気候危機への取り組みにおける政治と霊性の交差点

Mohammed Sofiane Mesbahi

私たちは、惑星的な緊急事態の真っ只中にいます。大惨事を回避するためには、根本的かつ緊急の変革が必要ですが、依然として、私たちは科学に従って行動することができません。では、何が、迅速なクリーンエネルギーへの移行とより公平でシンプルな生活様式の導入を妨げているのでしょうか。

編集者の序文

以下のモハメッド·ソフィアン·メスバヒとのインタビューは、気候変動に取り組む最初の真に普遍的な交渉であった2015年12月のパリ気候会議のときに最初に行われました。4年後、本としてまとめられたこのインタビューの広範なディスカッションで提示された見解は、多くの点でこれまで以上に適切です。

パリ協定の公約が2020年以降に発効しようとしている一方で、気候危機は国民の意識を劇的に高めています。同時に、草の根運動が突如として主流のニュースの見出しを独占していますが、驚くべきことに、学校ストライキをする若者によって先導されています。メスバヒがこのインタビューでそのような大衆動員の必要性を予測し、一般市民が地球規模の緊急事態に対応して、ゼロカーボン経済への移行を迫る大規模で継続的なデモを通じて政府に抗議するよう呼びかけたことは注目に値します。

それでも、国連気候変動会議の行き詰まりは2015年以降根本的に変わっていません。たとえば、市民社会団体は「気候野心ゲートウェイ」として衡平の原則を支持し続けていますが、富裕国は依然として、必要な世界行動である彼らの公平な分担を回避するために巧妙な操作をしています。汚染者である大企業は依然として交渉の進展を妨げており、世界は最も優先して化石燃料に依存し続けており、そしてそれは今後も衰える兆しを見せていません。これらすべてが、気温を1.5°Cの安全限界内に維持するために今後10年間で世界の排出量を半分に削減しなければならないという、科学的コンセンサスを嘲笑しています。私たちは依然として、今世紀末までに壊滅的な3°Cの上昇に向けて進んでいます。

これらの主要な問題はパート1で概説されていますが、この本の実際の重要性がこの最初の政策関連の議論を超えていることを強調する必要があります。実際、国際的な気候変動政治に関するSTWRの幅広い立場についてのインタビューをするようメスバヒを説得するのに何年も要しました。これは主に、あらゆる形のインタビューを受けることに対する彼の長年の嫌悪感によるものでしたが、それはまた、彼が、後に「内なるCO2」と述べられるもっと広範な環境危機の霊的片割れに対する私たちの理解がはるかにより重要であると考えるためです。したがって、読者にここで非常に異なった一連の探究に着手することが奨励されます。これは、現代社会がより公平で持続可能な生活様式になぜまだ移行していないのかについてのより深い認識につながるかもしれません。

全体として、この幅広い対話は、世界資源を分かち合うための統一された目標に向けたメスバヒの大規模な市民参加の先駆的ビジョンの紹介としての役割を果たします。全体を通して提起された永続的なテーマは、「分かち合いの原理についての考察」というタイトルの進行中のシリーズの一部として発表されているさらなる執筆の基礎を形成します。詳細については、sharing.org/jaを参照してください。

2019年9月、英国ロンドン

 

パートl:「公平な分担」を通じての公正な移行

パリ協定についてのあなたの基本的な評価は何ですか?それは「人類の大きな飛躍」および「世界最大の外交的成功」と呼ぶのに相応しいものでしたか?

6年前のコペンハーゲンでの普遍的協定への劇的な合意の失敗に続いて、国際気候条約がついに封印されたという事実を考えると、喝采のニュースの見出しにはある程度の正当性がありました。地球の温度を産業革命前のレベルより1.5°C以下に保つという目標を中心に取り入れられた新しい言い回しは、20年以上にわたる擁護活動と綿密な科学の証でもあります。21年間行き詰まり、しばしば派閥的な交渉を考慮すると、これが科学界を驚かせた野心的な目標であることに異議を唱える人はほとんどいないと思います。

先進国および開発途上国の両方に適用されるUNFCCC(国連気候変動枠組条約)の下での最初の排出削減計画であるINDC(各国が自主的に決定する約束草案)の周りに目標が設定され、2020年以降の国際的枠組みの公式基盤を形成している今、交渉を成功として歓迎するいくつかの根拠もありました。最も楽観的な評価から、今世紀後半までに温室効果ガス排出ネットゼロを達成するという長期目標があるという事実は、市民社会グループからの負の排出技術を取り込むことに関する多くの懸念はあるものの、少なくとも行動のための時間枠です。中国やインドを含む開発途上国が最も野心的な約束をしたという事実はまた、世界的リーダーシップの地政学が変化し始めた兆候であることを意味し、ノースに「主導権を握る」意欲がないにもかかわらず、グローバル·サウスには緩和努力を強化する用意があります。

条約が私たちを公正で持続可能な世界秩序に近づけるかどうかは別の問題です。意欲的な1.5°C排出削減目標にもかかわらず、これらの集合的な削減を短期的に実現する方法についての明確なロードマップがありません。現在のINDCが2030年までに満たされているとしても、私たちは依然として3~4°Cの地球の温暖化に向けて進んでおり、極度に危険な転換点につながることがさまざまな研究で示されています。条約の紹介文自体がこれを認めており、2°Cの経路でさえも、それに一致する諸国の緩和公約と総排出量の間の大きなギャップに対処するためには、はるかに大きな排出削減努力が必要であると述べています。すでに不十分なコミットメントを各国が取り消すことを妨げるものが何もないということは、国連の多国間協議の歴史において楽観主義が入り込む余地はほとんどありません。

予想通り、協定の唯一の拘束力のある要素は、各国が進捗状況について定期的に更新される目標を提出することです。これはUNFCCCの一部としての国際法の法的拘束力のある文書かもしれませんが、意味のある炭素削減の法的拘束力のある目標どころか、貧困国が気候変動に適応するのを助けるための資金を提供するという先進国の法的責任はもはやありません。したがって実際には、パリ協定が「野心的」かつ「政治的に歴史上重要」であると称賛されてきたことは、悲しくも私たちの時代の非難されるべき事実です。この点で、2015年9月に合意された持続可能な開発目標との顕著な類似点を観察することもできます。これは、他の野心的な環境目標の中でも特に2030年までに「あらゆる場所での貧困の終焉」を約束していますが、それらの取り決めを実施するための制裁メカニズムや信頼できる手段がありません。 

シェア·ザ·ワールズ·リゾースィズにおけるあなたの見地から、現在「公平な分担」の概念が気候変動の議論における行動のスローガンになっていることに注目するのは興味深いことです。一般的に、パリ協定とCOP交渉への分かち合いの原理の関連性は何であると考えますか。

分かち合いのアイデアは、今日の政策思考や積極行動主義の多くの分野で重要なテーマとして浮上しており、特に、気候変動に関する市民社会アドボカシー活動の場合にはそうです。国連気候変動枠組条約ではもちろん公正および衡平の原則が認められているため、おそらくこれは当然のことであり、予期すべきことでしょう。これにおいては附属書I国が持続可能な開発に対する非附属書I国の権利を尊重しつつ、排出削減を主導することが期待されています。これらの権利には、開発途上国が財政的および技術的支援を受ける権利が含まれます。世界の炭素排出量を公平かつ衡平に、科学的に認められた制限内に維持する責任をどのように分担するかは、常にCOPプロセスの中心でした。CBDR-RC(共通だが差異ある責任と能力)の画期的な衡平の原則は、すべての国が地球温暖化に取り組む責任があるが、等しく責任はないという不可欠な前提に基づいてこの認識を謳っています。したがって、1992年に交渉が始まって以来、多くの論争と分裂を引き起こした深い道徳的な問題を照らし出しています。

しかし、その原則はパリ協定では現在ほとんど放棄されており、大幅に後退しています。主要な先進国は、1.5°Cの目標内にとどまるために必要とされる世界的な取り組みの規模に関係なく、INDCを通じて純粋に国家ベースで独自の目標を決定することを選択することにより、衡平の原則に対するキャンペーンを成功させました。これは、彼らの歴史的責任を効果的に消し去り、今後すべての国による効果的な行動に対して不利に作用します。特に、米国の主要な目標の1つは、「損失と損害」に関する文書の文言を弱め貧困諸国での気候への影響に対する義務的な補償責任を負わないようにすることでした。

開発途上国の適応と緩和を支援するための気候変動資金については、年間1,000億ドルを調達するという目標がひどく不十分であることはすでに明らかですが、これまでのところ、これらの金額のほんの一部が提供されているだけです。その上、気候変動資金に関する文書の新たな文言は「自主的」および「すべての国の間で分担される」であるため、責任の負担はさらに貧困国に戻されます。保証された公的資金からの供給は比較的少ないと予想され、資金が既存の外国援助の流れから転用されるという副次的なリスクがあります。政府が金融取引税または累進炭素税システムのような国連気候基金に直接流入する付加的な収入源を動員するという希望がほとんどないため、将来の資金調達の大部分は、民間投資に過度に依存する危険性もあるカーボン・オフセットなどの新しい市場メカニズムからのものでなければならないかもしれません。

これらの点の多くは、市民社会のオブザーバーによってさらに詳しく説明されていますが、明らかであるべきことは、COP21の成果は分かち合いと正義の原理を真の形で反映していないということです。会議場の活動家とキャンペーナーだけが、緊急の短期的行動と変革的かつ体系的変革を通じて気候危機に対処する上で衡平性が意味することのビジョンを受け入れているようでした。興味深いことに、「公平な分担」について考える市民社会は、各国の歴史的責任と排出量配分を計算に入れた世界的な炭素予算に基づいて近年躍進を遂げました。しかし、グローバル・ノースの政府は世界の縮小する大気空間を公平に分かち合うための新しいパラダイムの必要性を受け入れることから現在さらに遠ざかっています。そのため、非常に野心的な炭素収支を法的拘束力のある気候条約に制定する見通しは、残念ながら依然として夢なのです。

危険なレベルの地球温暖化を防ぐための公平な解決策を策定することにおける、炭素予算の関連性をさらに詳しく説明してもらえますか?

現在の多国間主義の失敗とUNFCCC交渉の不十分さにもかかわらず、最新の科学に従って、公正な気候変動協定のビジョンがキャンペーングループと革新的なアナリストによって支持されることが依然として不可欠であると私は信じます。世界的な炭素予算の問題は、国際的に合意された地球温暖化の上限を破ることなくどれだけの炭素を大気中に放出できるかを明らかにすることから、このビジョンの中心です。したがって、残りの予算が公平性と衡平性に基づいて分割される場合、特に、世界の南北間の開発レベルの違いに関連して、残った大気空間を世界の国々の間でどのように共有するかについて多くの差し迫った問題が生じます。

炭素予算のアプローチは、NGOや学者の間で長年話し合われてきており、2011年までのデータに基づいてさまざまな気温の限界の収支評価を発表したIPCC第5次評価報告書を受けて、科学的に十分に確立されています。2°Cの制限内にとどまるというまともな見通しを持つなら、1兆トンの炭素が大気中に放出されることが可能であると国連は見積もりましたが、これは、付加的な温暖化要因やその他の温室効果ガスを考慮すると、約8000億トンにまで減少しました。この放出量のうち、産業革命の開始以来、人間の活動からの炭素排出によってすでに5,000億トン以上を使い果たしたとIPCCは計算しました。これは、収支の少なくとも半分がすでに使われていることを意味します。現在の排出の方向性では、残りのカーボン・スペースは、20年から30年以内に使い果たされると予測されました。

しかし、さまざまな研究がこれらの評価を更新し、私たちが1.5°Cの収支内にとどまる年数ははるかに残り少ないと割り出しました。2°Cが「危険な」気候変動を防ぐのに十分に安全なしきい値ではないことは、主流の科学およびNGOコミュニティの両方で広く受け入れられていますが、これまでの筋書きのほとんどが2°Cまたは3°Cに制限することに焦点を合わせています。そして、科学はより安全な1.5°Cの制限についてそれほど堅固ではありません。現在のCO2排出レベルでは、1.5°Cのための炭素予算を超えるまでに残された時間は5年未満である可能性がありますが、それさえも、帰還不能点のリスクや食料と人間の安全保障への過酷な影響を回避できる確率はわずか66%です。IPCC用語で「起こり得る」可能性と見なされる66%の確率が非常に疑わしいことは注目に値します。そして人間の活動の他の領域で容認可能と見なされるリスクレベル、たとえば、90%以上を適用するなら、1.5°C未満を保つための炭素予算は実際には何も残らないのです。

また、IPCCの推定値は、異なった仮説や方法論が使われ極度に複雑であり、大気中に見られる温暖化を増幅または低減するフィードバックプロセスについて多くの不確実性があるため、一定温度未満にとどまるためのさまざまな確率が必要とされますが、そのどれも保証することができないことは強調するに値します。IPCCの見積もりが寛容過ぎることと、全炭素予算が最高200%過大評価されているかもしれないことを発見した新しい研究がしばしば発表されています。

科学的に定義され、国際的に合意された上限を世界のCO2総排出量にどのように適用するかということ、そしてその後残りの炭素予算を国家または国民の間でどのように配分するかを考えるなら、その政治的、経済的、社会的影響は計り知れません。排出量を2°Cのしきい値に制限するという課題でさえが並外れたものであることは、国連の公式データからすでに明らかです。これらの目的に向けた緩和と財政的努力の公平な分担には、附属書I諸国からの大きな犠牲、開発途上国の重要な社会的および経済的ニーズへの新たな焦点、そして人類の歴史において前例のないある程度の国際協力が必要です。しかし私が述べたように、私たちはこの大きな文明の挑戦の真の範囲を認めるところからはまだほど遠いようです。パリ協定の政治的指導者たちは、目標と努力の分担の基盤としての全炭素予算について話し合うことすらできませんでしたが、化石燃料企業は、温度を安全な炭素予算内に保つことを不可能にする、新しい埋蔵量の開発に多額の投資を行うことを支援されています。

真に公平で、野心的なレベルの国際協力が国ごとにどのようにあるべきかについて、さらにコメントしてください。分かち合いの原理と、正義と衡平の原則を多国間気候体制にどのように変換すべきかを考えている現在の市民社会の具体的な成果として、何が考えられますか?

2009年のコペンハーゲンサミットの頃に知られるようになった、活動家サークルでの「気候債務」の議論から発展した市民社会グループの間のこの課題に多くの注目が集まっています。問題は、国連気候変動枠組条約の中の原則として長く受け入れられ、パリ協定の世界的指導者たちによって再確認されたものの、まだ定量的な世界的枠組みに変換されていない「衡平性と利用可能な最高の科学に照らして」野心的な気候体制をどのように発展させるかということです。したがって多くのNGOは、歴史的排出量と歴史的責任の概念が基本となる条約の中核的な衡平の原則をどのように機能させるかを検討してきました。

話し合われたさまざまな提案の共通点の1つは、気候保護へのあらゆるアプローチにおける経済的正義への懸念です。これは、グローバル・サウス諸国の持続可能な開発への権利を保護する、衡平性に基づく努力分担の枠組みの必要性を生じさせます。COP交渉の駆け引きは、これが単なる倫理的優先事項ではなく、地政学的現実論の基盤そのものであり、環境への野心を高めるための入り口であることを証明しています – これは、多くの市民社会のオブザーバーによって十分に議論されてきた点です。

たとえば、高く評価されているGDR(温室効果ガス開発権)の枠組みでは、持続可能な開発の権利は、国の気候変動に取り組む能力に関する計算で考慮されるべきではない1人当たりの所得レベルを意味する「開発しきい値」によって体系化されています。言い換えれば、国の能力は、開発のしきい値を下回る所得を除くすべての個人所得の合計として定義できます。これは、南北両方のすべての市民に合理的に適用できるように、そしてある程度適切な生活水準を反映できるように、公式の国際貧困ラインよりも高くなければなりません。これに対する説得力のある理由は、このレベルの収入を下回る人々、つまり開発の権利をまだ実現していない人々は、気候変動移行の負担を負う必要があるべきでないからです。

南北間の不公平な歴史的排出量をさらに説明するために、GDRの枠組みは各国の責任と総合能力を計算するための衡平性指標の使用も提案しています。たとえば、歴史的責任は、1850年や1990年などの合意された開始日以降の各国の一人当たりの累積温室効果ガス排出量によって計算され、開発のしきい値を考慮して調整されます。このように、世界的な緩和努力の一国による公平な分担は、その責任と能力を組み合わせることによって定義することができ、したがって一つの義務指標を生みます。もちろん、そのような指標の実際の動的可能性は残りの炭素収支を最初に定義することに依存します。そのためには1.5°Cの目標経路が明らかに交渉の基盤であるべきです。

ここでのGDR方法論の手短な説明はかなり大雑把で不完全です。衡平性指標の使用が、すべての国で世界的取り組みを共有するための定量化可能な公正なシステムをどのように提供できるかをよりよく理解するために、彼らの文献を参照することをお勧めします。しかし、彼らの重要な成功は、南北間の協力への主要な取り組みが実行可能な気候変動緩和の枠組みにとっていかに重要であるかを示すことだと思います。附属書I諸国は世界的な責任と能力の比較的大きなシェアを担っているため、国内の行動だけでは彼らの公平な努力の分担を達成するのは不可能です。したがって、彼らは持続可能な開発戦略に沿って、開発途上国に緩和の可能性を最大限に活用するために必要な資金、そして技術と能力開発へのアクセスを提供する義務があります。

COP21以前のこのような衡平性に基づいた枠組みの最新バージョンでは、INDCについての市民社会のレビューは、富裕諸国の公約された行動が各々の公平な努力の分担と比較してどれだけ大きく違っているかを示すことができました。その中心となるのは、大幅にスケールアップされた実行手段の必要性です。たとえば、米国とEUのINDCは彼らの公平な分担の約5分の1にすぎません。しかし、これらの推定値でさえ、2°Cの世界的な緩和経路に基づいており、完全に不十分なINDCに準拠しているため保守的かつ実利的です。そのため市民社会組織が、より深く、場合によっては法的拘束力のある公約を将来立てることを可能にする、「徐々に増加させていくメカニズム」を勧告するようになったことは強調されるべきです。

しかしやはり、分かち合いの原理と衡平の原則が中心にない限り、開発途上国が拘束力のある緩和の枠組みを受け入れることを期待することはできません。科学的現実に基づいて、貧困撲滅と人間開発はマーシャル-スタイルのゼロカーボン・エネルギー供給への移行と密接に関連していることを理解する必要があります。この行き詰まりを回避する方法は他にありません:グローバル・ノースの国々は、最初は大部分を負担する必要があり、グローバル・サウスの貧しい国々への技術的および財政的支援の大規模な国際トランスファーの義務を直視する必要があります。私たちが話しているのは、実際には1980年のブラント報告にやや類似した国際協力の新しいビジョンです。[1] 気候と貧困の両方の危機に同時に対処するために資源の世界的な再配分が必要とされる、生態学的境界を急速に超えている世界の現実を反映するように、報告書が更新されるときがきています。

ブラント報告書は世界的なケインズ式の刺激策に基づいた第三世界のためのマーシャル・プランのようものを提案しましたが、私たちは残りの炭素収支を衡平性に基づいて共有し、長期的には世界経済の大幅な縮小なしで1.5°Cまたは2°Cのターゲットを達成することは可能でしょうか?

これは、経済成長の優位性が滅多に疑問視されることのない主流の政治サークルや学界ではあまり信憑性のない質問です。しかし、私は、世界経済活動を断続的に強化することは危険な気候変動を回避し地球の生態系を維持するための試みと一致しないという点で、ローマクラブや英国のかつての持続可能な開発委員会のような多くのグリーン経済学者や環境シンクタンクの基本的な評価に同意します。炭素収支分析からこの問題に取り組んだ英国のチンダル研究所はまた、附属書I諸国における消費削減と経済収縮の即時かつ計画的な「脱成長」戦略の必要性について説得力のある議論をしています。

彼らの分析は、たとえば、パリ協定のINDCの誓約が始まる2020年まで行動をさらに遅らせるのでなく、2°Cの約束を果たすことは附属書I諸国に経済を大幅かつ即時に脱炭素化することをどのように要求するかを明確に示すため、検討する価値があります。唯一この基盤でのみ、発展途上国が2025年までに排出量のピークに達しながらも、化石燃料基盤の開発からの急速な移行に着手すると同時に経済成長を最小限にすることが可能になるかもしれません。チンダル研究所が衡平の原則に基づいて採用している累積排出量予算のアプローチによると、富裕国は今後数十年間で年間8~10%の排出量を削減する必要があります。これは、成長する経済と一致するには、ほとんどのエコノミストが考える成長の割合をはるかに下回っています。実際、深刻な経済収縮を経験せずに毎年4%でさえ長期排出削減に成功した国の歴史的記録はありません。英国の気候変動委員会によるスターン報告書が、年間1%を超える削減は歴史的に景気後退または激変に関連していると認めたことはまだ記憶に新しいところです。

したがって、チンダル研究所の評判の高いアナリストの結論は、米国、EU、およびその他の富裕国では、貧困国での継続的な経済成長と排出量の増加を相殺するために、計画された緊縮財政と急速な脱炭素化の期間が必要であるというものです。低炭素エネルギー供給への段階的で漸進的な移行の時期はもはやありません。それが完全に実施されるまでにはさらに20年から30年かかる可能性があります。したがって、従来の経済成長の追求に代わって、より直接的に再分配的な経済戦略を取り入れながら、エネルギーと資源の消費の公平な削減を意図的に追求しなければなりません。

これは間違いなく、自由放任主義のグローバリゼーションの機能不全な仮説への挑戦を提起し、正統的経済学説のパラダイムシフトと、GDP測定への執着を超えたマクロ経済学の新しい理論の必要性を示しています。これらはすべて、急進的な非主流派の公開討論で十分に議論されています。また、チンダル研究所の分析は、前述のように、1.5°Cではなく2°Cの経路に基づいており極度に低い50%の確率を占めるに過ぎないため、その想定は非常に保守的であるということも付け加えておきましょう。彼らのシナリオ経路を発達させてから4、5年間の排出量の増加をも考慮すると、富裕国の脱炭素化率は年間10%よりも大幅に高い、おそらく15%から20%の範囲である必要があります。控えめに言っても、それが示唆するところにはハッとさせられるものがあります。

資源の制約やその他の生態学的限界どころか、環境の制約だけで世界中の継続的な経済成長が成り立たないとしたら、これらがより広く意味するもののいくつかは何でしょうか? 誰もが地球の資源を公平に分かち合うことのできる世界の創造をあなたが信じるなら、これはすべての国家間および国内の生活水準の相対的な収斂を意味するのではないでしょうか。

経済学者の見地から、私たちが考察してきた研究と分析の主な意味合いの1つは、炭素強度を十分に減らすことによって継続的な生産増加や、いわゆる「グリーン」または「持続可能な」経済成長を可能にすることができるというほとんどの政策立案者の仮説には、大いに反論の余地があるということです。温室効果ガス排出を長期的に経済成長から切り離すことができるという信条は、架空のものではないにしても、恒久的かつ絶対的な切り離しがまれであることを示す証拠によって決して支持されていません。無数の研究がリバウンド効果の現象を引き合いに出していますが、その現象によって効率の向上はよりたくさんの成長と消費に再投資される傾向があり、したがって排出量の削減における意図された利益を無効にします。

さらに、富裕国が排出量と生産量を実質上他国に輸出しているという事実を考えると、それはまったく別の状況を呈します。国際航空や海運を含むすべての消費ベースの排出量を考慮すると、特に、急速に縮小する世界的な炭素予算に対して設定された場合、ほとんどの国にとってデカップリング(切り離し)のレベルはほとんど無意味です。これは全体として非常に物議を醸す結論を示していますが、世界経済を年々拡大し続け、より裕福な先進工業国で当然とされる現在の豊かさのレベルを普遍化しながら、それでもパリで提示されたカーボン・コミットメントを依然として満たすことが不可能であると推測できるのは明らかだと思います。エネルギー効率化技術と再生可能エネルギーによって生産性の向上が達成されたとしても、必要な規模の排出量の絶対的な削減は、世界のエネルギー消費の劇的な削減にも依拠するのです。そしてそれは、政府がもはや継続的なGDP成長を前提としない新しいマクロ経済政策目標を取り入れることに依拠することを含意します。

現在、定常経済の概念を中心に多くの理論的およびモデリング作業が行われていますが、あなたが質問で指摘しているように、本当の問題は、公平な世界的持続可能性への移行をどのように達成および管理するかです。それは、世界の排出予算をどのように公平に割り当てるか、または大気を汚染する権利をどのように分配するかという問題だけではありません;自然界をどのように使用し分かち合うかについても、はるかに大きくさらに難しい考慮事項があります。私たちがすでにいくつかの主要なプラネタリー・バウンダリーを押し広げ、世界人口が急増している一方で、誰もが公平に資源を分かち合う世界をどのように作ることができるのでしょうか?この分野でのいくつかの興味深い発見を通じて、エコロジカル・フットプリント分析は、資源に対する私たちの総需要が地球のバイオキャパシティをすでに50パーセント超えていることを示しています。消費者の中で最も裕福な20%が地球資源の大部分を独占しており環境劣化の最大の原因となっています。

「公平な地球の分かち合い」という理想は、この点でむしろ非現実的かもしれませんが、それは非常に不都合な真実を生活にもたらします – 物質的な生活水準の統一に近いものを環境的限界を破ることなく世界中で達成するためには、高所得国は一人当たりのエコロジカル・フットプリントを最大80%削減しなければならないかもしれないということです。もちろん、ほとんどの富指標および不平等指標の観点から、世界が分岐し続けていることを考えると、現在、統一する世界という明確なビジョンのある概念は、主に高潔な社会科学者の領域に限られているのですが。

国際社会として私たちは、真の協力と分かち合いに基づいて国境を越えた問題を処理するためにこれまで構築されたことのない国家統治システムに関して特に、生物物理学的現実の中で世界資源のバランスのとれた分配を達成することの計り知れない意味合いを直視したくないようです。気候危機とより広範な生態学的危機の両方が、果てしない経済成長と破壊的なエネルギー集約型、および消費者主導型の生活様式に基づいて拡大し続ける世界貿易のモデル全体を再考することを、国々に余儀なくさせているのは明らかだと言ってよいでしょう。しかし、本当の問題は、この巨大な社会の転換に必要な政策や方法についてのすべての考えに関係なく、生態学的に強靭でより平等な参加型社会への自発的な移行を実際にどのように開始するべきかに関係しているのです。

後でこの質問にさらに詳しく戻りましょう。とりあえず、議論をパリの気候会議に戻しますが、先にあなたが概説したような公平で野心的な多国間体制を達成する上での主な障害は何であると思いますか。

先進国の政府が化石燃料ロビー団体と企業クラスによって政治的に捉えられているかたわら、COP交渉がパワフルな既得権益層に支配されているという点で、主な障害は気候正義運動内のどの運動家にとっても確実にわかりきったことです。昨年12月のパリ・サミットは前例のないレベルの企業スポンサーシップを誇っていました。これは、バイオマスエネルギーの炭素回収や貯留などの市場ベースの技術主導型解決策への新たなフォーカスによって会議場内に反映されました。カーボンマーケットは、今や大々的に再検討されているようですが、これは政府が短期的に排出量の大幅な削減を約束する代わりに、気候危機から脱出する道を売買できるとまだ信じていることを示唆しています。化石燃料補助金の即時廃止、多様な農業生態学的食料システムへの移行、経済の再地域化、100%再生可能エネルギーへの世界的な転換計画などの実際の解決策が合意の一部になることは決してありませんでした。

パリ条約の核心にある矛盾は、枠組み条約が「世界の排出量の大幅な削減」または「持続可能な消費および生産のパターン」について多くの素晴らしい言い回しを使っているにもかかわらず、環境危機の体系的な政治的および経済的根源を基本的に無視しているという点で、ほとんどのオブザーバーにとって明らかだと思います。したがって、気候協定を交渉し自国の排出量削減を加速することを約束する一方で、政府は大西洋横断貿易投資パートナーシップ協定(TTIP)などの秘密主義的で環境に有害な貿易協定についても交渉を続けていました。漏えいした文書によると、欧州連合は、国際貿易を制限する可能性のある措置についてのパリ交渉でのすべての話し合いを阻止しました。そして、私たちが知っているように、密室で交渉されている多くの多国間協定は、化石燃料の輸出入の大幅な増加に向けられています。

国連の気候変動プロセスは化石燃料消費の需要側にのみ焦点を当てており、その生産には注意を払っていないという点で、明確な矛盾もあります。したがって、パリ協定が、現在5兆ドルの領域にある化石燃料補助金への莫大な年間の支出について何も述べていないことは驚くべきことではありませんでした。また、この問題に関する膨大なキャンペーンと公衆の支持にもかかわらず、化石燃料を地中に留めるというアイデアのすべてが最終合意で認められなかったことも驚くべきことではありません。国際輸送による汚染についても協定から完全に除外されています。これは、海運および航空産業が今後数十年で生み出す世界の排出の予想量を踏まえると、考えられないことです。

これらの難解な気候交渉を理解しようとする善意の一般人にとって、一つの明白な結論は、私が商業化勢力として述べるものが議題を乗っ取ることを許している国家元首を信頼できないということです。TTIPのような秘密主義的な貿易協定の密室交渉で何が起こっているのかわからないのと同じように、COPプロセスの企業サーカスの中で実際に何が話し合われているのかを知る人は外部に誰もいないのです。私はしばしばこれらの政府の指導者を政治的会計士と呼んでいます。なぜなら、彼らは自国に戻った途端、彼らが常に支持する主要な汚染企業とその利益のためにより多くの契約を結ぶだろうからです。

私たちの英国政府を例にとると、彼らは大々的に宣伝しながらパリ協定に署名しましたが、翌日、再生可能エネルギー補助金の大幅な削減を発表し、 国立公園や野生生物保護区下においてさえ、地方の新たな領域を水圧破砕に開くことにより後退しました。オバマ大統領はまた、パリ協定が合意されたわずか数日後に、原油輸出の40年間の禁止の終了を締結させました。これは、炭素排出をさらに激化させるだろう石油産業への大規模な投げ売りでした。ですから、政府のこれらの政治的会計士は抑えのきかない市場勢力のイデオロギーに完全に支配されており、したがって地球救済などの重要な問題を呑気に彼らに任せておけないことを誰が否定できるでしょうか?

これらの定着した企業勢力と強力な既得権益層を前にして、政府の政策を正しい方向に転換させるために一般人に何ができるでしょうか?

活動家と従事する市民が、最優先事項としてゼロカーボン経済への移行を政府に強いるために、何度も繰り返して大規模なデモンストレーションと直接的行動を組織すべきときが来ています。私たちは、一般の人々が全体として参加し、消費主義と業務平常通りの考えそのものに対しておよそ巨大なボイコットをしているかのように、急速な社会変革の必要性を受け入れねばなりません。平和的なデモに対するオランド大統領の日和見的な禁止にもかかわらず、気候交渉中にパリで見られた刺激的な抗議活動が、すべての都市ではるかに大きな規模で行われることがまさに必要とされます。

私たちは今、毎年1、2回だけでなく、そして締約国会議の間だけでなく、世界中で継続的に抗議しているべきです。21世紀、総累積排出量は比類のない速度で増加しており、今述べたように、世界のリーダーたちが世界の大衆からの膨大な圧力なくして効果的な緩和行動を取るだろうと信じるのは世間知らずか愚かというものです。また、2008年に国際為替市場が暴落した後、崩壊する銀行を救済し経済を復活させるために政府が環境問題を直ちに棚上げしたことを忘れないでおきましょう。多くの主要なアナリストが予測しているように再び深刻な世界経済危機が勃発したらどうなると思いますか。

私たちが直面している環境問題の規模を総合的に見ると、世界中での大規模で絶え間ないデモンストレーションが政府に優先事項を再調整させるための唯一の解決策であることは明らかです。私たちが国民として政府に依存しているのではなく – 主要な企業の利益と財政的利益を優先し続けることを許している現在のパブリック・エンゲージメントの欠如に彼らが依存していることから実際はその逆が真実です。別の見方をすれば、集まった世界の指導者たちは、1.5°Cの上限温度という見出しを飾った目標に同意することで彼らの役割を実際には果たしたのです;現在、必要な社会的、政治的、経済的、技術的変革を達成するために相応の行動が取られるまで、日夜デモを続けるのは一般の人々の責任です。

また、環境に関する大規模なデモはすべて、政府に届く音を立てるだけでなく、一般人に情報を提供し、環境緊急事態についての認識を広げるのに役立つことでも注目に値します。その効果は絶大です。メディアはこの点で、公衆を教育することにおいて重要な役割を持っており、気候の大惨事を回避するために彼らが社会的変革への必要性を絶えず報道するなら、世界中の怠慢な政府の面前で抗議デモが途方もない規模になるのが目撃されるかもしれません。もちろん、主流メディアがこのように行動することは2、3の例外を除いては稀です – たとえば、2009年のコペンハーゲン会議に先立って、より公平に気候変動と戦う負担を分担するよう政府に求める社説を一面に掲載するなど、世界中の新聞が共通の声で報道するという画期的な行動などです。[2]

しかしながら一般的に、主流メディアは気候危機への取り組みの本当の範囲と緊急性について公衆を教育するという、極めて重要な役割を果たして来ませんでした。それどころかメディアのほとんどは、企業後援者や政治的恩人のために虚偽のプロパガンダを拡散することに忙し過ぎて、気候問題は完全に放置状態です。たとえば、英国でも、大衆紙であるタブロイド紙は、パリで「歴史的な」気候協定が合意された翌日、それを一面トップ記事として取り上げませんでした。しかし、これは人類の将来の存続を決定するかもしれない問題であり、最終的にすべての人の協力と参加を要求するであろう根本からの体系的変革、および生活様式の変革を必要とするでしょう。

ここ数ヶ月、そして数年にわたって、何万人もの人々が、化石燃料を地中に留めるための世界的に高まる行動に参加し、クリーンエネルギー時代への公正な移行を協調的に呼びかけて来ました。デモ、抗議運動、市民的不服従の復活は、公衆が気候危機の現実に目覚めている兆候だと思いますか?それとも、あなたが思い描いているような広範な社会運動を見るまでには長い道のりがあるのでしょうか?

実に、一方では、真に十分に野心的でない気候変動協定があり、もう一方では、十分に野心的でない世界の大衆がいます。たとえば、2014年9月、気候危機に対処するために政府に大胆な行動を呼びかける約40万人がニューヨーク市の街頭に集まり、アメリカ史上最大の気候デモが行われました。しかし、アメリカには3億人以上の人々がいるのです。したがって、40万人が抗議活動に従事すると同時に、他の何億人もの人々は消費活動に従事していたと言えるかもしれません。同じことが、大規模な気候変動デモが最近起こった他の十数ヵ国についても言えます。これらのデモは、人口全体と比ベて比較的小さいままです。実のところ、環境にとっての最大の危険は、汚染する企業やそれらから恩義を受けている政府だけではありません;それはまた、一般大衆の自己満足的な無頓着さや完全な無関心でもあります。

化石燃料を地中に留め、分散型再生可能エネルギー源に切り替え、より特定の地域に限定された生態学的に強靭な経済を発展させ、企業の取り囲みからコモンズを保護するなどの必要性に対する成熟性と聡明さをもってキャンペーンを行う多くの献身的な活動家がいるのは確かです。しかし、彼らは全人口のサポートを必要とする仕事を成そうとしている比較的少数の人々です。彼らは事実上、他のすべての人のために仕事を成そうとしていますが、それは、私たちが気候変動の大惨事に向かっていると科学者が警告しているとき、道理に合わないことなのです。

これらごく少数の活動家たちは、世界を救うためにできる限りのことをしています – 残りの人々は、世界の問題を他人と政府に任せている消費者市民として最も適切に説明されます。したがって、政府が商業化勢力に支配されている一方で、消費者市民が自己満足的な無頓着さと無関心に支配されていることに私たちは気づくかもしれません。このうんざりするような憂鬱な現実の中で、多くの活動的な善意の人々が万人のより大きな利益のために戦おうとすることに飽き飽きし、圧倒感を感じているのは当然のことでしょう。

しかし、環境運動家は別の事実に注意する必要があります:特にコペンハーゲン協定の失敗に対する国民の怒りを踏まえて、世界のリーダーたちにパリで普遍的な合意を達成することを余儀なくさせたのは、大部分が環境運動家の活動と世界的なデモでした。教皇フランシスコの不平等と過剰消費に対する強い批判もまた、世界の指導者たちに人々の声を認めるよう促した重要な要因です。環境問題に関するローマ教皇の助言には、環境危機を解決するために世界資源を分かち合うことの正当性を効果的に主張する彼の最近の回勅に反映されているように、信者と不可知論者が同様に細心の注意を払うべきでしょう。

ローマ教皇が本質的に認識しているのは、私たちが世界全体の生活水準の極端な格差と闘わない限り、生態学的問題と闘うことはできないということです。これは、悲しくも人類の活動に欠落した世界的な結束感と相互依存感を必要とします。彼の教えは、社会を変革する責任は、強力な金融勢力によって駆り立てられる傾向のある一般的に広い視野を欠いた権力層の政治家だけにあるのではないことを明確にしています。放蕩な消費主義の生活様式を維持する社会的条件づけを克服し、代わりに物質主義的な考え方と一般的な「技術経済パラダイム」を拒否する生活への新しい態度を発達させる本当の責任は私たちにあります。[3] それは、よりシンプルで、より正気で、より平等な世界を支持する何百万もの人々と結束することからスタートすることができると私は提案します。

パリ会議の間、多くの活動家は、市民社会の緊急の要求と、最も脆弱な人々や人類全体の利益でなく富裕層と権力層の利益を首尾一貫して優先する「政治的会計士」とあなたが呼ぶ人々の現実との間に大きなギャップがあるという所見を述べました。持続可能な経済への移行を成功させるためにこのギャップをどのように縮小できると思いますか – 再生可能エネルギーへの完全な移行に向けて必要な政治的意志を生み出すために、市民社会団体がひとつの声をもって団結しなければならないとあなたは言っているのですか。

公平な気候協定に関して私たちが概説した幅広いビジョンは、政治的会計士が政府を支配し続けている限り成功することはなく、最終的に彼らがそのような常識的な提案を受け入れたとしても大変長い時間を要するでしょう。そして警戒すべき400ppmをすでに超えているこのときに大気中の温室効果ガス濃度を350ppmに維持する必要があるなら、そのような時間は私たちにはないのです。地球温暖化を制限すべく決定的な行動をとるのに今後10年間が重要であることは気候科学者によって明確にされていますが、政治的「リアリズム」と急速な体系的変革の必要性との間の一見橋渡し不可能なギャップを見ると、私たちは行き詰まっているようです。

多くの人々は、社会運動、環境および開発NGO、そしてすべての革新的な市民社会組織が共同戦線を組んで政府に必要な行動をとるように挑戦することが前進の道であると信じています。そして、そのための多くのイニシアチブとマニフェストが現れては消え、一般的にほとんど何も達成されていないことを私たちは見てきました。残念ながら、これらのイニシアチブは、文字通り何百万人もの人々が参加する大規模な抗議デモと平和的な直接行動を通じて一般人の大部分が支持しない限り、決して機能しないでしょう。そして、現在のところそれは程遠いのです。

世界全体があまりに多くの不正義と苦しみで溢れているため、現時点でこれら多くのNGOの運動が切実に必要とされています。したがって、これらの組織が、気候変動の取り組みへの行動を政府に要求するための闘いに全エネルギーを注ぐなら、彼ら自身の活動に悪影響を与えるかもしれません。私の見立てでは、彼らの取り組みは政府や多国籍企業と同じエネルギー線上にあり、一方がさらなる商業化、社会的分裂、環境破壊への誤った動向を激化させているかたわら、NGOは反対方向へと引っ張ってその被害を緩和しようとしています。それは確かに1つの戦いですが、その戦いはあまりに多くの異なった方向に広がっており、すべてのNGOは独自のやり方で各々の目標のための戦いに没頭しているため、集合的努力を調和させることができません。

したがって、公衆の無関心と無気力が広範な現状において、NGOと市民社会団体が集合的に先導するべきだと信じるのは誤った考えです。世界的な不正と環境劣化の状況の深刻さを公衆全体が認識することが必要であるときに、それは一般市民が問題を見るには自己満足的で無頓着なやり方でさでさえあります。この認識がもたらされるなら、公衆の集合的な声は非常に高まり、政府がNGOの提言に耳を傾けることを余儀なくされるまで公衆はNGOに力を与えるでしょう。この意味で、公衆の支持は多様な目標の中で結束するNGOの事実を象徴的に表すでしょう。


パート II:内なるCO2と外なるCO2

化石燃料の大部分が地中に留めておかれるべきだという一致した意見の高まりにもかかわらず、気候危機から利益を上げたり、あるいは化石燃料産業の利益を促進し続ける権力的リーダーや企業のエグゼクティブの考え方をどのように説明しますか。

最も総合的な評価から、私たちが実際に目撃しているものは、相反する右翼と左翼の政治、あるいは断固とした革新派的態度と反動派的態度の間のますます分極化する考え方に表されるように、古い時代と新しい時代の間で起こっている戦争です。私たちはまた、国家および世界レベルの両方で悪化する極度の不平等によってもたらされたますます拡大しつつある社会的分断とグローバル紛争も目撃しています。したがって、この激化する危機と無秩序の大混乱の中ロビー活動と気候変動を否定することにより、彼らの化石燃料産業エンパイアを維持することを何があっても止めることのないコーク兄弟のような億万長者の企業のエグゼクティブの意識は、平均的市民にとって理解しがたいものです。

地球を破壊することによって利益を上げている人々はまた、キーストーンXLパイプラインに反対する活動家や化石燃料への投資撤退を支持する人々など、彼らと戦う人々の意識を理解することは決してないでしょう。今日の気候危機から恩恵を受けている人々の考え方をもはや誰も理解することのできない時点にきています。これには、汚染する企業と新たな契約を公衆の背後で交渉し続ける間、気候のための野心的な取り決めに最大限の努力を投じると公言する政治家などが含まれるでしょう。したがって、時代遅れなやり方を代表する利己主義的な個人の意図を理解しようとするよりむしろ、私たちの集合的未来のために戦う環境活動家の考え方を理解し、遅れをとらないように彼らに加わるのが良いと言えるでしょう。

100%の再生可能エネルギーおよびより資源集約型でないライフスタイルに向けて社会を移行させることの経済的、環境的および社会的な正当性がどれだけ明らかであるかを考えると、政府が緊急にこの壮大な社会変革を進めるために必要な政策をなぜ実行できないでいるのか、一部の人には実際のところ不思議に思えるかもしれません。改革的思想家がこの適切な政治的行動の欠如を現在の経済システムとそのイデオロギー的な優位性による制約の観点から説明できるとしても、経済的グロバリゼーションや新自由主義の理論的分析に要約することのできないさらに深い何かが陰で起こっています。

秘境的および霊的観点から、現実には、新しい生命力が世界に急速に入り込んでいますが、競争、頽廃、そして権力への渇望という古い過去のあり方に終わりがきていることを認識する聡明さも尊厳も支配者層の政治家たちはもち合わせていないのです。これらの古いやり方の最も極端な支持者たちは、自国を再び偉大な国家にし、右翼と左翼の「主義」を通じて権力闘争に従事し続けること以外について何も話しません。それは、国家間の善意と協力の表現を最終的に妨げます。常にそうであったように、これらの無知な態度に起因する政策の巻き添え被害を被るのは、世界の貧困者と環境です。

悲しいかな、今日の主流の政治において、分かち合い、正義、正しい人間関係に基づく経済的および政治的変革を要求する、世界に参入している新たな勢力を、政治家が受け入れるときがきたことを、意識的または直感的に認識している賢明な男女の存在は非常にまれです。最終的に、気候変動の根底にある原因要素は人間の意識または認識の問題であり、この問題は、本質的に霊的なものである私たちの時代を定義する、相互に関連したすべての危機と密接に関係しています。

気候変動は本質的に霊的なものであり、人間の意識の問題に起因すると言うことであなたが何を意味するのかを詳しく考察することは興味深いでしょう。革新的思想家や従事する市民が、人生の霊的理解を政治、経済、環境問題と融合させることに価値はあるのでしょうか?これは、より霊的または秘境学的観点から人類の問題を詳しく検討するあなたの現在進行中の執筆作品「分かち合いの原理についての考察」の主要なテーマのようですが。

ここであなたは私にこのインタビューで非常に異なる種類のエネルギーと原動力でまったく新しい方向をとるように求めていますが、光栄なことです。なぜなら、私の主な関心事は、COP交渉や他の国連サミットの政策を詳しく解説することではなく、むしろひとつの人類の観点から私がよく言及する私たちの世界的な相互関連性の霊的理解に基づいて、公衆の世界的な蜂起の扇動を促進することだからです。持続可能な経済システムへの公正な移行が実際にどのように起こり得るかという現実を把握したいのであれば人生の内部の側面を認識することが不可欠ながらも、政治と霊性の交差点は、ほとんどの活動家のサークルでほとんど議論も理解もされていません。

今考察したように、経済力、競争、そして利己的な資源の獲得に基づく古い政治的考え方のイデオロギー的支持者は、結集した善意と、自己知識に基づく真の教育を通じて世界をどのように変革するかについての教えに興味をもつことはなさそうです。しかし、私たちは、より良い世界を提唱する聡明な人々が、そして特に若者が、ハートとその特質の認識に根ざしたより全体論的、包括的、あるいは霊的知覚能力によって政治問題を検討するよう求められる時代に達しました。

私たちが世界資源を分かち合うことのより深遠な霊的意味合いを理解することに心から関心があるなら、私たちはアドボカシー活動と政治理論にこの新しいハートについての理解を取り入れることを学ばねばなりません。それは、私たちが社会および環境正義のための多様な目標を諦めなければならないとか、政治的追求と並行して特定の秘教哲学について読み始めなければならないとかいう意味ではありません。私たちが読む価値があるかもしれない多くの霊的な教えがありますが、それはむしろ、私たちの分割され宿命的に商業化された世界での正しい人間関係の意味をもっと自身で追及するという問題です。そうすることは、私たちの現在の活動に利益をもたらし、社会がどのように変革されるべきかということについての理解を深める以外あり得ません。したがって、私の第一の関心は、このさらにハートが従事するエネルギーと人類全体の相互依存に対する新たな認識を通じて善意の一般人が思考の中で異なった経路をどのようにとることができるかということです。

環境問題に関しては、これを内部と外部のCO2、または地球の将来の持続可能性を脅かす、異なるが相互に関連する2つの汚染形態と考えることができます。外なる汚染は大気と自然環境の観点から無限に議論されていますが、より大きな問題は、数千年にわたって人類の活動を決定し、現在の文明的または霊的危機に至らせている内なる汚染です。つまり、貪欲、利己主義、甚だしい野心、傲慢、自己満足的な無頓着さ、無関心、偏見、憎悪などです – これらは、私たちの集合的な運命を形作り、私たちの周りに見られる悲惨な環境的影響をもたらし続けている内なる態度と意図です。外なるCO2はそれ自体だけでは発生しません – それは明らかに、個人から国家および政府間レベルに至るまで、私たちの思考と行動を動機づける内なるCO2の結果です。

したがって、私たちの社会の一般的な「内なる」価値観が物質主義的で利己的な懸念に大きく条件づけられているとき、大企業や政府の外なる活動と戦うだけで、安全でバランスのとれた環境を実現することは最終的には不可能です。何百万人という無数の個人の意図によって表現されるように、利益、権力、富、贅沢への衝動がすでに地球を4度またはそれ以上に加熱させるように私たちに強いているとき、地球の気温上昇を1.5°C未満に制限するにはどうすればよいのでしょうか?それでも、社会変革を即すために私たちの文化的価値観に働きかけることの重要性を考える市民社会などにようやく反映され始めているように、より成熟した環境運動家だけが人類の内なる態度をどのように変革するかというこの問題に熱心に考えを巡らせているのです。

特に地球環境危機に関して、この「内なるCO2」と人類の相互依存性の意識を理解し、それに基づいて行動することによって利益をもたらすことができる具体的な方法は何ですか?

以前、私たちは、政府と大企業が、化石燃料を地中に留めたり、クリーンエネルギーで回る世界もっとに緊急に移行したりするなど、気候危機に対処するために協調した行動をなぜもっととらないのかという理由の背後にある謎のようなものについて話していました。そして、この問いに実際に答えるためには、グローバル資本主義の間違っている点や、経済システムの変革の方法についての体系的分析の観点から「外なる」説明を見るだけでは不十分です;それと並んで、問題の内的または心理的な原因と、人間自身がどのように変わる必要があるかを見る必要があります。

この一連の疑問を追求することの価値は、世界の危機のより深い霊的性質に波長を合わせている人にとっては自明なはずですが、それは、私たちのハートとマインドの両方をつなぐより総合的な認識によって人類の問題を見ることを学ぶことを要求します。ただし、ハートとその属性は決して複雑ではなく、最もシンプルな基盤でしか理解できないことを覚えておいてください。これは、世界の問題に対する「内なる」認識が、知識人や鍛錬された政治活動家に訴えかけることに多くの場合なぜ失敗するのかという理由の一部を説明しています。

上記の例に従って、このよりハートを使った考え方を取り入れることで、100%再生可能エネルギーとよりシンプルな生活水準への移行を比較的短い時間枠で達成することが可能であるとわかりますが、それは政治的意思があるかないかの問題ではなく:より根本的に、それはどれだけの愛がそこにあるかという問題です。たとえば、水産業やアグリビジネス、または多雨林伐採、露天掘り、山頂除去の周りの外部の活動の背後にあるすべての人間の意図を理解するなら、それが自然に対する愛の態度や畏敬の念よって動機づけられているのではないことは明らかだからです。それは、市場勢力と複雑な経済的インセンティブに基づく経済システムに準拠することによるお金と利益の考え方のみに関係するのです。

この「愛」についての話は、私たち全員がどのようにお互いに仲良く、そして自然とともに平和に暮らすかについてのあやふやなアイデアに失われてしまうべきではありません。なぜなら、私たちが本当に理解したいのは、社会的不正義の根本的な心理的原因であり、私たちの機能不全社会の中から発生する環境劣化だからです。最も基本的な霊的および心理的意味での「愛」は「害を与えない」ことを意味しますが、お金と利益の追求の背後にある意図自体は、お互いに、そして私たちの周りの世界に、そして私たち自身にとってあらゆる方面で有害です。

大規模なオイルサンド事業の取締役が、美しく遠く離れた田園地帯に近づいたとしても、この世界に存在する万物に対する愛の態度と畏敬の念に動機づけられているなら、明らかに、その自然環境を破壊することはなく、環境劣化を激化させるのではなくむしろ癒すことを促進できる何か他のことを人生に求めていたことでしょう。世界の問題を内なる認識を通して分析すると、これらの個人が彼らの活動から莫大な利益を得ている唯一の理由は、彼らが自分自身を知らないか、自分の中にもっているものを知らないからです。つまり、内なる自己の真の霊的現実です。なぜなら、結局のところ、自己知識と認識の欠如が私たちのすべての問題の根底にあるからです。

このような人間的かつ基本的に霊的な観点から世界の危機を検討することは、多くの人々に幅広くアピールするかもしれませんが、革新的な活動家や学者が、彼らのさまざまな活動や目標に関連して、よりハートを通して考える方法を取り入れることの実際的な利点についてもっと明確にできますか?より良い世界を切望し、戦う人々にとって、この方向性の追及の真の重要性は何ですか?

この問いに自身で答えるのを助けるために、あなたが先ほど使った「政治的意志」というフレーズをもう一度よく見てください。しばらく沈思黙考すると、そのフレーズ自体に希望感がないどころか絶望感を生みさえすることに気づくでしょう。なぜならそれは、現在の秩序が不変であり、代替手段がないという幻想に包まれているからです。私たちが古いやり方と新しいやり方の間の今日の戦争をどのように目撃しているかを考察しましたが、「政治的意志」というフレーズの語源のすべてが、過去の冷戦時代の古いやり方どころかそれ以前のジョン・ロックやアダム・スミスのような古典的経済学者の時代に属しています。それは、本質的に、変革は私たちの政治指導者、そして権力と影響力をもつ人々の行動によって上方からのみ起こることを意味しています。彼らは、下方からの大衆の強い圧力によって、最終的にエリートの利益への僅かな負担を通して小さな懐柔的意思表示を示すかもしれません。

ここで、そのフレーズ「政治的意志」を「愛の行動」の考えと対比し、危機的な世界状況に関してこれが何を意味するかを想像してみてください。1つは未来のものであり、世界に急速に参入している新しい勢力と統一的エネルギーのものであり、もう1つは、私たちの相互に連結する体系的危機の混乱の中で現在急速に崩壊している古い秩序と制度を象徴しています。したがって、今日私たちが最も必要としているのは、必要な政策を実施するという政府の単なる「意志」ではありません。これは、現在私たちの国を運営している政治的会計士に、私たちに代わって地球を救うよう求めるのと同じことです。私たちに必要なのは、世界の中での愛と知恵の現れです。愛のエネルギーが人類の集合行動の背後にある一般的な動機づけ要因であったなら、政治的会計士や政治活動家のようなものは存在しなかったでしょう。私は以前に、無神論者は他者の神への信念と拮抗することなしには存在できないと書きましました;同様の比喩を使うと、私たちの世界に愛なくして政治活動家が存在することはできないのです。[4]

私は、政治的行動主義が現在の形態においてともかく無駄であるとか誤った方向に進んでいるとか示唆しているわけではありません。それは激化する社会的および環境的混乱を考慮するとまったくその逆です。しかし、何百万人もの人々が貧困の中で死にゆき、人為的な気候変動の問題が壊滅的クライマックスに迫り、冷酷な窃盗と憎しみが国際情勢に蔓延る、豊富な資源のある惑星で私たちが自分自身で「愛」が実際に意味することを理解したいのであれば – 良識と生来の慈悲的な意識を使うだけで十分です。ここで観察していることは非常に平凡でありながら賢明です。なぜなら、ハートの真実は常に飾り気がなく、シンプルだからです。今日の世界問題の状況における愛は、無執着の必要性と密接に関係しています;この点で、それは、貪欲、利己主義、そして激しい競争、環境破壊および合法化された窃盗の古いやり方への執着を捨てる必要性を意味します。

したがって、この内なる観点と認識を取り入れることの実際的な利点を理解するために、一見不可解な問題を改めて慎重に検討するべきです:私たちの社会が、世界規模で、クリーン・エネルギーと環境的に持続可能でより公平な生活水準にいかに迅速に移行することができるかを考慮すると、その達成を妨げていもるのは何でしょうか。繰り返しますが、その答えは霊的および心理的な観点から複雑ではありません – それは単純に、そして常に愛の欠如です。なぜなら、この世界で愛の顕現なくして、そして人類全体の霊的ハート・センターの目覚めなくして、大衆によって受け入れられるより啓発された社会秩序を提案することは不可能だからです。消費レベルを制限したり、資源を分かち合ったりするように上方から課せられたどのような政策も、必然的に抵抗され、反対され、そして最終的には拒否されるでしょう。そして、そのような政策が既存の政府によって策定されると本当に私たちは想像するのでしょうか?

したがって、この一連の追求を世界的な社会変革の問題に適用したなら、これが私たち個人にとって意味することは、これ以上的確ではあり得ません。たとえば、9.11同時多発テロ後の2003年にイラク戦争の準備が始まったとき、全世界の注目はその単一の出来事に集中していました。さて、環境問題の意味合いは9.11よりもさらに不吉であるはずですが、全世界が、同じレベルの応答性と心からの懸念をもって、暴走する気候変動の危険性に焦点を合わせるには何が必要であると思いますか?同様に、主流社会が、世界の飢餓の現実に不断の注意を向けるには何が必要であるかを考える必要があります。飢餓の危機は、環境問題と密接に関連していますが、十分な愛がありさえすれば解決できるのです。しかし、非常に多くの人々が快適な「暮らし振り」を邪魔されたくないという、人類の蔓延る自己満足的な無頓着さと無関心を考えると、世界の問題に対するこの内なる認識のより大きな重要性は、私たちの直感に任せる以外ありません。

私たちの相互関連性についての新しいメタナラティブと、自然への管理責任および畏敬の念の態度に基づいた、気候変動の問題に対する霊的な対応の必要性を認識する個人とグループがますます増えているようです。あなたが広く定義している内面的または霊的な観点から、世界的な生態学的危機の起源についてのあなたの見解を説明してもらえますか?

何世紀にもわたって、人類は幻想を生き抜いてきました。そして、それらの幻想が急速に崩壊する今、全世界は混乱し、方向性を失い、明確な前進の道がないようです。古い考え方を維持する信念や教義の多くは、常識で見てもそうですが、新しい科学的および人類学的発見を通じて現在疑問視されています。これには、貪欲と利己主義が人間の進化の原動力だということや、競争と不平等が自然な社会秩序だということ、または戦争と貧困が不変の人生の事実であるという文化的に深く染み込んだ信念が含まれます。私たちは皆、自身の人生経験の中でこれらの時代遅れな信念の誤謬を認識したとしても、それらによって維持されている幻想は親しみのあるものです。たとえば、富が幸福への鍵であるとか、権力や成功が、勤勉、競争心、個人的な野心の然るべき報酬であるとか今日誰が進んで公言するでしょうか。

それでも、比喩的に言えば、政治家と実業界は、これらの幻想を絶えず製造している大工場のように振る舞い、既存の古い幻想の形態がもはや機能しなくなったときはいつでも、新しい形態を絶えず創作する、業務平常通りを持続するための体系的手段を偶発的に開発した程でした。そもそも最初に危機を生みだした同じ利益志向で競争の激しい物質主義的考え方を追求し続けることによってあたかも気候危機を解決できるかのように、気候変動の取り組みにおける企業技術と市場ベースの解決策にフォーカスするということをこの観点から観察することは有益です。内なる観点から見ると、人類は古い幻想によって非常に条件づけられているため – ヨーロッパ全体を通しての難民や移民の大規模な流入、国内における不平等の極端な拡大、あるいは実に、環境危機全体としてなどの – 世界の危機が、私たちが現実に目覚め、人生に対する私たちの全体的な態度を完全に変革することを余儀なくさせているのだと悟ることを、私たちは拒否しています。しかし、人類は余りに頑なであるように思われ、周りで世界が大混乱で溢れているにもかかわらず、お金、権力、そして成功を私たちは求め続けるのです。

私たちのすべての幻想の根底にあるのは、自己調節型プロセスの中でシンプルそして調和的に生きようとするよりむしろ自然の法則を巧みに操作し、その奔放に分配された富を所有することにより自然を「支配」する力をもつことを意図して人間が環境から自己を切り離すことができるという信念です。しかし、地球の豊かさを掘りだし、まばゆいばかりの豪華な巨大都市を構築できることは非常に素晴らしく思えるかもしれませんが、これらは人間が開発した自然に対する非常に取るに足らない力です。私たちの最も洗練されたテクノロジーさえ、自然の力の「範囲内」で機能するよう開発されていないため、それらすべてが直接的または間接的な方法で地球の漸進的な荒廃に貢献しているのです。人間が自己の内なる態度を完全に変えない限り、彼は事実上墓穴を掘っているのです。なぜなら、自然自体は幻想ではなく、最終的に私たちに対して反逆を起こすだろうからです。または、少なくともそのように見えるかもしれません。

もちろん、より深い霊的真実は、人類が自然のバランスのとれた機能のために永久に不可欠であるとき、自然が人類の集合的犯罪に対する報復を求めることはできないということです。人間は生命であり、より高い霊王国と、動物、植物、鉱物などのより低い自然王国の間の不可欠な中間点です。したがって、人間が自然環境を支配し、その限られた資源を過度に搾取しようとして破壊と膨大な苦しみをもたらすとき、彼は自然万物からだけでなく、彼とは不可分なひとつの生命の霊的現実からも自身を切り離しているのです。ですから、変革すべきは天候でなく、人間の幻想と誤った意図の程度を最終的に知覚することによって人間自身が変革するしかないのです。言い換えれば、私たちは、人間の力と技術の進歩の利益と誇大妄想の名の下に、自然界を正道から逸脱した私たちの意向に曲げようとするのではなく、自分自身を知り、すべてをありのままの姿でそっとしておくことを学ぶ必要があります。

私たちは自然の法則を制覇することを求めているだけでなく、人間の優越性と環境からの分離の幻想に対するおよそ精神的に異常な程の自己投影を通じて自然をいじめているのです。歴史上の特定の独裁的人物たちは、個人の力と偉大さの傲慢な幻想に対する自己投影でよく知られていますが、私たちは、現在、制度化されたさらに壮大な規模で、同様の幻想を具現化する巨大な多国籍企業によって支配される世界に住んでいます。したがって、これらの利益を追求する巨大組織が自分たちの目的のために法律や政府の政策にどのように影響を与えることができるかを考えると、彼らの意図がさらに危険であると予見することができます。また、これが、どのようにインダストリーとしての企業のロビー活動、マーケティング、広告の間接的な目的であるかがわかります – つまりそれは、自然環境と、自己認識による人間の霊的成長にどのように悪影響を及ぼそうが、社会の幻想を作り出して維持することです。

明確に言うと、私たちがここで関心をもっているのは、アイデア、信念、または「主義」に対する私たちの自己投影ではなく、人類全体の霊的進化を妨げている危険な幻想に対する私たちの文化における広範な自己投影です。私たちは啓蒙時代から一種の無邪気さをもって自然を超越する知識と力の探求を始めたかもしれません。そして今日、自然界の謎を解き明かすことによって地球制覇を達成することに非常に誠実な意図をもち続ける多くの才能ある科学者と技術者がいることは間違いありません。この考え方は、私たちの教育機関の全体系を通して広げられています。そこでは、エリート教育を受けた人々でさえ、事実上、地球を略奪し、そして富、権力、高評価、またはうわべの成功を追及するために他者を踏みつけるように条件づけられています。

いわゆる「良い教育」を受けた個人たちが、特に高い社会的地位を達成し、それによって利己的な商業化の術に準拠するよう促されることによって、今日の悲惨な社会的および環境的動向を実際にどのように永続させているかについて私はどこかで考察しました。[4] 確かに、1980年代以降、世界情勢で統轄要素となってきたのは、無限の利益の追求へのビジョンのない衝動であり、そしてそれは非常な分裂と破壊をもたらしているため、最終的に私たちは自然環境を支配してその資源を制約なしに略奪することができない自分たちの不能さに直面することを余儀なくされています。商業化の複合的な勢力は、人類の「大きな幻想」の提供者として述べることができ、幸福への道として、大邸宅やスポーツカーを所有することを夢見ている普通の人から連邦議会の企業のロビイストおよび何を犠牲にしてでも世界中で権力と利益を求める国防総省の戦争計画者に至るまで、すべての人を惑わしています。

私たち全員がある程度これらの勢力のしもべであり、環境がひざまずき慈悲を懇願しているときでさえ、社会の幻想に従うことにより私たちはそれらを維持しています。そして見たところ、蔓延る商業化の悪意に満ちた影響力を人類の大部分が依然として認識していないという事実は、恐るべき幻想のパワーのせいであること以外考えられません。これらの幻想が私たちの集合意識を圧倒し続けるなら、私たちが世界規模の核戦争の最終的な始まりを目撃するまで、それは徐々に人間の心を乗っ取る巨大なスーパーコンピューターのようになるでしょう。現時点では、このような見通しは突拍子もないように思われるかもしれませんが、あなたの直感を使って、商業化の幻想が私たちを導いている最終目的地を熟考し、この見解に反論することができるかどうかを見てみてください。

私たち全員が商業化勢力にある程度仕えており、したがって、私たち全員がこの途方もない幻想の一部であると言うことで、あなたが意味することをさらに説明してもらえると助けになるかもしれません。私たちは個人として、グローバル資本主義の既存の社会経済秩序をどのように維持し、この新しいミレニアムにおいて実際に信じ難いように見えるかもしれない国民国家間の全面戦争の最終的な見通しにどのように貢献しているのでしょうか?

私たちの多くは、世界の問題を政府、企業、または「システム」のせいにしますが、私たちがそのシステムの不可欠な部分であり、私たち自身の思考と行動を通じてそれを維持していることに気づいていません。私たちの教育と条件づけは、それが学校を通じてであろうと社会環境を通じてであろうと、実際には、現在破壊的な形でシステムを永続させている従順な消費者になるように私たちを養成しています。したがって、私たち全員がどのように商業化勢力に仕えているかは、容易に理解されるはずです。

たとえば、西洋社会や、発展途上国の裕福な地域でほとんどの人がしているように、不当な構造調整の取り決めに関係なく、グローバル化された市場からの製品やサービスを消費することによって、私たちは間接的に多面的な搾取および破壊のシステムに参加しています。これは、今日多くの人々が認識し理解している事実であり、したがって、フェアトレード、消費者ボイコット、およびいわゆる倫理的消費主義のムーブメントのすべてが存在します。確かに、ほとんどの学識のある人々は、多国籍企業が、土地グラブ、多雨林伐採、河川汚染、環境汚染、または低賃金や劣悪な労働条件などによる使い捨て労働力の搾取に責任があることを十分に認識しています。

私たちは、政府がさまざまな補助金、優遇税制措置、その他のインセンティブを通じてこれらの慣行を支援することを非難するかもしれません。また私たちは、無限の利益のために販売する無数の製品を消費するよう私たちを魅了する大企業を非難するかもしれません。しかし、大多数の人々が、横行する商業化の大きな幻想に進んで参加しているという事実は変わりません。ますます膨れ上がる人数で、私たちは日々の大量消費パターンを通じて世界経済の不当な取り決めを支持し悪化させています。したがって、この生活様式が持続できるという幻想は悪循環の中で永続し、繰り返され、その動向は日々悪化しています。

社会規範や現代的流儀の観点から、私たちの活動をとりつくろうことによって、より深い現実をどれだけ拭い去ろうとしても、自然を破壊し、既存の消費者主導型経済システムへの追従を通じて他者を搾取していることに対して、私たち全員にある程度責任があるという事実から逃れることはできないのです。季節ごとの祝祭を取り巻く贅沢三昧なごちそうと消費は、私たちの政治的信条や活動の目標が何であれ、私たちのほとんどが、大きな幻想にどのように追従しているかを示す最も適切な例に過ぎません。[6]

政治家に投票し、私たちに代わって彼らに世界の問題を解決してもらおうと期待するのと同じように、製品の出処を知ることなく、または気にすることさえせず、しばしば盲目的に消費するという意味で、無頓着な消費習慣と新しい政府ための指導者への投票が心理的にどのように同等であるかをあなたは理解できるでしょうか。つまり、大手のスーパーマーケットチェーンが世界中の小規模農家を搾取していることを私たちは知っていますが、それは、私たちが、彼らが生産する野菜を購入するたびに、その搾取のために事実上投票しているということを意味します。そして、就任する権力層の政治家に投票しなくても、彼らの政策を変えるために行動をとらずに彼らが運営する社会に従うなら、私たちは依然として、間接的に彼らに投票しているのです。

私たちはこのシステムを「資本主義」と呼び、人類のすべての問題をそれのせいにするのを好みますが、途方もない暴力と残酷さに溢れたこの世界で資本主義が実際に何を意味するのかを疑問視することが必要であるときが来ました。今日私たちが目にしているすべての苦しみは、本当に資本主義自体のせいなのか、それとも、自然環境、動物王国、お互い、そして私たち自身に向けて、あらゆる方向に人間が引き起こした途方もない暴力の結果でしょうか?

これらのより総合的かつ心理的な観点から世界の問題を認識することができるなら、横行する商業化に基づいた現在の社会経済システムは、実際には戦争の構成要素であることを私たちは受け入れるかもしれません。多くのアナリストは、軍事紛争の激化を通じて第三次世界大戦が勃発する可能性について語っていますが、実際には、商業化によって悪化する貪欲、利己主義、無関心の組み合わせの結果として、地球で最も深刻な戦争がすでに起こっているのです。それは究極的には生命そのもの、人類の霊的進化に対する戦争ですが、それでもほとんどすべての人が多かれ少なかれこのスローモーションの戦争に参加しています。それでは、大量消費と制御されない商業化が世界情勢の統括因子であり、私たち自身がこの自己破壊的暴力への意図しない参加者であるとき、持続可能な世界経済の青写真または枠組みをどのように実現できるのでしょうか?

政治や活動家のサークルでは滅多に議論されることのない世界の連動する危機の霊的側面に関するあなたの最初の観察に戻りますが、人類の問題の根源である「内なるCO2」としてあなたが述べたものについてより詳しく話してもらえますか?

生態学的境界、大気汚染、気候の混乱についてどれだけ多くのデータと証拠を得ようと、私たちは、自然のエレメントを乱すことなく、この惑星でどのように生活し進化すべきかについての最も基本的な教訓を依然として学んでいません。人間の活動が汚染し破壊しているのは物質的および客観的な世界だけではなく、さまざまな科学者や哲学者が長い間仮説を立ててきたように、不可避の真実は、自然全体が生命体であるということです。可視の世界と不可視の世界の2つがありますが、古くから人類に与えられてきた古代の知恵の教えのすべてにもかかわらず、私たちが現実としてきくことも認めることも拒否しているのは自然の隠された側面です。ガスやCO2を肉眼で見ることができないのと同じように、自然界には科学的に証明されていない不可視の生命体が無数に存在し、それらは小宇宙と大宇宙の両方の現れの中で、私たちの惑星的生物圏を調整し維持する上で重要な役割を果たしています。したがって、無知の中で、私たちはこれらの隠された自然のエレメントが適切に機能するのを防げることにより環境破壊を引き起こし続けるのです。これは、人間が環境を支配しようという誤った方向性の致命的な結果です。

重要な例を挙げると、今日の非常に多くの環境科学者は、地球の大気と他の自然システムとの相互関係に焦点を当てていますが、彼らの中で人類がグローバルレベルで生み出している騒音の量に関心をもっている人はほとんどいません。それでも、私たちが探求している内なる心理的または秘教的な霊的観点から、世界のすべての国から放出される信じられないほどの騒音は、自然の隠されたエレメントに極度に有害な影響を及ぼし、そしてそれは同様に、風、雨、海などで明らかにされるように、私たちの知る自然のエレメントに有害な影響を及ぼします。このこれらすべての蓄積された騒音が環境にとってなぜそれほど破壊的なのかという理由を理解するには、重工業や採掘産業、絶え間なく動き続ける無数の自動車、飛行機、コンテナ船、または戦争で荒廃した地域で起こっている容赦のない紛争や破壊活動など、騒音の根源の影響について思案するだけで十分です。

しかし、環境を破壊するのは、その非常に騒々しい活動の外的影響だけではありません。人類が生み出す蓄積された騒音は、私たちの社会がどのように機能不全に陥り混乱しているかを反映しています。そしてこれは同様に、環境の機能不全や混乱状態に直接関係しています。非常に多くの戦争、非常に多くの痛みと苦しみ、そしてお互いと、人間王国以下の王国を破壊することにおいて非常な傲慢さと無謀さがある世界に住むことは – この混乱のすべてが惑星の生物圏に上向きに反映し、自然の隠されたエレメントに作用するのです。有名なヘルメスの原理は「上にあるものは下にあるもののごとし」と述べていますが、今日の哀れな世界の状態について深く考えると、人間の分割的考えと誤った意図が生み出したすべてのストレスで下が満たされているため、上にあるもののごとしと、この原理は逆にしたほうがより良く理解できます。言い換えれば、人間の内なる側面は、社会における人間の外なる活動と同じくらい地球の環境の不均衡の原因となっています。そして、人類の内部は非常な機能不全を起こしているため、それはほとんど精神的および感情的な病気のようです。

別の例を挙げると、パキスタンの人々が核爆弾を作った日に喜びのあまり飛び跳ねていたことをあなたは思い出すかもしれません。一部の人々は通りで泣いてさえいました。これは人間の知性と感情が地球上でどのように間違った方向にいってしまっているかということのほんの小さな兆候でしかありません。他の国で何千人もの無実の民間人を殺すことができる武器を作るという展望に一般大衆が恍惚としているとき、国家威信とはそのようなものだとあなたは言うかもしれません。そして、これらの祝いの真っ只中に、地球は壊滅的な戦争と紛争、貧困に苦しむ何百万もの人々の痛み、そして現代社会における人間の生活のすべてのストレスと不安 – このすべてが気候の大惨事と天候の混乱を通じて私たちに跳ね返ってきます – を経験していました。

これは、個人間やグループ内の衝突から、社会全体で経験される多くの不平等や不正義に至るまでの人間関係の問題が、私たちが産業活動と大量消費行動を通じて環境にもたらしている破壊と同じほど、またはそれ以上に環境の不均衡の直接的な原因であることを意味するのでしょうか?

もう1つの秘教的真実は、世界のすべての問題に対応する音または音符があり、今日、これらの音の摩擦的性質は、気候変動と自然災害の予測不可能性と混乱を通じて私たちに反映されています。これを簡単に理解するために、世界全体があらゆるレベルでどのように対立しているかを想像し、それがより広い環境に与えているに違いない影響について考えてみてください。ふたりの人が目の前で激しく口論しているのを想像すると、その雰囲気は心理的なレベルで私たちの内なる天候の一部でもあり、それについて認識することは、私たちの上空の外部の気候について認識するのと同じくらい重要なのです。そして、環境の外なる状態が現在絶え間なく変動し混沌とした状態にあるように、心理的および社会的に、人類が活動するところの内なる気候は悲惨で混沌とした状態にあるのです。

これを私たちの意識の中でさらに一歩進めると、私たちは以前、横行する商業化の大きな幻想がいかに途方もない暴力の現実を覆い隠しているかを観察していましたが、そのような暴力は本質的に心理的であるだけでなく、社会的および経済的であることも強調する必要があります。ですから、不断のストレスの下で生活し、機械のごとく長時間肉体労働しなければならないことから鬱状態の人は、彼が心理的に経験するさらに大きな体系的暴力の犠牲者なのです。そして、すべてに浸透するその暴力の影響は、自然のエレメントに深刻な影響を及ぼします。なぜなら、内部から外部まで、すべてが人と環境の間で相互に関連し、相互に依存しているからです。

したがって、政府間の兵器の販売は明らかに暴力行為です。それ以外の何であり得るのでしょうか?しかし、同じように、私たちの街にホームレスの人々が存在すること自体が、社会的不正義であるだけでなく、政府や社会によって間接的に行われている暴力行為でもあります。私たちの心理的および霊的な相互関係を理解し​​て、この内なる現実をより深く見ると、何百万人もの人々が世界で飢えているとき、そしてさらに何百万人もの人々が基本的な生活必需品を欠いているときに、富裕国がさらに「繁栄」したいと欲することもまた暴力行為です。多くの人々が遠方の国々で貧困の中亡くなっている一方で、西欧諸国が過剰消費と暴飲暴食でクリスマスを祝うとき、それもまた、間接的な暴力行為です。私たちの集団としての自己満足的な無頓着さは、そのより広い環境への影響にもかかわらず、私たちよりも恵まれない無数の未知の人々に対する想像を絶した暴力行為です。私たちはどういうわけか、これらすべての形態の社会的、経済的、心理的暴力を業務平常通りとして、そして日常生活の当たり前の部分として受け入れていますが、これらの内なる態度や行動の蓄積は、私たちの周りに見られるものです。気候変動、極度の貧困、戦争、紛争 – これは、人類が正しい人間関係の必要性を無視し、何十年どころか、実際には何千年にもわたって、そのような機能不全なやり方で生活するときに得られる一連の最終結果です。

疲労困憊させられる人類の行動が私たちの社会であまりの混乱と不均衡を引き起こしているため、私たちは今、この惑星の気象条件が正常に機能するにはストレスがかかりすぎたマインドのようになっているという点に到達しました。それは、まるで私たちが環境を敵にまわし、津波、地震、洪水、干ばつ、その他の自然災害によって引き起こされたすべての大混乱を通じて、環境が反撃することをやむなくされたかのように見えるかもしれません。そして、環境によって引き起こされたその大混乱は、私たちの社会にさらなる大混乱を引き起こしており、多くのアナリストは、水などの枯渇する天然資源をめぐって国家間のさらなる戦争につながる可能性があることを予測しています。環境の振る舞いは人間の振る舞いを反映しており、今起こっていることはほんの始まりに過ぎません。ですから、人間が世界情勢に分かち合いの原理を実行することにより完全に道を変えない限り、将来の最大の危険を引き起こすのは、暴走する気候変動ではなく、最終的には地球上のすべての生命を破壊するかもしれない地球規模の戦争を解き放つ人間以外にないと予測できます。

あなたは今、不吉な予測をしました – 人間が現在の針路を進み続けるなら、最終的に惑星的大惨事をもたらすのは気候変動でなく、むしろ個人や国家としての私たち自身の行為であるということです。あなたが説明したように、今日多くの人々が、これらの動向の背後にある、体系的な推進力である商業化の大きな幻想に無頓着であり続けているという点で、この見解には悲劇的な皮肉さというさらなる側面があるのでしょうか?

ほとんどの人には、環境危機の現実がどれほど深刻で過酷であるかについて想像もつかないのと同じように、大多数の人が商業化の深刻な危険性を認識していないことは間違いありません。この問題に関して、私たちは人類を4つの大きなグループ、すなわち環境科学者、キャンペーナーおよび活動家、懸念する市民、そして残りの一般大衆に分けることができます。この問題に関わりをもたない大部分の人類の中で、自己と家族を養うために日々苦闘する4、50億人が世界の発展途上国の貧困層を構成しており、ますます増えるそれらの人々が、気候関連の災害の罪のない犠牲者であるにもかかわらず、当然のことながら彼らの殆どが地球温暖化の化学的現実について熟考する傾向もなければ時間もないのです。

気候危機をある程度認識する富裕国の何百万人もの懸念する市民のかなりの割合がまた、この課題の事実や真の規模を知らず、この問題をしばしば家庭のリサイクルまたは倫理的な消費主義の個人的問題にならしめています。しかし彼らが、人類がこの惑星をどれだけ破壊し、劣化させたかという真の範囲を知っていたなら、そしてあるいは世界の温度の危険な上昇の真の脅威について知っていたなら、世界中で多くの人の涙が流されていることでしょう。環境のただならぬ状態を知る多くの化学者がしばしば涙を流さずにはいられないように、私たちの家である地球がどれだけ破滅に近づいているかということを私たちが突然認識することができたなら、全人類が長い間涙を流し続けることでしょう。

それでも、あなたが正しく述べているように、ここに私たちの状況の悲劇的な皮肉さがあるのです。人類の大部分は、商業化が今日の私たちの問題の根源にあるということを認識することからさらにかけ離れていますが、これは、それらの問題に私たち全員が多かれ少なかれ一役買っているということです。この認識の欠如の理由は至って簡単に理解できます。つまり、人類のハートが、十分に目覚めていないか、世界の危機を緩和することに従事していないということです。私が繰り返し言ったように、十分な数の人々が気候危機の真の範囲とその内なる人為的な原因を本当に認識していたなら、他の何十億もの人々の中に、ほんの一握りの献身的な活動家しかいないということにはなっていなかったでしょう。多くの懸念する市民のマインドがこの問題に従事しているかもしれませんし、彼らの善意が関与しているかもしれませんが、人類全体の霊的なハートセンターを目覚めさせる必要があるのです – これは、何百万という数の一般人の行動的で方向性のある愛を必要とするという意味です。真っ赤に燃え上がるハートをもった大衆の支持を必要とするのです。そして、これらの断固とした抗議者を少数に追いやっているのは、平均的な善意の人の自己満足的な無頓着さなのです。

環境危機の真の規模に対する私たちの認識の欠如は、単に愛の欠如や世界の問題への「ハート・エンゲージメント」の欠如によるものであると言うだけで十分なのか、それとも、人間の広範な自己満足的な無頓着さの基本的な原因をもっとよく理解することは可能でしょうか?私たちが、蔓延する商業化の問題を認識すること、および劇的で緊急の社会変革の必要性を認識することを妨げているいくつかの要因についても詳しく説明してもらえますか?

ここでもまた、私たちは自分たちの自己満足的で無頓着な生活様式を維持する「人生は続くんだから」「楽しまなきゃ損」「人生は一度きり」「人生は楽しむためにあるんだ」などと私たちに語る幻想についてよく考えなければなりません。商業化勢力はこれらの幻想を愛し、そしてこれらは利益を追求する勢力にとって耳に響く音楽のようであり、業務平常通りの芳香のようです。そして、私たちの注意を現実から絶えず奪っているこれらの幻想やファンタジーは、ハートを圧倒するという効果があります。癌やHIVのような病気が人体にとって象徴するものと、幻想が人間のハートにとって象徴するものの間の類似性を引き合いにだすことができます。ハートは子供のようであり、とても純粋無垢であることを思いだしてください。そして、ハートは、あなたがそれを従事させない限り、話したり音を立てたりしないのです。なぜなら、ハートには傲慢さや計算高さ、あるいは自己利益という考えがまったくないからです。唯一脳だけが計算し、裁き、パーソナリティや大きな「私」への自己投影を通じて日常生活のすべての分裂を生みだしているのです。しかし、パーソナリティはハートではなく、そして当然のことながら、ハートはパーソナリティではありません。

社会変革の問題に関連してこれらの愛と幻想の概念を明確にすることはしばしば困難です。なぜなら、私たちは本や単なる知的理解を通してではなく、ハートの霊的現実を内なる認識を通してのみ知覚し、体験することができるからです。しかし、私が提案する方法でこの問題を見ると、豊かな社会の中で自己満足的な無頓着さと無関心の一般的な態度を形成する主要な要素が2つあることがわかります。1つは恐怖であり、2つ目はその恐怖を和らげるために必要とされる幻想です。たとえば、私たちの社会のような分裂した機能不全の社会で、私たちが単独で幸せになることができるという幻想を見てみましょう。次に、孤独に対して起こる恐怖、人生の「成功者」として認められないことに対して起こる恐怖、死の虚しい最終性そのものに対して起こる恐怖を観察してください。私たちの心理的安全性への絶え間ない探求は、常に恐怖に基づいて生じる私たちの自己探求的な幸福への欲求の根底にある無意識の動機です。最も広い霊的な意味で恐怖は、円を描くように無限に回転する粉挽機に繋がれたロバのように、何千年もの間、人間の進化を妨げてきた重荷なのです。

そして、これらの習慣的な心理的傾向の結果は、世界の問題へのハートの関与の欠如としてあなたが定義したものです。なぜなら、ほとんどの人は、個人的な幸福と成功のための聖戦にどっぷり浸かり過ぎていて、商業化の「大きな幻想」、または実際に、危機と混乱の世界の真実を理解できないからです。政治家は完全に堕落していなとしても混乱しており、私たちも市民として世界状況の深刻な現実について同様に混乱しているため、盲人が盲人の手引きをしているようなものなのです。なぜなら、人類はその古い幻想を、特に、伝統を通じて継続感や永続感をもっているものを愛し続けるからです。

私たちの集団としての自己満足的な無頓着さは、商業化の脅威と同じくらい深刻な危険であると見なすべきです。資本主義的企業や経済のグローバル化が存在するに至る遥か以前に人間の自己満足的な無頓着さは誕生していたのだということを忘れないでください。そして、個人または社会ベースで無関心と融合したなら、自己満足的な無頓着さは、現在の商業化勢力よりも影響力がさらに有害な人類に知られる最も古い病気の1つとして述べることができます。人類がジカ熱やエボラ出血熱などの恐るべき病気のワクチンを発見しようと動機づけられていることは素晴らしいことですが、世界の苦しみの根底にある永続する自己満足的な無頓着さの治療法をまだ探すことさえしていません。

この観点から、商業化がそれ自体の中でどのように深刻な戦争であるか – 人類と人類の霊的進化に対する戦争 – であるかということを観察するのはとても奇妙ですが、商業化のメカニズムは非常に洗練されていて捉えどころがないため、多くの人はその戦争の現実に気づかないか、そうでなければ、彼らはそれを単なる消費主義と勘違いしています。消費主義と商業化はどちらも相互に依存しており、自分たちの存続のために互いを養っています。しかし、今日私たち全員が一役買っている惑星破壊のプロセスを推進するのは商業化勢力です。私が、食べ物、安い服、そして現代生活のすべての身の回り品を消費するのと同じように、物質的および感情的な執着を通して心理的安全性への自己中心的探求を中心に展開する生活に捉われるまで、生態学的に持続不可能な分断された社会で個人的に幸せになるという考えそのものを消費しているのです。それは商業化勢力によって私たちに提示された非常に邪悪な罠であり、商業化が心理的現象として宿る私たちの微妙体や感情体を操作することによってすべての個人に無意識に影響を与えるため、マインドが認識をもって明確に機能し、現実をありのままに見ることを妨げる混乱の濃い霧を通して私たちを抑制します。人類は、日常生活の表現においてあまりに群れのように振舞っているため、私たちの多くが商業化の有害な存在をまったく認識できないと同時に、ほとんどの権力層の政治家や経済的成功者は市場勢力の破壊的な影響を疑うことなく、そのイデオロギーを当然のように支持しています。

この理解に人間の意識における分裂的な「主義」の問題を加えると、私たち全員がこの時代の危機に無意識に参加している理由について、かなり完全な全体像を把握できるかもしれません。商業化は、それが社会の幻想を食い物にしているのと同じくらい、たとえ何千年も古いものであったとしても、主義とイデオロギーを食い物にしています。全体論的に、これがどのように機能するかというメカニズムも観察できます。なぜなら、資本主義、社会主義、ナショナリズム、あるいは私たちの思考と行動を定義するその他の政治的または宗教的主義に関係するかどうかにかかわらず、商業化の原動力を永続させるのは、すべての主要な表現における主義の戦いであるからです。

たとえば、あるグループや国が、国家主義的またはイデオロギー的な理由で、敵対する相手と戦うとき、より多くの兵器の製造と購買などを通じて常に莫大なお金と資源が必要になります。そして、戦争兵器が売買されるほど、市場勢力によって引き起こされる機能不全の競争を通じてより多くの利益が生みだされ、それは全体として世界中の商業化のパワーと範囲を激化させます。貧しい人々が内戦や地域紛争によって引き起こされた貧困と強制退去によって苦しみ続けている間に、富裕層はさらに豊かになります。同時に、競合国は、社会的および環境的懸念よりも経済成長と企業利益を優先しつつ、世界資源に対する支配を強化するよう常に強いられています。

商業化のこれらの悪循環を説明するために、いくつもの例を使用することができます。これは、対立する主義の執着に端を発する、人々と国々の間の既存の分裂によって大部分が維持されています。多くの場合、狡猾なビジネスと国益の密かな援助をもって、権力と領域を拡大するための現代の金融戦略を行使する多くの宗教的なテロリストグループなど、特定の主義が、彼らの選んだ理念と分裂的な目標を普及させるために商業化を必要とするという独特の驚異も今日世界全体で起こっています。より一般的には、私たちは皆、ここ数十年にわたって、世界経済統合のプロセスによって影が薄れていた人種差別の問題を含め、商業化勢力によって乗っ取られつつある主義の問題に多少なりとも関与しています。もちろん、人種差別は、海外での安価な労働力や欧州連合などの地域での移民の制限が少ないことから生じる商業的利益に関係なく、現代社会に蔓延している主義の一形態でもあります。

これらの手短な見解が、商業化がどのように単なる事業活動や利益主導型の追求以上のものであるかを理解するのに役に立つとことを願います。なぜならそれは、人類全体によってもたらされる騒乱と破壊をあらゆる側面からあらゆる方向へと激化するために、再び私たちの血管に巧妙に入り込んだ物質勢力のむしろ太古の表現だからです。それは大量消費主義の刺激を通じて地球を破壊し、私たちの霊的成長を妨げようとするかもしれません;そして、消費者選択、個人的幸福、物質的快適さの幻想を広めることによって、一般市民を無意識に混乱させ、意のままに操るかもしれません。またそれは、欺瞞的なイデオロギーの名の下により多くの戦争を生みだすために、人間の意識の中にある主義に巧みに浸透するかもしれません。それは、知覚可能であると同時に不明瞭な多くの顔を持った龍なのです。そして、それは多数の異なる勢力によって構成されており、それらは全体として、人類のすべての幻想の中で最大のものを維持しています – つまり、人類が、そのような分割された不正で自己破滅的な世界秩序の中で生き続けることができるという幻想です。商業化がその目的を達成するために使う心理的メカニズムを認識するなら、それは文字通り、邪悪以外の何ものでもありません。

一部の読者が考えつくかもしれない異議の1つは、革新的な運動家や従事する市民自身が、特に環境問題に関して、大規模な混乱、認識の欠如、そしてあなたが話す自己満足的な無頓着さと無関心の一部であるかどうかということです。運動家は、この危機の真の範囲に気づいておらず、公正で持続可能な世界をもたらすための戦いに多くの場合ハートを従事させていないのでしょうか。

環境問題についての世界的認識の点から私が前述した4つのグループの中で、環境科学者と運動家の間で現在非公式のパートナーシップが構築されているのは興味深いことです。両方が私たちの目前の課題の圧倒的な規模を明確に認識しており、変革の妨げとなるすべてに直面してお互いを必要としています – つまり、利己的な政治システム全体、企業に制覇された政府、一般的な惰性と公衆の自己満足的な無頓着さを意味します。ですから、私たちが愛と認識の霊的観点から話すなら、活動家と目覚めている科学者は、確かにこの問題に関して誰よりもハートの属性を従事させています。そして以前私が言ったように、彼らは成熟と責任の点からそれを表現しています。

多くの環境活動家グループは全体として、これらの問題に関して実際、人間の善意の精力的な代表者です。しかし、ここにパラドックスがあるのです。なぜなら、彼らは共に、環境危機に対応して、愛が繁栄することを許さない複雑なシステムと戦っているからです。この点で、多くの活動家が、彼らが立ち向かうシステムの不正によって鍛えられ、苦々しい思いをしている事実は理解できることかもしれません。結局のところ、彼らは全人口のために取り組んでおり、すべての人類の共通善を代表していますが、それでも人々は同様に、大規模なデモンストレーションや気候変動の問題への不断の取り組みを通じて彼らを支持していないのです。したがって、世界のすべての革新的な活動家たちに神のご加護があらんことを願います。なぜなら彼らがいなければ、「環境正義」という考えでさえが私たちの意識の中に存在するに至らなかったであろうからです。

したがって、どのような政治的またはイデオロギー的な信念を持つ運動家をも批判することを私が意図してるのではないことを、どうか心に留めておいてください。しかし、ハートを従事させるという新しい方法をより明確に直観しようと、グローバル行動主義に何が欠けているかを見ることは有益かもしれません。なぜなら、前例のない数の人々と共に私たちが追求できる異なった種類の行動主義があり得るからではないでしょうか。それは、一体感、自由、そして主義やイデオロギーを越えた人間関係への非分割的アプローチのアイデアに基づいた行動主義です。残念ながら、現在多くの活動家が反資本主義的スタンスを取り入れていることが見てとれますが、これには、彼らの取り組みでさえが「資本主義VS気候」の観点から組み立てられている環境運動や学界が含まれます。これは、反対勢力の大きさを考慮するとある程度理解できることかもしれません。しかし – 次の点は先ほどの考察で明確になったことを願いますが – 実際には私たち全員がシステムの機能とプロセスの構成要素であるにもかかわらず、私たち自身が資本主義からなんとか解放されていると信じるのは重大な誤りなのです。

したがって、私たちが資本主義に立ち向かうことが社会の問題から自己を切り離すことを意味するとき、そうすることは不可能であり、この誤った論法はそれ自体の中に、同様に問題の一部であるさらなる「主義」を生みだします。これは私が以前に何度も書いたテーマですが、その見解には愛がなく、単に知的なものに過ぎないと言えば十分です。問題は資本主義ではなく、新自由主義でも、保守主義でも自由至上主義でもありません。問題は、私たちの世界における愛と正しい人間関係の欠如です。そして商業化勢力は、人々が消費し、成功し、物質主義的に生き、他人に無関心なまま生きるという有害な条件づけを通じて、今日この問題の中心にあるのです。

さまざまな「主義」を取り巻く私たちの複雑な分析はすべて、すべての人と国が最終的に互いにただ平和と調和の中で生きることを学ぶことができると仮定して、いつの日か消えねばならないでしょう。それでも、この過度に知的な時代において、良くない発想を持って狂信的なやり方で資本主義の原理を振りかざす代わりに、従事するハートの内なる認識を通して私たちの問題を見ることを選択する運動家はほとんどいません。それは、人を殺めるときでさえ「神の御旨のままに」と言う程、多種多様な状況で発せられる「神」という言葉のようです。同様に、資本主義という言葉は、およそ学説やイデオロギーが人間の思考や行動から独立して行動できるかのように、資本主義が社会の問題のせいであると誤って思い込んでいる活動家によってさえ、あらゆる種類の理由で乱用され、尊厳を下げられてきました。私たちは少なくとも非難することに関しては的確であるべきで、実際に起こっていることは戦争であり、より適切には商業化と呼ばれる暴力的な勢力とエネルギーの戦争であると理解することができます。そして、これらの悪意のある全体に浸透したプロセスの背後にある推進要因は何でしょうか。繰り返しますが、私たちは、お互いと自然界からの分離感覚が根底にある、私たち全員が一役買っている誤り導かれた人間の意図と有害な行動を観察するべきです。

余りにパワフルであるため、それに立ち向かう人々を容易に排除したり圧倒したりするシステムの性質に関係して、反資本主義的立場に自己を投影することにはさらなる危険があるのでしょうか。これは、分かち合いの原理をグローバルな経済政策に完全に融合させるための政府への協調した呼びかけの背後で結束する一般大衆が関与する、新しい形態のグローバルな積極行動主義の必要性を前進させるところの、あなたの執筆におけるもう1つの主要なテーマです。[7]

この質問に対する簡単な答えは良識であると私は信じています。したがって、地球の変革へのシンプルな道に対する私たちの内なる認識を曖昧にするだけの、さらに複雑な知的理論を取り入れる必要はありません。環境と社会正義の問題に取り組む活動家のかなりの割合が現在のシステムに真っ向から対立しているように見えますが、一般大衆が同じ態度で彼らに加担したらとどうなるか想像してみてください。私たちの政府を支配し、警察や他の当局の保護を受け、自分たちに有利な法律や政策を形成する力をもっているのは多国籍企業です;したがって、抗議者が、支配層への大衆の敵意と対立を通じて変革を起こそうとするなら、誰が勝つと思いますか?そのような支配層の個人や制度と対立すればするほど、彼らが自分たちを守るために必要なすべての措置を講じるであろうことは当然です。そして、新しい法律をつくる力をもっている多国籍企業や政府の場合、世界的な公衆監視の発覚により、私たちはすでに現在の動向の不吉な成り行きを目撃しています。

もちろん、すべての活動家が「反」や「主義」の考え方を取り入れているわけではありません。今日の世界には、より積極的に活動し、公衆の態度と政府の政策の大規模な変革の必要性を認識している革新的な若者たちという新たな驚異があります。すべてが民営化されて市場価値にまで引き下げられているところの、誰もがストレスを感じ混乱している過度に商業化された社会で動くことが彼らにとってますます困難になっているとはいえ、実際に若者は世界の希望です。私たちが知っているように、若者の多くは高等教育の費用のために多額の借金を抱えており、何百万人もの人々が失業しており、まともな家を買う余裕のある若者はほとんどいません。それでも、人類の新時代というような言葉が何を意味しようと、その開始の方法を示すことができるのが主に彼らなのです。霊的なグループによって使われる「ニューエイジ」または「宝瓶宮時代」などの言葉を私たちはよく耳にしますが、私はハートの時代またはハート時代についてもっと現実的な言葉で話すことを好みます。なぜなら、ハートは常に私たちと共にあったし、新しいレッテルを必要としないからです。その上、私たちが新しい時代を迎えたいのなら、集合的にハートを従事させない限り、それを行う方法はありません。

これが、分かち合いの原理がこの時代になぜそれほど決定的な重要性をもつのかという理由の1つです。これは、比喩的な意味で、人生のあらゆる部門のすべての活動家が飲むことができるミルクの噴水のようなものであり、私たちのさまざまな取り組みにおいてすべての人を持ち上げ、私たち全員を統一します。分かち合いの原理は、良識、善意、愛そのものからできています。それは、たとえ無意識であっても、すべての活動家がさまざまな方法で戦っている理由であり、内面的または霊的な観点から、調和と正しい人間関係に関係します。それはハートのすべての属性の母であると言えるかもしれません。


パートIII:愛を行動で示す

先ほど、あなたはこのインタビューで、環境保護主義者がアドボカシー活動の中で分かち合いの原理をどのように受け入れ始めているかを説明しましたが、分かち合いに関する内なる観点を環境活動に組み込むとはどういう意味ですか? 言い換えれば、活動家が「ハートを従事させ」「愛を行動」で示していることをどのように知ることができるのでしょうか。

それは、私たちがさまざまな目標を追求し続けると同時に、世界の問題の内側について考えることが重要なのであって、環境運動家が自分たちのしていることをやめるべきだとか、方向転換すべきだとかいうことではありません。これが主に何を意味するかというと、私の著書「世界人権宣言第25条を布告する」で論じたように、気候変動や私たちが支持する他の目標に取り組むよう政府に要求すると同時に、世界の飢餓の完全な終焉を提唱することが可能であるということです。[8] 環境危機の基本的な内的または霊的な重要性は、それが人間の意識を惑星レベルに拡大したことです。つまり、何百万もの人々が自国や地域の環境に良いことだけでなく、私たち万人のものである地球の大気と生物圏の世界全体の環境にも良いことを考えているということです。環境的な懸念を支持することは今やほとんど流行になっていますが、それと比較すると、飢餓と永続する貧困の現実に対する世界的な認識に関しては、呪いをかけられているかのようです。

それでも、環境に関する大規模なデモを組織できるなら、毎年、貧困関連の原因で不必要に死んでいる何百万もの人々の事実を踏まえると、飢えた人々を養い、予防可能な病気に苦しんでいるすべての人々を助けるための前例のない行動を、政府に要求する大規模な抗議を組織できないのはなぜでしょうか。以前と同じ議論を繰り返したくありませんが、世界の問題に対する私たちの認識は非常に断片的であるため、世界の飢餓と貧困の危機について多くの環境保護論者と話すことはほとんどできません。それは、環境主義が別の幻想や独自の「主義」に屈しているということです。

環境保護論者が将来世代の子供たちのために発言するのをよく耳にしますが、公然と容認されている政府の怠りの結果として、飢餓で亡くなっている現世代の子供たちについてはどうでしょうか。私は、これらの子供たちは事実、私たち集団としての自己満足的な無頓着さ、無知、無関心を通じて主に表現されるように、この地球に浸透している内なるCO2の結果として死んでいるのだと示唆します。最も現実的で人間的な観点から、貧しいコミュニティの子供たちも、私たちが世話をして保護すべき子供たちではないのでしょうか?恵まれた富裕国での「私の子供たち」や「私の未来」だけを考えるような考え方は、正しい人間関係との関連から、それ自体の存在が最悪の汚染です。それは、実際には、愛の行動や真のハートの認識の理解からはほど遠い、不均衡で惑わされた考え方です。

先ほど、世界的な金融危機が発生した場合に、政治家が環境を棚にしまい込んでしまう危険性について述べましたが;何百万人もの人々が気候変動の脅威に焦点を合わせている今、それはいかにも私たちが永続的な世界飢餓の危機を既に棚にしまい込んでしまっているかのようです。極度の貧困の中で毎週亡くなっている何十万人もの子供たちと比較して、あなたの家族がすでに必要以上のものをもっているときに曾孫の福利を心配することが健康的な態度だと、本当に私たちは信じられるのでしょうか?これらの心情を、地球温暖化に関しての知識豊富な意見でいくら誤魔化そうと、それは「常に飢餓は存在してきたし、常にそうであるだろう」と言う自己満足的で無頓着な人と同じ考え方なのです。そして、この考え方を世界人口の広範な層が維持し続ける限り、気候危機への対応として、次のように言う人々がなくならないでしょう:「我々全員が、結局のところ絶望的なんだから、考えてもしょうがないさ」

世界の飢餓と貧困の危機について決して言及することのない著名な気候活動家やキャンペーナーも数多くいます。彼らは、世界の死に行く貧困者を助けることよりも、世界の平均気温を下げることにもっと関心があるかのようです。したがって、彼らは世界全体と1つの人類の共通善でなく、実際には現代の豊かな社会に住む人々の共通善を支持しているのです。私に関する限りこれがなぜ、この問題の最先端に立つ霊的権威者が、ブラント報告と最近の回勅「ラウダート・シ(主に賛美)」に反映されているように、ウィリー・ブラントと教皇フランシスコであるのかという理由です。

世界人権宣言第25条を布告する」のパート3であなたは、「豊かさの中の貧困という不正義を是正することなしに、気候変動や環境危機に取り組むことは決してできない。それは、全生態学的問題の解決の起点となる」と仮定しています。この一連の論理を要約して貰えますか。

私は読者にこの一連の論理を各自で熟考することを促しますが、本質的なメッセージは、絶え間ないデモが、すべての国の何百万もの人々の間の大規模な結束の表現を通じて、危機的な世界の状況に新たな方向性を与えるための唯一の方法であるということです。すべての男女子供が基本的な生活必需品にアクセスすべきことを要求している世界人権宣言第25条は、その実現がグローバル政治経済情勢において驚異的な変革の前兆となることを考えると、一般大衆にとって正義と自由への真に偉大なガイドです。

これは特に、企業の利益や安全保障理事会に代表される大国にではなく、世界の人々に属する組織と見なすべき国連に関係しています。このように、第25条の人権を中心に世界中で展開する大規模で絶え間ない抗議は、最終的にはブラント報告を交渉のテーブルに戻すか、少なくとも、主要な国際的優先事項として、飢餓と極度の貧困を終わらせるための緊急再分配プログラムのハイレベル議題を交渉テーブルに戻す可能性があります。つまり、これは、本質的には、長期的な安全保障と環境危機に取り組むために必要な世界経済のさらなる構造変革への入り口です。

この本で私が主張する簡単な論理的根拠は誰でも理解し追求することができます。その中心となるのは、このインタビューである程度詳しく説明したように、商業化の問題を理解することです。数十億とまではいかなくても数百万の人々の間で、何ヶ月、何年もの絶え間ない抗議活動がなければ、私たちの政治経済制度を支配する商業化勢力は、さらなる大惨事と混乱への世界の動向を強化し続けるでしょう。

現在の状況では、各国が世界の炭素排出を制限したり飢餓を永久に根絶するための野心的な議題を実施するどころか難民危機への対処の負担を分担することでさえ不可能です。しかし、政府が生命を脅かす貧困の道徳的屈辱を短期間で終わらせるために世界資源を分かち合うことを約束するなら、解決のために国々が協力し合い分担せねばならないであろう気候変動の取り組みや環境修復を含んだ他の多くの問題があります。この本では、単純な演繹的推論を使って、この議論の余地のない論理を説明します。これには、すべての人の基本的な社会経済的権利を恒久的に確保することによって世界の人口レベルをどのように安定させ、最終的に翻すかという厄介な課題も含まれます。

ただし、これは私が推進しようとしているまた別の変革の理論ではありません。なぜなら、これらは現実的で人間的な問題であり、理論や「主義」の範囲内で理解する必要がないからです。私が提案する世界の問題の解決策は、その概念化において極めて単純ですが、より深い問いは、何百万もの人々が単一目的と統一された目標をもって継続的に抗議した場合に何が起こるかということに関係します。それは、自分たちの愛とハートの意識の欠如についての「内なる」探求の方向性に私たちを連れ戻す問いです。国連にすべての国で第25条の実施を監督する権限を与えることに集中した果てしのないデモを予見できれば、それは何百万人もの人々が危機的な世界の状況の現実をより明確に気づくためのさらなる認識をもたらす影響を持つでしょう。

私たちは、私たちが今日目撃しているすべての問題、そしてすべての悲惨さ、分裂、憎しみは、国連の創設以来、世界の資源を分かち合うことができなかったという事実が原因であること、そして間違った方向に一直線に進み続けているということを集合的に認識しなければなりません。この意味で、世界問題の解決策は第25条ではなく、意識、一体感、愛を通じて、そして手遅れになる前に世界情勢に分かち合いの原理を実現させなければならないという理解を通じて惑星規模で人間のハートを目覚めさせることです。

十分な数の人々がこの喜びと希望に満ちた認識に到達するなら、世界の連動する危機の間のつながりを理解するために、私たちの集合意識がまもなくどのように拡大するかを想像することができます。人類の大多数が飢餓と貧困の問題の解決に心から集中するなら、人間の人間による搾取の観点から、そして多国籍企業によって引き起こされる合法化された窃盗と破壊の観点から環境問題の根底にある不正義をより容易に認識することができます。やがて、何百万人もの一般の人々が、社会での物や無駄な消費に対する私たちの執着に疑問を投げかけるよう導かれ、代わりに、豊さと成功のために絶えず努力することをしないでよりシンプルに生きることを求めるでしょう。

それはまた、私たちの教育制度だけにではなく、私たちの文化的および社会的制度にも多大な影響を及ぼすでしょう; 実に、すべての人の基本的なニーズを確保することの影響は、最終的には人間の努力のすべての側面を高め、利益をもたらすでしょう。私は、私たちが最終的に第25条を一世代で実現したなら、社会に起こるであろう計り知れない並外れた変革を簡単に要約しているだけです。これは、世界の大多数がこのとてつもない目標を支持したとしても、間違いなく困難で長いプロセスになるであろうことは間違いありません。

あなたは今、これまで単に軽く触れただけの重要な課題にそれとなく言及しました。それは、富裕国でより資源集約型でない生活様式を、そしてすべての国および国家間でより公平な生活水準を実際にどのように実現するのかということに関するものです。このインタビューの最初の部分で、あなたは顕教的または「外なる」観点からこの課題に簡単にふれましたが、現代の消費者社会における私たちの態度や行動に必要な変革をどのようにもたらすかについては、多くの疑問が残っています。これはまた、人間の意識の転換や集合意識の拡大に関連して、内的または心理的観点からのみ真に理解できるテーマなのですか?

唯一、私たちが真の答えを知覚できるさらに包括的、霊的または心理的な観点からこの問いの重層的側面について考察する革新的な思想家がほとんどいないのは本当です。最初に理解すべきことは、人口が地球の生物物理学的限界内でよりシンプルかつ公平に生活するためには、世界全体を通してストレスや鬱病の発生率を減らさなければいけないということです。人類の大部分は、果てしのない分裂と対立を伴う機能不全の社会に住む緊張のためにストレスに苦しんでいます。そして、それらすべてのストレスがあらゆる面で恐怖をもたらしています – 他者への恐怖、変化への恐怖、生きることへの恐怖、存在すること自体への恐怖などです。そして、よりシンプルに生きることが内的により自由で無執着であることを必要とするとき、ストレス、落ち込み、恐怖に苦しんでいる人にそれを期待することはできないのです。

ストレスや落ち込みに苦しむ人々を注意深く観察すると、彼らの心理的傾向は、その性質が物質的なものであろうと感情的なものであろうと、執着を通して内なる安心感を探し求めようとすることです – これは明らかに認識を持って自由でシンプルな生活を追求することとは反対です。あらゆるところに蔓延する張り詰めた人生のあり方の治療法の1つは、日常生活のあらゆる分野における不断の愛ある注意力です – しかし、ここでもまた、私たちの苦境があるのです。なぜなら、世界全体が愛や霊性、そして内なる自由の認識すら欠いているとき、私たちはどのようにして社会のストレスを相殺できるのかということです。したがって、私たちの状況の不条理は、私たちの共通の問題に対する唯一の永続的な解決策であるシンプルな生活への可能性自体を私たちが拒まれている、ということです。たとえば、クリシュナムルティ・スクールでは、多くの教師が、彼らの生徒が正しい価値観と営みを通じてシンプルで聡明な人生を追求することを学び、教育を終えた後、聡明さ、愛、認識を持って生きるということが何を意味するのかをほとんど知らない機能不全社会に入っていくことを嘆いてきました。

また、存在することへの恐怖の結果として、多くの人々が、あらゆる不平等であふれた社会に立ち向かっていくことでより心理的な安心感を得ようとすることから、多くの「主義」とイデオロギーが常に活性化され、逃げ場として目を向けられていることは注目に値します。これは私たち全員が自身で概略的に考えるのが良いであろう非常に重要なテーマです。今日、内なる変革から多くの人々を妨げているのは、存在することへの恐怖だけでなく、彼らの主義や、彼らのアイデンティティに不可欠な部分 – 主に宗教的、政治的、文化的信念 – を形成する親しみのあるアイデアを失うことへの恐怖でもあります。この内なる探求の方向性を追求することはまた、私たちの時代の大規模な混乱がなぜそれほど深刻で衰退的なのかということを説明するのにも役立つかもしれません。なぜなら、パンデミックになった混乱は、人類の創造性を著しく低下させ、社会に必要とされる斬新な変革が起こるのをさらに妨げるからです。

熟考すべきこの課題のもう1つの重要な側面は、生きる歓びを経験せずに私たちは一斉に自分たちの生活様式を簡略化できませんが、無知な政治家によって非常に混乱し腐敗させられた非常に不平等で不当な機能不全な社会に真の歓びはあり得ないということです。私たちが識別し、広く区別できる2種類の歓びに満ちた生活があります。1つは、商業化の表面的な楽しみや幻想から生じ、これまでに考察してきた幻想の中で概して最大のものです。しかし、もう1つの人生の歓び、真の霊的な生きる歓びは、今日ほとんどの人に知られていません。なぜならそれは、分かち合いの原理がグローバル経済および政治情勢に融合されて初めて明らかになり、その本質を明かすことができるからです。

それは、まるでこの2つの相反する生活様式がお互いを相殺し合っているかのようであり、今日、商業化勢力によって企てられた幻想的な生きる歓びは、人類が無意識のうちに取り入れるように押しつけられてきたものです。したがって、慈悲と認識を通じて、そして、私たちは皆1つであり、一体感と愛において皆が平等で本質的に同じなのだという歓びに満ちた認識を通じてハートによってもたらされる生きる歓びは、大量消費主義によって失墜させられ、私たちの日常生活ではほとんど感じられていない生活様式なのです。私たちは、コミュニティレベルでの分かち合いと連帯のさまざまな表現において、または2011年の「ウォール街を占拠せよ」や「タハリール広場」などの平和的な大衆抗議の臨時野営地において、その歓喜に満ちたあり方のかすかなきらめきを経験しているに過ぎないのです。

これは、主流となる豊かな社会の中でのよりシンプルで歓びのある生き方は、世界中で第25条を実現することによってのみ起こり得ることを意味するのですか。これは、あなたが「第25条を布告する」で紹介している主題ですが、 さらなる説明が必要なテーマです。

私が言っていることを知性だけでなくハートの認識を通しても理解できるなら、この過度に物質主義的な世界でシンプルに生きるということは極めて大変なことであり、私たちが共有する地球の資源の限界内でよりシンプルな生活に人類を導くのは第25条の実現であることが理解できるでしょう。飢餓やその他の貧困関連の原因で毎年何百万人もの人々が不必要に死んでいく限り、私たちが世界中の各々の生活水準でもっとシンプルかつ公平に生きることは決してできないのだと、あなたは思うことはないですか。

日々生き残るための苦闘にうんざりしている何百万人もの貧しい人々がいるのと同じように、隔離された環境の中で豊かであることにうんざりしている数多くの極度に裕福な人々がいます。そして、彼ら全員を結びつけ、世界中の生活水準の大きな格差によって引き起こされる緊張を和らげることのできるのが、第25条を完全に保障するという展望です。心理的および霊的観点から、第25条は、人生と人間関係への私たちの態度の中の貪欲、不正直、野心の発生を減らす可能性を秘める、尊厳と自由の驚くべき基盤を象徴します。それは、社会組織のさまざまな様式を簡略化するために必要とされる愛と認識を解放する先駆者です。

結局のところ、利益と権力の追求によって引き起こされる乱用でないなら、気候変動の根本的な原因は何でしょうか。なぜなら、環境を乱用し、他者を搾取することなしに莫大な規模で利益を上げることは不可能だからです。私たちは、自分たちが持続不可能な大量消費パターンを通じてシステム全体を維持することに加担しているのと同じように、政府や大企業がこの破壊的な経済秩序の維持にどのように加担しているかを観察してきました。しかし、西ヨーロッパや北アメリカに住む人々のように、過消費のライフスタイルを楽しみたいと願う発展途上国の何百万人もの貧しい人々を含め、ほとんど誰もがより多くを消費し、相対的に生活水準を高めたいと考えているようです。それは、「1つの地球の生活」の観点から、悲惨にも持続不可能であることを私たちは知っています。

この社会でシンプルに生きる唯一の方法は、人里離れて自足時給の生活をするか、孤立したコミュニティに引きこもるかですが、それは多くの科学者がすでに特定の不可逆的な転換点を超えていると信じる気候変動の世界問題の解決策にはなりません。自給自足のコミュニティでより質素に生活することで得られるメリットが何であれ、それは実際には単なる儚い逃避でしかないのです。なぜなら、世界の問題は、遅かれ早かれどこであろうと私たちを見つけにやってくるからです。あろうと、それは実際には儚い逃避でしかないのです。なぜなら、早かれ遅かれ世界の問題は、どこであろうと私たちを見つけにやってくるからです。

これは、気候変動のもう1つの霊的重要性を示しています。それは、今日の私たちの問題はすべて、世界全体が協力して解決することを要求する地球規模の問題であることを人類に教えるということです。それはまるで天候さえもが、人類の霊的結束から自己を分裂させることをやめるよう私たちに頼んでいるかのようです。つまり、貧困根絶と環境救済という連動した課題に十分な人々がハートを向けるまで、よりシンプルで歓ばしい生活様式がもたらされることは決してないということです。

あなたは、第25条の実現が世界情勢の中で最初に優先されるまで、世界中でよりシンプルな生活水準を実現することは不可能だと言っているように聞こえますが、これは、人類の変革の必要性に対する「内なる」認識と、分かち合いの原理に基づく必要がある社会およびグローバル経済システムの「外なる」構造改革の両方を解き放つものだからでしょうか?

どの方向を見ても、第25条をすべての国で一連の不可侵の法律として施行する必要性を理解するまでは、新しい社会についての考え方や先見性のある提案を進めることはできません。なぜなら、実にこれが、この惑星の限界内で機能する持続可能な経済を最終的にもたらすことができる人類の「内なる」の変革と社会の「外なる」変革への入り口だからです。枯渇する天然資源の過剰な搾取を防止する新しい法律と新しい経済の営みを維持するために必要な集合的意識に、他に何が私たちを導いてくれると考えられるのでしょうか。すべての人が基本的ニーズを保証され、資源がより公平に世界中で分配されるとき、環境を保護し、不正義から解放されて生きることを可能にする新たな国際ガバナンスの枠組みの導入が、「人々が単に生きることができるように」、よりシンプルに生きる歓びの実現をもたらすことを予見できるかもしれません。

ここで私たちが実際に話しているのは、第25条の施行が国家間の将来の貿易協定を決定するだろうところの、世界レベルのまったく異なった経済協定による、資本主義と社会主義の融合に関してです。それはたとえば、ある国に余剰食料があったとしたら、 何百万人もの人々が世界のどこかで飢えている一方で、その国が利益のためにその食品を輸出したり広大な倉庫で腐敗させたりすることがないようにします。代替経済パラダイムとして、国内のニーズを超える農産物の余剰のある国は、国連内に設立された新しい専門機関など、その目的のために特別に形成された機関によって管理される、何らかの形の世界的な備蓄にそれを寄付することにより、特定の資源の生産量が不十分な国に再配布したり交換したりすることができます。

私たちはこれを、地球の再生不能資源の限られた供給を使い果たすことなく、国々というコミュニティが、誰もが享受する権利を持つ十分な物資と農産物を生産することを可能にする真の構造調整と考えるかもしれません。しかし、世界の人口爆発の継続、最も裕福な市民と最も貧しい市民の間の生活水準の極端な格差の拡大、そしてすでに地球のバイオキャパシティをはるかに超えている天然資源の過剰消費の増加を持って、これをどう達成できるのでしょうか?

分かち合いの原理に基づいて簡素化された経済システムの詳細については際限なく議論することができますが、実際には、利益や競争的な私欲の徹底的追求が背後に潜む、商業化勢力によって人類が強く条件づけられている間は、どのような構造改革も新しい法律もこれらの方向に沿って導入することはできません。人類の意識の中で環境コモンズが繁栄するのを妨げている心理的要因は、利益の追求以外の何でしょうか?そして、社会の中でフリーエネルギーの基盤として常温核融合技術を確立することへの内なる障害は、利益の追求以外の何でしょうか?人生の内面的または霊的な現実の意識の中ではるかな未来に向かって自分たちの想像を拡張することによって、私たちは、この太古の問題の唯一の解決策は、需要と供給の法則内でグローバル経済情勢に物々交換の慣行を構造化することだという結論に達するかもしれません。言うまでもなく、利益の追求は人と自然の両方にとって有害でストレスが多いのに対し、物々交換の実践は、無害であること、シンプルであること、そして正しい人間関係という、それとは正反対の傾向に基づいています。

このトピックについてまだまだ多くのことが語られるべきですが、私が強調したいのは、このような新しい経済的交換様式は、私たちの相互関係や自然環境との関係を完全に異なる方法で見ることを要求する、それ自体が広大なテーマである自己知識に基づく新しい教育を同時に導入することなくして維持できないということです。ここでは明らかに、より原始的な生活様式に戻ることについて話しているのではありません。人間社会の進化におけるイノベーションとテクノロジーの役割は常に存在するでしょうが、宇宙の中の自己の存在について知ることへの人間の生来の好奇心を止めるものは何もありません。よりシンプルな生活水準の必要性はまた、私たちが消費する資源の量や種類よりもはるかに重要です。なぜなら、外界との関係における内なる自己に対する認識を意味するところの、シンプルに生きるための術があるからです。ここで、よりシンプルで、より歓びに満ちた、そしてよりハートを込めた人生のあり方は、外部からの権威によって人々に強制できるものではなく、生きとし生けるものすべてに敬意を払い、無害に生きるという自己の意図を内なる意識を通して、一人一人の内から養成されねばならないことを覚えておいてください。

よろしければ、これらの最後の所感について、特に、シンプルに生きる術があるというアイデアについて、さらに詳しく説明してもらえますか。ジョン・スチュアート・ミルが19世紀に産業の発展の最終目的を考えたときに心に描いたものと同じ「生きる術」についてあなたは話しているのですか。それとも、術の形態としてよりシンプルに生きることには他に異なった意味があるのですか。それは文字通りの意味ではなく、霊的な意味で理解されねばならないと推定しますが?

シンプルに生きるということはまさにアート(術)です。それは、熟達した建築家が建設様式は必要最小限で、資源の使用において質素でありながら、外観が美しい建物を設計することができるのと同じです。または、絵画が視覚的に魅力的で意味のあるものになるようにさまざまな色を適切な場所に配置するやり方を知っているアーティストのように、私たちもこの社会を適切な場所に配置して、完全に無害で他者への奉仕に向けられた、尊厳のある創造的で充実した生活を誰もが手に入れられるようにしようとしているのです。私たちの存在に、現代世界のストレスや分裂を超えた何かがあると信じるなら、そして生来の創造的可能性を探求する自由と機会を誰もが持つ別の生き方が可能であると感じることができるなら、私たちは、人類の進化のすべてが、私たち全員がひとつの生命の共同創造主としての役割を果たすところの、科学的芸術のようなものだという真実を直感することができるのです。私たちは皆、内から外へと、私たち自身を創造するアーティストです。そして、生きる術、または存在の術として霊的観点からより正確に表現されるものなくして、「シンプルに生きる」というようなことはあり得ないのです。[9]

私たちの日常生活の表現の中でシンプルに生きることがおよそ不可能であるところの、惑星規模の混乱と過渡期のこの時代に、人類にとっての第一ステップは、私たちが正しい思考の術と呼ぶかもしれないものであることも見てとれます。結局のところ、これが、私たちを自分たちの人生の芸術家にすることができるものです – 最初に、人生の霊的な現実を認識し、そして、国々という家族としての私たちの態度、行動、意図を完全に変革する必要があることを認識しなければなりません。たとえば、成功した裕福な「起業家」になるというアイデアに私が自己投影するなら、公共の公園や自然保護区の生存可能性、ましてや地球の気候システムの安定性よりも、利益を上げて個人的富を蓄積する機会に関心のある可能性の方がより強そうです。したがって、正しい思考の術は、人類と地球全体の最大の利益に常に向けられなければならない私の本来の意図に関係します。

この意味で、世界にはすでに多くのアーティストがいますが、彼らは、生態学的に強靭な社会に移行すると同時に、すべての人の共通善をよりよく実現できるように、人類が国や世界の義務を遂行する方法を変革することに関心があります。革新的な市民社会グループと人道支援機関の存在が、正しい人間関係についての特定の崇高なアイデアを表すものとして想像できるなら、正しい思考の術は、一般市民の大規模な参加を通じて、これらのアイデアを実現することに関係しています。貧困の終焉、持続可能な経済、平和な世界、そして健全な環境;これらすべてのアイデアは、この考察を通して私たちが全面的に認めたように、社会全体がこれらを支持して結束するまで決して実現しないでしょう。そして、人類全体がこれらのアイデアを受け入れることが、ヒトとしての私たちの意識を拡大し、私たち皆の人生をより歓びに満ちたものにし、私たちの霊的進化に一致してはるかに速いペースで人間の聡明さが現れるように導きます。

したがって、この地球上での最大の病は、その内外両方の形での分裂であり、そして正しい思考の術は、私たちの集合的な惑星規模の変革の初期段階自体に関係しています。正しい人間関係のシンプルな道から私たちを外れさせている幻想を認識することがはるかに重要であるため、私たちが現時点でよりシンプルに生きる術に没頭し過ぎる必要はないと思います。より啓発された、ハートが従事する社会に住むことが、どのようなものになるかに関しての、予兆となる霊的な問いをさらに検討したいなら、商業化の拡大する動向が、私たちを反対方向にどのように導いているかをもっと認識することから始めることをお勧めします。ビジュアルアーティストのアナロジーを広げるなら、何度も言ったように、誤用された人間の知性が、迫りくる自己破壊の方向へと私たちを導いていくまで、私たちに間違った教育をし、私たちを条件づけ、そして私たちがすべての色を適切な場所に配置することを妨げているのは商業化なのです。

これらすべてが、あなたが提案したように大規模な市民参加を通じて世界変革のプロセスを開始するために、何が人類の愛と認識を十分に目覚めさせることができるのかという疑問をもたらします。これらの内外の変革の始まりを意味するかもしれないときや徴を予測することは可能でしょうか?世界資源をより公平に分かち合うための絶え間ないデモンストレーションを通じて、何千万人もの人々が結束するというあなたのビジョンから私たちはまだかけ離れているようですが、これは多くの読者を、世界問題について絶望と混乱の感覚の中に取り残すかもしれません。

人類の外部の問題だけを詳しく観察すると、余りの複雑さ、そして余りに多くの要因と多種多様なものに直面するため、世界の問題の解決法について明確な答えを突き止めることは不可能です。これが、人類の進化の内的または霊的な側面について熟考することが有益である理由です。これにより、世界がどのように変革する必要があるかについて、より深く、よりシンプルで、より斬新な洞察が得られるでしょう。何千年もの間、多くの賢明な教師や予言的思想家たちは、人に内を見て変革の必要性を認識するよう嘆願してきましたが、それでも私たちは、優しさと愛情をもってお互いをどのように扱うか、そして自己利益、競争、貪欲なくして地球の産物をどのように分かち合うかについての最も基本的な教訓を学ぶことができませんでした。

何世紀にも及ぶ技術的および社会的進歩の後に、人類が正しい関係について何かを学んだと思いますか?国家は、私たちの社会的振る舞いを特徴づける多くの「主義」を試み、放棄し、私たちは大戦争と何世紀にもわたる植民地主義と帝国主義に耐え忍んできました。それでも私たちは、結果として生じる分裂と不平等の中で、世界の舞台で権力を争う古いやり方を続けています。

では、世界中のすべての人が、本来の事実として、私たちが本質的に平等であり、相互に依存するひとつの人類であるということを悟るには、何を要すると思いますか。内から見ると、私たちの問題の解決策を握るのは、第25条を経済的および政治的に保護することではありません。なぜなら、世界のすべての問題は相互に関連しており、同じ人類学的発端をもつからです。つまり、それは、最終的には問題は1つであり、解決策は1つしかないということを意味します。問題自体解決策であり、最も基本的な霊的および心理的意味において、繰り返しますが、愛の欠如としてしか表現することができません。人類を苦しめるこの古代の病気のワクチンを見つけることは、決してできないと言えるでしょう。なぜなら、人間のハートだけが抗体を持っているからです。

私たちは、新しい形のマインドの条件づけを作り出すことなく、宗教的および政治的「主義」のマスクの後ろに隠れることなく、そして私たちの国の歴史に埋もれている偏見や憎しみを再び生み出すことなく共存する方法をまだ学ばなければならないようです。最後に言えることは、正しい人間関係は、社会的、経済的、環境的危機をあらゆる次元で解決するための鍵であるということです。これは、機能不全社会の状況では、世界全体を通して大量の愛と認識が解き放たれる必要があることを意味します。

しかし、国家威信と個人的繁栄という古いやり方を維持する同じ政治家に投票し続ける限り、そして、抗議行動とデモの数が比較的少数に限られている限り、人間の意識の急速な拡大の見通しは2つしかありません:それは、神の介入、あるいは国際経済システムの完全な崩壊のいずれかです。「世界人権宣言第25条を布告する」の終わりで私が書いたように、私たちに現実感をもたらし、現在の生活のあり方とその背後に潜む心理のすべて – 個人的野心の津波、何百万もの人々の富と成功への意欲、幸福と安全性の利己主義的追求 – を完全に打破するためには、大惨事が必要なように思われます。大恐慌以来前例のない、より深刻で長期化したまた別の世界経済危機が私たちの考え方や社会の組織のやり方に深い影響を与えるでしょう。それは、象徴的な意味で、人類が超えることのできない点にどのように達してしまったか、そして、間違った前提に基づいた社会秩序を持続する、私たちの内なる態度と振る舞いの完全な変革なくして前進する道がないことを明示するでしょう。

他に何が、大量消費主義の絶対的な力を止めて、自己満足的な無頓着さを十分な人々から振り払うことができるのでしょうか。しかし、国家間の信頼がなくなり、私たちの政府機関において愛が表現されず、そして私たちの政治的リーダーたちの間に前進のための真に協力的なやり方のビジョンがなくなるまで、人類が絶対的な経済危機を経験する必要があるこの時点に達することは、実際には21世紀の初頭において私たちが落ちた深みの哀れな兆候です。私たちの共存の仕方、そして人間としての行動の仕方を変えるのは、いつでもとても簡単だったはずなのに、世界情勢の中で正常さを目覚ますために絶え間ない大規模なデモンストレーションさえも必要とする理由を、私たちは自問すべきです。

あなたは気候変動の霊的重要性と象徴的意味についてさまざまな方法で簡潔に述べました;環境危機の内なる原因と影響について、つけ足したいことはありますか?

これは私たちが自分自身でさらに熟考すべきもう1つの重要な問題です。なぜなら、私が主張してきたように、万物に霊性が宿り人間が生命であるなら、それは、私たちが行うすべてが、各個人から共同体としての人類全体に至るまで私たちの周りの環境に影響を及ぼしていることを意味するからです。環境内の大混乱は私たち自身の中の大混乱を反映しており、地球温暖化の危機は私たちの思考や行動が融合した直接的な結果です。聖書に書かれているように、蒔いた種は刈り取られねればなりません。それはこれ以上シンプルであり得ません。しかし、私たちの文明は、誰かの所有物というものは存在せず、この地球の資源の公平な分配、管理、保護は、私たち全員の責任なのだということを理解し受け入れることを依然していません。私たちが、真の人間性である共有された神性への不可欠な最初のステップを学び実践するなら、自然が神秘的かつ奇跡的な方法で、そのバランスをどのように取り戻すかを私たちは目撃するかもしれません。人と自然は、霊的および進化的観点から永遠に一つであるため、何世紀にもわたって人間の傲慢さと無知によって分裂がもたらされるなら、創造全体のバランスが崩れ、人類誕生以前に、自然に生成され維持されたバランスが失われるのです。

この観点から、人為的な気候変動に表される大きな象徴的意味のいくつかについて私は述べましたが、それは、経済的、政治的、心理的、社会的、そして霊的に、あらゆるレベルで人類がどのように危機に瀕しているかを反映しています。そのため、私たちは、ガバナンス制度の運営に影響を与える政治的危機だけでなく、人間の思考と行動への私たちの取り組み方全体に疑問を投げかける「主義」の危機をも目の当たりにしています。同様に、経済組織の新しい様式を必要とするのは、私たちが間もなく経験するかもしれない新たな世界金融危機だけでなく、私たちの存在の本質と目的そのものを見直すことを余儀なくさせる、山場を迎えた心理-社会-霊的危機でもあります。

私たちの経済的および政治的システムのすべての古い形態が徐々に溶け崩れているように、すべての古い主義は、崩壊または結晶化しています。したがって、対立し二極化した考え方、右翼と左翼、そして反動的な保守派と堅固な革新派の間のすべての混乱がもたらされています。人類がより健全な世界への痛々しく混沌とした移行を経験するにつれて、私たちは大混乱の時代に生きているように見えます。そして、この困難な時代を特徴づける多様な危機への私たちの対応次第で、この永続する混乱期が今後何年にもわたって激化する運命にあると予測できるのです。

これは、世界情勢に分かち合いの原理を実現することによってのみ、この混乱と危機の時代から脱出できるのだという秘教的観点から見た気候変動の最も確実な意味なのでしょうか。

環境問題の内なる原因に関するこのインタビューの初めから私が述べてきたように、これが本質的に何を意味するかというと、人類が避けられない究極の選択を迫られているということです。過去の古い利己的で競争的なやり方で進み続け、最終的には自己破壊をもたらすか、あるいは、人類を相反する2つのサイドに分割する新しい勢力とエネルギーを受け入れ、私たちの最後の希望として、世界資源を分かち合わねばならないという次第に明確になる認識の方へと、正しく思考するすべての善意の人々を導くかです。

自己本位な政府や企業と戦っている人生のすべての分野の運動家だけでなく、この壮大な戦いにおいて、両方のサイドが混乱し強い不満を感じています。商業化の支持者でさえ、どのように漠然とであろうと無意識的にであろうと、彼らが感知し、何とか知覚することのできるこれらの新しいエネルギーに、どのように対応して良いのか分からず戸惑っています。そして、利益の追求と個人的な野心だけが、彼らに安心感を与えてくれる源なのです。右や左のどの主義にしがみつこうとも、大混乱に関しては、私たちは皆同じ境遇にあるのです。なぜなら、人類は今や成熟しつつあり – 最も象徴的な意味で、私たちはついに、自分たち生来の神性と一体性の真実(これらの言葉が意味する、どのような宗教的または学説的解釈をも超えて)を受け入れる準備ができているからです。それはあたかも天候が、私たちが霊的な結束と相互関連性から自分自身を切り離すことをやめるよう頼んでいるだけでなく、これが、私たちが集合的に内部から自己を変革する最後のチャンスであり、私たちが世界の危機の内なる原因にどのように貢献しているかを理解することをも嘆願しているかのようです。

要約すると、市民社会団体の提言がどのように賢明で賞賛すべきものであろうと、彼らのアイデアやアドボカシー活動だけでは世界変革は起こりえず:世界の大多数の人々の意識の転換を通してのみ、成就され得るのだとあなたは説明しました。そして、この新しい意識と心からの認識は、何よりもまず、すべての国のすべての人に第25条を保証することの道徳的、霊的、および実際的な緊急性を受け入れる大規模な大衆の抗議デモを通じて表現される必要があります。これが、あなたの他の著作に関連してあなたが概説したように、国連に権限を与え、国際的な経済の分かち合いと政府間協力の新時代へと先導するための入り口です。したがって、内的または霊的な観点からいくぶん逆説的ながらも、それは、人間の物質的剥奪の緊急の終結の必要性をも受け入れない限り、環境危機に対する永続的な解決策があり得ないことを意味します。これは、あなたの考えの偏りのない要約でしょうか。それともさらに明確にすること、つけ加えることがあるでしょうか。

世界的な生態学的危機についての全体的な思考形態は、その霊的片割れがほとんどの活動家のサークルや大衆討議で滅多に言及されることがないため、現在ますます結晶化しています。少なくとも世界的および象徴的な意味で、気候変動は現在単一争点で人類を徐々に結束させている私たちの唯一の教師であると私はどこかで論じました。[10] しかし、人類が相互に依存するひとつの家族であることを認識し真に実践するためには、地球を救うための闘いにおいて、第25条を同時最優先事項として無視し続けることはできません。本質的に世界資源の大規模な再分配と国際経済構造の大規模な再構築を要求する – 第25条を迅速に保護することが気候変動への解決策に完全に繋がっていることは、従事する市民や政治家にますます明白になるはずです。なぜなら、資源のより公平な分かち合いを通じてこの世界に少しでも社会正義があったなら、そして、地球上で飢餓やその他の貧困関連の原因で誰も死に続けることがなかったなら、気候は今日のように不均衡で混乱した状態にはなっていなかっただろうからです。

私が強調したように、政府が公平に努力を分担した枠組みを通して気候危機にどのように対処すべきかについての、市民社会の提案に関するこのインタビューの最初の考察のいくつかに従って、これを論理的かつ演繹的に外なるまたは政策関連の観点から理解することができます。しかし、世界の環境問題を真に心から理解するために、私たちは内なる認識、直感、慈悲、良識を実践することが求められます。それは、隠れた自然のエレメントと人類全体の総体的な思考および行動の間の大きな繋がりの重要性を私たち自身で理解したければの話ですが。人類の大部分が第25条を布告することによってハートを従事させることにまず成功しない限り、世界の問題を解決する方法はおそらく他にありません。これは、私たち全員が物質および商業化の勢力への執着によって維持することに加担している、現在の成長ベースの経済パラダイムによってもたらされた体系的な行き詰まりから逃れるための唯一のルートであるかもしれません。

したがって、世界情勢に分かち合いの原理を実現することの内なる重要性について熟考し、注意を払うことは最も重要なことだと私は信じますが、実に、それは特定の矛盾した難しさを提示します。なぜなら、ハート自体が知的化されることが不可能であるとき、ハートの認識を通してこれらの問題を調べることをそれは私たちに要求するからです。したがって、さまざまな国の人々の間で信頼を得ることができるように、分かち合いの原理を世界経済の取り決めにどのように融合させる必要があるかについて、私たち自身が新たな注意を払い、再び内部で静かに熟考することは義務なのです。これは、私たちがこれから先、はるかに簡単かつ迅速にハートの属性を放つことを可能にするでしょう。

当然のことながら、商業化勢力は、この世界で愛と知恵の現れの対極に立っています。しかし、ハートの属性が前例のない規模で解放されると、あらゆる形態の抑鬱と心理的苦しみが減少し、私たちの社会に新たな驚異が起こるでしょう;個人の創造性が大幅に向上し;世界の緊張とストレスは劇的に減少し;生きる歓びが実感できる普遍的な現実となり;病気の治癒でさえが、新しくより急速な進歩の道を辿るでしょう。

要するに、国家間での分かち合いの原理の実現は、特に環境危機に関して、私たちの最大の希望であり、より良い世界への前兆です。なぜなら、内から外へと異なる方向へと、霊的ハート・センターから神聖化されたマインドへと、そして生命に対する内なる認識から私たちの周りの世界の外なるバランスへと、違った方向に人類を導くだろうからです。これらは、「分かち合いの原理についての考察」の中で私がこれからさらに詳しく探求する重要な問題の一部です。

最後の質問ですが、多くの人は、人類には必要な規模で変革する能力や傾向がないため、今後1世紀にわたり私たちは暗黒卿的未来に向かっていると信じています。個人的にあなたは、間もなく来たる大転換を私たちが乗り切りきることができるという希望をもっていますか。

希望を持つべきあらゆる理由があります。第2次世界大戦中、多くの人々が希望を失いましたが、同盟国は、ドイツ、イタリア、日本の一党独裁政権に顕現された闇の勢力に勝利しました。現在、私たちは別の恐るべき闇の勢力に勝たねばなりません。それは、このインタビューを通して考察されてきたように、私たちの文明を破壊に導く極度の市場志向のイデオロギーを通して社会を決定的に掴んでいる商業化勢力です。私たちの生活のあらゆる側面におけるこれらの勢力の威圧的な影響を超越するには神の介入が必要であるかのように思われますが、私たちは以前、それらの物質勢力を打ち破っているのです。そして、再び勝利することが可能なのです。私たちはそれらを必要なだけ、たとえ10回でも打ち破ることができるのです。なぜなら、この地球に闇の勢力が存在するなら、光の勢力が存在することも間違いないからです。そして、私たちは再びそれらの光の勢力を支持するでしょう。なぜなら、私たちの存在の目的は、尊厳、平等、自由の中で霊的に進化することだからです。

ですから、私たちの勝利を疑う人々への私の答えは:人類が、私たちの文明におけるこの新時代の危機を克服できるという希望、大きな希望があります。愛の特性を備えたハートを通して何百万もの人々の間で表現される分かち合いの力を、私たちはまだ世界規模の驚異として目撃していません。そして、分かち合いの原理が世界の政府の政策に真に組み込まれるなら、おそらく私たち全員を驚かすような速度で、政治的および経済的構造に劇的な変革が起こり始めるでしょう。したがって、私たちはついに、これまでの何世紀にもわたる搾取と破壊のときを通して、自然にとっての最大の呪いは、人類がすべての人の共通善のために協力して行動することを常に拒否してきたことであると理解するかもしれません。なぜなら、生命はひとつであり、そして人間は生命そのものであるからです;これ以上、何も言うべきことはありません。

 

参考文献

[1] Willy Brandt, North-South: A Program for Survival (The Brandt Report), MIT Press, 1980
ウイリー・ブラント、北と南:生存のための戦略(ブラント委員会報告)、日経新聞社、1980年

[2]「交渉の中心には、気候変動の取り組みの重荷がどのように分担されるか – そして、新しい貴重な資源カーボンを、水銀が危険なレベルに達するまで私たちが放出できる何兆トンもの排出量を、どのように分かち合うかについて先進諸国と発展途上諸国との間に和解がなければならない」。全エディトリアルを参照:Copenhagen climate change conference: ‘Fourteen days to seal history’s judgment on this generation’, The Guardian, 7th December 2009.(コペンハーゲン気候変動会議:「現世代に対する歴史的判決を封印する14日間」、ガーディアン紙、2009年12月7日)。

[3] Encylical letter, Laudato si’: On care for our common home, Libreria Editrice Vaticana, May 2015.

[4]信条とイデオロギーと主義についての講話」シェア・ザ・ワールズ・リゾースィズ、2014年7月。

[5] モハメッド・ソフィアン・メスバヒ「世界人権宣言第25条を布告する:人々の世界変革のための戦略」Troubador Publishing Ltd, 2016.

[6] cf.「クリスマスとシステムと私」シェア・ザ・ワールズ・リゾースィズ、2013年12月。

[7] 例として以下を参照:「奮い立て、アメリカよ、奮い立て!アメリカ人活動家への手紙、2014年10月;「世界の人々をひとつにする、2014年5月;世界人権宣言第25条を布告する、op cit.

[8] 「世界人権宣言第25条を布告する」op cit;パート3:環境の問題

[9] このテーマについては「分かち合いの経済:ハート時代の幕開け」シェア・ザ・ワールズ・リゾースィズ、2016年11月でも考察されている。

[10]「世界人権宣言第25条を布告する」op cit, p. 65.


モハメッド・ソフィアン・メスバヒはSTWRの創設者である。

インタビュー:アダム・パーソンズ

Image credit: optimarc, Shutterstock

翻訳:村田穂高

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