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世界の人々をひとつに結ぶ

Mohammed Sofiane Mesbahi
2014年5月7日


世界中で何百万人という人々が慈悲、ビジョン、
良識を持ってひとつになるとき、神性がこの 

地球上で必然的に明らかにされるでしょう。

* * *

経済混迷の現時点において、分かち合いの原理を世界の問題の解決策として認識するのは一般的に難しく、特に多くの知識人にとってそうだと言えます。社会の何が間違っているのかを分析する大量の本や報告書の大多数は不可能を可能にしようと試みるものです - それは、政治、経済、社会構造の悲惨な商業化を代表し、支持する政府に新たな代替策を提案するというものです。

知的で完全な分析をすればするほど、私たちは商業化とその悲惨な影響についての果てしなく続く考察にさらに絡まって行きます。その蜘蛛の巣状の複雑さには終わりがないことを知らされます。それでも、十分な食べ物もなく、お医者に診て貰うお金もなく、一部の国では討論したり抗議したりする権利さえない家族に学説的または学問的なことなど何もありません。私たちが書いて知的化すればするほど、批判し論争すればするほど、世界の多くの危機はますます解決不可能なものとなって行きます。しかし、さらなる分析が答えとならないのなら、そして書物に解決策を見いだせないのなら、次に私たちはどうすべきなのでしょうか。

商業化勢力と戦争したり、現在の経済システムを支える恐るべき勢力と戦うことによって、より良い世界を作ることはでません。抑えのきかない市場勢力が主導する社会の中で、私たちはもはや行き着くところまで行き着きました。そして、私たちの文明の相互に連結した危機は、漸進的な改革のための時間を残してくれません。これらの体系的な問題に立ち向かうために莫大な取り組みを行う比較的少数の個人やグループが、現在、膨大な数の一般人が彼らの下に結束しない限り、勝ち目のない戦争に挑んでいるのです。同様に、小さなブレークアウェイ・コミュニティは、世界規模の大惨事への現在の軌道を転換させるほど強くありません。大規模な方向転換をはかるには、富と財政力が余りに極端に少数派の手に集中し過ぎているのです。

残された一つの解決策は、世界中の善意の人々を結びつけることです。これが、地球規模の社会変革への私たちの最後の希望です。なぜなら、人々が平和的な抗議デモの世界的な波の中で結束した途端に、分かち合いの原理が自然に、そして自動的に顕現されるからです。現代の世界情勢に欠如したこの極めて重要な要素なくして、今後数年で人類が直面する危機的難局から脱出する方法は他にないのです。

分かち合いはすべての人に内在し、人間としての私たちの存在に不可欠である一方、商業利益主導の価値観は私たちの生来の霊的性質の一部ではありません。富と権力の個人主義的追求は、間違った教育や、成功と業績の崇拝を通して育まれた幼少からの私たちの条件付けの結果です。しかし、協力して分ち合うよう誰かを条件付けることはできません。あなたには、彼らが誰であるのか思い出させることしかできないのです。それは本能的に走るグレイハウンドの赤ちゃんのようなものです;それは、遺伝子を通して、教えられなくとも親とまったく同じように振る舞うでしょう。人類が分かち合いを遺伝子の中に持っているのと同じです。自己利益や競争は人類の先天的な性質ではないのです。

私たちの社会を定義する貪欲と無関心は、先祖代々私たちの中に植え付けられ、条件付けられてきたものです。しかし、子供の人格は学校教育以前に自然に愛と分かち合うことを表現します。だからこそ、すべての人の利益となるよう社会を変えるために、世界中の善意の人々を結びつけなければなりません。そうすれば、私たちはお互いを認識し合い、本能的に自分が誰なのか思い出すだろうからです。商業化勢力は、全人類を滅ぼさない限り、分かち合いに勝利することや消滅させることは決してできないのです。なぜなら、分かち合いは私たちのDNAの中に永遠にあり続けるだろうからです。

唯一の確実な解決策は、結束した人々の驚くべき力です。最近の大衆蜂起の多くは、結集した善意の注目すべき可能性についての見識を私たちに与えてくれましたが、これらの運動でさえが世界人口のほんの一部を代表しているに過ぎません。人類のはるかに多くの部分が「主義」の痕跡をまったく持たず、政党のリーダーシップなくして、若者が先頭に立ち結束せねばなりません。私たちがすでに目にしたデモンストレーションのすべては不十分でした;来る日も来る日も続く、地球規模のオキュパイ野営地のように、私たちは世界の街頭に立つ何千万という人々が必要です。それは可能な限り最大の緊急性を持って達成可能であり、また達成されねばなりません。

彼らの権力と特権を脅かされることから、政治家が公衆のデモンストレーションを嫌うのと同じように、商業化も世界の人々が結びつくのを嫌います。人々の勢力が地球規模になるとき、社会に対する支配を維持する構造そのものが揺らぎ始めることをそれは知っています。そして、途方もなく複雑な法律と政策によりそれは構造化されているため、新しい社会が徐々に出現するにつれて、無数の経済的取り決めが変革されねばならないでしょう。商業化が最終的に人類の意識に対する支配を放棄するまで、時間の経過とともに、世界経済の全体系が再構築および簡略化されねばならないでしょう。

世界中の善意の人々が一体となって蜂起しない限り、他の解決策ではうまくいかないでしょう。国から国へと何百万、何千万という人々が抗議して集まるとき、人類はひとつなのだという理解が無意識から意識的レベルに達します。ついで、分かち合いの原理がその無限のさまざまな形で全世界で表現され、現れ始めるでしょう。その結果、人々の間で感じられる違いのすべてが非常に無意味で、非常に不必要であることがわかるでしょう。そして私たちは分かち合いの意味をその行動の中で知ることができるのです;私たちはあれこれ必要とせず、お互いを必要とするのみです。人々が共にある時、それは歓びをもたらします。途方もない歓びです。

やがて、分かち合いが世界の鬱病に対する特効薬だということもわかるかもしれません。なぜなら、誰もが、しばしば表現されていない善良な部分を持つからです。お互いに善意を表現し始めるとき、私たちは気持ち良く感じ、尊厳を感じます。それは私たちを凛とした気持ちにさせ、ビジョンを与えてくれます。そしてそれはまさに、現代社会の死と再生の真っ只中で、今私たちが体験し始めていることなのです。社会が分割され、人々が徐々に歓びを失い、自由と創造性を失って行くとき、社会の死が起こるのです。

世界中で何百万人もの人々が意識的に正義を求めていますが、私たちが実際にこれらすべてのデモンストレーションの中で見ているのは、分かち合いへの無意識的な要求です。私たちがそろってそれを認識しない理由は、商業化と派閥政治によって社会にもたらされた多くの亀裂がイデオロギーや信条を通して、大変多くの対立はもとより大量の自己満足的無頓着さをも助長しているためです。社会の不平等に動かされた人々は、正義のための戦いにおいて、システムとの戦いに従事せざる得ないようです。しかし、分かち合いだけがその正義をもたらすことができるのだと理解するなら、世界中で分かち合いを要求する団結した呼びかけを通して、私たちは違った方法で正義を追求することができるでしょう。

愛でハートが開く時、それは分かち合いを求めるのみです。ハートがシステムと「対立する」ことは決してなく、マインドの中身だけが社会の不平等と残酷さを正すためのそのような苦闘に従事することが可能です。事実、システムに「対立」して正義を叫ぶ何百万もの人々は、彼らの成熟さ、誠実さ、知性に見合ったより良い世界を目指しています。システムを変えるために抗議することは成熟さを必要とします。なぜなら、あなたが成熟しているとき、あなたには責任感があるからです。そして、社会の多くの問題との関係の中で責任を持つなら、あなたには正義のために戦うしか選択の余地がないのです。なぜなら、商業化は非常に体系的な方法で不正義をシステムの中に構造化してきたからです。しかし、ハートと愛が成熟さと聡明さと融合するとき、正義への呼びかけはそのコインをひっくり返し、分かち合いとなるのです。

私たちはシステムとそのイデオロギーによって余りに条件付けられているため、正義を達成するための手段としての分かち合いのこの経験的な理解を僅か少しのところで逃しています。私たちが世界中の非常に多くの大衆デモンストレーションで実際に目撃しているものは、人間のハートの中の分かち合いの存在の波動です。それは、およそ明瞭になりつつあり、特に若者の間で感じられ、実践されています。たとえば、2011年初頭のタハリール広場の革命では、異なった生い立ちと信条を持った何万という人々の間の神聖な原理として、分かち合いの波動が美しく表現されました。それは美しい光景でした。なぜなら、分かち合いは、主義もイデオロギーなしでひとつになった一般人のパワーによって象徴されたように、常に美と歓びをもたらすであろうからです。

しかし、分かち合いが正義を達成するための、そして正義の断続を保証するための卓越した手段であるという単純な真実を直感的に知覚する今日の活動家はどうなるのでしょうか。残念ながら、私たちは社会の正義の必要性によって余りに強く催眠術にかけられているため、街頭に立って分かち合いを求める人は大変孤独な個人となるのです。すべての国での説明責任と正義を求める凄まじい声の真っ只中で、自己が感じ、理解したことの全体的なビジョンを誰がどのように説明できると言うのでしょうか?それは、あなたが空飛ぶ円盤を見たと言うに等しいのです。そのような啓示について話し続けてみてください。挙げ句の果てにはお医者に診てもらうよう勧告されることになるでしょう。

世界的な慈悲心の爆発を通してのみ、分かち合いの原理が社会で徐々に維持されて行くことが可能です。そのため、人々の結束した声の台頭は非常に重要です。慈悲心、自由、良識、そしてビジョンを通してのみ、世界の人々はひとつの声を持って結びつき、右左の異なった派閥なしで同じ方角を目指すことができます。共産主義と社会主義は経済的形態の分かち合いを通じて社会を統一しようとしましたが、これらのイデオロギーはどちらも人間の自由意志を侵害することにより、実際には失敗しました。では、分かち合いの原理は、政治的イデオロギーなしで、私たちから自由を奪わずして、それをどうやって単独で達成することができるのでしょうか。ダムの壁の後ろにせき止められた急流の川のように、水が遂に吹き出るまで、世界的な慈悲心の爆発を通してのみ成すことができるのです。

そして、そのような慈悲心の爆発は、実際にはどのような意味を持つのでしょうか?それは、飢餓の終焉の始まりを意味するでしょう。それは、飢餓をなくすための人々の呼びかけが余りに緊急で、余りに圧倒的で、この地球上で二度と飢餓が起こることが許されないことを意味するでしょう。それは、ファーストクラスで航海するだろう貧しい人々が乗った巨船が、新たな地平線へ向けて出帆することを意味するでしょう。始めは全員が船に乗れるわけではありません。商業化の子供であり続けることを選択する人々が必ずいるでしょう。しかし、さまざまな国から何百万人もの人々が平和的に政治的議論なしに集結するとき、世界の政府はどうするべきかわからないでしょう。飢餓と極度の剥奪をこれを最後に根絶するために国家間で緊急プログラムが制定されるまで、彼らは参加せざるを得なくなるでしょう。

若者たちのハートはすでに、分かち合いがもたらすことのできる平和で創造的な革命に従事し始めています。人類のハートが徐々に目覚めつつあると言えるかもしれませんが、本当のところそれは、ハートの解放が起こっているのです - つまりハートがストレスから、そして主義と商業化の影響から解き放たれているのです。商業化に関する限りは、人類のハートがマインドの条件付けによって凍結されていることは大変都合が良いのです。しかし、人々が一斉にハートから分かち合うとき、何百万人もの人々が飢餓と貧困の終わりを求めて街頭を行進するとき、人類全体にハートの目覚めが起こっているということは間違いないでしょう。

おそらくそのとき私たちはもはや「活動家」と残りの社会の間の分裂を - 街の広場で抗議者が集まっている間、アイスクリームをなめながら通り過ぎる観光客を - 見ることはないでしょう。おそらくそのとき、絶え間ないデモンストレーションの中で分かち合いを呼びかける世界中の無数の人々と共に、これまで一度も抗議したことのない無数の男女が参加するでしょう。おそらくそのとき初めて、権威の立場に立つ多くの善意の人々を通して、商業化を支持し、分かち合いを妨げる法律と政策の解除を私たちは目撃し始めるでしょう。

真の革命はイデオロギーや信条に基づいているのではなく、道理と融合したハートの特質への認識にのみ基づくことが可能です。たとえば、2011年を通じて中東で起こった革命は、互いにすぐに認識され、ハートの道理に基づいてすぐに世界中へ広がりました。そして、ハートとマインドが膨大な人々の集まりの中で融合するとき、それはまるで、各人の魂が群衆の間でダンスしようとしているかのように、歓喜の爆発をもたらすことができるのです。ネクタイを締めたスーツ姿の公務員は、これらの自発的蜂起を指導者や構造性に欠けていると非難するかもしれませんが、ハートは本質的に構造なしでそれ自体を包括的に表現することを彼らは理解していません。

これが、古い意識と新しい意識の世界観の決定的な違いを観察できるところです。そしてこれがなぜ、街の広場の中心で旗を掲げ、テントで寝ている若者たちがいるところではどこでも、彼らの声にきき入り、支持することが不可欠な理由です。過去を象徴するすべての主義から解放されることを求めている若者たち。制約的なイデオロギーや信条なしで、ひとつの人類を心に描く能力を生来備えている若者たち。実際、若者は分かち合いの原理の偉大な同盟者として考慮されるべきです。なぜなら、商業化はその社会への支配を脅かす、条件付けられていないマインドに極度のアレルギーがあり、そして政府の保守派勢力は彼らの主義の打倒を脅かす理想主義的な若者たちを恐れているからです。今日の若者は、新しく発見された原動力と創造性を表現する方法において、幾分特別またはユニークだと私たちは考えるかもしれませんが、若者は常にこうであったことを思い出してください 。唯一の違いは、古い構造が溶け崩れており、新しいエネルギーが世界を氾濫させている今、彼らの機会が到来しているということです。これは、若者が結束、愛、兄弟愛への古くからの切望を表現するための歴史における決定的瞬間です。

今こそ、すべての若者たちが集まり、膨大な数でデモンストレーションを行い、声も希望もない社会に追従することを拒否する時です。彼らはまた、世界人権宣言第25条を押さえ込み、その規定を人々の意思の法として取り戻すべきです。現在、この神聖な宣言は休止状態にあり、それを保有する公衆によって復興されるべきです。世界の公の舞台へそれを取り戻すことができるのが若者であることから、特にそれは若者の宣言となるべきです。過去に多くの革命は新鮮なスローガンを持ちましたが、今日の真の革命は、第25条をすべての包括的なモットー、目標、ビジョンとして取り入れるべきです。

ひいては若者のビジョンある熱望を組織立てること、そしてこの人々の法を国家の法にすることは政府次第でしょう。まず第一に、公衆の結束した声がすべての保守派勢力を政府から取り除き、そして次に、人々の声に同調し、公衆のデモンストレーションと共に動き、すべての人類を代表して話す賢明な一般の男女を権限の座に置かねばなりません。政府におけるこの新鮮な人材は、正義と自由への公衆の要求を構造化する方法を正確に知っており、若者のビジョンある熱望が正しい道に沿って導かれることを確実にするでしょう。

結局、分かち合いの原理は、十分な人々のハートとマインドが融合するときに生ずる良識を通じて、それ自体を社会で実現すると言えるかもしれません。ハートが従事するとき、良識が私たちの決定に新たな息吹を与えるとき、秩序と構造がこれまで目撃されたことのないような生じ方をするでしょう。このプロセスは、世界各国での蜂起によって始まり、政府の指導者たちが第25条を受け入れ、経済社会政策のトップからボトムレベルにおいてそれを実現するよう公衆が一斉に呼びかけなければなりません。資源の分かち合いのための戦略は、国家レベルから公衆へと、上から始まり下へと広がらねばなりません。これは、人々と政府の間の正しい関係の始まりを象徴するでしょう。結局のところ、軍事や他の有害な支出の優先事項によって奪われた数千億ドルを含む国の資源への鍵を握っているのは政府です。しかし、経済的分かち合いの効果的なプロセスは、それが大衆のコミュニティ活動や慈善活動などによって公衆レベルに限定され続けるなら、全国的に制度化されることはあり得ないでしょう。したがって、遅かれ早かれ、リソース・シェアリングの新しい経済学は、私たちの政治的代表者たちによって誠実に、そしてすべての選挙区民の完全な支持と支援を得て、検討され促進されなければなりません。分かち合いの原理は、 最も貧しく、最も排除された人々のニーズがすべての決定の背後にある思考に基づいて、すべての公務員が常に傍らに置いておくべき信頼できるアドバイザーとして想像できます。

このどれもが、資源のより平等な分配は多岐にわたる方法で実現できるため、主要な政治家たちが分かち合いの単一の解釈に基づいて意図的に政策を制定しなければならないことを示唆するものはありません。政府の政策の中で「分かち合い」という言葉が認識されずとも、金融危機や経済的必要性から、ある国が他の国と協力し始めるかもしれません。しかしながらすべての国が、各自何を必要とし、何を過剰生産しているかを知ること、そして国際レベルで完全改革された政治的および経済的取り決めの中でその理解を規定するまで、世界資源の真の分かち合いの展望はありません。やがて、さまざまな国にもたらされる新しい秩序と構造は、各国政府が国連で会合し、分かち合いの原理に従って世界問題の協力的解決策について議論することを段階的に要求し、それにより、真に民主的なグローバルガバナンスの始まりが告知されるでしょう。

*

今後待ち受けている劇的変動を考慮すると、私たちの一点集中する危機への答えとして分かち合いを感知する人は、再分配の意味について慎重に検討する必要があります。この言葉にはやや不適切で物議を醸すような意味合いがあり、間違った状況下で促進されるなら、緊張、ストレス、さらには暴力をもたらす可能性があります。公正な相互交換システムに基づいて、ある地域から別の地域に1トンのトマトを再分配するなど、正しい分かち合いの結果である再分配には健全な意味があります。しかし、再分配には社会の富裕者に彼らの収入または富の放棄を強いるという別の意味もあります。これがまさに共産主義がやろうとしたことであり、必然的に人間の自由意志の激しい侵害を伴うかもしれません。

政府が本当に国の資源を分かち合いたいなら、それはウォー・マシーンとしての軍事機構を解体することから始めるべきです。さもなければ、富裕層の財源から強奪された財政は、社会で最も貧しい人々にでなく軍事予算に戻ってしまい、それによりさらなる戦争を支援し、現状維持を強化するかもしれません。そもそも、富裕者や企業が最初から十分に課税されなかったのはなぜでしょう。課税されたお金はどこに行くのでしょう - 緊急な社会的ニーズにか、それとも大企業の非道な補助金にですか? そして、政府が市場勢力と商業化とでゲームをしている間に、なぜ富裕者が莫大な財産を蓄えるそれほど多くの機会を与えられたのでしょうか?

それは富裕層が極度に裕福になることを許したシステムでしたが、今、同じシステムの弟子たちが社会で最も裕福な人々に富の再分配を強要しようとしているのです。これは過去の派閥的なやり方から生まれた古い分裂的な手口です。共産主義が試み、社会主義が試み、今や資本主義さえが参加しました。それは社会問題のすべてを富裕層の責任にするポピュリストを喜ばすかもしれませんが、システム自体が特権と富の利益に基づいている限り、それが社会的不正に解決策を持たらすことは決してないでしょう。

極端な不平等を覆す最も確実な方法は、人類の大部分が街頭で、昼夜を問わず絶え間なく、統一された世界のビジョンを持って要求するために抗議デモをすることです:「銀行への救済処置はもうやめて。終わりのない緊縮政策はもう十分。目的なしで金持ちに課税しようとするのは無意味だ - 今こそ、分かち合い、正義、そして道理に基づいた経済政策を通じて、貧困層を救済し、変革に向けるときだ」私たちはもはや資本主義や富裕層など、自分たちが対立するものの観点から政治的アイデンティティを定義することをせず、内観と自己認識に基づいてこれらの問題を改めて検討することが不可欠です。

このように、私たちは、分かち合いの原理に基づいた政策の実現が、私たちの成熟性とハートの良識によって導かれる人間の意識の変革からどのように始まるべきかを感知するかもしれません。それは分かち合いの新しい理解が私たちのマインドに生じ、富と再分配に対する私たちの態度のすべてを変えるかもしれないときです。世界の国々が全体として貧困を終わらせるために集合的に行動するとき、「再分配」という言葉は適切な場所におさまり、異なった意味を持ち始めるでしょう。その結果、私たちは「公正な」または「正しい」分配の観点から考えるようになるかもしれず、世界的な経済協定に関して「公正」という言葉を使用する必要がなくなるでしょう。これらは、分かち合いがその適切で包括的なビジョンの中で達成すべきものを直感することを助けてくれるかもしれないことから、思索すべき重要な意味論です。正しい分配は正しい人間関係と同調していますが、再分配は、たとえ最良の意図を持ってしても、合法化された窃盗、制度化された不正、および人間固有の自由意志の侵害によって特徴付けられた社会でのみ生じるのです。

世界中で何百万人もの人々が分かち合いを求めてデモンストレーションをしているいると想像してください;おそらくそのとき、富裕者たちでさえが彼らの富を「再分配する」ことを考える必要はないでしょう。彼らのお金を取り上げたりすることや、飢えた貧しい人々へ資源を再分配するための緊急プログラムの援助を彼らに強要することは不要でしょう。世界の結束した声が、分かち合いと正義のために余りの勢力を社会に生み出すため、あらゆるところで億万長者を含んだ人々がその流れについていくでしょう。富裕者の中にも善意の人々がいます。そして、そのときが来たら彼らの多くが自発的にやって来て、「遂に我々も来ましたよ」と言うでしょう。彼らは富を手放すよう強要されたくないかもしれませんが、飢えと貧困をなくすための公衆の圧倒的な呼びかけと彼らのハートが一度融合するなら、彼らもきっと自分たちの富を分かち合いたいと思うかもしれません。もし彼らが人々に賛同し、社会の正義を支持するために自分たちの富を分かち合っているなら、彼らには「再分配」という言葉さえ聞こえないでしょう。これが、私たちが到達せねばならない段階ですが、それは分かち合いのみがもたらすことのできる真の革命を記すでしょう。

勿論、租税の公平な徴収と再分配は、公正な民主主義的社会の基本であり、資源がより公平に分かち合われるとき、極度の貧富の二極化はもはやあり得ません。しかし、そのような社会の構築においては、たとえ、世界中で起こっている変革に対して富裕者が抵抗した場合でも、貧困者と同様に彼らも尊重されねばなりません。時間がかかるかもしれませんが、そのような人々は、分かち合いの原理に基づいて確立された新しい文明を求める凄まじい叫びによって最終的に取り残されるでしょう。

*

これらの線に沿って社会を変革することの重要性を自分自身で認識するために、政治的および経済的観点から分かち合うことの意味をどのように解釈するかについて慎重に考える必要があります。例えば、分かち合いが「飢えた人々を食べさす」ことを意味するという考えは、実際には意味をなしません。誰が、飢えた人々と分かち合う食べものが私たちのものだと言っているのでしょうか。私たちのマインドを条件付ける極悪非道のずる賢さを持つ商業化だけです。世界の一部の地域にはまったく食べ物がないと同時に、この食べ物が私たちのものだと言うとき、私たちは何を意味しているのでしょうか。

この疑問の中にある道徳性を認識するためには、飢餓と剥奪に満ちた世界をもたらした不当な構造的仕組みをよく考察する必要があります-  安価での食料の輸入、小規模農業の大量破壊、貧困者からの搾取と窃盗の長い歴史です。「これは私の食べ物であり、飢える人々と分かち合っている」と私たちが考えるなら、問題に対しての認識もなければ解決にもなりません。他国で人々が飢えていることを聞くとき、私たちはどうして無関心でいることができ、そしてお皿にのっている食べ物が当然私たちのものだと思えるのでしょうか。

私たちが自己に対して率直で正直であるならば、これが分かち合うべき自分たちの食べ物だと決して考えないでしょう。「世界の食べ物はすべての人のものなのだから、貧困をなくすために政府に態度を改めてもらいたい」と言うでしょう。分かち合うことの意味は、「飢える人々を食べさす」ことではなく、正義を実行することによって、完全に貧困をなくすことです。悲しいことに、飢えた人々を食べさせることが緊急事態から生じる国際責任の問題である今日の分裂した世界では、生命を脅かす貧困の根絶は、世界の人々の結束した声を通してのみもたらされることが可能でしょう。

分かち合いの原理の気質にはまた、数千年間私たちの集団的な自己満足的無頓着さに適合してきた - チャリティ、フィランソロピー(慈善活動)、そして利他主義などの言葉に対してさえ深いアレルギーを持つという断固たる側面もあります。実に、搾取的で不正なシステムから利益をあげる方法を学ぶことで裕福になった野心的で競争的なマインドを持つ「成功者」でないとしたら、フィランソロピストとは何でしょうか。フィランソロピストはどうのようにしてそんなにたくさんのお金を儲けたのでしょうか。通常のごとくそれは、システムを巧みに操作する才能を発見することから、または搾取に基づいたシステムの産物である富を継承することから始まります。

ビジネスの運営を支え続ける大勢の労働者たちが、しばしば労働者福祉を提供しない貧困国で法律に従って最低賃金を支払われるかたわら、他にどのようにして大企業の重役が何百万ドルもの給与、ボーナス、退職金をもらうことができるのでしょうか。次に、フィランソロピストは、自己のイメージと名声を拡大するため、または自己の良心の呵責を和らげるために、チャリティにいくらかのお金を返すことを決定します。彼はそのお金で何がなされるべきか労働者に尋ねません。事実、彼は労働者たちから搾取することでお金儲けをし、その僅か一部を彼らを犠牲にして寄付するのです。世界の他の地域では何億人もの人々が餓死する危険にさらされている一方で、商業化を通して数十億ドルも儲ける機会がどうしてそんなに沢山あり得るのかについても問うべきです。私たちは常に、何十億と稼いでいる人物が政治家と付き合い始めるのを目にしますが、政治家が飢えから死にかけている人と付き合っているのを目にすることは決してありません。

辞書がチャリティという言葉の適切な道徳的定義を与えるとすれば、それは次のように述べられます:「自己満足的な無頓着さがもたらす尊厳を欠く行為」それは尊厳を欠きます。なぜなら、私たちは正義を達成するのを助けるためにいつでも何かができるからです。しかし自分たちの自己満足的な無頓着さのおかげで、貧困者にパンくずをいくらか与えておく方が私たちにとって都合が良いのです。そして、私たちが慈善団体に十分なお金を寄付すると、その組織は最終的に私たちの名前を名誉リストに載せて称号を与えることにより私たちに報いるのです。明らかに、悲惨な貧困と絶望の状態で何百万もの人々が生存するとき、社会において決定的に必要とされる尊いチャリティの廃止を誰も支持すべきではありません。ほとんどの人は本質的には善意と思いやりがあります。それがなぜ、遠方の国での人道的緊急事態について知らされるとき、チャリティに寄付することを正しいと私たちが思う理由です。しかし、人類の実際的知識と発明の才のすべてにかかわらず、このような聖書の話のような規模の緊急事態がなぜ何度も繰り返し起こり続けるのでしょうか。なぜなら、私たちはまた、自己満足的で無頓着でもあり、しばしば正義についてさえ考えずに寄付するからです。原因が何であろうと、私たちは、政府がこれらの防止可能な緊急事態をこれを最後に阻止することを集団的に要求しないのです。

正義について考えずにチャリティに寄付するとき、寄付するという行為は世界の資源を分かち合うこととは何の関係もありません。分かち合いとチャリティが擬人化され、道でお互いに出会ったとしたら、分かち合いはチャリティに言うでしょう。「あなたは誰ですか。私たちは一度も面識がなかったと思いますが」豊かな世界でのチャリティの存在そのものが、富裕層と貧困層、持てる者と持たざる者の間に存在する格差を象徴しています。確かに、すべての政府が世界規模で分かち合いの原理を実現したなら、それは慈善寄付をするという日常の終結を意味するでしょう。

世界には、すべての人を養うのに十分な食料、すべての人に医療と住居を提供するのに十分な資源、そして最も貧しい国でさえがそのニーズを満たすようにすることのできる十分な知識と技術があります。私たちが集団で、どれだけ沢山の世界資源を絶望的貧困に苦しむ人々と分かち合おうと、それでも万人の基本的ニーズを満たす十二分の資源があるでしょう。そもそも富裕国はどうやってそんなに多くの資源と産業を蓄積したのでしょうか?世界のどれだけの食料、燃料、鉱物、土地を私たちの国は後進国の人々から横領したのでしょうか?私たちが自分たちで分かち合いと正義の単純な理屈を理解したいなら、これらは問うべき疑問です。

*

世界の問題の解決策としての分かち合いの意味と含蓄を自分たち自身で十分に掘り下げてみるまでは、上記の提案を受け入れるべきではありません。一般人の結集した善意が社会変革への鍵を握っており、ピープルパワーが地球規模にならない限り、何も変わらないと信じることは理想的すぎるように見えるかもしれません。私たちは自分たちの自己満足的な無頓着さを考えることで、世界情勢を変える可能性を少し認識するようになるかもしれませんが、私たちの内部のどこかでそれに完全な確信を持てないなら、数分後にはそのことをいち早く忘れ、以前の自分たちの条件付けに逆戻りするかもしれません。

私たちは自分たちの環境から余りに影響を受け、他者の考えを雨あられのごとく受け続けるため、自由に思考し、自己を知るには、ある程度の勇気と決意を必要とします。私たち全員が商業化プロセスの一部であり、最終的に、社会の有害な条件付けに対して責任があります。しかしながら、一度私たちの中で分かち合いの道に対して深い確信が得られたなら、そしてそれを自分たちの中で怒りと情熱を持って理解するなら、決して再び商業化によって騙されることがないように、それは私たちの人格を象るでしょう。分かち合いの道は普遍的です。あなたと私で共になりましょう。私たちが持っているものを分かち合いましょう。それはただそれだけのことなのです。そして永久にそうあり続けるのです。

社会変革に関する知的理論は、人々が立ち上がって旧体制を締め出し、新体制を迎え入れない限り、何の意味もありません。それが、私たちの人生の真の意味が始まるところであり、真のパワーが存在するところです。私たちは、権力者というのは、アマゾンの熱帯雨林を壊滅させるために必要な資本を持ち、人々の生活を乗っ取ることができるほど強く資源を支配する、大きな多国籍企業を率いるパワフルな人物だと考えるかもしれません。しかし、霊的観点からそれはまったくパワーではなく完全に逆のものなのです。

真のパワーとは、何百万という人々の間での一体性と分かち合いであり、それは世界規模での結束、創造、そして癒しです。自分たちのためだけに生きる富裕層とは異なり、個人的な意味での真のパワーは謙虚さ、包括性、無害性、そして無執着という内なる特質によって識別されるように、非分割的で非破壊的です。惑星またはグループの観点から見ると、真のパワーはまた、社会に正義を、そして環境にバランスを持たらすすべてを象徴するため、エネルギーをそのまま創造に返します。

すべての国が結束し、世界資源を分かち合うとき、人類が意識と自然にバランスをもたらすとき - これが、生命を与えるという真に霊的な意味でのパワーなのです。現代社会のいわゆる権力者たち全員が、商業、法律、イデオロギー、信条によってのみ支えられています。しかし、私たちがもはや彼らの権威に屈することなく、皆で平和的に一致団結するとき、私たちは真のパワーが何であるかを知るでしょう。


Mohammed Sofiane Mesbahi is STWR's founder.

Editorial assistance: Adam Parsons.

Photo credit: quinn.anya, flickr creative commons