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「主義」と分かち合いの原理についての講話

Mohammed Sofiane Mesbahi
2014年7月18日

分かち合いが地球の危機への解決策であり、分裂した世界を蘇生させる私たちの最後の希望だという認識を、どうしたらもたらすことができるのでしょうか。この問いかけの中心にあるのは、自己満足的な無頓着さがその存在を当然のこととして正当化するために、「主義」を通してそれ自体を合理化した問題です。


人類の問題は非常な高みに達したため、国内および国家間で分かち合いの原理を実現することは各政府にとって現在極めて重要です。それは、いくつかの点において非常に重要です。まず第一に、各人に内在する歓びと創造性を解放することですが、現在世界中で流行病ともいえる規模に達した鬱病率を伴う経済苦難と社会の破綻により、それらは広範囲に渡って抑圧されています。第二に、生存のための適切な手段をもたず生活し、日を追って貧困と病気から無駄死にしていく何百万人という男女子供にとってそれは明らかに重要です。さらに、社会変革のための時間が僅かしか残されていないため、環境の破局を回避する可能性をもつためには、政府間の政策に分かち合いの原理を取り入れることは不可欠です。世界自体が病んで非常事態にあり、必要な治癒と治療薬を提供できるのは分かち合いだけなのです。しかしこれらすべての点において、私たちは困惑のなかに取り残されます。なぜなら、分かち合いが実に私たちの問題の解決策であり、最後の希望だという集団的理解が欠如しているからです。分かち合いが唯一の脱出口であるという公衆の包括的認識なくして、この疎かにされた原理が世界情勢のなかで実現されることは不可能なのです。

従って、以下の疑問が生じます。どうしたらこの認識をもたらすことができるのでしょうか。なにが莫大な数の一般人に世界情勢の緊急性と、社会に携わり皆で結束する共通責任を私たち全員が共有することを認識させ得るのでしょうか。これは、現代社会の風土病のような自己満足的無頓着さと未来が予測不可能なことを意味する人類の自由意志を考える時、答えるのが大変難しい問題です。私たちの以前の考察で推論したように、世界最大の危険は商業化そのものでなく、私たちの叡智が自然および霊的進化から逆方向へと導かれるその内外の表れへの絶え間ない自己投影です。それは、飢える非常に貧しい人々のど真んなかで自己満足的無頓着さと無関心が私たちの人格を下劣な驚異へと象る時です。実に、母なる自然、そして人間の魂の重荷にまでなってしまった私たちのわがままなパーソナリティ(人格)です。人間の自由意志がそれ自体の運命を決定するのに任せ、自然界のすべての王国の不変の法則のなかで静かに進化の穏やかな勢力がその自然の経過を経るにつれ、遠方から人類は自己満足的無頓着さと無関心の間を放牧する群れのように見えるに違いありません。すなわちそれは、万人の人生の痛み、不可避の悲しみ、そして私たちの住むこの不運な惑星の時間と空間を通しての速度の遅いプログレスを意味します。

個人的および集団的に、私たちの自己満足的な無頓着さに密接に関係する商業化の掴みどころのない不正な性質、その悪賢さおよび微妙さについても私たちは既に突き詰めて探求してきました。比喩的意味で、いくつかの謎の理由によって、商業化は私たちの自己満足的無頓着さと結婚したとさえ言えるかもしれません。それは、遠方の国々で貧困の結果人が死んでいることを耳にする時、遂に私たちが無関心で居続けるよう成らしめます。従って、分かち合いの原理がなぜ社会でそれほど見落とされているのかということに関する考察の中心となるのは、認識と自己満足的な無頓着さの間の関係を理解することです。それは、私たちの意識に強力な開放的効果をもたらし得ます。私たちの自己満足的無頓着さがその存在を当然のこととして正当化するために - それは信条、イデオロギー、そして主義の全形態を通してのみ達成可能なのですが - それ自体をどのように知的化してきたのかについて、私たちはまだ十分に検討していません。

主義の歴史

もし私たちが大変密接にマインドの動きに注目するなら、各社会を特徴付ける多くの主義がどう一般人の条件付けに大きな役割を果たしているか捉えることができます。主義は私たちを混乱させ、恐怖に怯えさせ、そして自己満足的で無頓着にしてきました。殆どの人は基本的に善意と思いやりをもっていますが、人間の歴史を通して信条とイデオロギーへの自覚のない自己投影により私たちは常に道から外れてきました。そしてその結果、一生涯、魂がその目的を果たすことを拒まれるまで混乱と恐怖が私たち全員を支配するのです。簡略な心理的言葉で言うと、私たちを内部と外部から分裂させ惑わせる精神思考形態として主義を述べることができます。そして、深い知恵をもつハートを蘇生させることから慈悲心を妨害する私たちのマインドのなかの深い霧「グラマー(幻惑)」を効果的に生みだすのです。

すべての種類の主義は、絶え間ない信条への錯覚的で誤った自己投影を通して私たちのパーソナリティに深く有害な影響を与えます。 それは、人生の本当の現実に関してマインドの条件付けと霊的盲目へと最終的に変換されます。次いで私たちは自己の意識的認識の拡大を制御し、そして社会的レベルですべての国が各々の運命に従ってより迅速に進化することを集団で阻止するのです。人類の文明の歴史はこの内部の視点からみると実際は主義の歴史です。これが、私たちの厄介で苦悩に満ちた真実です。なぜなら、私たちの結果的な恐怖、混乱、自己満足的無頓着さは、今日の惑星規模の大混乱に至るまで、年代を経て分裂と破壊の原因となってきた物質勢力を、私たちの周囲のすべてにつくりだされるのを許してきた危険な状態の在り方だからです。

私たちは通常、主義を社会主義、イスラム主義、グローバリズム、実在主義などの主要な政治哲学、宗教教義、または特有の学説や運動などとの関連でのみ考えますが、それが真実と現実についての私たちの見識を抑制し、基本的倫理と道徳を犠牲にすることさえ可能な意識中の心理的要因として考慮されることは殆どありません。人生のあらゆる領域で主義が表現される方法が無数にありますが、学術的アプローチはそれらの意味合いを理解する助けとならないでしょう。なぜなら学者もまた、私たち全員を罠に掛けた主義を永続させていることに大きな責任があるからです。さらに、僅かな数の学者しか、私たちの心理的発達や霊的進化の点から主義のより深い意味や含蓄をいまだ考慮しません。

人類の現在の進歩段階において私たちは、分極する思考形態の惑星規模のサーカスのなかで生活し動いています。そして商業化が、私たちの「偉い人となって」いわゆる現代社会において成功する欲望をまさに喰いものとするように、様々な形態の主義もまたマインドの条件付けと信条への自己投影を餌としています。主義はまた特に、新しく形成された信念と思考過程のなかで子供が発達することを可能にする点から、自己認識への成長の一部として潜在的に有益で健康的な役目を演じるにもかかわらず、信念への自己投影と執着の過程なくして存在し得ません。簡単な比喩をあげると、主義はスペースシャトルについているロケットのようなものであるべきです。それは、宇宙飛行士が陣道へ入ることを可能とするために、地球の大気から飛び立つと同時に破棄されます。同様に、最後にどのようにして主義が切り離されねばならないかについての認識をもつ良き指導者により子供の意識内で主義が導かれるなら、それは子供の成長と発達を促進することができます。

教師や親もまた条件付けされいくつかの主義に執着し、ひいては子供に支離滅裂な信条とイデオロギーの重荷を成人してからの人生にまで引きずらせていく時、問題が生じます。やがてその個人の初期段階における思考のなかで特定の主義が解き放たれ、制御されないようになるかもしれません。そして彼は自己の信条を他の人々に強要することにより、最終的に害を与えるかもしれません。「私がこれであると信じる」と言うようになるまで、私たちが共に育ち、執着し始め、ひいては完全に自己投影するただの信条にそれはすべて起因しています。それはもし、誰かが私の主義、または私の「信条に対する信条」を侮辱するなら、民族・宗教紛争などの状況下で実にしばしば起こっているように、私は余りに腹を立て、その相手と戦うことや、あるいは殺すことさえ決意するのです。すなわちマインドが余りに支配的影響力をもつようになり、私が自己に植え付けた頑固で誤った思い込みを打開するのに無力なハートは暗黙に待つしかないのです。

健康的な主義の歪曲

従って、その多様な表現における主義は、信条とイデオロギーが組みこまれ、対象物へのマインドの絶え間ない自己投影によりパーソナリティのなかに埋め込まれた生物学的コンピューターのようなもとして理解できます。私たちが主義へ自己投影する主な理由は、疑惑、恐怖および不確実性に満ちた世界で安心感を得るためです。誰もが物質的確実性と心理的安全性を求めていますが、特に偉大な宗教的主義は断続性と秩序の錯覚と共に必要な安心感と連帯感を私たちに与えてくれます。そしてまた、宗教的信念や古い伝統を子供に授けることには防護の要素も含まれます。意識的認識の裏で起こる、一般的に機械的過程である主義への絶え間ない自己投影から引き起こされる多くの容易ならぬ結果について、私たちは自己で探求していくべきです。それは、自己の行為が遵守や信条に基づかず自由だと思っていても、私たちは主にマインドの条件づけのなかから生活し、それに基づき行動しているということです。それは、ものごとをあるままに見ることをせず、自分たちがあるべきだと思うようにしかものごとを見ないという意味です。その時その時の瞬間を生きることができるということ、人生の美を形容することなく認識できるということ、常に測りに掛けず、比較せず、イメージを醸しだすことのない思考の静止を経験できることなどを含んだ人生の現実を、主義で一杯のマインドは見ることができません。

しかし、結晶化した思考形態が幼少期から幼いマインドに無理強いされる時、結果として、深い認識をもち無執着な教師でさえ子供がその信条を手放すまで、それを正しく位置づけするよう手引きできないのです。良き指導者や親の動機がなんであれ、子供たちのマインドに有害な主義を伝達することにより意識的認識の成長を制御することは、人間の自由意志の著しい侵害です。例えば、私たちの保護下にある若者を「良いキリスト教徒」またはユダヤ教やイスラム教の熱心な信仰者となるよう強いることは、その哀れな子供のマインドにそれらの宗教の何世紀にも渡る痛みを詰め込むことです。意図は良いかもしれませんが、もし安全性への必要性が歪められ、自己知識を通して超越されないなら、結果は意図された反対のものとなるでしょう。

仏教教義やリベラリズムを定義づける哲学的見解など、主義の様々な形態を理解することを私たちが試みているのではないことを念頭に留めておくことは重要です。私たちはむしろ、この奇妙な心理的驚異のさらに深い根源を理解すること、そしてどのように主義の創造が社会のあらゆるところに見られるようになり、最終的にそれが私たちを感情的に損傷させ、私たちの意識の進化を妨げることができるのか自己の内部で捉えることを試みているのです。すべての家族、グループ、または人間の活動に主義が関与しています。それらの一部は有害で、また他は権力とコントロールを目的に操作されています。特に、教育、宗教、政治分野においては。「人格の構築」に関する会話などは主義のひとつの形態であり、または「私はこうなのだから」と言うことは神経症的表現です。主義にどっぷり浸かった社会に住む誰もが必然的になんらかの形で神経症なのですが。

お金や名声を欲することがまさに極度に腐敗した主義の表現であり得るように、家族はそれ自体が主義であり得ます。私たちの人格、知覚、そして自己のイメージのなかに主義が埋め込まれるまで、私たちの実態そのものが、人生への間違った姿勢によって全側面から爆撃を受けている社会のなかの主義なのです。「自分は選ばれた人間なんだ」と人を信じ込ます惑わされた信条に私たちの人格が投影される時、主義が鏡に反射され自己に戻ってくるのが見えさえします。人生への圧倒的に感情的な姿勢、永続的なマインドの条件付け、そして認識および自己知識の欠如など多くの要因の結果として、人類は文字通り主義の工場です。マインドは、他人の信条を信じることによりそれ自体を条件づける優れた能力をもっています。そしてパーソナリティが、社会のグループの一員として受け入れられるために、どのようにマインドの条件づけをしばしば故意に引き起こすか観察するのは奇妙です。例外無く、主義が私たちの周りのどこにでも浸透している事実は、これらの主義内から私たち自身が生きていることを意味します。それは、「私は考える。故に私がある」でなくむしろ、「私は信じる。故に私がある」なのです。

要約して言うと、主義は基本的に心理的安全性ならびに意義、確実性および目的への私たちの必要性に基づきますが、数々の主義と信条の終わりなき葛藤が浸透した社会生活の結果として、根深い徒労感、混乱感および不安感によって私たちの存在は特徴づけられたまま残ります。私たちの実際の存在が、それ自体を主義のなかに象ったとさえ言えるでしょう。そしてその結果として私たちの存在は、恐怖で満たされています。無数の主義と信条の支配下にある社会で、無意識的でしばしば適切な理由はないのですが、人類のお気に入りの趣味は、不安でいることと心配することであるかのようなのです。

自己の拘置

意識的認識の裏で起こる一般的に機械的過程である主義への絶え間ない自己投影から引き起こされる多くの容易ならぬ結果について、私たちは自分たちで探求していくべきです。それは、自分たちの行為が自由で遵守や信条に基づかないと思っていたとしても私たちは主にマインドの条件付けの中から生活し、それに基づき行動しているということです。それは、ものごとをありのまま見ることをせず、自分たちがあるべきだと思うようにしかそれを見ないという意味です。その時その時の瞬間を生きることができるということ、人生の美を形容することなく認識できるということ、常に測りに掛けず、比較せず、イメージを醸しだすことのない思考の静止を経験できることなどを含む人生の現実を主義で一杯のマインドは見ることができません。

以下は、主義の条件付けのなかから人生を生きる暗黙の苦痛です:それは、真の自己を知ることを私に許してくれません。なぜなら私は常に自己の条件付けが言うことに従っているからです。ですから私は自己の真の性質と触れ合うことがありません。そして私はあなたのありのままの姿を見ることができず、本当のあなたでいることを許さないでしょう。それは今日、多くの人々が内部の自己についての認識をもたず、そしてしばしばその存在の静寂のなかで一人になるのを望まないという意味です。なぜなら「私」は条件づけされたマインドによって捉えられ監禁されているからです。マインドが動きだした途端、それは主義の終わりなきサイクルのなかに捉えられるのです。それは、マインドがバランスと分別を見つけ願わくば常識の点から考え始めるようになるまで、ハートは黙っていることを強いられるということです。ハートが認識と沈黙を通してのみその存在を明らかにすることができる一方、主義は騒々しく不穏で分裂的です。

個人的視点から見た全種類の主義は、叡智、創造性および自己認識を否定する原因となることが可能です。そしてより幅広い社会的視点から見ると、それは正しい教育の普及と善意の表意、または正しい人間関係を妨げることが可能です。しかしながら人間の歴史を通して社会のなかで最大限の被害と分裂の原因となったのは支配的な主義です。偉大な政治的、宗教的イデオロギーに関連した歴史的視点から私たちはこのことをはっきり理解するかもしれない一方、共産主義や社会主義、左翼やリバタリアン(自由至上主義者)、アナーキスト(無政府主義者)や新保守主義者、またはその他キリスト教徒、ユダヤ教徒、イスラム教徒、ヒンズー教徒、神智学主義などのレッテルによって自己を定義付けることが自己に対するどのような暴力行為であるかを捉えることはよりさらに微妙です。様々なイデオロギーや教義の教えや信条は非難されるべきでありません。そして、それらはより高い理解と目的に向かって上方へとマインドを集中することを促進できる、貴重なガイドラインとして役立つかもしれません。しかし、人類がそのような全体としての信条システムに自己を投影することによって、他の主義に対立する主義へとそれを変える時、それらのガイドラインは危険な程分裂的となるのです。

信条自体は危険でありませんが、間違った自己投影により維持された信条に対する信条が唯一危険なのです。自己を無神論者と呼ぶことさえ分裂的かつ暴力的行為です。なぜなら、無神論者は神の信条に対立するマインド設定なくして存在できないからです。そして、分裂があるところには暴力もあります。実際の暴力でなければ知的または心理的な暴力です。もし私が自己をイスラム教徒、そしてあなたをキリスト教徒と呼ぶなら、私たちの間に立ちはだかる分裂のなかに人間らしさはなにもありません。そしてさらに最悪なことは、無数の信条によって定義づけされただけの神の名のもと私たちが分割されることです。それは、次の疑問を思案することへと私たちを導くかもしれません:過去と古代の戦争は本当に宗教に基づいたものだったのでしょうか。それとも、対立し合う信条への私たちの間違った自己投影の結果だったのでしょうか。世界的展望からこれは人類史と呼ばれますが、密教的または霊的展望からそれは最も虚栄心の強い人間のドラマとして理解されるかもしれません。従って、人間をしのんでシェークスピアの必要性が永続するのです。これらすべての不必要な紛争と惨事の真っただなかで、自己は生涯から生涯へとさまようパーソナリティーを無力に傍観しながら、頑迷な主義によっていつまでも捕われ続けるのです。

信条同士の戦争

この太古の問題の内部への探求は、対立し合う多くの主義と信条の大混乱の至るところで私たちの身動きがとれなくなっているこの時、 なぜ分かち合いの原理が現在殆どの人にとってアピールまたは深淵さを欠いているのか理解する助けになるかもしれません。政治活動領域であなたがどの方向にいこうと、どこかの党派または別の党派からある主義が、即刻あなたに授けられるでしょう。もしあなたが資源のより平等な分配をもたらそうとしている政治家なら、すぐさま社会主義者のレッテルがあなたに貼られるでしょう。もしあなたがすべての人のために無料の教育および医療を普及させようとするなら、あなたは共産主義者だと言われるかもしれません。もしあなたが中道的に大多数の投票者を満足させようと試みるなら、あなたは汚い資本主義者だと言われるでしょう。大変多くの無意味な口論と論争を通して、人類はそれ自体を疲労させていると言えるほどです。そして全体で、うんざりする児童クラスのように振る舞っているのです。

しかしながら、良識と分別に対する苦闘のすべてに最も責任があるのは政治家ではありません。なぜなら私たち自身が、政治的主義の運動への絶え間ない自己投影によって社会的進歩を妨げているからです。システムを永続させることにおいて私たちを共犯に仕立て上げるために、幾分かの尊厳と希望を提供することにより、政治演劇舞台が私たちの忠誠心を吸い取るのと似た方法で商業化がどのように幸せを私たちに提供するかを私たちは以前考察しました。「我々こそが真の国民である」または「なにが正しいのか我々こそ知っている」と言う人々の尊厳感に続いて、特定の政党、そしてどのような政治的革命や熱狂的支持者の信条にでも自己投影することは私たちにとってとても尊厳的なことです。しかし、イデオロギーが対立や衝突に基づく時、私たちが支持するものは偽の尊厳です。イデオロギーに対立するイデオロギーは、人類自体が敵となる主義と信条の戦いのなかでそれ自体を最終的に失うでしょう。

全人口の自由意志を侵害する道具として巧みに使われただけでなく、他の一連の原理と対立するためにも強化され、共産主義の基礎となった原理論に確実にこれは当てはまります。それは旧ソビエト連邦の没落を当初から運命づけました。共産主義の真の原理は事実、かつて社会において顕現されたことはなく振動したのみです。資本主義は主義戦争において最後に勝利した現在孤独な男子です。勝利したのは主に、資本主義社会の自由意志侵害が隠され偏在しているためです。「資本主義者」として自己を定義づける人々の特定の所属先がないことから、それは大変洗練された主義なのです。そして、自由の象徴や個人的自由の思想の裏にそれ自体をよこしまに隠すことをなんとかやり遂げてきました。それでもなお、私たちが資本主義、社会主義、または右翼、左翼の点から思考する限り、それは常に社会のストレスの原因となるでしょう。そしてこれらの言葉の存在自体が、分裂と結果的な苦しみを必然的にもたらすでしょう。

心理的、霊的両方の観点から「私は社会主義者です」または「私は反資本主義者です」と誰かが言った途端、戦争が始まります。それは、実際の戦争でなくともあなたと私の間の対立の始まりであり、内部の混乱と心理的分裂の始まりです。自己を社会主義者と呼ぶことや資本主義などの主義にあなたが対立すると考えることさえが、人類の霊的結束から元来自己を分裂させる対立の本質です。実際のところある主義が「我々は万人にとってなにが最良であるか知っている」と言うことや、「我々には社会を組織するためのさらに優れたアイデアがある」とそれに対立する主義が挑戦することが当然なのは不条理なのです。すなわち、すべての政治的主義が勝利を試みてきましたが、必然的に失敗してきました。なぜなら、主義を通して衝突に基づき私たちが世界を変えようとする限り、なんの平和も本当の社会的進歩もあり得ないからです。もしキリスト自身が突然出現し、人類に残されたただひとつの未来はリバタリアン共産主義か、アナルコサンディカリスム(無政府組合主義)だと宣言してたとしても、万人の最善の利益のために機能することはできないのです。

民主主義と自己満足的無頓着さ

政治的主義はまた、一度パーソナリティーがそれに自己投影するなら、その機能において最も独特です。なぜなら、長い存続期間後、その表れにおいてますます微妙で掴みどころがなくなるからです。政治的信条とイデオロギーへの私たちの絶え間ない自己投影からくる内部の葛藤を注意深く観察することにより、そのような主義と私たちの自己満足的無頓着さの間に存在する心理的関係をも捉え始めることができます。分極する主義に引き裂かれた社会における投票行為は、実は多くの場合、私たちの自己満足的無頓着さの主な表われのひとつです。

例えて言うと、選挙運動が行われ、政治家が票を求めて街頭で遊説している時、その政治家をガソリンなくして走らない車に例えることができます。この場合のガソリンは、投票を通して私たちが表現する自己満足的無頓着さを象徴します。選挙後、その車がいきなり動かなくなるか完全に故障するかした時、約束を破った政治家を私たちは非難するのです。私たちの「ガソリン」なしでこの大惨事が起こっていなかったであろうという事実にもかかわらず。それは良い車であると私たちはその政治家を信じました。従って、私たちは「信条を信じた」のであり、そして政治家にその車で好きなことをするための白紙委任を与えたのです。ひいてはすべてがだめになった時、分裂した世界を癒そうと、自己の役割を果たすために創造的な方法で社会に携わる代わりに私たちの殆どがする唯一のことは、ガソリンを入れる他の車、すなわち主義を探すことなのです。

このように投票の行為は、主義と私たちの自己満足的無頓着さの間の逃避的繋がりを例示します。私の政党によって宣伝された信条を信じ、そしてその政党に失望させられた途端、信じることのできる他の信条を自動的に探すのです。それによって私は社会のすべての問題に対する自己の責任を放棄し、そして自分と同じ考えをもたないすべての人とあなたから心理的に自己を引き離すのです。この心理的分離感覚は、最終的に自己の創造性、独自性、そして最も深い霊的可能性の表現を妨げる、自己満足的無頓着さの一形態としてそれ自体を象るのです。例え         私が多少認識をもつようになり、政党政治統制にエネルギーを投入することを止めたとしても、今日の数多くの人々や先代のように私はまだ自己満足的無頓着さのなかでいき詰まっており、そしてプロパガンダと選挙活動の無限の混乱のなかで漂っているのです。その間、残りの社会が政治的主義のために戦うか、さもなくば無関心、無反応でい続ける一方、富裕層と権力者たちは私に隠れてこっそりお金儲けをし、世界の苦悩と破壊から利益を上げているのです。

これは、自由選挙と民主的プロセスが人類の発展において果たした大変重要な役割を否定するためのものではありませんが、公職候補者の受動的選択は、私たちの未来を守るには現在完全に不十分です。もし私たちが資源の協力的分かち合いを前提としたさらに啓蒙的な経済時代を見通すことができるなら、ひいては大衆政治運動のために数十億ドルもの費用をかけ、お互いに対立する政策優先項目をもった社会主義や資本主義候補者を宣伝することがどのような価値をもち得るのでしょうか。万人が富と権力を分かち合う統一された世界は、人類全体に仕え、裏に潜み途方もないロビー力をもった特権的少数派の利益に基づく今日の社会の法律の恩義を受けない、新たな種類の政治家を政府に必要とします。私たちが今日の党派心あらわな政治指導者にエネルギーと権威を与える限り、人類は自己満足的無頓着さと無関心を食む群れとして遠方から映り続けるでしょう。民主主義の真の表れはどの国においても決して今まで存在したことがありませんし、自己知識を通して「いのちの法則」について政治指導者たちが教育されるまで決して表されることはないでしょう。私たちのマインドが恐怖と不安感に条件付けられている間は、そして、私たちの社会に信用や平等さがない間は、民主主義の意味を知ることさえ不可能です。そのような社会がどのような民主主義を生みだすことができるのでしょうか。

グローバル化した私たちの無関心

結局のところ、それは飢餓として知られる巻き添え被害と同様に、物理的貧困と霊的貧困の両方を生んだ共産主義、社会主義、資本主義、そしてすべての宗教的混迷が原因となった終わりのない心理的紛争です。新聞の大見出しを占領する中東やアフリカの多くの国に見られるように、主義の戦争によって引き裂かれている現代社会においてこれは明白に理解できます。アル・シャバブやシーア派民兵、NATO、またはCIAなど軍力的破壊を誰が犯そうと、予想外または偶発的な負傷者の代表は常に貧困者と飢えた人々です。しかしながら、さらに私たちが認識を躊躇するのは、公衆の結集した自己満足的無頓着さを通してこの巻き添え被害を生みだすことに私たちもまた一役かっているということです。利権を優先し、そして戦争兵器に数十億ドルも注ぎ込む政府を私たちは非難するかもしれませんが、政府はそうすることができ、そうする権利があり、そしてそうし続けるでしょう。なぜなら、私たちが黙って顔を背けているからです。そして、なぜ私たちは黙っているのでしょう。なぜなら、主義がますます私を捉えていく間、私は社会における自己の個人的戦闘で頭が一杯だからです。それは、およそ私の注意を逸らし財布を盗るスリのようです。この場合の財布は、私の良識、善意、そして分別を象徴しています。私は最終的に余りに条件付けられてしまうため、私と人生の現実の関係は不運にも分離し誤り導かれます。なぜなら、私の知覚は主義によって余りに濁らされ、現実をありのままに見ることができないか、あるいは、私の周りの人間の苦しみに対して基本的に道徳的、倫理的な反応を示すことさえできないからです。

これは、多くの政治的、宗教的原理主義者たちのなかに明白に見て取れます。しかし、私たちの思い違いを本物かつ教養があるように見せかけるため、さらに微妙な主義がどのように自分たちの自己満足的無頓着を合理的に処理したかを私たちが認識する可能性は極めて低いようです。例えば多くの霊的グループが、飢餓から死んでいく無数の人々について軽くその場で論議し、それを飢餓者の「カルマ」として理屈付けることは一般的です。それは、私たちの無関心を許し、私たちの集合犯罪を放置します。自由選択を通して私たちが行う、悪の顕現への自己投影なくして結局悪とはなんでしょうか。カルマとは事実、愛と自由の活力に満ちた動的表現であり、そしてその定義によると、生き、学び、そして成長する権利を万人に与えます。この基本的事実は、私たちの兄弟姉妹の魂を非難してさえ彼らの不必要な飢餓を私たちがむしろ合理的に処理することを趣向する時、自己満足的無頓着と無関心により私たちの人格が下劣な驚異へとどのように象られてきたかを痛切に明示します。思想を主義へとつくりあげることを好む人々は、人類自体を思想として考える傾向にありますが、飢餓から死にかけている子供は飢餓主義という学術研究の対象にはならないのです。

もし私たちが現実と向かい合うことができるなら、豊かな世界のなかで飢餓から人を死なせることは最大の罪だということです。そしてそれは、世界規模で自分たちの自己満足的無頓着さを通して私たち全員が犯している罪です。もしあなたが、生命あるものはすべて神の一部であり、神が進化する生命であることを受け入れるなら、ひいては人に基本的ニーズを拒否することは、生存する権利だけでなく、自由に進化する権利をも彼に拒否するということです。地球で進化しパーソナリティを通して魂がそれ自体を表現する自由は、道徳および責任の基礎であり万物の基礎です。主義への自己投影の結末はそれゆえ見るに堪えません。実際のところ私たちは、自分たちの自己満足的無頓着と無関心をグローバル化させてきたのです。人間の意識の拡大を妨げてきたのです。そして、人間の知性が、穏やかな進化の勢力から悲惨で誤った方向へと向かっている間、同じ歴史が何度も繰り返すことを許してきました。

不可能な会話

それでは、分かち合いが人類の問題の解決策であり、分裂した世界を復興させるための最後の希望であるという認識をどのようにしてもたらすことができるのでしょうか。この会話をすること自体が、自由な思考と認識をもつことを私たちに要求します。さもなくば、私たちの思考には人間らしさでなくイデオロギーがあるのみです。一方で、私たちの多くが現在、公益と利益が等しいと見なすまでに生活の全側面に入り込んだ市場勢力によって条件づけられています。そしてもう一方で、国家間の資源の分かち合いの思想が「空想的理想主義」やただの戯言として考慮されるまで、社会主義や共産主義のイデオロギーと分かち合いを同等として見るよう政治勢力に私たちは条件づけられています。いくつの主義と信条であろうと私たちがそれらに自己投影する時、私たちはその問題の大きさを知覚することができるでしょうか。もし私たちが自己を偏りなく見ることができたとしたら、主義と信条のあまりの多さに驚くどころか恐怖するかもしれません。私たちの知覚は主義によってあまりに濁らされ断片化されているため、人生に対して正直で誠実な反応を示すこと、また内部で無執着かつ意識的であるという自由を理解することがどういうことなのか殆ど知らないのです。

では、主義に基づいた社会に住み、人類に仕えることや愛することを教育されず、そして自己を気遣いお互いのことを気遣うよう奨励されていない私たちは、どのように自分たちの家を後にし、いわゆる革命をもたらせるのでしょうか。私はあなたを助けにいきます。それは私が社会主義者またはキリスト教徒だからなのか、それともあなたが私の兄弟であり私の助けを必要としているからでしょうか。それとも、あなたが絶望的に食糧と避難所を必要とするからでしょうか。もし私が主義と信条による歪曲なくして正義の本当の意味を知っているなら、「私の権利」と私自身のための正義を街頭で叫んでいるでしょうか。それとも、世界の死にゆく貧困者と飢える人々のために正義を要求しているでしょうか。

むしろ不適切なことに、それはまた大衆の自己満足的無頓着さが原因で、自然界の権利と未来世代のために戦う環境主義などの主義が存在することを余儀なくされています。もし、全人類がこの惑星を救う必要性に同調して動いていたとしたら、環境主義のようなものは存在していなかったでしょう。より簡素かつより持続可能な生活様式を受け入れる統一した人々の声があるのみだったでしょう。同じようにもし万人が、私たちの世界を改善変革することに活動的であったなら、「積極行動主義」の概念など存在せず、活動家と社会の残りの人々との間に違いはなにもなかったでしょう。皆が万人の共通利益への奉仕のために生きるひとつの人類があるのみであったでしょう。

私たちは緊急に、認識と自己知識を教え込むことを助長する新たな種類の教育が必要です。それは、人生の霊的理解を基盤としない世界で途方もない仕事です。主義の問題、マインドの条件づけの問題、信条への誤った自己投影の問題、ならびに無害でいること、内部のバランスおよび自由の必要性の問題を考慮しない限り、正しい教育について話すことはできません。教育の真髄とは、各人が自己の独自性と創造性のなかで進化し、それによって自己の真の姿としての美を表現できるようその人を備えるべき「いのちの法則」の辞書なのです。商業化はできる限りの方法で、正しい教育を排除する試みをうまくしてきました。なぜなら、レンガ壁のような自己知識にはまったく歯が立たないことをそれは知っているからです。愛でもなくただの自己知識が、私たちの不平等な世界の構造基盤に挑戦するには十分でしょう。熟考、無執着を可能にし、そして恐怖および心理的不安の克服を可能にするのは自己知識だけなのです。

しかしながら、主義および社会の分裂に踏みつけられている世界でこれは余りに途方もない仕事であり、少なくともこの惑星の破壊が不可逆的になるまでに、教育システムを改革し正しい方向へ若者を教育していく時間がありません。従って、病んで一触即発状態の社会のこのような状況下における正しい教育は、私たちの自己満足的無頓着さの殻を破って認識をもつことだと簡単に意味します。多くの面で私たちが責められるべきではないのです。私たちは全員、痛ましいほど誤り導かれ霊的に盲目的な文化に生まれ落ちましたが、自己認識を体験すること自体が意識を変革し、マインドの条件づけから自己を解き放つのに十分なのです。例え一瞬でも、私たちの真の霊的資質の現実を知覚するということは余りに強力で、その効果は常に私たちのなかに残り失われることがなく、そして消えることが決してないでしょう。私たちは以前、無神論者は神への信条へ挑戦することなくして存在できないと論じましたが、「神」への信条でさえが最終的に断ち切られ、自己知識、そして不滅ですべてに遍在する「ひとつのいのち(ワン・ライフ)」の認識に置き換えられねばなりません。

解脱への唯一の希望

長期的には、 人類の教育が基本的により霊的な(宗教的でない)方向に発展し、それにより生きる術を実践するために必要な基本的教えと内部の導きを各人が備えるまで、主義問題からの解脱はあり得ません。しかしながら同時に、万人一人一人の生命を維持する基本的ニーズの保証を確保するために、 経済の全体制構造が変革されねばなりません。「いのちの法則」の普遍的教えとならんで、社会に信用および安全の物質的基盤がある時、多種多様な主義の全形態に自己投影すること、そしてそれらを増殖するさらなる必要がなくなります。これは、不平等な経済秩序を維持する全法律および構造を改革するために必要な社会の前例のない変革を考慮すると、対立し合うイデオロギーと信条の泥沼を超越するために人類はさらなる時間が必要なことを仄めかしているかもしれません。明らかに時間は必要ですが、悲しいかな、私たち全員がその時間のなかで人間性に対する犯罪を永続させることに携わっているのです。それは、回避可能な病気と貧困から毎日数万人が死に続けている惨事なのです。

ここに恐るべき不条理があります。私たちが世界情勢の緊急性を認識せず自己満足的で無頓着、そして無関心でい続けている間は、人類の問題を政府の責任にすることはできないのです。政府は分裂的な信条を維持するかもしれませんが、凄まじい人間の苦しみを目の当たりにしながら、自分たちの追従の続行を可能にする私たちの「信条に対する信条」について責められるべきは私たち自身です。そして、政府の政策のせいで私たち自身が苦しんでいるにもかかわらず、私たちの無関心はかなりのもので、もし経済状態が回復したとしても私たちの意識が変わることはないかもしれません。従って、自己認識のなかで人類が成長する時間が必要ですが、悲しいかな、その時間のなかで私たち全員に集団責任のある、人類と地球に対する凄まじい犯罪が永続されているのです。

世界情勢のなかで分かち合いの原理を実行していく私たちの唯一の希望は、一般人が認識をハートを中心に置くことです。主義と条件づけを通してハートの特質を妨げることにより私たちを惑わせるのはマインドですが、ハートは私たちと交信する瞬間を常に待っています。ハートは私たちのマインドと交信できません。それはハートからハートへ交信するのみです。そしてなぜなら、人類のマインドは絶えず私たちを乗っ取ろうと余りに支配的になったため、私たちが既に言及したように、それがバランスと分別を見つけるまでハートはなにもできず沈黙しているしかないのです。マインドがバランスと分別を見つけた時点でハートは作動し始め、言葉で話すのでなく、知られているように寛大さ、分かち合い、善意、そして勿論、愛の資質により特徴づけられた特質の表現を通して話すのです。

ハートは知性と比べものにならないほどの知恵をもつにもかかわらず、操作的意図をもつマインドのように考えたり計算したりしません。過度に汚染され、条件づけされていないものの見方をした人と私たちが出合う時、その外観にもかかわらず「純粋な」ハートなどというものさえ存在しません。内在する特質を持つ唯一のハートそのものが在るのみです。ハートは積極的に携わるか、または沈黙するかのどちらかです。新生児がただ赤ちゃんであり、「悪」や「冷淡」だと考えられないように、ハートは常にただハートです。もし私たちが、成功したビジネスマンに「ただあなたのハートを使いなさい」と言っても、彼が私たちを世間知らずで単純思考だと片付けることは疑いありません。それにもかかわらず、彼でさえが恋に落ち、恐らくは彼の愛する人と寛大に自己の富を分ち合う時、ハートの特質に従事するのです。

今日の文化におけるハートの偉大な特質に対する軽薄な扱いと同じようにまた、私たちが分かち合いの原理をどのように軽視しているかを観察するのはなんと奇妙で悲しいことでしょうか。読者は、人類のハートが一度地球規模で起動し始めたらどうなるか目撃することを待たねばならないでしょう。なぜなら、ハートは「対立する」主義に基づいたり「私の権利」や自己の正義のためでなく、万人にとって良いことに基づいてのみ起動準備できるからです。筆者が言えるすべてのことは、このような時にもし私たちが、政府に世界資源を分かち合うよう街頭で皆で一緒に要求する無数の人々を心に描くことができるなら、統一した人々の声のなかに魂の目的が存在するのを私たちは認識するだろうということです。そしてそれは、主義が私たちのマインドのなかから削除され始めるだろう時なのです。

分かち合いは私たちの真の姿

この理由から、私たちが思想のためでなく、むしろ自分たちの真の存在のために街頭でデモンストレーションすべきことは極度に重要です。私たちの文明危機への解決策を提供できる政党や主義はありません。なぜなら答えは、「世界の人々」のものだからです。私たちの政治・経済・社会構造を改革するという思想をもつことは良いことであり必要なことですが、積極的に従事するハートと大衆の集結した善意を通してそれらの答えを表示するのは世界の人々です。ですからあなたがやってきて「私は解決策をもっている」と言うことはできないのです。なぜなら、結束した人々の声を通して「私たち」だけが解決策をもつからです。「私はどうするべきか」と他に問うことさえ、認識がなく無頓着でい続けるということです。なぜなら、ひとつの声をもつ一般人の蜂起に参加する「私」やパーソナリティなどないからです。そこには、適切で正しい行動へ自然と導く全体としてのグループと人類の思考があるのみです。

まず始めに、前例のない規模の地球の緊急事態に対するハートの目覚めを通して表現されるように、分かち合いが人類にとって最後の手段であるという公衆の認識がもたらされねばなりません。そして、その時初めて、政府間の政策と大規模な市民参加を通してその認識の実現を見通すことができるのです。世界を救済し、非常事態に基づき資源を分ち合うために、共同で取り組む努力において政府同志が一体となる展望は他にありません。なぜなら、彼らは何百年間というもの他のすべての手段を試み尽くしてきており現在行き詰まっているからです。この経済的激変の時代、他の国からお金を借りる国が既にありますが、なぜ政府同志は共有知識、技術能力および専門知識、ならびに食糧や他の物資の面でもお互いに助け合えないのでしょうか。私たち人間の共同発明能力と急速な技術的進歩をもって、利害、利益または戦略的優位への必要性なくして、どのように各国がその全国民を食べさせ面倒をみる手助けをし、次いで、永続的な構造的基盤に基づきその相互支援をどのように提供すべきかについての国際計画を、本当に私たちは国連で成立できないのでしょうか。

もし分かち合いの原理が人間社会を支えることを許されるなら、そのような経済的、政治的取り決めにおいて「主義」は存在しません。それは、国家間の圧力および競争を取り除くことを意味します。国内および国家間で分かち合いのプロセスを実行することの効果というのは、資本主義および社会主義のイデオロギーをそれらの本来あるべき場所におくということです。それによって双方は、遂に同調して機能できるのです。それはまた、「対立」のエネルギーをもたず「共益」だけのために私たちが世界問題を考察することを可能にし、そしてそれは、社会主義が万人の基本的ニーズを充足するために必要な道具であると同等に、資本主義が革新的経済に必要とされる道具であることを認めるよう私たちを導いてくれるでしょう。一度でも私たちが世界中で分かち合いのプロセスを実行しさえするなら、この普遍的原理がどのように古代の社会問題と国家間の対立への解毒剤となるかを私たちは捉えることができるでしょう。なぜなら分かち合いはまた、前述の主義によりもたらされた衝突からの自由をも意味するからです。そして、主義と信条の果てしなく続く争いが、進化のペースを非常に遅らせるまでに人類を沈めてしまったことを一度私たちが認識するなら、世界資源の分かち合いがどうより迅速に前進をもたらすかという理解に既に私たちは近づいているのです。

従って、マインドの条件付けと間違った信条への自己投影が数千年間濁らせてきた、魂の目的と分かち合いの原理の間に存在するエネルギーの同盟を直感することは必須です。この非常に重要な時に自己の存在について熟考することは、分かち合いが私たち自身なのだという現実を自己に悟らせてくれるでしょう。それは、進化する意識の梯子を上る人間であることの美を再認識するよう私たちを自然に呼び起こすでしょう。私たちの共通潜在意識の奥底に横たわるは、人類はひとつなのだという認識です。それは、数えきれない人生を経て各々の個性のなかに隠され続けてきた真実です。分かち合いの原理は、ハートの中心を通して潜在意識から顕在意識へとこの事実を伝達する十分な力を備えています。それは最終的に、謙虚な気持ちにならずにおれない、驚くべき認識へと人類を導くでしょう: 遥か以前にこの原理を世界情勢に実現しているべきであったと。


モハメッド・ソフィアン・メスバヒはSTWRの創始者である。

編集協力: アダム・パーソンズ

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翻訳:村田穂高