対談〜主義と分かち合いの原理

分かち合いが地球の危機への解決策であり、分裂した世界を蘇生させるための私たちの最後の希望であるという認識を、どうしたらもたらすことができるのでしょうか。この問いかけの中心核となるのは、自己満足的な無頓着さがその存在を当然のこととして正当化するために、「主義」の中でそれ自体を合理化したことの問題です。


人類の問題は非常な高みへ達しており、国内及び国家間において分かち合いの原理を実行することは各政府にとって現在至って重要です。それはいくつかの点において大変重要なのです。まず第一に、各人間に内在する歓びと創造性を解放することですが、現在世界中で流行病ともいえる規模に達した鬱病率を伴う経済苦難と社会の破綻により、それは広範囲に渡り抑圧されています。第二に、生存のための適切な手段を持たず生活し、日を追って貧困と病気から無駄死にしていっている何百万という男女子供にとってそれは明らかに重要です。さらに、もし私たちが環境の破局を回避するつもりでいるのなら、社会変革のための時間が僅かしか残されていないため、政府間の政策に分かち合いの原理を取り入れることは不可欠です。世界自体が病んで緊急事態にあり、それに必要な治癒と治療薬を提供できるのは分かち合いだけなのです。しかしこれら全ての点において、私たちは困惑の中に取り残されます。なぜなら、分かち合いが実に私たちの問題への解決策であり、最後の希望であるという集団的理解が欠如しているからです。分かち合いが唯一の脱出口であるという公衆の包括的認識なくしては、このおろそかにされた原理が世界情勢の中で実現されることは不可能です。

従って、次の疑問が生じます。どうしたらこの認識をもたらすことができるのでしょうか。なにが膨大数の一般人に世界情勢の緊急性と、社会に携わり皆で結束する共通責任を私たち全員が共有することを認識させ得るのでしょうか。これは、現代社会の風土病的自己満足的な無頓着さと未来が予測不可能であることを意味する人類の自由意志を考える時、答えをだすのに大変難しい問題です。私たちの以前の考察で道理づけられた通り、世界最大の危険は商業化自体でなく、私たちの叡智が自然と霊的進化から逆方向へと導かれるその内外の表れへの絶え間ない自己投影です。それは、大変貧しく飢える人々の真っただ中で自己満足的な無頓着さと無関心が私たちの人格を下劣な驚異へと象る時です。誠に、母なる自然、そして人間の魂の重荷とまでなってしまった私たちのわがままなパーソナリティ(人格)なのです。人間の自由意志がそれ自体の運命を決定するのに任せ、自然界の全ての王国の不変の法則の中で静かに進化の穏やかな勢力がその自然の経過を経ると同時に、遠方から人類は自己満足的な無頓着さと無関心を放牧する群れのように見えるに違いありません。すなわちそれは、万人の人生の痛み、不可避の悲しみ、そして私たちの住むこの不運な惑星の時間と空間を通しての遅いプログレスを意味します。

私たちの自己満足的な無頓着さに個人的、集団的双方で密接に関係する商業化の不正的で掴みどころのない性質と同様、その悪賢さと微妙さについても私たちは既に突き詰めて探求してきました。比喩的意味で、そしていくつかの謎の理由によって、商業化は私たちの自己満足的な無頓着さと結婚したとさえ言えるかもしれません。それは、遠方の国々で貧困の結果人が死んでいることを耳にする時、遂には私たちが無関心で居続けるよう成らしめます。なぜ分かち合いの原理が社会でそれほど見落とされているかについての考察の中心核となるのはそれ故、認識と自己満足的な無頓着さの間の関係を理解することです。それは、私たちの意識に強力で解放的な効果をもたらし得ます。信条、イデオロギー、そして主義の全ての形態を通してのみ達成可能であり、その存在を当然のこととして正当化する目的で、私たちの自己満足的な無頓着さがそれ自体をどのように合理化したかをより完全に検討していかねばなりません。

主義の歴史

もし私たちがマインドの動きをとても密接に観察するなら、各社会を特徴付ける多くの主義がどのように一般人の条件付けに大きな役目を果たしているか捉えることができます。それは私たちを混乱させ、恐怖に怯えさせ、そして自己没頭的にさせてきました。殆どの人は基本的に善意と思いやりがあるのですが、人間の歴史を通して信条とイデオロギーへの自覚のない自己投影により私たちは常に道から外れてきたのです。そしてその結果、一生涯、魂がその目的を果たすのを拒まれるまで混乱と恐怖が私たち皆に陰りを落とすのです。簡略な心理的言葉で言うと、私たちを内部と外部から分裂させ惑わせる精神思考形態として主義を述べることができます。そして、知恵深いハートを蘇生させることから慈悲心を妨害する私たちのマインド中の深い霧、または「グラマー(幻惑)」を効果的に生みだすのです。

全ての種類の主義は絶え間ない信条への錯覚的で誤った自己投影を通して、私たちのパーソナリティに深く有害な影響を与えます。 それは、人生の本当の現実の中でマインドの条件付けと霊的盲目へと最終的に変換されます。次いで私たちは自己の意識的認識の拡大を制御し、そして社会的レベルで全ての国が彼らの各々の運命に従いより迅速に進化することを集団で妨げるのです。人類の文明の歴史はこの内部の視点からみると、実のところ主義の歴史です。これが、私たちの厄介で苦悩に満ちた真実なのです。なぜなら私たちの結果的な恐怖、混乱、自己満足的な無頓着さは今日の惑星規模の大混乱に至るまで、年代を経て分裂と破壊の原因となってきた物質勢力を、私たちの周囲すべてにつくりだされるのを許してきた危険な状態の在り方だからです。

私たちは普通、主義を社会主義、イスラム主義、グローバリズム、実在主義などの主要な政治哲学、宗教教義、または特有の学説や運動などとの関連でのみ考えますが、それが真実と現実についての私たちの見識を抑制し、基本的倫理と道徳を犠牲にすることさえ可能な意識中の心理的要因として考慮されることは殆どありません。人生のあらゆる領域で主義が表現され得る方法が無数にあるため、それらの意味合いを理解するために学術的アプローチは助けとならないでしょう。なぜなら学者もまた、私たち全員を罠に掛けた主義を永続する責任の重荷を背負っているからです。さらに、僅かな数の学者しか私たちの心理的発達や霊的進化の観点から主義のより深い意味や含蓄を今だ考慮しません。人類の現在の進歩段階において私たちは、分極する思考形態の惑星規模のサーカスの中で生活し動いています。そして商業化が私たちの「偉い人となって」いわゆる現代社会で成功する欲望をまさに喰いものとしているように、さまざまな形態の主義もまたマインドの条件付けと信条への自己投影を餌としています。

主義はまた特に、新しく形成された信念と思考過程の中で子供が発達することを可能にする点から、自己認識への成長の一部として潜在的に有益で健康的な役目を演じるにもかかわらず、信念への自己投影と執着の過程なくして存在できません。簡単な比喩をあげると主義は、スペースシャトルについているロケットのようなものであるべきです。それは、宇宙飛行士が陣道へ入ることを可能とするために、地球の大気から飛び立つと同時に破棄されます。同様に、最後にどのようにして主義が切り離されねばならないかについての認識を持つ良き指導者により子供の意識内で主義が導かれるなら、それは子供の成長と発達を助けることができます。

教師や親もまた条件付けされいくつかの主義に執着しており、ひいて子供に支離滅裂な信条とイデオロギーの重荷を成人してからの人生にまで引きずらせていく時、問題は生じます。やがてその人の初期段階の思考に特定の主義が解き放たれ、制御されないようになるかもしれません。そして彼は自分の信条を他の人々に強要することにより、最終的に害を与えるかもしれません。「私がこれであると信じる」と言うようになるまで、私たちが共に育ち、執着し始め、ひいては完全に自己投影しているただの信条にそれは全て起因します。それはもし、誰かが私の主義、または私の「信条に対する信条」を侮辱するなら、民族・宗教紛争などの状況下で誠にしばしば起こっているように、私は余りに腹を立て、その相手と戦うか、または殺すことさえ決意するのです。すなわちマインドが余りに支配的影響力を持つに至り、私が自己に植え付けた頑固で誤った思い込みを打開するのに無力なハートは暗黙に待つのみなのです。

健康的な主義の歪曲

それ故、その多様な表現においての主義は信条とイデオロギーが組みこまれ、マインドによる対象への絶え間ない自己投影によりパーソナリティに埋め込まれた生物学的コンピューターのようなもとして理解することができます。私たちが主義へ自己投影する主な理由は、疑惑、恐怖、そして不確実性に満ちた世界で安心感を得るためです。誰もが物質的確実性と同様心理的安全性をも求めており、特に偉大な宗教的主義は断続性と秩序の錯覚と共に必要な安心感と連帯感を私たちに与えてくれます。宗教的信念、または古い伝統を子供に授けるにあたり、またそれには防護の要素も伴います。

しかし、結晶化した思考形態が小さな年から幼いマインドに無理強いされる時、その結果、深い認識を持ち無執着な教師でさえ子供がその信条を手放すまでは、それを正しく位置づけするよう手引きできないのです。良き指導者や親の動機がなんであれ、子供たちのマインドへ有害な主義を遺伝させることにより意識的認識の成長を制限することは、人間の自由意志の著しい侵害です。例えば、私たちの保護下にある若者を「良いキリスト教徒」またはユダヤ教やイスラム教の熱心な信仰者となるよう強いることは、その哀れな子供のマインドにそれらの宗教の何世紀にも渡る痛みを詰め込むことです。意図は良いかもしれませんが、もし安全性への必要性が歪められ、自己知識を通して超越されなければ、結果は意図された反対のものとなるでしょう。

仏教教義やリベラリズム(自由主義)を定義づける哲学的見解など、主義のさまざまな形態の理解を私たちは試みているのではないことを念頭に置いておくことは重要です。私たちはむしろこの奇妙な心理的驚異のさらに深い根源を把握することと、どのように主義の創造がこのように社会に蔓延るようになり、私たちを感情的に損傷させ、最終的に私たちの意識の進化を妨げることができるのかを自分たちの内部で捉えることを試みているのです。全ての家族、グループ、または人間の活動に主義が関与しています。それらのいくつかは有害で、また他のいくつかは権力とコントロールを目的に操作されています。特に、教育、宗教、政治分野においてです。「人格の構築」に関する会話などは主義のひとつの形態であり、または「私はこうなのだから」と言うことは神経症的表現なのです。主義にどっぷり浸かった社会に住む誰もが必然的になんらかの形で神経症的なのですが。

お金持ちや有名になりたいと欲することがまさに極度に腐敗した主義の表現であり得るように、家族はそれ自体が主義であり得ます。主義が私たちの人格、知覚、そしてどのように自己をみるかということの中に埋め込まれるまで、私たちの正体自体が人生に対する間違った姿勢によって全側面から爆撃を受けている社会の中の主義なのです。「自分は選ばれた人間なんだ」と人を信じ込ます惑わされた信条へ私たちの人格が投影される時、主義が鏡に反射され自己に戻ってくるのを見ることさえできます。人生に対しての圧倒的に感情的な姿勢、永続するマインドの条件付け、そして認識と自己知識の欠如を含んだ多数の要素の結果として人類は文字通り主義の工場です。マインドは他人の信条を信じることによりそれ自体を条件付けする優れた能力を持っています。そしてどのようにしてパーソナリティが社会のグループの一員として受け入れられるために、マインドの条件付けをしばしば故意に引き起こすのか観察するのは奇妙です。例外無く主義が私たちの周りのどこにでも浸透しているという事実は、これらの主義の中から私たち自身が生きていることを意味します。それは、「私は考える。故に私がある」ではなくむしろ、「私は信じる。故に私がある」なのです。

要約して言うと、主義は基本的に心理的安全性と意義、確実性と目的への私たちの必要性に基づいていますが、数々の主義と信条の終わりなき葛藤が浸透した社会生活の結果として根深い徒労感、混乱感、そして不安感によって私たちの存在は特徴付けられたままとなります。私たちの実際の存在が、それ自体を主義の中に象ったとさえ言えるでしょう。そしてその結果として、私たちの存在は恐怖で満たされています。無数の主義と信条の支配下におかれた社会で、無意識的でしばしば適切な理由はないのですが、人類の趣味は不安でいることと心配することであるかのように大凡見えるのです。

自己の拘置

意識的認識の裏で起こる一般的に機械的過程である主義への絶え間ない自己投影から引き起こされる多くの容易ならぬ結果について、私たちは自分たちで探求していくべきです。それは、自分たちの行為が自由で遵守や信条に基づかないと思っていたとしても私たちは主にマインドの条件付けの中から生活し、それに基づき行動しているということです。それは、ものごとをありのままに見ることをせず、自分たちがあるべきだと思うようにしかそれを見ないという意味です。その時その時の瞬間を生きることができるということ、人生の美を形容することなく認識できるということ、常に測りに掛けず、比較せず、イメージを醸しだすことのない思考の静止を経験できることなどを含む人生の現実を主義で一杯のマインドは見ることができません。

以下は、主義の条件付けの中から私たちの人生を生きる暗黙の苦痛です:それは、真の自己を知ることを私に許してくれません。なぜなら、私は常に自己の条件付けが言うことに従っているからです。ですから私は自己の真の性質と触れ合うことがないのです。そして私はあなたのありのままの姿を見ることができず、本当のあなたでいることを許さないでしょう。それは、今日多くの人々が彼らの内なる自己についての認識を持たず、そしてしばしばその存在の静寂の中で一人になるのを望まないという意味です。なぜなら「私」は条件付けされたマインドによって捉えられ、監禁されているからです。マインドが活発となった途端、主義の終わりなきサイクルの中に捉えられるのです。それは、マインドがバランスと分別を見つけ、願わくは、良識の観点から考え始めるようになるまでハートは沈黙を強いられるという意味です。ハートが認識と沈黙を通してのみその存在を現すことができる一方で、主義はやかましく、気をかき乱し、分裂的です。

個人的観点から見た全ての種類の主義は、叡智と創造性と自己認識の否定の原因となることが可能です。そして、より幅広い社会的観点から見るとそれは、正しい教育の普及と善意の表意または正しい人間関係を妨げます。しかしながら人間の歴史を通して私たちの社会で最大限の被害と分裂の原因となったのは支配的主義です。偉大な政治的、宗教的イデオロギーに関連した歴史的観点から私たちはこのことをはっきり理解するかもしれないと同時に、共産主義や社会主義、左翼やリバタリアン(自由至上主義者)、アナーキスト(無政府主義者)や新保守主義者、またはその他キリスト教徒、ユダヤ教徒、イスラム教徒、ヒンズー教徒、神智学主義などのレッテルによって自分たちを定義付けることが自己に対するどのような暴力行為であるかを捉えるのはよりさらに微妙なところです。さまざまなイデオロギーや教義の教えや信条は非難されるべきではありません。そして、それらはより高い理解と目的へ向かって上方へとマインドを集中する助けを可能にする貴重なガイドラインとして役立つかもしれません。しかし、人類がそのような全体としての信条システムへ自己を投影する時、そしてそれ故それを他の主義へ対立する主義へと変える時、それらのガイドラインが危険な程分裂的となるのです。

信条自体は危険ではありませんが、間違った自己投影により維持される信条に対する信条が唯一危険なのです。自己を無神論者と呼ぶことさえ分裂的、暴力的行為です。なぜなら、無神論者は神の信条への対立するマインド設定なくして存在できないからです。そして、分裂のあるところには暴力もあります。実際の暴力でなければ知的または心理的なものです。もし私が自己をイスラム教徒、そしてあなたはキリスト教徒と呼ぶなら、私たちの間に立ちはだかる分裂の中に人間らしさはなにもありません。そしてさらに最悪なことは、私たちの無数の信条によって定義付けされただけの神の名のもと私たちが分裂されることです。それは、私たちを次の疑問の思案へと導くかもしれません:過去と古代の戦争は本当に宗教に基づいたものだったのでしょうか。それとも、争い合う信条への私たちの間違った自己投影の結果だったのでしょうか。世界的展望からこれは人類史と呼ばれますが、密教的、または霊的展望からそれは最も虚栄心の強い人間ドラマとして理解されるかもしれません。従って、人間をしのんでシェークスピアの必要性が永続するのです。これら全ての不必要な紛争と惨事の真っただ中で、自己は生涯から生涯へと私たちのさまようパーソナリティーを無力に傍観している間、頑迷な主義によっていつまでも捕われ続けるのです。

信条同士の戦争

この太古の問題の内部への探求は、対立し合う多くの主義と信条の大混乱の至るところで私たちの身動きがとれなくなっているこの時、 なぜ分かち合いの原理が現在殆どの人にとってアピールまたは深淵さを欠いているのか理解する助けになるかもしれません。政治活動領域であなたがどの方向へいこうと関係ありません。例えば、どこかの党派または違う党派からある主義が、即刻あなたに授けられるでしょう。もしあなたが資源のより平等な分配を持たらそうとしている政治家であれば、あなたはすぐさま社会主義者のレッテルを貼られるでしょう。もしあなたが全ての人のために無料の教育及び医療を普及させようとするなら、あなたは共産主義者だと言われるかもしれません。もしあなたが中道的に大多数の投票者を満足させようと試みるなら、あなたは汚い資本主義者だと言われるでしょう。大変多くの無意味な口論と論争を通して、人類はそれ自体を疲労させていると言えるほどです。そして全体で、うんざりする児童クラスのように振る舞っているのです。

しかしながら、良識と分別に対しての奮闘の全てに最も責任があるのは政治家ではありません。なぜなら私たち自身が、政治的主義運動への絶え間ない自己投影によって社会的進歩を妨げているからです。私たちは以前、システムの永続において私たちを共犯に仕立て上げるために、そして幾分かの尊厳と希望を提供することにより政治演劇舞台が私たちの忠誠を着服するのと似た方法で、商業化がどのように私たちに幸せを提供するかを検討しました。「我々こそが真の国民である」または「なにが正しいのか我々こそが知っている」と言う人々の尊厳感に続いて、私たちにとって特定の政党、そしてどのような政治的革命や熱狂的支持者の信条にでも自己投影することはとても尊厳的なことです。しかし、イデオロギーが対立や衝突に基づく時、私たちが支持するものは偽の尊厳です。イデオロギーに対立するイデオロギーは、人類自体が敵となる主義と信条の戦いの中でそれ自体を最終的に失うでしょう。

全人口の自由意志を侵害する道具として巧みに使われただけでなく、他の一連の原理と対立するためにも強化され、共産主義の基礎となった原理論にこれは確実に当てはまります。それは、旧ソビエト連邦の没落を最初から運命付けていました。共産主義の真の原理は事実、かつて今まで顕現されたことはなく、社会で唯一振動したことがあるのみです。資本主義は主義戦争において最後に勝利した現在孤独な男子です。勝利したのは主に、資本主義社会の自由意志侵害が遥かに隠され重要視されないためです。「資本主義者」として自己を定義付ける人々のための特定の所属先がないことにおいて、それは大変洗練された主義なのです。そして、自由の象徴や個人的自由の思想の背後に、それ自体をよこしまな方法で隠すことをなんとかやり遂げてきました。それでもなお私たちが資本主義、社会主義、または右翼、左翼の視点から思考する限り、それは常に社会のストレスの原因となるでしょう。そしてこれらの用語の存在自体が、分裂と結果的な苦しみを必然的にもたらすでしょう。

心理的、霊的両方の観点から「私は社会主義者です」または「私は反資本主義者です」と誰かが言った途端、戦争が始まります。それは、実際の戦争のたたかいでなくともあなたと私の間の対立の始まりであり、内部の混乱と心理的分裂の始まりです。自己を社会主義者と呼ぶことまたは資本主義のような主義にあなたが対立すると考えることさえが、人類の霊的結束から元来自己を分裂させる対立の本質なのです。実際のところある主義が「我々は万人にとってなにが最良であるか知っている」と言うこと、そして、「我々には社会を組織するためのもっと優れたアイデアがある」とそれに対立する主義が挑戦することを当然とするのは不条理なのです。すなわち、全ての政治的主義は勝利を試み、それにもかかわらず必然的に失敗してきたのです。なぜなら、主義を通して衝突に基づき私たちが世界を変えようとする限り、なんの平和も本当の社会的進歩もあり得ないからです。もしキリスト自身が突然出現し、人類に残されたただひとつの未来はリバタリアン共産主義か、アナルコサンディカリスム(無政府組合主義)だと宣言してたとしても、万人の最良の利益のために機能することは不可能なのです。

民主主義と自己満足的な無頓着さ

政治的主義はまた長い存在期間後、その表れにおいてますます微妙で掴みどころがなくなるため、一度パーソナリティーがそこへ自己投影するとその働きは大変奇妙です。政治的信条とイデオロギーへの私たちの絶え間ない自己投影からくる内部の葛藤を注意深く観察することにより、またそのような主義と私たちの自己満足的な無頓着さの間に存在する心理的関係を捉え始めることもできます。分極する主義に引き裂かれた社会での投票行為は実は多くの場合、私たちの自己満足的な無頓着さの主な表われのひとつなのです。

例えて言うと、選挙運動が行われ政治家が票を求めて街頭で遊説している時、その政治家をガソリンなしでは走らない車に類似できます。この場合のガソリンは、投票を通して私たちが表現する自己満足的な無頓着さを象徴します。選挙後、その車がいきなり動かなくなってしまうか完全に故障した時、約束を破った政治家を私たちは非難するのです。私たちの「ガソリン」なしでこの大惨事が起こっていなかったであろうという事実にもかかわらず。それは良い車であると私たちはその政治家を信じました。それ故、私たちは「信条を信じた」のであり、そして政治家にその車で好きなことをするための白紙委任を与えたのです。ひいては全てがだめになった時、分裂した世界を癒そうと、自分たちの役割を果たすため創造的方法で社会に携わる代わりに私たちの殆どがする唯一のことは、ガソリンを入れる他の車または主義を探すことなのです。

このように、投票の行為は主義と私たちの自己満足的な無頓着さの間の回避的なつながりを例示します。私の政党によって広げられた信条を信じ、そしてその政党が私を失望させた途端、信じることのできる他の信条を自動的に探すのです。そうする中で私は社会の全ての問題に対する自己の責任を放棄し、そして自分と同じ考えを持たない全ての人とあなたから心理的に自己を分裂させるのです。この心理的分裂感覚は最終的に私の創造性、独自性、そして最も深い霊的可能性の表現を妨げる、自己満足的な無頓着さの一形態としてそれ自体を象るのです。たとえ私が多少認識を持つようになり、政党政治統制へのエネルギー投入を止めたとしても、今日の数多くの人々と先代の時のように私はまだ自己満足的な無頓着さの中でいき詰まっており、そしてプロパガンダと選挙活動の終わりなき混乱の中に漂っているのです。その間、残りの社会が政治的主義の中で戦うか、さもなくば無関心、無反応でいる間、富裕層と権力者たちは私に隠れてこっそりお金儲けをし、世界の苦悩と破壊から利益を上げているのです。

これは、自由選挙と民主的プロセスが人類の発展の中で果たした大変重要な役割を否定するものではありませんが、公職候補者の受動的選択は私たちの未来を守るためには現在完全に不十分となっています。もし私たちが資源の協力的分かち合いを前提としたさらに啓蒙的経済時代を見通すことができるなら、ひいては大衆政治運動のために数十億ドルもの費用をかけ、お互いに対立する政策優先項目を持つ社会主義や資本主義候補者を宣伝することになんの価値があり得るのでしょうか。万人の間で富と権力を分かち合う統一した世界は、人類全体へ仕え、背景に潜む途方もないロビー力を持った特権的少数派の利益に基づいた今日の社会の法律の恩義を受けない新たな種類の政治家を政府に必要とします。私たちが今日の党派心あらわな政治指導者へエネルギーと権威を与える限り、人類は自己満足時な無頓着さと無関心を食む群れとして遠方から映り続けるでしょう。民主主義の真の表れはどの国においても決して今まで存在したことがありませんし、自己知識を通し「いのちの法則」について政治指導者たちが教育されるまで決して表されることはないでしょう。恐怖と不安感により私たちのマインドが条件付けされている間は、そして、私たちの社会に信用や平等さがない間は、民主主義の意味を知ることさえ不可能です。そのような社会がどのような民主主義を生みだすことができるのでしょうか。

私たちの無関心のグローバル化

結局のところそれは飢餓として知られる巻き添え被害と同様に、物理的、霊的貧困の両方を生んだ共産主義、社会主義、資本主義、そして全ての宗教的混迷が原因となった終わりのない心理的紛争です。新聞の大見出しを占領する中東やアフリカの多くの国に見られるように、主義の戦争によって引き裂かれている現代社会でこれは明白に理解できます。アル・シャバブやシーア派民兵、NATO、またはCIAなど軍力による破壊を誰が犯そうと、予想外または偶発的な負傷者の代表は常に貧困者と飢えた人々です。しかしながらさらに私たちが認識を躊躇するのは、公衆の結集した自己満足的な無頓着によりこの巻き添え被害を生みだすことに私たちもまた一役かっているということです。既得権益側に付き、そして戦争兵器に数十億ドルも注ぎ込む政府を私たちは非難するかもしれませんが、政府はそうすることができ、そうする権利があり、そしてそうし続けるでしょう。なぜなら、私たちが黙って顔を背けているからです。そしてなぜ私たちは黙っているのでしょう。なぜなら、主義がますます私を捉えていく間、私は社会での自己の個人的戦闘で頭が一杯だからです。それはおおよそ私の注意を逸らし財布を盗るスリのようです。この場合の財布は私の良識、善意、そして分別を象徴しています。私は最終的に余りに条件付けられてしまうため、私と人生の現実との関係は不運にも分裂し誤り導かれます。なぜなら、私の知覚は主義によって余りにも濁らされ、現実をありのままに見ることができないか、または私の周りの人間の苦しみに対して基本的に道徳的、倫理的対応をすることさえできないからです。

これは多くの政治的、宗教的原理主義者たちに明白に見て取れることです。しかし、私たちの思い違いを本物であり教養的であるよう見せかけるために、さらに微妙な主義がどのように自分たちの自己満足的な無頓着を合理的に処理したかを私たちが認識する可能性は極めて低いようです。多くの霊的グループにおいて例えば、飢餓から死んでいっている無数の人々について軽くその場で論議し、それをその人たちの「カルマ」として理屈付けることは一般的です。それは、私たちの関心の欠如を許し、私たちの集合的犯罪を放置します。私たちが自由選択のもと行った、悪の顕現への自己投影なくして悪とは結局なんでしょうか。カルマとは事実、愛と自由の活力に満ちた動的表現であり、その定義によると、生き、学び、そして成長する権利を万人へ与えます。この基本的真実は、私たちの兄弟姉妹の魂を非難することさえして彼らの不必要な飢餓を私たちがむしろ合理的に処理することを趣向する時、自己満足的な無頓着と無関心により私たちの人格が下劣な驚異へとどのように象られてきたかを痛切に明示しています。思想を主義へと作りあげることを好む人々は、人類自体を思想として考慮する傾向にありますが、飢餓から死にかけている子供は飢餓主義という学術研究の対象とはなりません。

もし私たちが現実と向かい合うことができるなら、豊かな世界において飢餓から人を死なせることは最大の罪だということです。そしてそれは、世界規模で自分たちの自己満足的な無頓着を通して私たち皆が冒している罪です。もしあなたが生命あるものは全て神の一部であり、神が進化する生命であることを受け入れるなら、ひいては人に基本的ニーズを拒否することは彼に生存する権利だけでなく、自由に進化する権利をも拒否するということです。地球で魂が進化しパーソナリティを通してそれ自体を表現する自由は、道徳と責任の基盤であり万物の基盤です。主義への私たちの自己投影の結末はそれ故、見るに堪えません。実際のところ私たちは、自分たちの自己満足的な無頓着と無関心をグローバル化させてきました。人間の意識の拡大を妨げてきました。そして、人間の知性が進化の穏やかな勢力から悲惨な誤った方向へと向かっている間、歴史が何度も同じことを繰り返すのを許してきました。

不可能な会話

それでは、どのようにして分かち合いが人類の問題の解決策であり、分裂した世界を復興させるための私たちの最後の希望であるという認識をもたらすことができるのでしょうか。この会話をすること自体が、私たちに自由な思考と認識を持つことを要求します。さもなければ、私たちの思考には人間らしさではなくイデオロギーがあるのみです。一方では私たちの多くが現在、公益と利益が等しいとみなすまでに生活の全ての側面に入り込んでいる市場勢力によって条件付けられています。そしてもう一方では、国家間の資源の分かち合いの思想が「空想的理想主義」やただの戯言と考慮されるまで、社会主義や共産主義のイデオロギーと分かち合いを同等と見るよう私たちは政治勢力に条件付けられています。いくつの主義と信条であろうと私たちがそれらに自己投影する時、私たちは問題の深淵さを捉えることができるのでしょうか。もし私たちが自己を偏りなくみることができたなら、主義と信条のそのあまりの多さに驚くどころか恐怖するかもしれません。私たちの知覚は主義によってあまりに濁らされ断片化されているため、人生に対して正直で誠実な対応をすること、また内部で無執着と認識を持つ自由を理解することがどういうことなのかを殆ど知らないのです。

では、私たちが主義に基づいた社会に住む時、人類に仕えることや愛することを教育されていない時、そして自己を気遣うようお互いのことを気遣うよう奨励されていない時、どのように私たちは自分たちの家を後にし、いわゆる革命をもたらすことができるのでしょうか。私はあなたを助けにいきます。なぜなら私が社会主義者又はキリスト教徒だからなのか、それともあなたが私の兄弟であり私の助けを必要としているからでしょうか。それとも、あなたが絶望的に食糧と避難所が必要だからでしょうか。もし私が主義と信条による歪曲なくして正義の本当の意味を知っているなら、「私の権利」と私自身のための正義を街頭で叫んでいるでしょうか。それとも、世界の死にゆく貧困者と飢える人々のために正義を要求しているでしょうか。

むしろ不適切なことに、それはまた大衆の自己満足的な無頓着が原因で、自然界の権利と未来世代のためにたたかう環境主義などの主義の存在が強いられています。もし、全人類がこの惑星を救う必要性に同調して動いているならば、環境主義のようなものは存在していなかったでしょう。より簡素でより維持可能な生活を受け入れる統一した人々の声があるのみであったでしょう。同じようにもし、万人が私たちの世界を改善変革することに活動的であったなら、「積極行動主義」の概念など存在せず、活動家と社会の残りの人々との間にはなんの違いもなかったでしょう。皆が万人の共通利益への奉仕のために生きるひとつの人類があるのみであったでしょう。

私たちは緊急に、認識と自己知識を教え込むことを助長する新たな種類の教育が必要です。それは、人生の霊的理解に基づかない世界で途方もない任務です。主義の問題、マインドの条件付けの問題、信条への誤った自己投影の問題、そして無害でいることと内部のバランスと自由の必要性の問題を考慮しない限り、正しい教育について話すことは不可能です。教育の真髄とは、各人間が自己の独自性と創造性の中で進化し、 それにより彼らが自己の真の姿となる美を表現できるよう彼らを備えるべき「いのちの法則」の辞書なのです。商業化はできる限りの方法で、正しい教育を抹消する試みを上手にしてきました。なぜなら、レンガ壁に象徴される自己知識には全く歯が立たないことをそれは知っているからです。愛でさえなくただの自己知識が、私たちの不平等な世界の構造基盤へ挑戦するには十分でしょう。熟考、無執着、そして恐怖と心理的不安の克服を可能にするのは自己知識だけなのです。

けれども、主義と社会の分裂に踏みつけられている世界でこれは余りに途方もない任務であり、少なくともこの惑星の破壊が取り返しがつかなくなる前に、教育システムを改革し正しい方向へ若者を教育していく時間がありません。従って、病んで一触即発状態にある社会のこのような状況下での正しい教育は、私たちの自己満足的な無頓着の殻を破り認識を持つことだと簡潔に意味します。多くは私たちのせいではないのです。私たちは皆、霊的に盲目で痛ましいほど誤り導かれた文化に生まれてきましたが、自己認識を体験すること自体が私たちの意識を変革し、マインドの条件付けから自己を解き放つのに十分なのです。たとえ一瞬でも、私たちの真の霊的資質の現実を知覚するということは余りに強力で、その効果は常に私たちの中に残り失われることがなく、そして消えることは決してないでしょう。私たちは以前、無神論者は神への信条へ挑戦することなくして存在できないと論じましたが、「神」への信条でさえ最終的に断ち切られ、自己知識と不滅でありすべてに遍在する「ひとつのいのち(ワン・ライフ)」の認識に置き換えられねばなりません。

解脱への唯一の希望

長い目で見ると、 人類の教育が基本的により霊的(宗教的でない)方向へ発達し、それにより各人が生きる術を実践するために必要な基本的教えと内部の導きを備えるまで、主義問題からの解脱はあり得ません。しかしながら同時に、万人一人一人の生命維持のための基本的ニーズの保証を確実にするために、 経済の全体制は構造変革されねばなりません。「いのちの法則」の万国共通の教えと並んで、社会に信用と安全のための物質的基盤がある時、多種多様な全ての形態の主義へ自己投影すること、そしてそれらを増殖するさらなる必要がなくなります。これは、不平等な経済秩序を維持する全ての法律と構造を改革するために必要な社会の前例のない変革を考慮すると、人類が対立するイデオロギーと信条の泥沼から解脱するためにさらなる時間が必要なことを暗示するかもしれません。明らかに時間は必要ですが、悲しいかな、私たちは皆その時間の中で人道に対する罪を永続させることに携わっているのです。それは、回避可能な病気と貧困から毎日数万人が死に続ける惨事です。

ここに恐るべき不条理があります。私たちが世界情勢の緊急性を認識せず自己満足的で無頓着、そして無関心でい続ける間は、人類の問題を政府の責任にすることはできないのです。政府は分裂的な信条を維持するかもしれませんが、凄まじい人間の苦しみを目の当たりにして、自分たちの追従の続行を可能にする私たちの「信条に対する信条」について責められるべきは私たち自身なのです。そして、政府の政策のせいで私たち自身が苦しんでいるにもかかわらず、私たちの無関心はかなりのもので、もし経済状態が回復したとしても、私たちが意識的に変わることはないかもしれません。従って、自己認識の中で人類が成長する時間が必要ですが、悲しいかな、その時間の中で私たち皆に集団責任のある人類と地球に対する凄まじい犯罪が犯されているのです。

世界情勢へ分かち合いの原理を実施していくための私たちの唯一の希望は、一般人が認識をハートへ集中することです。主義と条件付けを通してハートの特質を妨害することにより私たちを惑わせるのはマインドですが、ハートは私たちと交信する瞬間を常に待っています。ハートは私たちのマインドと交信できません。それはハートからハートへ交信するのみです。そしてなぜなら、人類のマインドは絶えず私たちを乗っ取ろうと余りに支配的になったため、私たちが既に言及したように、それがバランスと分別を見つけるまでハートはどうすることもできず沈黙するしかないのです。マインドがバランスと分別を見つけた時点でハートは作動し始め、言葉ではなく知られているように寛大さ、分かち合い、善意、そして勿論、愛などの資質により定義付けられた特質の表現を通して話すのです。

ハートは知性とは比べものにならないほどの知恵を持つにもかかわらず、その操作的な意図をもつマインドのように考えたり計算したりしません。過度に汚染されておらず、条件付けを受けていない見解を持つ人と私たちが出合う時、その様相にもかかわらず、「純粋な」ハートなどさえ存在しません。内在する特質を持つ唯一のハート自体が在るのみです。ハートは積極的に携わるか、または沈黙するかです。新生児がただ赤ん坊であり、そして「悪」や「冷淡」であると考えられないように、ハートは常にただハートです。もし私たちが成功したビジネスマンに「ただあなたのハートをつかいなさい」と言っても、彼が私たちを世間知らずで単純思考と片付けるのは疑いありません。それにもかかわらず恋に落ち、恐らくは彼の愛する人と寛大に自己の富を分ち合う時、彼さえがハートの特質を持って従事するのです。

今日の文化の中でのハートの偉大な特質へ対する軽薄な扱いと同じようにまた、私たちが分かち合いの原理をどのように軽視しているかを観察するのはなんと奇妙で悲しいことでしょうか。読者は、一度人類のハートが地球規模で起動し始めたらどうなるか目撃することを待たねばならないでしょう。なぜなら、ハートは「対立する」主義に基づいたりまたは「私の権利」や自己の正義のためではなく、万人にとって良いことに基づいてのみ起動準備できるからです。筆者が言える全てのことは、このような時にもし私たちが、政府に世界資源を分かち合うよう街頭で皆で一緒に要求する無数の人々を心に描くことができるなら、ひいて統一した人々の声の中に魂の目的が存在するのを私たちは認識するであろうということです。そしてそれは、主義が私たちのマインドの中身から取り消され始めるであろう時なのです。

分かち合いは私たちの真の姿

この理由により、私たちが思想のためでなく、むしろ自分たちの真の存在のために街頭でデモンストレーションすべきことは極度に重要です。私たちの文明危機へ対する解決策を提供できる政党や主義はありません。なぜなら、答えは「世界の人々」にあるからです。私たちの政治、経済、そして社会構造を改革するための思想を持つことは良いことであり必要なことですが、積極的に従事するハートと大衆の集結した善意を通してそれらの答えを表示するのは世界の人々でしょう。ですからあなたが「私には解決策がある」とやってきて言うことはできないのです。なぜなら、結束した人々の声を通して「私たち」だけに解決策があるからです。「私はどうするべきか」と他に問うことさえ、認識を欠き無頓着でい続けるということなのです。なぜなら、ひとつの声を持った一般人の蜂起に参加する「私」やパーソナリティなどないからです。そこには適切で正しい行動へ自然と導く全体としてのグループと人類の思考があるのみです。

まず始めに、前例のない規模の地球の緊急事態へのハートの目覚めを通して表現されるように、分かち合いが人類にとって最後の手段であるいう公衆の認識がもたらされねばなりません。そしてその時初めて、政府間の政策と大規模な市民参加を通しその認識の実現を見通すことができるのです。世界を救済し、緊急事態に基づき資源を分ち合うために共同で取り組む努力の中で政府同志が一体となる展望は他にありません。なぜなら彼らは何百年もの間、他の全ての手段を試し尽くしてきており現在行き詰まっているからです。経済的激変のこの時において、他の国から財源の貸し付けを受ける国が既にありますが、なぜ政府同志は共有知識、技術能力、そして専門知識と同様、食糧や他の物的資源の面でもお互いに助け合うことができないのでしょうか。私たち人間の共同発明能力と急速な技術的進歩をもって、しかし利害、利益、または戦略的優位に対する必要性なくして、どのようにして各国がその全国民を食べさせ面倒をみる手助けをするか、次いでどのようにして永続的、構造的基盤に基づきその相互の支援を提供するのかという国際計画を私たちは国連で本当に成立できないのでしょうか。

もし分かち合いの原理が人間社会を支えることを許されるなら、そのような経済的、政治的取り決めの中では「主義」は存在しません。それは、国家間のプレッシャーと競争を取り除くことを意味します。国内及び国家間で分かち合いの過程を実行することの効果というのは、資本主義と社会主義のイデオロギーをそれらの本来あるべき場所へおさめるということです。それにより、双方は遂に同調して機能することができるのです。それはまた、私たちが世界問題を「対立」のエネルギーを持たずして「支援」のみで見ることを可能にし、そしてそれは、社会主義が万人の基本的ニーズに見合うための必要な道具であると同じだけ、資本主義が革新的経済において必要とされる道具であることを認めるよう私たちを手引きしてくれるでしょう。たった一度でも、私たちが世界中で分かち合いの過程を実現しさえするなら、この普遍的原理がどのようにして古代の社会問題と国家間の対立への解毒剤となるかを私たちは捉えることができるのです。なぜなら分かち合いはまた、上記の主義によりもたらされた衝突からの自由をも意味するからです。そして主義と信条の果てしなく続く争いが、人類の進化のペースを大変遅らせるまでに沈めたことを一度私たちが認識するなら、世界資源の分かち合いがどのようにより迅速に前進をもたらすかという理解へ既に私たちは近づいているのです。

それ故、マインドの条件付けと間違った信条への自己投影が、数千年間濁らせてきた魂の目的と分かち合いの原理の間に存在するエネルギーの同盟を直感することは必須です。この重大な時に自己の存在について熟考することは、分かち合いが私たち自身であるという現実を自分たちに悟らせることができるでしょう。それは、進化する意識の梯子上の人間であることの美を再認識するよう私たちを自然に呼び起こすでしょう。私たち共通の潜在意識の奥底に横たわるは、人類はひとつであるという認識です。それは、数えきれない人生を経て各々の個性の中に隠され存続してきた真実です。分かち合いの原理は(分別と融合して)ハートの中心を通り、潜在意識から顕在意識へとこの事実を伝達するための十分な力を備えています。それは最終的に人類が目を見張り、謙虚な気持ちにさせる認識へと導くでしょう: この原理を世界情勢の中に、もっともっと以前に実現しているべきであったと。


モハメッド・メスバヒはSTWRの創始者である。

編集協力: アダム・パーソンズ

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