分裂及びストレスの一部となることなのです。もし私たちが、大部分が利益追求に基づく社会に住むなら、ひいてはその優勢的動向に対立するどのようなアイデアも、心理的には戦争を求めているということ以外の他に何も考えられないのです。そしてそれにもかかわらず、コモンズの霊的意味は決してアイデアから生じたのでなく;それは愛以外から生じたことはありませんでした。この観点から、個々を全体へ、そして全体を個々へと本質的に関連させる愛ある認識として私たちが述べた、コモンズの本来の定義を新たに熟考してみましょう。なぜなら、魂とその目的についての認識ある理解に基づいた、広く行き渡った内部の自己への一般的認識なくしては、社会政治における主義の大混乱にのみ込まれない世界を創造出来ないからです。本来、霊的進化の大計画及び人類に仕える目的の中で人間の魂は実証可能な方法で存在し、それが物質次元で作り出すそれ自体の反映が人間の全てだと悲しくも私たちは思い込んでいます。その結果、この惑星で物質主義的執着を放棄し無私無欲で他に仕える代わりに自己と地球を消費する人類の傾向が原因で、私たちのパーソナリティはその基本的な霊的責任のすべての面において行き詰まっているのです。

これら事前の所見は不朽の知恵の教えの基礎として考慮されるかもしれませんが、[13]  コモンズがもしその最高の霊的ビジョンと並行して顕現するとしたら、それらはより広範な人々にとって不可欠な認識です − それは、あなたが思い出すだろうように、霊的進化というひとつの目標のために全人類が存在しそしてその目標は霊的進化だということを意味します。従って、人類の霊的及び心理的発達の促進のために有益な道具としてコモンズを考慮出来、この先何年にも渡って多くの予測不可能な形で導入されるかもしれない新教育の不可欠な部分をそれは形成します。しかしながらその新教育は、前述の予想に沿って、不可欠な資源の再分配及び第25条の普遍的実現を通して信用と多くの生きる喜びをもたらすことによってのみ開始され得ます。その一方で、もし私たちがコモンズを人格化出来たなら、それは余りに酷い痛みと苦痛を被っているため、話すこともその存在自体を主張することも出来ないでしょう。そしてそれゆえ、内部のない外部、中身のない形態を維持することは出来ないのだと人類が認識しない限り、この状況は存続し着々と悪化するでしょう。そして認識は、霊的知覚と認識の観点からコモンズが実際何を意味するのかについての理解を全世界にもたらす新たな教育を最終的に要求します。

 
 

コモンズ主導型教育

従って、コモンズを維持する新たな経済及び社会をもたらすことは、利益主導型の企てにおける多国籍企業の略奪を止めることよりさらに多くを必要とします;それは、霊性、創造性、調和、そして正しい関係に向けて人類の進化プログレスを維持出来る、最も幅広い意味での教育及び認識にもまた関係しています。人間のマインドの認識から元来コモンズがどのように生まれたか、そして異なった文化においてそれがどのようにある程度の理解レベルを持って常に人間の意識に内在し、世界がより統一、融合されると同時に、それがどのように惑星的アイデアへと徐々に進展して来たかを私たちは詳しく考察して来ました。しかしながら、これまでずっと私欲や自己利益が政治経済の分野における現代生活の支配的原理となって来たため、人間の進歩過程はますます危険な方向へ向かって悪化しています。

しかし、最も初期の世代から受け継がれて来た、私たちの教育を含んだ、若者たちの学校教育と条件付けにおける教育様式の方針が間違っていなかったのなら、この事態の根本的理由は何でしょうか。私たちは人文科学、芸術、科学の基礎のすべてを正しく教育されて来たかもしれませんが、私たちの内部の態度と動機の性質を決定する部分、とりわけ、お互いと周りの世界への愛はどこにあるのでしょうか。他人の目から見て「偉い人(成功者)」になることを欲するよう個人を条件付ける、富及び社会的地位の追求を成功と同一視する最も進んだ資本主義社会において特に、何よりもまず外部の認識と成功を達成するようどのように若者が駆り立てられるかを私たちは観察しました。そしてさらには、外部のコモンズへの認識を妨げる要因の中で主要なこれらの根底にある動機は、コモンズを維持することへの広範囲に渡る無関心はもとよりそれが存在するという事実への認識の欠如及び無知までもを多くの場合もたらしているのです。

従って、すべての国でコモンズの包括的な意味が緊急事項として学校のカリキュラムに導入されることは不可欠です。そうすることによって、「商業化パラダイム」関連の問題に多くの角度から取り組むことが可能となります。なぜなら、霊的に動機付けられた正しい教育は、過去何十年かに渡って競争の激しい利益主導型社会を決定して来た個人主義的価値観への矯正手段だからです。[14]コモンズについての包括的な理解は、そのような新教育の不可欠な構成要素であり、生来のコモンズへの意識が幼児期の心理的発達の自然な一部であることを念頭におくと、幼児期から子供たちの中に養われるものかもしれません。 [15]外部のコモンズである社会及び自然双方とすべての若者が本能的に持つ特別な関係に基づいた付加的学習の一部門が、教育開始時から学校プログラムに必要になることが一般的に予測可能であるにしても、最終的にこの新教育がどのような形態や構造になるかは予測不可能かもしれません。従ってそれは、以前定義付けられたように、善意と「個々から全体への愛ある認識」に基づいた崇敬のあるところの、私たちが他人及び世界の文化と持つ関係へのさらに包括的な見解を必要とするでしょう。これはまた、多くの化学的、学術的調査の中で着実に明らかにされている事実、人間の善意及び協力への本質的傾向についての基本的教えをも必要とします。さらに、再び権限を与えられた国連総会を通しての政治経済情勢の管理に計り知れない結果をもたらし得るところの、霊的そして客観的に人類は相互依存するひとつの体であるという事実についての初歩的研究が必要とされるかもしれません。

これらすべてのトピックが従来の意味において研究され、わかりやすい授業に変換されることが可能ですが、大人や子供の内部の自己に達するために、事実と現象の学習を遥かに越えた教授法を必要とする内部のコモンズに関しての学校教育を確立する必要性もがまた考慮されねばなりません。この点で、ルドルフ・シュタイナー、マリア・モンテッソーリの教育哲学や、精神的・社会的発達過程の中で子供を導く多数の伝統的な仏教方式からでさえ多くが引き出され得ますが、私たちの将来のための考慮はもう一段階進まねばなりません。そしてまた、基盤が宗教的であろうと非宗教的であろうと、世界の様々な地域ですべての学校プログラムの時間割の一部として取り入れられるであろう、不朽の知恵の教えの研究をも心に描かねばなりません。従って時間の経過とともに、魂の存在への認識に個人を最終的に導くことの出来る教育への全く新しいアプローチの必要性が予測されます。そのような認識は、魂のメカニズムと目的の実際的知識に必然的に基づいているかもしれませんが、それはまた、存在のすべてはひとつの生命の一部として分割不可能であり、相互連結していることを意味する、人間は生命だという現実として、主観的または内部で経験されるかもしれません。従って、偉大な原因と結果の法則の中での無害さ及び正しい人間関係の実践と並んで、瞑想の実践は内部のコモンズの経験的現実を明らかにすることを求める教育の中心なのです。

学習の新形態及び未来の様式は、エリート大学の最も特権階級の学生さえが(間接的にではありながら)他人と地球に危害を加えるようしばしば育成されるところの現在の教育方式とは完全に異なることがこの時点で明らかであるべきです。機能不全社会の中での富と成功の追求が、分割的、搾取的、持続不可能なグローバル経済から起こったすべての危害の基盤であることを考えると、確実に、この明らかな現実を自己で観察出来ます。[16] しかしながら現状永続に対して、社会でいわゆる「良い教育を受けた」殆どの個人になぜ責任があるのかという理由は、認識されない不変の事実に帰すことが出来ます:内部のコモンズの研究と養成が、主流教育制度の中でまだ確立されていないということです。

この発言の有効性を理解することは、学校に瞑想の正しい実践を導入する緊急の必要性への認識をもたらします。なぜなら、平均的人間に大変な機能不全をもたらしたのは外部の社会の機能不全だからです。実に、私たちの多くは、日常一人で静かに腰掛け自己がその一部である聖なる根源との無言の交流の中で平和に浸ることすら出来ない程です。国家間や政府間だけでなく、私たち自身の家族及びコミュニティ内の全レベルでの人間関係を特徴付ける、混乱と紛争を内部で再現する、すなわち、外部が内部を乗っ取っている状態です。これが、制御されない思考プロセスの動きから執着を断ち全思考の裏に存在する「私」への静かな反映を通して、自己の実態の真の性質を理解することがなぜ殆どの人にとって難しいかを説明しています。絶えず気を散漫させ、心配が絶えない多忙な現代生活は、大多数の人々が多くの場合、内部の自己の変革的意識にアクセス出来ないまま全人生を過ごすかたわら、比較的少数の人のみが日々の瞑想の実践に努力を費やしていることを意味します ー それは、「内部」が殆どなくなってしまうまで、私たちの内部の平和を奪います。従って、もしこのような言い方が可能なら、内部を外部から守るための基本的手立てを子供たちが受けれるように、瞑想を幼少時から学校に取り入れることは最重要です。そうすることによって、大人に成長すると同時に、在ることと成ることの違いを理解するようすべての子供を備えるのではないでしょうか。

新教育の発展は、非常に段階的なプロセスになりそうだということをもう一度強調せねばなりません。そして分かち合いの原理がグローバル経済活動の基盤として確固として確立されるまで、それが加速することは決してないでしょう。私たちの見積もりによると、グローバル政策策定及び地政学において経済的分かち合いの反対が主流である限り、コモンズの愛ある認識を世界規模でもたらすことは実現不可能なままでしょう。手を付けることの出来るコモンズの資源はすべて、とりわけ土地とその収穫は、分割し、独占し、そしてそれから利益を上げることに人類はなんとか成功して来ました。もし、大気全体を写像し、株式市場でその各立法メートルに価格付け出来る新技術のようなものを発明する機会があったなら、多国間企業がそのために競い合うだろうことは確実です。従って最終的に人類がその誤ったあり方を変え、分かち合う必要を受け入れる以前に、コモンズの最高の意味を教えるさらに霊的な教育を広げる可能性があるのでしょうか。国家が経済的分かち合いを通して正しい関係を実際に行動で示し始めるその時、そして世界が飢餓を根絶し、平和の真の意味を実現し始めるその時 − それが、人類はひとつだという意識の育成を促進する、新しい教育様式に反映されるように、コモンズが自然に顕現し急成長する時なのです。

例えば、アフリカやアジアが西ヨーロッパより劣っていると考えるかわりに、皆が訪問し自分たち共通の故郷として考える権利を持つ「私たちの」アフリカ、「私たちの」アジア、そして「私たちの」ヨーロッパとして考える、後に浮上するだろう拡大した意識が示唆され得るのみです。人間の意識における内部の変革を想像するよう試みることは大切です。なぜなら、パスポート所持の必要性でさえが、愛のある理解と認識を持ってコモンズの真の意味及び重要性を知覚することを私たちから拒んでいるからです。この認識に加えて魂の存在についての認識、そして各国が魂を持ち、それぞれの運命に沿って進化する霊的目的を持っているという事実があり、ついで自然環境のコモンズを分かち合い、保護する重要性を知覚するかたわら、他国の伝統及び習慣に敬意を払うことを国民に期待するのは自然なことです。そうなるまでは、すべての国で内部のコモンズが学校のカリキュラムに導入され、すべての子どもが静かなマインドを身につけ、無執着を通して無害な態度を発達させることの出来る現在未知の種類の自己知識、霊的聡明さ、そして知恵のある成人へと十分成長するのを見通すことは出来ないでしょう。

現在のところ、これらの希望的展望は表面上のジレンマをもたらします。なぜなら、即急にコモンズが学校で研究されるべきだという主張が正しいかたわら、その他の角度から私たちの基本的根拠をもまた詳細に論じたからです:それは、分かち合いの原理が世界情勢に確固として確立されるまで、コモンズのその最高の霊的側面が全人類によって理解されることは不可能だということです。それゆえ現在、もし認識ある教師が地球の生存のために分かち合うことの必要性へと生徒を導くことに集中するなら、それはより賢明で現実的なことかもしれません。私たちの集団的問題の解決策として、分かち合いと協力の重要性を知覚するよう若者たちを促すことによって、周りのすべてを(その認識が意識的または無意識的であろうと)コモンズとして考えるよう彼らのマインドのイマジネーションの口火を切り、総合的に分かち合いの本質的意味が無害性、愛のある配慮及び全体への認識だと思い起こさせることは可能です。もしすべての年代の人々が、クラスルーム、仕事場、家、コミュニティの中でこの素晴らしい文明的話し合いに参加し始めるなら、ひいては新時代の始まりに分かち合いが人類にとって何を意味するかについての新たに発見された意識を通して、教育様式がどのように迅速に拡大し始めるかを私たちは目撃するでしょう。従って、それが人間の進展過程を持続可能な軌道に方向転換する唯一の希望を代表するため、私たちの論理的思考は必然的に再び同じところへ戻ります:それは、止むことのない抗議デモ活動を通して第25条を布告し、そして世界の資源を分かち合うことを国連に皆で要求する何百万人もの人々というビジョンです。

 

内部のコモンズを探求する

この追求段階までに恐らく読者は、コモンズが多くの側面を持った極度に広大な分野であることに納得したのではないでしょうか。そして、私たちはこの研究分野の内部または霊的側面に最も集中すべきなのです。この探求は、全体の利益を支持する天与の霊的教育としてコモンズを述べることからは始まりました。従ってこの異なった教育形態が、どのように認識と自己知識の成長を通して生じるかもしれないかについてもっと詳細に見てみましょう。実に、自己との関係、そして自己の世界との関係を理解する努力なくして内部のコモンズが何を意味するのか真に理解することは出来ません。自己の真の正体を象徴する「私」及び内部の自己の観点から外部の環境や社会を詳細に考察することを通してさらに高度なコモンズの性質を明らかにする中で、私たちはわずかを達成出来るにすぎません。しかしもし私たちが自己の存在の内部の世界へと深く掘り下げるなら、意識の霊的進化に内在する人類の永遠のコモンズを実際に知覚し知り始めることが出来るのです。

従って、私たちが想定した真実を各々で経験することは可能であり、その中でコモンズは、個人を知恵に近づけることの出来る神聖な概念です。このようにコモンズについて熟考する行為さえが、それを認識するしないは別として、ひとつの知恵の表れなのです。宇宙空間から地球の美について思案する宇宙飛行士を思い浮かべてください。そしてついで、人間の無謀な傲慢さと分離感がもたらした破壊から、私たちの弱った惑星を治癒する緊急の必要性を感知してください。私たちの美しい世界についての総合的理解は外部のコモンズに対する認識ですが、それが個人の中でつくり出す、高揚し慈悲に溢れた感覚は、人類全体の内部のコモンズに対する認識を意味します。自己の中の生命と創造のミステリーの深遠な偉大さを感じるかたわら、そのミステリーを受け入れることが出来る限り、夜、静かな意識で星について思案することだけでも、内部及び外部双方のコモンズを知覚するということなのです。

このように、コモンズの最高の意味は内側に向けてそれ自体を反映しますが、その認識は各個人に潜在する霊的意識の目覚めに依存し(左右され、かかってい)ます。これは、転生を通して個人が魂として自己の性質の現実を経験的に理解出来るように、内部の自己に対しての認識を高める正しく実践された瞑想の必要をさらに浮き彫りにします。一個人の内部の自己は最も基本的なコモンズであり、そして霊的進化の無限のプロセスは、存在するコモンズの全基盤だと言えるかもしれません。内部の自己の平和なひとりの空間の中に住むことは、あなたが持って生まれたコモンズであり、それはあなたの中に永遠にあり続けるでしょう。さらに、新生児を腕に抱くことは、全創造の中で愛のエネルギーの動きを見守ることに類似します。それは、不朽の知恵への認識に基づき、あなたが魂の存在とその目的について意識的である場合には特にそうです。結局のところあなたが見守っているのは、母親に完全に依存するただの無力な赤ん坊ではなく、その初期段階の個性の中に人生自体の意味と目的を秘めた魂という媒体(道具)なのです。従って、私たちが霊的に誰であるのかをもまたコモンズは反映していると言えるでしょう − それは、宇宙の全生命の根底にある絶対意識との一体化及びより偉大な完全さに向かって永遠に前進する不死の神聖な存在なのです。

従って根源的コモンズは、ひとつの短い生涯に渡って私が集団的に分かち合って来た土地やその他の物質的な資源ではありません;それは私の魂のコモンズであり、数え切れない転生を経てひとつの生命の中での意識の成長を通して、物質次元において私が進化することを可能にするそれなのです。実際には、真のコモンズと人類の霊的進化はおおよそ同一のものです。そして現在の人間の理不尽な発展段階において、この真実を理解することがこれ以上重要で意味深かったことはありません。真の「コモンズの悲劇」はその性質において、物質的でなくむしろ霊的だとさえ言えます − なぜならそれは、なぜ他人と地球への愛のある配慮がそれほど欠落し人間の聡明さが金の子牛の像への崇拝を通して退廃したのかというより深い理由に関係するからです。従って、この追求を通して探求され上記の一覧図に示されたように、世界変革の外部の側面の背後にあるものは再度強調され順当に留意されるべきです。なぜなら、今考察された多くの心理的及び霊的要素のすべてが解明された後、私たちが辿り着くのは魂の科学以外他にないからです。従って、21世紀の人間のマインドには現時点でまだ想像もつかない段階に達するだろう、無限の霊的進化段階を通して断続する個人意識の拡大の点から容易に理解されるように、コモンズの内部の側面もまた自己の覚りの術と同一のものと考えられるかもしれません。

グループの観点からもまた、内部のコモンズは国家意識の美及び創造に関係します。そしてその理解から内部のコモンズの意味を各国の資質と特徴を司る「魂の振動」として述べることが出来ます。それゆえ、霊的現実としてのコモンズの表現は、一個人やその個人の魂としての存在の美に関係するだけでなく;それはまた世界のすべての国の間の正しい関係への段階的取り組みを通して明らかにされるように、各国家とその運命の表れのひとつでもあるのです。霊的認識と無害性の拡大はいつでも、より広範な人々の間でのこの進化プロセスの結果であるため、異なった国々の伝統や習慣を崇敬することの重要性を再度強調します。なぜならそれらの多様な文化的規範と特有の国家的特質の中に − 社会的条件付けの問題がどれだけ時代遅れで障害になろうと − 霊的進化の動きの振動が存在するからです。彼らの古い習慣的生活様式の国家への副作用は、この惑星における進化スピードをかなり低下させるかもしれませんが、それら旧式の伝統及び進展の遅れは配慮されねばなりません。なぜならそれは、各個人及び国家が各々のペースでそして各々の独特なやり方で発展することを可能にする自由意志の法則だからです。

コモンズが霊的認識の非常に感知しにくい要素に基づき、秘教学的観点から多くの異なる意味を持つということが現時点において明らかであるべきです。内部のコモンズの意味が魂の存在及びその目的への認識に根付いているという所見をここで述べました。それは、人類の一体性を強調し、不朽の知恵についての研究に組み込む新教育への必要性を特徴づけます。コモンズは人間の意識の中で太古のものであり、ひとつの生命、進化の霊的ビジョン、そして何よりも万物への慈悲心に関する初期段階の認識から生まれたのだという私たちの所説をもまた思い出してください。従って慈悲の法則は、先ほど私たちが示唆したように誰かが「慈悲心を持ちなさい」と他の人に言う時のような、一般的に推測されるものより遥かに意味のある、人類の霊的コモンズを統制する基本法則なのです。実に、直感を通して知覚される時、慈悲心の理解は霊的聡明さなしでは起こりえず、それは愛ある奉仕、無害、正しい人間関係によって簡略に表現されるように、進化する魂としての自己が誰であるかを知る聡明さを意味します。コモナーは、私たちが自然界と正しい関係を持つよう実際には言っているのですが、それは、私たちの追求に基づくと、まず第一に私たちが正しい関係を自己とそしてお互いの間で持たない限り達成不可能なのですが、またそうすることによって自然界との正しい関係が自動的にもたらされるでしょう。

 

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内部のコモンズの意味へのこの一般的手引きが、疑う余地のないひとつの結論に対して十分説得力のあるものであることが望まれます:それは、大衆へのアピール、合意に基づいた有効性、そして霊的認識及び正しい関係の観点から持続的価値が皆無の主に知的活動である、唯一「外部」の制度上の問題及び政策解決のみに集中するなら持続的未来は決して実現されないかもしれないということです。しかしながら私たちがこの洞察の難しい現実を受け入れるなら、ひいてはさらに個人的な疑問が頭に浮かぶかもしれません:世界の普通人である私たちが、最終的に自己の覚りをもたらす内部のコモンズへの必要な認識を一体どのように育成し始めることが出来るのでしょうか。外部のコモンズの意味を知的に理解することは容易かもしれませんが、上記に述べられたように「内部の自己の教育」のようなものを必要とする、「この場所と今」の永遠のムーブメントの中に存在するコモンズを知覚することは非常に違ったことなのです。この見解は私たちの考察の中心を本来形成します。なぜならそれは、認識や表現が意識的であろうと無意識的であろうと、内部のコモンズの意識がハートとマインド内で花開き始めるのをあなた自身で知るプロセスだからです。

今のところ、コモンズのより深遠な霊的知識を真剣に掘り下げる傾向があるのは比較的少数の人々だけに過ぎません。そして私たちがその真意を読み取ることができるなら、それは、そのためにネイティプ・アメリカン・インディアンが戦い死んでいったあのコモンズであり、何千年にも渡って偉大な宗教の創始者と知恵の覚者方彼らの教えのなかで広めてきたあのコモンズなのです。現代における内部のコモンズの最も偉大な代表的人物の一人は、例え支持者によって彼の教えの大部分がそのように認識されていないとしても、おおよそ間違いなくジッデゥ・クリシュナムルティでしょう。なぜなら、クリシュナムルティが公開講話の中で常に明示したように、「あるがままのもの」への愛ある認識と知覚を通して内部の自己知識を得ることなくして人類の哲学、学説、政治運動、または積極行動主義のすべては無益で無意味であるからです;この地球で調和と平和のなかどのように共存するかという古い問題への持続的解決策を見つけない限り、世代から世代へと私たちは空回りし続けるでしょう。

従って実際の問題は、外部のコモンズを持続できる新たな経済的、社会的取り決めをどのようにもたらすかということでなく;むしろ、永続的に存在するコモンズの内部の理解をどのようにもたらすかということなのです。そのために、私たちはどのように自己を知るかということを学ばねばなりません。人類の霊的進化についての理解なくして外部の世界の視点からのみコモンズを定義付けることは、責任を問うだけに傾倒します;例えば、自然を管理しより平等でお互いを思いやる社会をつくる責任などです。しかし、コモンズの内部を受け入れることは、愛の実践及び慈悲心の集団的表現を通して実現されるように、全体的により簡素で霊的な生活様式のビジョンを呼び起こすでしょう。そして、十分な人々がコモンズの内部及び外部双方を知覚出来る時、ついで彼らのマインドに大変違う何かが起こるでしょう:それは、良識及び道理がハートの特質と融合され表現された、結束の必要性への普遍的目覚めなのです。

コモンズを受け入れることは根本的に意識的認識の問題だと最初に私たちが仮定したことを再度思い出してください;従って、マインドを通してのみ意識を拡大することはハートの特質に従事するより遥かに難しいことなのです。どうような状況下であっても、もし唯一マインドのみが思考と行動の基盤となるなら、特に、もしその個人が一国または大組織を率いるなら、酷い過ちが犯される恐れがあります。マインドは容易に善意からそらされ、貪欲、権力、虚栄心やその他の隠れた動機に操られることが可能です;その結果は、考えられるどのような例もが証明するように、常に危害と分割です。従って、マインドだけに依存することは責任認識を呼び起こすかもしれませんが、マインドがハートの特質と融合した結果起こる認識は、良識はもとより無害性及び結束を何よりも呼び求めるでしょう。

「あなたに危害を加えたくありません。お互いへの理解と譲歩を通してこの衝突を共に解決しましょう」と相手に伝えることでさえ、自己のハート及びマインド双方の特質に従事しているという意味なのです。この簡単な日常的理解をコモンズの総体的概念に適応することによって、それが人間関係に与えるかもしれない革新的インパクトを私たち自身で心に描けるのです。なぜなら、正しくハートに従事することにおいてイデオロギーや害も分割もなく、責任及び道理を愛に融合させるしかないからです。徐々に、私たちはマインドのより成熟した慈悲的態度を持って自己の周りへの認識へと導かれ、既に述べられたように、それがある種の感情的、霊的無執着を明瞭に示すように自己を備えます。要するに、コモンズに対する内部の認識を育成する完全な試みは、前述の資質のすべてを自己のパーソナリティの中で実現するよう私たちを徐々に導くでしょう。私たちが霊的に誰であるかということをコモンズは反映するゆえ、それを理解することは個人を知恵に近づけることだと正確に言えます。

以下は、これまで私たちが熟考して来た主な洞察を要約しています。これは、コモンズが何を意味し、人生の内側から結果的に何を引き起こすかをさらに定義付けることに役立つかもしれません。魂の観点からコモンズの霊的意味として、またはコモンズの内部及び外部の理解が私たちの意識と融合する時起こるそれとして、これらの潜在的な人間の特質と可能性について私たちは考えるかもしれません。読者は、順を追って各々の点について自身で熟考することで利益を得、コモンズが以下に述べられたものとしてどのように理解できるのかをもまた直感するよう努めるのが良いでしょう:

  • 美そのもの[17]
  • 成熟
  • 愛のある配慮[21]
  • 新たな配慮(敬意)
  • 「あるがままのもの」への霊的理解[22]
  • 知恵
  • 霊的聡明さ[26]
  • 生きる術を通してのビジョン[27]
  • 分かち合いを通しての結束
  • 正しい関係

これらのより総体的観点からコモンズを見ることが要求される理解の方法は、霊的現実への認識を持って「あるがままのもの」を見るよう僅かな人しか教育されていないため、初めは馴染みがなく奇妙に見えるかもしれません。私たちの教育は、あるがままの人生を見ていないことに基づいていると大体のところ言えるでしょう。それは、現在もしこの認識を自己の中に育成したいなら、孤独な道を歩む心構えが出来ている必要があるということです。人間は大昔から多くの法律をつくって来ましたが、私たちが永遠の生命の法則を正確に知覚したいなら、それらの世俗的な法律を超えたところを見つめ、それらの霊的なはかなさを認識せねばなりません。

適切な例をひとつあげましょう。私たちのまわりのあらゆるところでどのように音楽を観て聴くことができるのかということを知覚することなく唯一楽器から奏でられる音の中にのみ、音楽を聴くよう私たちがどう教育されて来たかを深く考えてみましょう;それは、雲の形と動きの中に、市場に並べられた果物や野菜の色の中に、自然環境に反映される光の中に、そしてさらには瞑想するマインドの沈黙の中にさえあるのです。なぜ私たちは耳で見て目で聞くことを教育されて来なかったのでしょうか。手にするものはすべて型にはめ分割させるようにした人間のマインドは、一体どうしてしまったのでしょうか。

音楽に関する限り、私たちは内部のコモンズを盲人に任せてしまったようです。けれども、田舎の草原に吹く風の内に、鳥が飛び囀る内に、朝日と引き潮の内に、そして激しい嵐の瞬間の内にさえ音楽がきこえない盲人は私たちなのです。勿論、もしあなたが周りのすべての音楽にハートとマインドを開くなら、従来の意味での音楽ではなく違う種類の音がきこえるのですが。それらすべての音符を自己の内部できこえるコンポジションへと寄せ集めることはあなたにかかっています。それはやがて、才能と実践を伴う自然なプロセスになります。例えば、木の形成過程の中に、またはまわりの多くの建物の形の中に内部のコモンズが知覚され聞かれる一方で、人間がつくった楽器を外部のコモンズになぞらえることも出来るのです。あなたは今までに、その美観設計及び建築の美しさのあまりどのようにある建物が目にとって音楽のようであるかということを建築家が言うのを聞いたことがありますか。「美しい」という言葉は日常世界の音楽が誰かの目によって黙想される時、いつでも即時意味を持つのです。人が素晴らしい音楽を内部で聴いている時、どのようにその人が窓の外に広がる青空、生き生きした自然の美、そして生命ある何かに目をやる傾向があるかを唯観察してください。

それにもかかわらず、私たちの音楽への理解はいまだ余りに型にはめられ条件付けられており、音楽アカデミーの生徒でさえが周りの環境の中に常に存在するシンフォニーを知覚することなく道を歩いていると考えられます。人間のマインドには、目にするすべてのもののイメージをつくる不幸な傾向があり、さらにネーミングと想像の行為が、精神的静寂の中今の瞬間を完全に生きると同時に「あるがままのもの」をきくことから私たちを妨げています。すなわち、私たちはイメージを通して傍観し、建物の形の中にどのように音符があるのか、そして異なった色のトーンの中にどのように異なった音符があるのかということを知覚せず、目にするすべてのものから自己を切り離しているのです。ピアノの鍵盤を押す時、もしあなたに見る耳があるならそれがある色をだすのを知っていましたか。あるいは、キャンバスに一色入れる時、もしあなたが聞く目を持つなら、ある音符がだされるのを知っていましたか。なぜならすべてが生きておりすべてが霊的進化の中で美の不可欠な部分を形成する音と色をだすからです。実に、聞く気さえあるなら、私たちの内部の沈黙の中にさえ音符があるのです。それは、地球全体に鳴り響くオームのサウンドです。私たち全員がその音符に取り巻かれており、私たちの誕生の瞬間以来、それは私たち各々をオーバーシャドウしています − それは常に私たちの上にも下にも周りにもそして私たちの中にもあるのです。あなたにはそれがきこえるでしょうか。

多くの音はまた、その振動を通して治癒することが出来ますが、現代社会の狂乱的活動から発する途方もない騒音に反映されるように、今日人類によって生みだされる音は途轍もない混乱状態にあります。この時代に人類が通り抜けている危機の多くが社会的、経済的、霊的、あるいはその他どのような性質のものであろうとそれが原因で私たちの意識に混乱が蔓延していることを観察してください。結果として、全体としての人類と自然を象徴する普遍的「音」 − それは、Fの音階または固定ドでのソルフェージュの中でファに合致します − は非常に不調和的に振動しておりそれゆえ地球に蔓延する混乱と苦しみを反映しています。世界の貧困の存在自体が音を発しておりその音がGマイナーだということをあなたは信じますか。なぜならそれが、私たちの悲しい人生の痛みとドラマを人間のハートが感じる時、発せられる音だからです。何百万人という人々が毎日死んでいる事実でさえ、Dマイナーに合致する一定の音を通して聴き取れます。これらすべての不協和音が、人類の古いあり方が終わりに近づいている事実だけでなく私たちの時代の危機の頂点をも反映しています。私たちの経済は危機に瀕し;私たちの政治は危機に瀕し;私たちの生活様式は危機に瀕し;私たちがその中で生き動く「主義」でさえ実在的危機状態に瀕し、すなわち、最終的に過去から自己を解き放つ必要性を受け入れるよう私たちが導かれると同時に混乱が生じているのです。古代からの私たちのすべての痛みと混乱からさらに調和的な音が生じ新しい文明が最終的に誕生するまで − 人類がその振動音を変えることが出来るよう意識を大幅に拡張する時が来ました。

 

*

創造物のすべてを包含する空間の現実に反映されるように、殆どの人が認識するよりどれだけコモンズがもっと広大な意味を持つかというもうひとつの例を見てみましょう。明らかに、空間なくして環境の内容物は − 大気園の雲、森林の動物相、そして都市景観の交通渋滞や高層ビルも − なかったであろうことから、それは惑星的コモンズの無限及び永遠なる維持者です。それにもかかわらず私たちは空間を見たり、肉体的存在のために私たちがそのなかで動きそして依存するこの偉大な生命体の重要性を静観するよう教育されて来ませんでした。誠に、実際のところ空間は生命体でありそれ自体の指導的知性を持って生きています。そして私たちが空間と呼ぶその正体のつかめない生命体のなかには他の多くの世界が生きています。それらの世界は無限の完全さへと進化しながらも、動き存在するために空間をまた同様に必要とするガスや二酸化炭素のように肉眼では見えないのです。私たちの目とお腹の間には空間があります;それは私たちに構造を与えてくれます。私たちは空間の中を動き、空間は私たちの中で動きます。もしあなたにメンタル・レベルの透視力があるなら、恐らくあなたには古代文明の人々の生活がそのまま見えますが − その過去の出来事の記録でさえ空間に銘記されており、その結果それは時間と共に鳴り響き続けるのです。従ってここで疑問が起こります:意識の進化、コモンズ、そして空間の間には何の関係があるのでしょうか。

確かに、私たちの文明には発見どころか今日の頑固な物質主義的集中のため想像さえ及ばない、無数に隠された空間の側面があるのです。科学者は水なしで生命はあり得ないと言います。しかし、空間なしで人類の霊的進化はあり得ず − また、空間なしで物質次元において永遠に前進し続けることは出来ないと言うほうがより真実でさえあります。始めに空間が存在したがゆえ創造があります。始めに空間が存在したがゆえ意識及び進化があります。従って、空間なしでコモンズのアイデア自体が(それが内部の表れであろうと外部の表れであろうと)私たちの意識内で起こらなかっただろうと認識することは極めて重要です。私たちは空間そのものをコモンズそのものと比較し、これら双方の現実が究極的に同一であると結論付けるかもしれません。この見解の重要性は直ちに理解されないかもしれませんが、「あるがままのもの」への霊的認識を求める個人にとって空間が最大の深みを持つのだということが理解される時が必ず来るでしょう。空間には始まりも終わりもないと考えられるかもしれませんが、空間の存在の背後には、どのような宇宙論者や形而上学者もがこれまで理解しようとして来たより遥かに多くの謎があるのです。空間とは、何という生命体でしょうか!十分な進化段階にある人なら、この生命体に話しかけることさえ出来るのです。わかりやすく言えるすべてのことは、意識「ではない」ながらも常に「である」ところの空間は、それ自体の中に存在するということです。そして人類がより高い霊的真実にマインドを開き始める時、それは最終的に空間が、生命の法則においてすべての祝福の中の祝福であるという共通の知恵になるかもしれません。

測定には始まりがない、測定には終わりがない
それが、内でも外でも空間の永遠なる息吹の性質
しかしここに識別する知性がやって来て言う:
「1+1=2」。すべてに始まりがあり
すべてに終わりがあるというイルージョンがそれに続く

日常の測定に吸収され条件付けられたマインドは
無限の執着と痛みを生む
それゆえ、自己に永遠の沈黙を拒み続けるマインドを通して
人間の知性が選び間違えた曲がり角
神聖な言葉の存在と振動から生まれた
沈黙、その性質は無

混乱のなかの混乱、不可視次元のなかの不可視次元、
ワン・ライフのなかで繰り返す人生
人類の霊的進化はそのように動く
それは、空間と呼ばれる生命体のなかの
科学的に正確に測定された神聖な大計画

その子宮のなかに、生まれながら未生の、見えながら見えない
無数にあるすべての世界の振動と響きを持つ生命体
自己のなかに、自己により、自己だけで存在する空間
決して何かであったことはなく、決して何にもならないだろう自己
それが、その存在の普遍的振動を
育む慈悲の法則だから
空間が、すべてのなかにひとつを、そしてひとつのなかにすべてを結合すると同時に

 
 

結論

この追求を終える前に、コモンズの意味と分かち合いの原理の関係についての結論を要約してみましょう − 私たちが明示することを試みた、霊的・心理的に密接に結びついた関係です。コモンズは、人間の意識のなかで常に睡眠状態にあった回転する霊的可能性のようなものであり、そしてこの過度に知的で物質主義の時代の中心に再度それが現れるまで、過去の文明文化を通して様々な方法でそれ自体を表現するのです。コモンズが分かち合いの原理のより高次な側面だという見解が様々に思い出されるかもしれませんが、コモンズを「原理」そのものまたは「アイデア」や「コンセプト」としても定義出来ない時、それは定義付けのための捉えどころのない相互関係なのです。なぜなら、コモンズは霊的認識の内部機能を通してのみ、永遠の神聖な現実として認識され得るからです。

ここで再び私たちは、コモンズを支持することは実際には意識的認識の問題であり、私たちが概説したような方法で社会的、心理的変革を起こさずして全人類の間でそれが流通することは決してないという自分たちの最初の基本原理に戻ります。その心理的変革をもたらし、不必要に死んでいく貧困者のために各社会が大規模な国際救援活動に参加すると同時に、善意の爆発が全く新しい歓喜と創造の空気をもたらすだろうことを私たちは論じました。それにもかかわらずそのような途方もない出来事も、世界再生プロセスの予備段階を構成するだけに過ぎないでしょう。なぜならハートが目覚める時、パーソナリティ(個性でない)はすべてのコモンズのなかで最も重要なコモンズの意義を理解するだろうからです − それは、正しい関係の確立を通して徐々に明らかにされるように、人類というコモンズなのです。

別の言い方をすると、今日の一点集中する危機はすべてを包括する範囲に及ぶため、第一段階は連帯や結束を通して表現され、あまねく行き渡った遠大な規模で実行されねばなりません。ついで新たな法律及び教育の導入を通して、人類の意識内にコモンズが迅速に上昇するところの第二段階が自然に続くでしょう。従って、この惑星の資源を分かち合えば分かち合う程、さらに簡素にそして協力的に私たちは生活するようになるのです。そして私たちが簡素にそして協力的に生活すればする程、自己の意識的認識のなかでコモンズの存在をさらに肯定するようになるのです。その過程は内部の観点から論理的ですが、その時まではコモンズをアイデアやコンセプトとしてどう促進するかについて大変気を付けるべきです。私たちが分かち合うすべてのものとして本当にコモンズを定義付け出来るのでしょうか。あるいはそれは、何百年もの間、私たちが分かち合うことが出来なかったすべてなのでしょうか。そして、第25条に謳われる人権を政府に保障させるために何百万人という人々が立ち上がるよりむしろコモンズを唯一社会変革の知的コンセプトや学説として促進することは十分なのでしょうか。なぜなら、もし私たちが貧困の根絶のために経済的分かち合いの必要性について仲間を教育し始めないなら、そして飢えた貧困者に資源を再分配するよう政治的代表者を納得させるために他の人々に加わらないなら、コモンズが最終的に全世界から支持され讃えられる希望はないからです。

従って、世界情勢に分かち合いの原理を実現することは例えて言うと、コモンズのドアをノックする行為にあたります。国々が純粋に他のすべての国々と分かち合い協力し合う瞬間、コモンズはその存在を世界に宣言するでしょう。コモンズは分かち合いの原理の娘のようですが、娘を世界に引き合わせるのは母親です。象徴的に、コモンズは分かち合いの原理の鼓動する心臓の響きとして理解できるため、もしコモンズを救うつもりなら、政府が世界資源を再分配するために協力し合うことは不可欠です。例えキリストが人間の日常生活に戻ったとしても、彼はなお、隣人を愛し互いに分かち合うよう私たちを推奨するでしょう。なぜならそれが、人類のより偉大なコモンズへの認識内で成長出来る唯一の道であり、それは飢餓と予防可能な病気から日々死んで行く私たちの最も貧しい兄弟姉妹を救うことから始まるからです。コモンズの真の意味およびその分かち合いの原理との相互依存関に対する理解を促進するにはこれで十分なのでしょうか。最終的に、母親は娘の救い主であるということ以外は何も言えません。そしてこの両者の間の関係は、私たちがひとつの人類であるという意識に基づき愛だけでできているのです。なぜなら、私たちがお互いに愛し合い正しい人間関係を確立し始める時、ひいてはその結果として、私たちが守り分かち合うすべてが認識、ビジョン、崇敬を持って扱われるだろうからです。

多くの思想家のコモンズへの理解はますます複雑になっています。それは、商業化の退廃した法則に基づく世界の生活の果てしなく続く複雑さが原因であることは疑いありません。それでもなお、コモンズが本当は何を意味するのかという疑問を知的にでなく内部の自己の経験的意識を持ってこの瞬間静かに考察するなら、それを知ることは非常に簡単です。自問すべき疑問は:私の他人及び世界との関係においてコモンズが何を意味するのかということです。この追求において自己を助けるためにこの考察を通して示唆したように、コモンズの心理的、霊的重要性をさらに明らかにする以下の問題を思案するために内部を見ることもできます。私たちの意識におけるコモンズの存在と下記との間に存在する関係は何でしょうか:

  • 経済的利益追求による商業化の破壊的効果
  • 政治的主義がもたらす混乱
  • 宗教的イデオロギーがもたらす衝突
  • 歓喜に関連した霊的特質
  • 無執着を通して無害性を示すこと
  • 人類一体化のビジョン

従って、コモンズの第一の重要性は、自己知識および正しい教育に見出されます。なぜなら、前述の方向性に沿った教育なくしては、あるがままの生命への新たな霊的認識のなかで人類が行動するだろう時を決して見通すことができないからです。しかし、私たちが広範囲に渡って観察して来たように、コモンズの存在構造そのものである、神聖な原理としての分かち合いの重要性についての根本的な理解を学校教育が組み入れない限り、「コモンズ」という言葉は最終的に無意味なものとなるでしょう。分かち合いの内部の意味のひとつは「危害を加えない」または「共にある」ということです。従って、自然と共存し、外部環境に対して害のない行動を取ること、人間が創造して来たものおよび創造するだろうすべてのものに貢献するということは、 − 芸術、テクノロジー、科学、その他全ての分野で − この地球の豊かな産物を分かち合う必要性を最終的に受け入れねばならないことを、大部分の人類にとって意味します。

再度、有益な例えを用いると、愛は世界中に散らばったジグゾーパズルのようなものとして想像でき、そして分かち合いの原理と協力を通してそのパズルを再びひとつに合わせることは各国の人々にかかっているのです。そのパズルが完成する時、そして飢餓と戦争が人間のマインド内で遠い記憶となる時、ついでその結果としての状況がなにを象徴するのかを私たちは発見するでしょう − それが、人類の内部及び外部のコモンズなのです。[28]  今日コモンズは内部および外部双方の現実において病にかかっており、そして私たちは、万人の共益のために国々の協力と善意を通してのみその慢性退行性疾患を治癒できるのです。ひいてコモンズは新しい教育のなかでそのふさわしい役目を自然に担い、それによって人間の意識そして夢にも見ない光の道における霊的プログレスへの可能性がどのような予想をも超えて拡大するでしょう。 
 

注釈


[1] 自然界における全王国は、各々直下の王国から発達し、− 霊的王国あるいは「魂の王国」として知られる − 人間界より高い第5王国は、(キリスト自身が教えられたように)常に私たちと共にあったのであり、現在物質次元に徐々に出現している。アリス・A・ベイリーの執筆のなかで説明されているように、その王国は、「昔から霊的目標のために努力し、肉体、感情コントロールおよび妨害的なマインドの限界から、自己を解放した者から成っている。今日(大多数にとってまだ未知の)その住人たちは、肉体をまとって人類の福利のために取り組み、通常、感情でなく愛に基づいた技法を用い、そして世界の運命を導くあの偉大な『啓蒙されしマインド』のグループを構成する」。(ハイラーキーの出現The Externalization of the Hierarchy, Lucis Press Ltd, 1957)

[2](1)すべての人は、衣食住、医療及び必要な社会的施設等により、自己及び家族の健康及び福祉に十分な生活水準を保持する権利並びに失業、疾病、心身障害、配偶者の死亡、老齢その他の不可抗力による生活不能の場合は、保障を受ける権利を有する。(2)母と子とは、特別の保護及び援助を受ける権利を有する。すべての児童は、嫡出であると否とを問わず、同じ社会的保護を受ける。

[3]これらの執筆のなかでH・P・ブラヴァツキーが「人間の内に宿る個人の神性の抽象的理想」(ベールをとったイシス、第2巻)または「宇宙のアトマンとすべての人間の魂の内にあるアトマ」(シークレット・ドクトリン秘密教義、第1巻)として述べたキリスト原理は、すべての人間の霊的要素と合致する客観的な神聖原理として理解できる。それはまた、私たちが愛と呼ぶ結合的エネルギーを通して惑星の物質的側面の創造を管理する進化エネルギーそのものとしても理解できる。歴史上のキリストは、地球においてそのエネルギーの最高の物質的顕現であり、「世界教師」などを始め多様な名称で知られている。アリス・A・ベイリーの著作のなかで説明されているように、キリストの呼びかけに応え今日ますます祈願に専心するのは人々のハートである(キリストの再臨The Reappearance of the Christ, Lucis Press Ltd, p. 136)。

[4] モハメッド・メスバヒ、世界人権宣言第25条を布告する:人々の世界変革のための戦略Matador books, 2016

[5] この題目については次を参照:「気候危機への取り組みにおける政治と霊性の交差点:モハメッド・メスバヒとのインタビューShare The World's Resources, June 2016

[6]例として、メスバヒの執筆の中から次を参照:「商業化:分かち合いの対極Share The World's Resources, April 2014

[7] この点をさらに掘り下げた考察については次を参照:「気候危機への取り組みにおける政治と霊性の交差点」、パートll、op. cit.世界人権宣言第25条を布告するop. cit., pp 57-61。

[8] 「あなたは次の物語を思いだすかもしれません。道を歩いていた悪魔と彼の友人が、前にいた男がかがみこみ、地面から拾った何かをポケットにしまい込むのを見た。友人は悪魔にきいた。「あの男は何を拾ったんだ?」「ひとかけらの真実さ」悪魔は答えた。「そりゃ君にとって、とても悪いことじゃないか」友人は言った。「いいや、全然」「好きにやらせてやるのさ」悪魔は答えた。(引用:ジッドゥ・クリシュナムルティ、「星の教団の解散」、Star Publishing Trust, 1929

[9] 編集者の注釈:ここで引用されている世界人口増加予測はメスバヒが彼の著書、世界人権宣言第25条を布告する、op. cit., pp. 46-51で論じているように、決して不可避ではない。最新の見積もりでは、2100年までに112億人を超過するという中間予測を持って(そのほぼすべてが貧困国における。次を参照:UNDESA, World Population Prospects: The 2015 Revision)2050年までに現在の75億人から97億人に人口が増加するという見積もりにもかかわらず、世界資源の正しい再分配と第25条に謳われる人権の普遍的実現が、世界人口の劇的減少をもたらすだろうことが予測できる。これは、発展途上国および先進国における動きのなかで歴史的に証明されているように、家族が適切な生活水準に恵まれている状況下では人口レベルが安定・減少する事実が裏付けられている。従ってこの事実が、メスバヒが我々の注意を引いている「コモンズの包括的意味」の一部だと考慮されるかもしれない。

[10] モハメッド・メスバヒ、「真の分かち合い経済:ハート時代の幕開け」、Share The World’s Resources, November 2016

[11] モハメッド・メスバヒ、「対談〜主義と分かち合いの原理」、シェア・ザ・ワールズ・リゾースィズ、2014年。

[12] 以下と比較:世界人権宣言第25条、op. cit., パート3を参照。

[13] 不朽の知恵は、宇宙のエネルギー構造、人間および自然の意識の進化、そして「正しい人間関係」に重点を置く人生の霊的現実についての古代の教えを指す。遠い昔から、芸術および科学のなかでインスピレーションを提供するかたわら、主要な宗教的伝統の基礎をなす、秘儀的または隠された教えの数々を繋げる黄金の糸としてそれは述べられてきた。何千年という古さにもかかわらず、それらの教えは人々の人生および経験のなかで活発に表現された啓示的性質を漸次深めているため、「古代」でなくむしろ「不朽」の教えとして言及されている。過去1世紀に渡って顕教の形態におけるこれらの教えは、神智学協会の創立者であるH・P・ブラヴァツキーによって、そして後にアリス・ A・ベイリーおよびヘレナ・レーリッヒ、そしてその他の著作を通して西洋諸国で一般公衆に公開され広範囲に渡って広がった。

[14] 商業化パラダイム」という言葉は世界人権宣言第25条を布告するHeralding Article 25, op. cit., pp. 9-10を含んだメスバヒの多くの執筆のなかで用いられている。

[15] 例を挙げると、学校の校庭や住宅街の道で行われる古い遊びのすべては代々自由に受け継がれ、子供たちのマインド内で無意識に分かち合われたコモンズの形態として考えられる。これらの遊びの多くが書き留められ、より裕福な階級層のためにますます商業化されたのは過去数十年のことである。ついでデジタル技術はあらゆることろに行き渡り、発展途上国の最貧困地域だけに最も純粋な形で現在存在する、子供の遊びというコモンズの多くをさらに私物化しそれらに取って代わった。正しい人間関係の認識内での子供の霊的成長および創造性の養成を教師が目的とする、コモンズ主導型の学習および発達様式を再導入する途方もないチャレンジを、このひとつの例がどのように示しているかを読者は各々で推論できる。

[16] この問題についてのさらなる説明は、世界人権宣言第25条を布告するHeralding Article 25, op. cit. pp 99-103を参照。

[17] 例として、人間のマインドによる区別や測定を通しての「あるべき」美でなく、「あるがまま」の美。言い換えると、名状しがたいが、抽象的瞑想を通してのみ感知できる、創造及び進化内の美。

[18]例として、魂の振動で溢れるところの創造性;執着のない創造の真の形態を意味する。

[19]例として、成熟および聡明さを通しての、万人の共益のためになされるべきことについての認識。

[20] 歓喜の霊的特質の解放に関する上記の章を参照。

[21] 例として、進化し生きとし生けるものすべてを崇敬するハートの特質を通して知覚し行動すること。

[22] 例として再び、条件付けされたマインドに基づいた「あるべき」ものでなく、不朽の知恵についての考察と、魂に関連して正しく適応された瞑想を通しての直感の発達に基づいた「あるがままのもの」への理解。

[23]例として、無執着による沈黙の術。

[24] 無執着と無害性の間の関係について黙想することは有益である;歓喜の霊的特質の解放についての上記の章も参照。

[25]例として、ハートの特質を通して生命を理解する。これは、創造のなかの全法則の母である慈悲心の真の意味について、絶え間ない考察を必要とする。

[26] 上記のように:「…直感を通して理解される時、慈悲への理解が霊的聡明さなくして起こりえないということは、愛のある奉仕、無害性、そして正しい人間関係を通してシンプルに表現されるように、進化する魂として自己が誰なのかを知る聡明さを意味する。

[27] 例として、人類の一体化および霊的目標の明瞭なビジョンをもたらすだろうものは生きる術である。

[28] cf. モハメッド・メスバヒ「真の分かち合い経済」op. cit., パート2参照。


Mohammed MesbahiはSTWRの創始者である。

編集協力: Adam Parsons.

Image credit: Liamfm, flickr creative commons