世界の人々をひとつに結ぶ

さまざまな目的でデモンストレーションが行われていますが、むしろ私たちという存在自体のために、莫大な人数でデモンストレーションをしなければならない時が来ました。

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経済混迷の現時点において、分かち合いの原理がどのようにして世界の問題の解決策となるのか理解することは一個人にとって難しく、それは多くの学識者にとってとりわけそうであると言えます。社会の何が間違っているのかを分析する既存の大量の書物と報道の大多数は不可能を可能にしようと試みるものであり、政治、経済、社会構造の悲惨な商業化を代表し支持する私たちの政府に、新たな代替策を提案するものに過ぎません。

分析が知的で完全であればある程、私たちは商業化とその悲愴な影響についての終わりなき考察へと更に絡まって行きます。その蜘蛛の巣状の複雑さには終わりがないことを知らされます。それでも、十分に食べるものもなく、お医者に診て貰うお金もなく、討論したり抗議することさえ許されない国々の農民に学説的、学問的なことなど何ひとつ関係ありません。私たちが書けば書くほど、知的に説明すればするほど、批判すればするほど、そして異議を唱えれば唱えるほど、世界の多くの叫び声はますます解決不可能なものとなって行きます。しかし、もし更なる分析が答えとならないなら、そしてもし書物が解決策を持たないなら、次に私たちはどうすべきなのでしょうか。

商業化勢力と戦争することによって、あるいは現在の経済システムを後押しする権力と戦うことによって、より良い世界はつくれません。規制を受けない市場勢力が率いる社会の中で、私たちはもはや行き着くところまで行き着きました。そして、私たちの文明の連結した叫び声は、改革拡大のための時間的余地を残してくれません。あらゆるところに浸透したこれらの問題に立ち向かうために莫大な労力を費やす比較的少数の個人とグループが、現在大多数の一般人によって支持されない限り勝ち目のない戦争に挑んでいるのです。小さなブレークアウェイ・コミュニティー(訳注: Break Away;1991年にアメリカで大学生二人が創立したソーシャル・ムーヴメント)でさえ、世界大惨事への現在の軌道を巻き返すために十分な勢力を持つことは無いでしょう。大規模な方向転換をはかるには、少数派の握る富と経済力の集中が余りに極端過ぎるのです。

私たちに残された解決策のひとつは、世界中の善意の人々をお互いに結びつけることです。それは、地球規模の社会変革のための最後の希望です。なぜなら、人々が平和的抗議デモの世界的波の中でひとつになると同時に、分かち合いの原理が自然に、そして自動的に顕現されるからです。現代の世界情勢に欠如したこの極めて重要な要素なくしては、これからの時代において人類が直面する危機的難局から脱出する方法は他にないのです。

商業利益を中心とした価値観が私たちの先天的な霊的資質の一部でないと同時に、分かち合いは万人に備わる生来のものであり、人間としての私たちの存在に必要不可欠です。富と権力の利己的追求は、間違った教育や成功と業績の崇拝を通して育まれた幼少からの条件付けの結果です。しかし、協調し分ち合うようあなたが誰かを条件付けることはできないのです。あなたには、彼らが自分自身誰であるのか思い出すよう促すことしかできないのです。それは、本能的に走るグレイハウンドの赤ちゃんのようなものです。彼は教えられることなく両親と全く同じように振る舞うでしょう。なぜなら、彼はそれを遺伝子の中に持つからです。人類が分かち合いを遺伝子の中に持つのと同様にです。自己利益や競争は、人類の先天的な性質ではないのです。

社会を定義付ける貪欲さと無関心は、先祖代々私たちの中に植え付けられ条件付けされて来たものです。しかしながら子供は、学校教育以前に人格の中の愛と分かち合いを自然に表現します。これが、万人の利益となるよう社会を変えるために、世界中の善意の人々を結びつけねばならない理由です。なぜならそれによって私たちはお互いを認識し合い、本能的に自己が誰であるのか思い出すであろうからです。全人類を殺さない限り商業化勢力が勝利すること、または分かち合いを滅ぼすことは決してできないのです。なぜなら分かち合いは、私たちのDNAの中に常に存在し続けるであろうからです。

魔法の杖となる唯一の解決策は、お互いに結びついた人々の驚くべき力です。最近の大衆蜂起の多くは結集した善意の注目すべき可能性への洞察を私たちに与えてくれましたが、これらの活動でさえ世界人口のほんの一部分を代表しているに過ぎません。更に人類のより多くが「主義(isms)」の痕跡も持たず、政党指導者に率いられることなく、そして若者が先頭に立ちひとつとならねばなりません。私たちが既に見て来たデモンストレーションの全ては十分ではありませんでした。来る日も来る日も続く地球規模のオキュパイ(訳注:Occupy Movement, Occupy Wall Street;「占拠運動」は、社会的経済的不平等に対し2011年にアメリカのNYから世界中に広がったムーヴメント) 野営地のように、私たちは世界の街頭に立つ何百万という人々を必要とするのです。それは可能な限り最大の緊急事態を持って達成可能であり、また達成されねばなりません。 

彼らの権力と特権を脅かされるため、政治家が人々のデモンストレーションを嫌うと同様に、商業化も世界の人々が結びつくのを嫌います。人々の勢力が地球規模になる時、社会に対するコントロールを維持する構造自体が揺らぎ始めるであろうことをそれは知っています。そして法律と政策によりそれは構造化されているため、新たな社会が徐々に浮上すると同時に、無数の経済的取り決めが変革されねばならないでしょう。商業化が人類の意識への支配を遂に放棄するまで、時間の経過と共に世界経済の全体系が再考され簡略化されねばならないでしょう。

人類はひとつ

世界中の善意の人々が蜂起しない限り、解決策は他にありません。国から国へ何百万、何千万という人々が次々とデモンストレーションの中集まる時、人類はひとつだという理解が無意識から意識的理解へ達します。そして、分かち合いの原理がその多様な形態において全世界で顕現され表現され始めるでしょう。その結果、人々の間で感じられる全ての違いは全く無意味で、全く不必要であることがわかります。ひいて私たちは分かち合いの意味をその行為の中で知ることができるのです。私たちに多くは必要ないのです。私たちはお互いを必要とするのみです。人々が共にある時、それは歓びをもたらします。途方もない歓びです。

間もなく、分かち合いが世界の鬱病に対する特効薬だということもわかるかもしれません。なぜなら、万人には善良な部分がしばしば表現されずに存在するからです。私たちがお互いの間で善意を表現し始める時、私たちは気持ち良く感じ、尊厳を感じます。それは私たちに力を与えてくれ、将来の展望を見せてくれます。そして現代社会の死と再生のさ中、それがまさに現在私たちが体験し始めていることなのです。人々が歓びを見い出せず自由と創造性を失っていく時、そして社会が分裂する時、社会の死が起こるのです。

世界のあらゆる所で何百万という人々が意識的に正義を求めて叫んでいますが、私たちがこれら全てのデモンストレーションの中に実際見ているものは、分かち合いへの無意識的要求です。私たちがそれを集団で認識しない理由は、大変多くの自己満足的な無頓着さだけでなく、イデオロギーや信条による大変多くの紛争を育む商業化と派閥政治によって社会に打ち付けられた多くの亀裂のためです。社会の格差に動かされた人々は、正義のための戦いの中でシステムに対しての戦いに携わることを殆ど強いられています。しかし、分かち合いのみがその正義をもたらすことができるのだともし私たちが理解するなら、ひいては世界中で分かち合いを要求する結束した声を通し、違った方法で正義を追求することができるでしょう。

ハートが愛を持って開く時、それは分かち合いを要求するのみです。ハートはシステムに「対立する」ことは決してありません。マインドの中身だけが社会で正義のためにそのような苦闘に携わることができるのです。正義を叫びかけシステムに「対立する」人々は、彼らの成熟さ、誠実さ、知性が相互したより良い世界のためにたたかっています。システムを変えるために抗議することは成熟さを必要とします。なぜなら、あなたが成熟さを持つ時、あなたには責任感があるからです。そして私たちの社会における多くの問題との関係の中であなたが責任を持つなら、あなたには正義のために戦うしか選択の余地がなくなるのです。なぜなら、商業化は不正をシステムの中に大変建築様式的に構造化してきたからです。しかし、ハートと愛が成熟さと知性と融合する時、正義を呼びかける声はそのコインを裏返し分かち合いとなるのです。

私たちはシステムとそのイデオロギーによって余りに条件付けられているため、正義を成就する手段としての分かち合いのこの経験的理解を僅か少しのところで見失っているのです。事実、私たちが世界中の大変多くの大衆デモンストレーションの中に目撃しているものは、人間のハートの中の分かち合いの存在の振動です。それは今まで以上更に明確になっている程で、特に若者の間で感じ始められています。2011年のタハリール広場(エジプト)の革命を例にあげると、それは異なった生い立ちと信条を持った何万という人々の間の神聖な原理として、分かち合いの振動を美しく表現しました。それは美しい光景でした。なぜなら、分かち合いは何の主義もイデオロギーも持たずひとつになった一般人のパワーによって象徴されたように、常に美と歓びをもたらすであろうからです。

しかし、分かち合いが正義を成就し正義の永久的存続を保証する卓越した術であるという純然たる真実を、直感的に感じ取っている今日の活動家はどうなるのでしょうか。残念ながら私たちは、この社会の正義の必要性によって余りに深く催眠術にかけられているため、街頭に立って分かち合いを呼びかける人は大変孤独な一個人となるのです。全ての国での説明責任と正義を呼びかける凄まじい声の最中で、誰がどのように自己が感じ理解した全ての展望を説明できると言うのでしょうか?それは、あなたが空飛ぶ円盤を見たと言うところに等しいのです。そのような啓示について話し続けてみて下さい。挙げ句の果てには、お医者に診てもらうよう強要されることになるでしょう。

慈悲心の世界的爆発

分かち合いの原理は、正義に基づき、慈悲心の世界的爆発を通してのみ、社会で徐々に維持されて行くことが可能です。すなわち、人々の結束した声の高まりが最も重要なのです。慈悲心、自由、良識、そして未来への展望を通してのみ、異なった派閥が左右に脱線せず同じ方角を目指し、そして世界の人々がひとつの声を持ち結びつくことができます。共産主義と社会主義は分かち合いに基づいて人々を結びつけようとしましたが、これらのイデオロギーは人間の自由意志を侵害することにより実践において失敗しました。それでは、分かち合いの原理はそれ自体だけで、なんの政治的イデオロギーを持たずして、私たちの自由を取り上げることなく、どのように成功できるのでしょうか。それは、ダムの壁の後ろにせき止められた海からの水流のように遂にその水が壁を破り抜けるまで、慈悲心の世界的爆発を通してのみ成功できるのです。

そのような慈悲心の爆発は実際に、そして分かち合いに基づいて、どのような意味を持つのでしょうか。それは、飢餓の終わりの始まりを意味するでしょう。それは、飢餓をなくすための人々の叫びが余りに緊急を要し、余りに圧倒的で、この地球上で二度と飢餓が起こるのが許されないことを意味するでしょう。それは、ファーストクラスで航海するであろう貧困者が乗った巨船が、新たな地平線へ向けて出帆することを意味するでしょう。始めは全員がその船に乗れるわけでないでしょう。商業化の子供として残るのを選ぶ人々が常にいるであろうことは間違いありません。しかし、様々な国から何百万という人々が平和的に、そして政治的争論なしで集結する時、世界中の政府はどうして良いかわからなくなるでしょう。飢えと極度の剥奪をこれを最後になくすための緊急プログラムが国家間に制定されるまで、人々に加勢するしか彼らには選択の余地が残されなくなるでしょう。

若者たちのハートは既に、分かち合いがもたらすことのできる平和的、創造的革命に魅了され始めています。人類のハートが徐々に目覚めつつあると言えるかもしれません。本当のところそれは、ハートが解き放たれているのですが 。ハートがストレスや主義、商業化の影響から解放されているのです。商業化に関する限り、人類のハートがマインドの条件付けに凍らされていると大変都合が良いのです。しかし一斉に公衆がハートから分かち合う時、何百万という人々が飢えと貧困をなくすために街頭へなだれ込む時、人類の至るとろでハートの目覚めが起こっていることに間違いないのです。

恐らくその時、私たちは活動家と社会の間の分裂を ー 街の広場でデモンストレーターが集まっている間、アイスクリームをなめながら近くを通る観光客を ー もはや見ることはないでしょう。恐らくその時、絶え間ないデモンストレーションの中で分かち合いを呼びかける世界中の無数の人々と共に、それまでデモンストレーションを一度もしたことのない数えきれないほどの人々が参加するでしょう。恐らくその時初めて、権威的地位で仕える多くの善意の人々を通して、商業化を支持し分かち合いを妨げる法律と政策の解除を私たちは目撃し始めるでしょう。

真の革命

真の革命はイデオロギーや信条に基づくのではなく、唯一良識と融合したハートの特質に対しての認識に基づくことができるにみです。2011年を通しての中東での革命はお互いの間ですぐに認識され、例えば、ハートの良識に基づき世界中でただちに手本とされました。そしてハートとマインドが人々の莫大な集まりの中で融合する時、それはまるで、一人一人の魂が群衆の中で踊ろうとしているかのような歓喜の爆発となり得るのです。ネクタイ・スーツ姿の職員は、自然に起こった自発的蜂起を指導者や構造性に欠けると非難するかもしれませんが、ハートは性質的に構造化されておらずそれ自体を包括的に表現することを彼らは理解していません。

これが、古い意識と新しい意識の間の世界観の切実な違いを見て取れるところです。そしてこれがなぜ、街の広場の真ん中で旗を掲げテントをはって寝ている若者たちがいるところではどこでも、彼らの声に聴き入り支持することが絶対に必要な理由です。若者たちは過去を象徴する全ての主義から解放されることを求めています。恐怖から自由となった正しい行動へと自己満足的な無頓着さが変換されるところで、制約的なイデオロギーや信条から解放されひとつとなった人類を心に描く能力が、若者たちには生来備わっているのです。

誠に、若者は分かち合いの原理の偉大な同盟者として考慮されるべきです。なぜなら、政府の保守派権力者たちが彼らの主義の打倒を脅かす理想主義的若者たちを恐れると同時に、商業化は社会の統制を脅かす条件付けを受けていないマインドを憎むからです。今日の若者は新しく見出された活力とエネルギーの表現方法においてなぜか特別でユニークだと私たちは考えるかもしれませんが、若者は常にこうであったことを思い出して下さい 。唯一の違いは、古い構造が崩れ去り、そして新しい世界が徐々に生まれると同時に彼らの時代が今到来しているのです。これは、若者たちが何百年と待ち焦がれてきた歴史上の決定的瞬間です。

全ての若者たちにとって、今が、彼らに権利ばかりか希望さえ与えてくれない社会に従うことを断固として拒否し、世界中で集結し、デモンストレーションをする時なのです。彼らはまた世界人権宣言第25条を押さえ込み、人々の意向の法としてその規定を要求すべきです。これまでのところこの神聖な宣言は休眠状態にあり、それを有する公衆によって復興されるべきです。世界の公の舞台へそれを取り戻せるのが若者であることから、とりわけ最もそれは若者の宣言となるべきです。どのような革命もモットーを必要とします。そして今日の真の革命は、彼らの全ての包括的目標と将来への展望として第25条を取り入れるべきなのです。

ひいては、若者たちの未来展望への大志を構造化すること、そして国民のこの権威ある法を国家の法とすることは政府にかかっています。まず始めに、公衆の結束した声が政府から全ての保守的勢力を退かせねばなりません。ついで、人々の声と同調し、公衆のデモンストレーションと共に動き、全人類の代弁者となる賢明な一般男女を権限の座へつけねばなりません。政府のこの新鮮な人材は、正義と自由に対する公衆の要求を構造化し、若者の未来展望への熱望が正しい方向へ導かれることを確実にするための正確な知識を備えているでしょう。

分かち合いの原理を実現する

ハートとマインドが融合する際に生ずる良識を通して、分かち合いの原理がそれ自体を社会で実現すると最終的に言えるかもしれません。ハートが関与し従事する時、良識が私たちの決断を是認する時、その結果、秩序と構造がこれまで決して目にしたことのないような生じ方をするでしょう。この過程は全世界の国々での蜂起、政府の指導者たちに受け入れられ、ついでトップからボトムレベルまでの経済、社会政策において実現される分かち合いを求める公衆の一斉の声を持って始まらねばなりません。資源の分かち合いのための戦略は、国家レベルから公衆へと上から始まり下へと広がらねばなりません。それは、人々と政府の正しい関係の始まりを象徴するでしょう。

結局のところ、国家が国の資源への鍵を握っています。これには、軍隊や他の優先的な出費により横領された数百億ドルや、巨大な倉庫の中で常に無駄にされ腐り果てている何百万トンという食糧が含まれます。公衆のコミュニティー活動やチャリティーの努力などによって、もしそれが公衆レベルに限定され続けるなら、経済的分かち合いの効果的プロセスが国内や地球規模ベースで制度化されることはあり得ないでしょう。この点で、私たちの社会での分かち合いの実現は、個人的所有物や富を諦めることと混同されるべきではありません。それはもし、上からの政令によって公衆に無理矢理課されるのであれば、ある種の窃盗に相当します。政府が全国民の中で最も援助を必要とする人々を支持するために、彼らの歪んだ優先事項を根本的に調整し直し、そして最終的に全人類の利益のために国の余剰生産物を分かち合うことによってのみ、私たちは経済原理としての分かち合いの術を維持するでしょう。

これは、資源のより平等な分配が多岐にわたる方法で可能であるため、政府が分かち合いのひとつだけの解釈に基づいた政策を断固法として制定せねばならないという意味ではありません。経済緊急事態に応じる中で、または経済的必要性からある国は他国と協力し始めるかもしれませんが、彼らの政府の政策において「分かち合い」という言葉を公的に認識しないかもしれません。しかしながら各国が何を必要とし、何を過剰生産しているかを全ての国が知ること、そして国内及び国際レベルで完全改革された政治的、経済的取り決めの中でその理解を守り尊重するようになるまで、真の世界の資源の分かち合いの展望はないでしょう。それ故、早かれ遅かれ資源の分かち合いは全選挙区民の完全な援助の元、選ばれた指導者たちによって慎重な計画的方法で検討されねばならないことが予測されます。

世界的なプロセスとしての分かち合いの組織化は、寛大さや世界的善意の物語的または感傷的概念のようなものとは全く異なるかもしれません。なぜならそれは、それを連動させ計画するためには世界の最も経験ある代表者を必要とする、むしろ大規模な戦略的事業だからです。最も貧しく、最も除外された人々のニーズが全ての結論の背後にある考えを常に導きながら、全ての政策立案者たちに常時付き添う信頼おけるアドバイザーとして分かち合いの原理を想像することができます。そのうち、様々な国へもたらされた新しい秩序と構造が国連の会議において、分かち合いの原理に則した、世界問題の協力的な解決策について政府同士が話し合うことを徐々に要求していくでしょう。それは、万人の共通利益のための真の民主的統治の始まりを告知するでしょう。

正しい分配

この先起こるであろう劇的変動を考慮すると、一点集中する危機への解決策としての分かち合いを感じ取る誰もが再分配の意味を思索すべきです。この言葉は大変掴みどころがなく論争を招く意味合いを持っており、もし間違った状況で促進されるなら、緊張、ストレス、そして暴力さえをも誘発します。公平な相互交換システムに基づき、1トンのトマトをどこかの地域から他の地域へ再分配するなど、正しい分かち合いの結果としての再分配の健康的な意味があります。しかし、社会の裕福な人々に彼らの個人的所有物や富の引き渡しの強要を課す、再分配のまた別の意味があります。これがまさに共産主義が成そうとしたことであり、それは必然的に人間の自由意志の激しい侵害を伴うかもしれません。

もしある政府が本当にその国の資源を分かち合いたければ、戦争兵器を取り壊すことから始めるべきです。そうでなければ、富裕層の金箱を襲撃することによって獲得した財力が、最後には社会の貧困層ではなく軍事費へ舞い戻る可能性がより高いのです。それ故、更なる軍事行動と現状の強化を支持することになります。なぜ最も裕福な人々と企業は最初から適切に課税されなかったのでしょうか。一度収税されたお金は社会的に必要なところへ行くのか、それとも非常識な(企業のための)補助金へ行くのでしょうか。どこへ行くのでしょうか。そして政府が市場勢力と商業化と一緒にゲームプレイをしている間に、なぜ彼らは莫大な富を溜め込むための機会をそんなに多く与えれたのでしょうか。

それは富裕層自体を極度に裕福にすることを許したシステムであり、そして現在その同じシステムの弟子たちが、富裕層の富の再分配を強要しようとしているのです。これは過去の派閥的やり方から生まれた古い分裂的な手口です。共産主義が試み、社会主義が試み、そして今、資本主義さえが加盟しました。それは社会問題の全てを富裕層の責任にするポピュリスト(大衆主義者)を喜ばすかもしれませんが、システム自体が特権と富の利益に基づく限り、それが社会的不正に解決策を持たらすことは決してないのです。

極端な不平等の廃止をもたらす最も確かな方法は、世界統一の未来展望に基づいて人類の大多数がそれを要求し、日夜止むことなく街頭でデモンストレーションをすることです。 「銀行への救済処置はもう沢山。切りが無い緊縮政策はもう十分。無目的にお金持ちに課税しようとするのはもうやめろ。分かち合い、正義、良識に基づいた経済政策による社会変革のために、貧困者に救済処置する時が来た」。私たちには、自己考察と自己認識に基づいてこれらの問題を見つめること、そして「資本主義」や「富裕層」など、私たちが対立するものの視点から政治的アイデンティティを定義付けるのをもはややめることが必須です。

従って、正義に基づいた分かち合いの実現は、私たちの成熟性とハートの良識によって導かれる人間の意識の変革と共に始まらねばなりません。これが、分かち合いへの新たな理解が私たちのマインドに生まれるかもしれない時です。それは、富と再分配に対する私たちの姿勢を全面的に変えるかもしれません。世界の国々が全体としての貧困をなくすために集合的に行動する時、「再分配」という言葉は本来あるべきところへおさまり違った意味を持ち始めるでしょう。その結果、私たちは「正当な」又は「正しい」分配に関連して考え始めるようになるかもしれません。そして、グローバル経済取り決めに関連して「平等」という言葉を使う必要はもはやなくなるでしょう。これらは思索すべき重要な意味論です。なぜなら、その正しく包括的な未来への展望の中に、分かち合いが成就せねばならないものを私たちが直感することをそれは助けてくれるかもしれないからです。正しい分配は正しい人間関係と並行していますが、再分配はたとえ最良の意図を持ってしても、合法化された窃盗、組織化された不正、そして人間特有の自由意志の侵害により定義付けられた社会にのみ生じるのです。

世界中で分かち合いのためにデモンストレーションをしている何百万という人々がいると想像して下さい。ひいては、富裕層でさえ彼らの富を「再分配」することについて考える必要はないでしょう。彼らのお金を取り上げることや、飢えた貧しい人々へ資源を再分配するための緊急プログラムの援助を彼らに強要する必要は皆無でしょう。結束した世界の声が、分かち合いと正義のために余りの勢力を社会に生みだすため、あらゆるところで億万長者を含んだ人々がその流れについていくでしょう。富裕者も善良なのです。そして、時が来たら彼らの多くが自主的にやって来て、「遂に我々も来ましたよ」と言うでしょう。彼らは強制されて富を手放したくないかもしれませんが、飢えと貧困をなくすための公衆の圧倒的要求と彼らのハートが一旦融合するなら、きっと彼らも間違いなく自分たちの富を分かち合いたいと思うかもしれません。もし彼らが人々に加勢し、社会の正義を支持するために自分たちの富を分かち合っているなら、彼らには「再分配」という言葉さえ聞こえないでしょう。それが、私たちが到達せねばならない段階なのです。そして、それは分かち合いのみが持たらすことのできる真の革命を記念するでしょう。

勿論、税収の公平な集金と再分配は正当で民主主義的な社会の基礎です。そして、資源がより公平に分かち合われる時、貧富の二極化はもはやあり得ません。しかしそのような社会設定においては、貧しい人たちと同様に裕福な人々をも尊重せねばなりません。それは例え、世界中で起こっている変革に対して彼らが抵抗したとしてもです。それには時間がかかるかもしれませんが、分かち合いの原理のもとに創設された新たな文明を叫ぶ凄まじい呼びかけによって、そのような人々は最終的に置き去りにされるでしょう。

分かち合いの意味を考察する

これらの線に沿って社会を変革する重要さを理解するためには、政治的、経済的視点から私たち自身がどのように分かち合いの意味を解釈するかについて明らかに注意深く考える必要があります。例えば、分かち合いが「飢えた人々を食べさす」ことを意味するという考えは、実際意味をなさないのです。誰が、飢えた人々と分かち合う食べものが私たちのものだと言ったのでしょう。私たちのマインドを条件付ける、その極悪非道のずる賢さを持つ商業化だけです。世界のどこかの地域には食糧が全くないと同時に、この食糧が私たちのものだと言う時、私たちは何を意味しているのでしょうか。一人に対し食糧が莫大に有り余る世界で、どのようにして私たちは最初にその食糧を手に入れたのでしょうか。

この疑問の中の道徳観を理解するためには、飢えと剥奪に満ちた世界をつくり出した不当な構造的仕組みについて探って行かねばならないでしょう。安価での食糧輸入、小規模農業の大量破壊、貧困者を喰いものにし、彼らから盗み取ってきた長い歴史などです。もし、私たちが「これは私の食糧で、私はこれを飢える人々と分かち合っている」と考えるなら、それは問題に対しての認識もなければ解決にもなりません。他国で人々が飢えていると聞く時、私たちはどうして無関心でいることができ、そしてお皿にのっている食糧が当然私たちのものだと思えるのでしょうか。

もし私たちが自己に対し率直で正直であるなら、これが、分かち合うための自分たちの食糧だと考えることは決してないでしょう。そしてこう言うでしょう。「世界の食糧は万人のものです。よって、貧困を無くすために貧困に対する態度を政府に変えて欲しいと願います」。分かち合いの意味は、「飢える人々を食べさす」ことではありません。それは、正義の実現を通して決定的に貧困をなくすことです。哀しくも、飢えた人々を食べさせることが緊急事態から生じる国際責任問題である今日の分裂した世界では、命を脅かす貧困の根絶は、世界の人々の集結した声を通してのみ実現が可能なのです。

分かち合いの原理の気質には頑固なところもあります。それは、数千年間私たちの集団的自己満足的な無頓着さに適合してきた ー チャリティー、フィランソロピー(慈善活動)、そして利他主義でさえ ー などの言葉に対して深いアレルギーを持ちます。実に、フィランソロピスト(篤志家)が搾取的で不正なシステムから利益をあげることを学ぶことにより裕福になった、野心的で競争的なマインドを持つ「成功者」でなければ何でしょうか。フィランソロピストはどうのようにお金を儲けたのでしょうか。通常のごとくそれは、システムを巧みに操作する才能を発見することか、搾取の上に成り立つシステムの産物である富を受け継ぐことから始まります。

ビジネス運営の実際の土台を担う大勢の労働者たちが多くの場合、保証制度が皆無の海外の国々でその国の法に沿った最低賃金を支払われている傍ら、他にどのようにして大企業の重役が何百万ドルのサラリー、ボーナス、そして退職金をもらうことができるのでしょうか。そしてフィランソロピストは自己のイメージと名声を拡大するために、または自己の良心の呵責を癒すために、チャリティーへの寄付を通して彼のお金のいくらかを戻すことを決心します。彼は労働者たちにそのお金がどう使われるべきか尋ねません。事実、彼は労働者たちから搾取することによってお金儲けをして、その僅か少しの部分を彼らを犠牲にして寄付するのです。

私たちは自己に問うべきです。無数の人々が世界のどこかで餓死する危険にさらされている時、商業化を通して何億ドルと儲ける機会がそのように沢山あり得るのでしょうか。私たちは常に何億と儲けている人物が政治家と付き合い始めるのを目にしますが、政治家が飢えから死にかけている人と付き合っているのを目にすることは決してありません。

チャリティーではなく正義としての分かち合い

もし辞書がチャリティーという言葉に道徳的定義を的確に与えるとしたら、それは次のようになるでしょう。「自己満足的な無頓着さから生じる尊厳を欠く行為」。それは尊厳を欠きます。なぜなら、私たちは正義を成就するのを助けるためにいつでも何かできるからです。しかし自分たちの自己満足的な無頓着さゆえ、生活困窮者にいくらかのパンくずを与えておく方が私たちにとって都合が良いのです。そして私たちが慈善団体へ十分なお金を寄付する時、その組織は最終的に私たちの名前を名誉リストに載せて称号を与えることによって、私たちに報いるのです。

明らかに、悲惨な貧困と絶望の状況下で何百万人が生存する時、私たちの社会において必要とされる尊いチャリティーが廃止されるべきではありません。私たちのハートは元来善良で親切です。そしてそれが遠方の国々での人道的緊急事態について知らされる時、チャリティーへ寄付することを私たちが正しいと思う理由です。しかし、なぜ人類の全ての専門知識と発明の才にもかかわらず、あのような聖書講話的スケールの緊急事態が何度も繰り返し起こり続けるのでしょうか。なぜなら、私たちがまた自己満足的で無頓着でもあり、しばしば正義について考えることさえせず、寄付するからです。何が原因であろうと、これらの防止可能な緊急事態を政府がきっぱりと止めることを、私たちは集合的に要求しないのです。

私たちが正義についての考えなしにチャリティーへ寄付する時、寄付するという行為は世界の資源を分かち合うことと何ら関係ないのです。もし分かち合いとチャリティーが人格を持っていたとしたら、そして彼らが道でばったり会ったとしましょう。分かち合いはチャリティーに言います。「あなたは誰ですか。私たちは一度も面識がなかったと思いますが」。食糧の豊かな世界でのチャリティーの存在自体が、富裕層と貧困層、持つ者と持たない者の間に存在する分裂を象徴しています。念のため繰り返しますが、もし各政府が世界規模で分かち合いの原理を実現したなら、それは慈善募金の日々の終結を意味するでしょう。

万人のための十分な食糧、医療と住居のための十分な資源、そして最も貧しい国でさえがニーズを充足できるよう彼らに力を与えるための十分な知識と技術があります。私たちが集団でどれだけ沢山の世界資源を絶望的貧困の中で生活する人々と分かち合おうと、万人の基本的ニーズを満たす十二分の資源があります。そもそもどのようにして、裕福な国々はあのように沢山の資源と産業を蓄積したのでしょうか。世界のどれだけの食糧、燃料、鉱物、そして土地を私たちは後進国の人々から横領したのでしょうか。もし私たちが自分たちで分かち合いと正義の純然たる理屈を理解したければ、これらが問うべき疑問です。

分かち合いの道

世界の問題の解決策として分かち合いの意味と意味合いを自分たちで完全に追求するまでは、私たちは前述の提案を受け入れるべきではありません。一般人の集結した善意が社会変革への鍵を握っており、そして人々の勢力が地球規模にならない限り、何も変わらないと信じることは理想主義的であるように見えるかもしれません。私たち自身の自己満足的な無頓着さについて考えることにより、世界情勢を変える可能性をもう少し認識するようになるかもしれません。しかしもし、私たちの中の何かがそれについて完全に確かでないなら、2、3分後にはそのことをいち早く忘れ、昔の自分たちの条件付けへ逆戻りするかもしれません。

私たちは環境に余りに影響され他人の考えを雨あられのごとく受け続けるため、自由に思考し自己を知るには特定の勇気、決意、そして粘り強さを必要とします。私たちは皆、商業化プロセスの一部であり、最終的に社会の有害な条件付けに対して責任があります。しかしながら一旦、私たちの中で分かち合いの道に対して深い確信が得られるなら、そしてそれを自分たちの中で怒りと情熱を持って理解するなら、商業化によって騙されることが決して再びないようそれは私たちの人格を象るでしょう。分かち合いの道は普遍的です。あなたと私で共になりましょう。分かち合いましょう。それは、ただそれだけのことなのです。そして、永久にそうあり続けるのです。

人々が蜂起し、旧体制を追い出し、新体制を告知しない限り、社会変革についての知的理論は意味を持たないでしょう。それが、私たちの人生の本当の意味の始まりであり、真のパワーが存在するところなのです。権力者というのは、アマゾン熱帯雨林を壊滅させるのに必要な資金を持ち、資源の大変な支配力を持って人々の生活を乗っ取ることができる、大きな多国籍企業を率いるパワフルな人物だと私たちは思うかもしれません。しかし、霊的意味合いにおいてそれは全くパワーではなく、完全に逆のものなのです。

真のパワーとは、人々が一体となることであり、何百万という人々の間で分かち合うことです。それは世界規模で結束することであり、創造的かつ治癒的です。自己のためだけに生きる富裕層とは違い、個人的意味でのパワーは分裂的ではなく、むしろ謙虚さ、包括的であること、無害であること、そして無執着によって区別されます。そして惑星的あるいは集団的展望から、それは社会に正義、環境の中にバランスを持たらす全てを代表し、そしてエネルギーを有りのままの形で創造へ返します。

全ての国がひとつとなり世界資源を分かち合う時、人類が意識と自然の中にバランスをもたらす時、それは最高に素晴らしい意味でのパワーなのです。私たちの今日の社会のいわゆるパワフルな権力者たち全員が、商業、法律、イデオロギー、そして信条のみに維持されています。しかし、私たちがもはや彼らの権威に頭を下げることをやめる時、そして皆で共にひとつとなる時、私たちは真のパワーを知るでしょう。デモのプラカードにたびたび書いてあるスローガンを繰り返します。 圧倒的大多数の私たちがなぜ、僅か少数の彼らを恐れているのでしょうか?


モハメッド・メスバヒはシェア・ザ・ワールズ・リゾースィズ(STWR)の創始者である。

編集協力: アダム・パーソンズ

フォトクレジット: クィン・アニア、フリッカー・クリエイティブ・コモンズ